第4話

 4

「亮介くん?」

「え?」

「どうしたの? なんかぼーっとしてるけど。頭でも打った?」

「いや……」


 電車の発着ベルが鳴り終わり、乗客のまばらな列車は走り出した。

 咲良さくらは詩乃の膝の上で眠っている。娘は父親を煙たがるというが、そのジンクスが適応されつつある。


「ちょっと、意識飛んでたかもしれない。疲れたんだろう」

「大丈夫? 明日、昼まで寝る?」

「そうしようかな……咲良の相手、頼めるか?」

「おっけー。奥さんに任せなさい」


 詩乃は咲良の頭を優しく撫でている。慈しむような表情を見ていると、彼女が普通の人間であるかのように思えた。


 結婚式には宍倉母も出席してくれた。彼女はどこにでもいる普通の母親のように涙ぐみながら、「詩乃をこれからもよろしく」そう言い残してくれた。


 その2年後には咲良という子宝にも恵まれて、ぼちぼち生易しい生活を過ごしている。

 外出する際にGPSの携帯を義務付けられること、そして一時間おきに電話してくることを除けば、穏当な生活と呼んでも差し支えないだろう。

 幸福か否かと問われれば、迷いなく幸せと答えられる。


「咲良さー、好きな人できたんだって」

「そうか……俺には話してくれなかったな」

「仕方ないよ。女には女にしかわからないことあるもん」

「だな……」


 詩乃は娘に注がれていた慈しむようなまなざしを、今度は俺に向けた。

 愛されていると感じるし、たぶん俺も詩乃のことを愛している。


 入江家は経済的に無理しないため、あの頃のような破綻の兆しはない。

 日本経済も浮き沈みを繰り返しながら、なんとかやっている。

 大震災を予想されていた南海トラフは最大震度が5という拍子抜けで終わった。

 トーヨコキッズやSNSにもメスが加えられ、言論統制という主張と戦いながらも、社会は健全化の方向へと向かっている。


 生活は楽じゃないけど、少なくとも令和初期よりはずいぶんマシになった。そういうところに、落ち着いている。


 だからこそ思う。


 電車のガラスに、夫婦が写り込んでいる。

 女は幸せそうな顔をして娘の頭を撫でているし、男はそれをのんきに見守っている。


 それは正しい形なのだろうか。

 悪い奴をやっつけたと、かつての俺は語った。


「……」


 そんなはずはないよな。

 でもさ、じゃあ仮に、俺たちが自首したとして──


「……パパ、ママ」

「あ、亮介くん。呼ばれた。よかったね、にひ」

「胸を撫で下ろした」

「なんで固い言い方するのかなこの男は……」


 それは咲良の幸福を破壊する形になる。


 じゃあそれが正しい行いなのかって言われたら、そうじゃない。咲良は偏見に晒されるし、安全基地を失って健全な発育が妨げられるかもしれない。


「詩乃」

「どしたの?」

「多分さ、俺たちは天国に行けないけど、でも、咲良は天国に行ってほしいよな」


 詩乃は何も答えなかった。わずかに頬を膨らませて、じっと睨んでくる。


 それは学生時代、些細ないじわるを言って拗ねた時と寸分たがわない表情だった。

 張り詰めた重みも、胃がひりつくような罪悪感も、微塵も感じさせない可愛らしい表情だ。


「ごめん、変なこと言った」

「もー、亮介くん。咲良の人生これからなんだし、私たちだってもっと幸せにならなきゃじゃん」

「……うん」


 電車がホームタウンに止まったので、俺は咲良を背負って立ち上がった。詩乃に手を差し出して、転ばないようにアシストしてやる。


 妻ははにかみながら、俺の手を取った。


 宍倉父の遺体、詩乃が殺めてきた数々の遺体は、まだ見つかっていない。

 捜査も打ち切られたようだ。


「亮介くん、でもね、いま、私は幸せなのだよ」

「だろうな……」


 だから俺たちの幸福は途絶えることなく続いていくのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

俺のこと大好きだけど躊躇なく人を殺す幼馴染 さかきばら @android99999

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ