第2話(終) 緑の目

 撮影スタジオを後にした時は、もうすっかり暗くなってしまっていた。辺り一面真っ暗闇に包まれており、街灯の明かりだけが頼りだった。

 空を見上げれば星が輝いているのが見えたのだが、今はそれを楽しむ余裕はなかった。

 いつも通りの帰り道を歩く。

 人々が行き交い、車のライトがキラキラと輝いている。

 夜を迎えても街は活気に満ち溢れており、多くの人々の生活の場として存在していることを実感させられる光景が広がっているのだった。

 そんな中を歩いていると自然と笑みが溢れてくるものだ。幸せそうな人々を見ているとこちらまで幸せな気分になることができるのだ。

 聖奈は、そんな人々の様子を見ながら歩いていた。

 その時である。

 ――ふと目の前に人影が現れる。

 街灯の無い場所だったため暗くてよく見えなかったが、目深にパーカーを被っている。

 顔は見えなかった。

 姿からして人であることは分かったが、それ以上は何も分からない状態だった。

(誰だろう……?)

 聖奈が訝しげに、そう思いながら見ていると、その手に握られたナイフが目に入った。

 鈍く光る刃先は真っ直ぐこちらに向けられているのが分かる。

 聖奈は次の瞬間には走り出していた。

 全速力でその場から逃げ出したのだ。後ろから追いかけてくる足音が聞こえる中、必死で逃げることしかできなかった。

 振り返ると、手の届く距離にまで迫ってきているのが分かった。このままでは追いつかれてしまうと思った時、突然腕を掴まれてしまった。そのまま引っ張られるようにして路地裏へと連れ込まれてしまう。

 聖奈は口を押さえつけられ壁に押し付けられる形にされた為、身動きが取れなくなってしまった。

 喉の奥からくぐもった声を漏らしつつ抵抗するもののビクともしないため、されるがままになってしまうしかなかった。

 フードの下から見える口元からは荒い息遣いが聞こえてくる。


 ――仕事を辞めない、お前が悪いんだ。


 もう限界だとばかりに叫ぶ声が耳に入ってくる。その声には明らかに憎しみが含まれていることが分かった。

 聖奈は恐怖を感じたが、同時に違和感を覚えた。

(どうして、この人は私が仕事を続けることを知っているの?)

 疑問が浮かぶと同時に、一つの答えが浮かんだ。

 聖奈は空いていた手で、不審者を突き飛ばした。

 その瞬間、不審者が被っていたフードの一部が剥がれ素顔が露わになる。

 不審者の顔を見た瞬間、聖奈は驚きのあまり目を見開いたまま固まってしまった。そこには見覚えのある人物の顔があったからだ。

 それもつい最近見たばかりの人物であった。

 それは同じモデル仲間であり、一緒に仕事をしていた女性だったのだ。

 名前は新山あらやまらんといい、背が高くスレンダーな体型をしているモデルで、内気な聖奈とは正反対の性格をしていた。

 サバサバとした性格で言いたいことをはっきりと言うタイプだが、見た目に反して面倒見が良く優しい一面もあることから周囲からの人気も高い人物だった。聖奈も蘭に仕事のことを色々と教えてくれた先輩なのだ。

 そんな彼女が、なぜこんなことをしているのか分からなかった。

「新山さん……。どうして……?」

 震える声で問いかけると、彼女はニヤリと笑みを浮かべた後で言った。

 その表情はとても不気味に見えた。

 まるで別人のように感じられたほどだ。

「邪魔だからよ。新人のクセに、毎回雑誌のセンターなんて取ってさ……。今度は個人だけのグラビ写真集を作る企画が上がってるらしいじゃない」

 蘭に吐き捨てるように言われた言葉に聖奈は衝撃を受けつつも、何とか反論する。

「そんな。私は事務所の指示で……」

 しかし、その言葉を遮るようにして言葉が返ってくる。

 その声は冷たく淡々としたものだったが、隠しきれない怒りのようなものが滲んでいるのが感じ取れた。

「うるさい! ハーフで髪の色も目の色も日本人離れしているクセに、生意気言ってんじゃないわよ!」

 怒鳴られたことで聖奈は思わず黙り込んでしまう。

 聖奈にとって、皆と異なる肌の色、髪の色も緑の瞳もコンプレックスだった。それが元で、幼い頃はよくイジメられたり仲間外れにされたこともあったくらいだ。

 その為、聖奈は自分自身が嫌いになりかけていた時期もあったのだが、それでもそんな彼女を避けることなく受入れてくれた友人達がいてくれた。お陰で立ち直ることができたのだ。

 努力を積み重ねることで乗り越えてきた。

 だからこそ今の自分があると思っているし、自信を持って仕事をしているつもりだったのだが、目の前にいる彼女から見れば才能の上に胡座をかいているように見えているのかもしれないと思うと悲しくなった。

 自然と涙が溢れた。

 信頼していた仲間だっただけに、裏切られたような気分だったのである。

 嗚咽を漏らす聖奈に対し、蘭は静かに近づいて来る。

 蘭はナイフを捨てた。

 甲高い金属音が響き渡る、それは凶器を捨てたことを意味したが、その瞳には狂気じみた光が宿っており、正気を失っているように見えた。彼女の口から発せられた言葉は呪詛のようなものだったのかもしれない。

「アンタって本当にキレイよね。命まで取ろうなんて思わない。私が整形してあげる」

 蘭の、それを聞いた途端、聖奈は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 本能的な危機を感じ取り逃げようとするものの身体が動かなかった。それどころか指先すら動かすことができない状態だ。心臓だけがバクバクと激しく鼓動を打っており呼吸すらもまともにできないほどだ。

 蘭は異様に膨らんだポケットから瓶を取り出した。その中には液体が入っているようだったが、ラベルなどは貼られておらず何の液体なのか判別することはできない。

 ただ一つだけ分かることは、それを聖奈に使うつもりだということだ。

 蘭はその蓋を開けると、液体を少しアスファルトの上に落とす。

 濡れアスファルトの色が変わると共に、白いガスが立ち上った。

 鼻を突くような刺激臭がした。

「塩酸よ」

 蘭は言った。

 それを見て聞いた瞬間、聖奈の中で嫌な予感が走った。

 いや予感というよりも確信に近いものがあったかもしれない。

 なぜなら報道などで、それがどんなに酷い仕打ちであるかを知っていたからだ。


【アシッドアタック】

 硫酸・塩酸・硝酸など劇物としての酸を他者の顔や頭部などにかけて火傷を負わせ、顔面や身体を損壊にいたらしめる行為を指す。別名『酸攻撃』。

 主に中東や南アジアなどで問題になっており、アシッドアタックが盛んな国としてバングラデシュ、パキスタン、インド、コロンビア、カンボジアなどの国が挙げられる。

 男性優位で女性の立場が弱い地域で起こりやすい、ドメスティックバイオレンスである場合が多い。

 愛のもつれや、求婚を断られたことへの復讐、腹いせとして行われる。

 一般に酸による傷害は、水素イオンが組織蛋白と結合し蛋白凝固作用を発揮し、凝固壊死をきたすことによる。その脱水作用により乾性の痂皮を形成する。アルカリに比べ組織深達性は低いといわれているが、その重篤な傷害を被る可能性は同様だ。

 硫酸による化学熱傷の特徴として、皮膚に接触するとまず激痛を伴い白色、次いで黄褐色の痂皮かひを形成する。その後、硫酸は脱水作用が強いため組織は炭化し黒褐色の痂皮かひとなる。痂皮かひの剝離後に深い潰瘍を形成する。

 動機となっているのは性的な要求を拒否したり、結婚を断ったり、持参金を払えなかったりといったものが多く、「女性の価値とされる顔の美しさを破壊する事で報復しよう」という思いが強い。殺すことなく、相手の「美」を奪い、一生を台無しにするという卑劣な目的からは、酸の利用は理にかなっている。

 先進国でありながらイギリスでの事件数の増加は著しく、首都のロンドンで起きるアシッドアタックの数は、2010年から2016年までの6年間で1900件以上との報告があがっている。

 ロンドンでの流行には女性に対する社会的制裁などといったはっきりした傾向はなく、被害者の2/3が男性で、加害者も被害者もほとんどが白人の英国人男性となっている。

 動機として、リベンジ、ヘイトクライム、DV、ギャングによる犯罪、組織的な犯罪など動機は様々。

 アシッドアタックによって、顔の大部分にダメージを受けたり視力や聴力を失ったりと深刻な被害が発生している。加害者の傾向としてはティーンエイジャーが多い。

 東ロンドンは治安が悪いと有名だが、2016年時点で、平均して週3件のアシッドアタックが起きており、イギリスはバングラデシュに次ぐ世界第2位のアシッドアタック多発国となっている。

 これには、イギリスの厳しい武器規制が関係しているとの指摘がある。イギリスはフーリガン対策として都市部での所持品検査が厳しく、銃器のみならずスタンガンや催涙スプレーなどの護身用品の取り締まりも強化されている。

 一方で薬品は警察の管轄ではないことから規制が緩いため、犯罪者が法の抜け穴を利用して、規制が厳しいナイフや銃に代わり、規制が緩い酸性物質を武器として使うようになったからという指摘がある。


 蘭は塩酸の入った瓶を片手に近づいてくる。

 突きや蹴りといった打撃攻撃ならば、その攻撃範囲は限られ予想することはできるが、液体の場合はその飛散する範囲は液体の量によって左右され、どのように飛ぶかも予測できない上に回避することが難しい。

 しかも一滴でも目に入れば、失明する危険性もある。触れた段階で肉を溶かすほどの危険な代物だ。

 そんな恐ろしい物を蘭は聖奈に向けている。

「や、やめて下さい……」

 聖奈は蘭にお願いをする。

 だが、蘭は笑う。どうして、やめなければならないのかと。

 聖奈は、少しでも距離を取らなければならないと思ったが、身体は言うことを聞いてくれないばかりか、足もすくんでしまっているのか動くことすらできなかったのだ。恐怖のあまり涙を流すことしかできなかったのだ。

 そんな聖奈に対して蘭はゆっくりと歩み寄る。その表情はとても優しかったものの、目には狂気の色が浮かんでいた。

「キレイな緑の瞳ね。羨ましい」

 蘭は瓶を持ち上げる。

 瓶が振られれば塩酸は飛び散り、聖奈の顔にかかるだろうと思われた。

 すると聖奈は言った。

「私は、この緑の瞳が嫌いだった……」

 聖奈の言葉に蘭は、一瞬だけ動きが止まったような気がしたが、すぐに蘭は口を開いた。

「好都合じゃない。これから整形すれば気にならないわよ」

 その言葉を聞いても、聖奈は動揺をみせなかった。

「……《緑色の目をした怪物》って知ってますか?」

 聖奈の唐突に質問を投げかけられたことで、蘭は思わず手を止めてしまう。怪訝そうに眉を潜める蘭に対し、聖奈は続けた。


【緑色の目をした怪物】(green-eyed monster)

 英語圏における「嫉妬」「妬み」の感情を意味する慣用句。

 由来は、シェイクスピアの四大悲劇の一つ『オセロ』のなかで、この表現を使ったことからきている。嫉妬心を持つと、顔や目の色が緑色になるという。

 この言葉が1590年代のロンドンで流行語バズフレーズとなったのかは分からないが、新語として定着したことだけは確かで、「パートナーから裏切られるのではないか」「相手を失うのではないか」などといった恐怖心から根拠のない嫉妬妄想が抑えられなくなる症状のことを、オセロ症候群(othello syndrome)命名されることになる。

 だが、西欧の文化圏では、シェークスピアの生まれる前から、緑色は〈妬み〉や〈嫉妬〉につながる色のひとつになっていた。

 古代ギリシャの人々は、嫉妬というものは胆汁が増えすぎたせいで起こる病気のひとつだと信じていたらしく、そのために緑という色が〈妬み〉(envy) や〈嫉妬〉(jealousy) を表すものになっていった。

 例えば、〈レズビアニズム〉や〈サッフィズム〉という言葉の元となった、レスボス島生まれの女性詩人サッフォーは、過去に愛した少女や青年(元カノや元カレ)が別の人と一緒にいるのを目にしたとき、突然煮えくりかえるような嫉妬心に苦しめられ、そのときの自分自身を恥じて「緑色になった私」と表現している。

 『オセロ』では将軍オセロを破滅させようと目論んでいる側近のイアーゴが、次のように囁く。

「将軍、嫉妬には、気をつけなければいけません。なぜなら、そいつは緑色の目をした怪物で、人の心をエサにして、人をもてあそぶからです」

 悪意に満ちたイアーゴに、言葉巧みに騙されたオセロが、うずまく嫉妬の炎に妬かれて、ついには最愛の妻デスデモーナを殺してしまう。

 煮えたぎる嫉妬の沼の奥底に潜んでいるものを、シェークスピアは《緑色の目をした怪物》という表現を使って表した。

 嫉妬は妄想が作り出す底なし沼。

 いったん嫉妬に駆られると、相手の言葉ばかりが気になって、忘れようとすればするほど、ますます相手のことで頭がいっぱいになり、足をとられて動けなくなる。

 そんな苦しみから逃れようと、別のことを考えたり、何か新しいことを始めようとしても、そのことがすでに妄想から逃れるためだと分かっている。そうすればするほど、ますます深く嫉妬の沼に沈んでいくことになる。


 その話を聞いた蘭は、鼻でせせら笑う。

「だから何? 私が、アンタに嫉妬したことを気にしてるの? 誰だって自分を基準に優劣を図るのよ。多かれ少なかれ、誰だって嫉妬や妬みを持っているのよ。私は、それを爆発させたのよ!」

 蘭は塩酸の入った瓶を高く持ち上げると聖奈に向かって振りかぶろうとしたのだ。

 だが、その右手が振り下ろせなかった。

 蘭の中にある良心が踏みとどまったのではない。自分の意志に反して右腕そのものが固定されたように動かなかったのだ。まるで何者かによって腕を掴まれたかのように……いや実際に腕が掴まれて。

 いや、噛まれてれていたのだ。

 黄色みがかった半月型の石が無数に、蘭の腕に食い込んでいた。

 石は鋭利であり、触れるだけで肌を裂くような恐怖を感じさせる形をし、そして何よりも硬いために、その鋭い先端は皮膚を突き破り肉まで到達していたのだった。

「な、何よこれ……!?」

 蘭は自分の腕を見ると絶句するしかなかった。無数の小さな石の刃のようなものが突き刺さった状態で血が滴っていたのだ。

 そして、それが何であるか蘭は気づく。

 牙だと。

 蘭は牙のすぐ上に、緑の瞳をした大きな目玉があることにも気づいた。

 それは、人の目でなく、獣の目であった。それも人間の数倍の大きさのある眼球である。

 その正体に気づいた瞬間、蘭の表情が恐怖の色に染まる。

 蘭の喉から絶叫が上がったのは、怪物の存在に気づいた為か、それとも自分の腕が砕けるような痛みに襲われたからか、あるいは両方なのか……おそらく両方の理由だろう。

 痛みに顔を歪めながら、必死に手を振り払おうとするものの、牙はびくとも動かない。それどころか、さらに強く喰い込んでくるばかりだ。

「痛い、痛い!!」

 あまりの激痛に耐えかねて、塩酸の入った瓶がアスファルトで砕けると、飛び散った塩酸が蘭の脚にかかり、熱さと痛みのあまり別の悲鳴をあげる始末だった。

 やがて、蘭の右腕から血が爆ぜた。

 血飛沫が飛び散ると同時に、大量の液体がこぼれ落ちる音が響き渡る。

 それと同時に腕の感覚がなくなったことに、蘭は愕然とした表情で目を見開く。

 信じられないといった様子で、自らの傷口を見る。右腕は肘から先が欠損し、骨ごと噛み砕かれた無惨な状態になっていた。

 あまりにも残酷な光景に、蘭は失った右腕を抱いて転がった。

 蘭の顔は血と涙で濡れ、その場に立ち尽くす聖奈に助けを求めた。

「た、助けて……!」

 しかし、聖奈の表情は冷たいものだった。その瞳からは光が消え去り、氷のように冷たくなっていた。

「その怪物は、あなたの嫉妬から生まれた存在。私は子供の頃から人に嫉妬され妬まれ続け、ある時、人の嫉妬が緑の目を持つ怪物に形に変わるのを、この目で見えるようになった。私は嫉妬や妬みを怪物として具現化させてしまうの」

 淡々と語る聖奈に対し、蘭はまるで化け物でも見るかのような怯えた目を向けていた。そんな視線を受けながらも聖奈は哀れみの色をみせる。

「聖奈助けて。私達、友達でしょう……」

 懇願する蘭。

 すると次の瞬間、冷酷無比の言葉が聖奈から放たれる。

「私が〈やめて〉って言っても、あなたはやめてくれなかったじゃない。だから、私も同じことをするわ」

 《友情》とは自分と友人との間に築き上げる信頼関係だが、身近な人間を利用し利用される関係だ。対等に見えながらも決して対等なものなどではないということを、彼女は知っているからこその言葉だったのだ。

 聖奈の言葉に、蘭は絶望しきった表情を見せる。

 すると蘭の背後から巨大な顎が現れる。

 恐怖に凍りついた蘭の目が大きく見開かれた瞬間、蘭の首根に巨大な顎が喰らいついたのだ。

 怪物は肉を引きちぎり、骨を砕く。蘭は悲鳴を発しようとするが、鈍い音とともに、首がありえない方向に曲がり、口から血の泡を吹き出す。

 蘭は白目を剥いて絶命した。

 だが、それでもなお怪物の咀嚼は止まらず、頭から喰われていく形となった。

 聖奈は、そんなおぞましい場面を目の前に、両手で顔を覆って涙を零していた。

 すすり泣く。

 彼女の耳に届く音は、骨を砕き、肉を引き千切る音だけであった。

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