第3話

 3

 君子危うきに近寄らずということわざを聞いた時、なるほどなぁと思った。


 だってそりゃそうだ。

 どんな殺人鬼だろうが、冷酷無比なエイリアンだろうが、百発百中のスナイパーだろうが、生きている限り出くわさなかったら伝聞の存在でしかない。

 つまりドラゴンとかユニコーンとそう変わらない存在になる。


 だから俺は近づかないこと、関わらないことの大切さを学んだ。


 けれど稚拙な理論武装には大きな欠点があった。

 狂気や凶器には近づかない。それは適切な安全意識と言えるだろう。


 では既に、気付かないうちに鋭い悪意を潜伏させてしまっていたら? 足元にまでずっぷりと浸かってしまっていたらどうなるのだろう。


 俺の物心がついた時には、既に宍倉家とは家族ぐるみの付き合いがあった。


 宍倉父と俺の父親が同級生だったらしく、また宍倉父はそれなりの規模の会社を経営していた。

 ジョブズがiPhoneを発表して半導体の需要が急増する時期だったためか、宍倉父の経営する輸入会社は多くの利益を確保していた。一種のバブルと言えるだろう。


 だが高度経済成長期の代償が大きすぎたように、競合に敗れた宍倉父の会社が凋落するまではあっという間だった。


 そして豹変するのも、本当にあれよあれよという間だった。


「やめっ、や、やめっ! あ、ぐぁ、げ、やめやめ痛っぼ、ぇげ……ごぼっ、ぇぁっ!」


 そういう声と共に、母子の絶叫が響き渡った。


 何度か警察も呼ばれたが、何故だか厳重注意のみに留められていた。


 後で知った話だが、警察も逮捕するのは面倒臭いため、なるべくコトにしたくないらしい。

 民事不介入という言葉が言い訳に使われることも多いのだと、中学の教師は嘆かわしそうに語っていた。


 貧すれば鈍するという故事成語の通り、宍倉父は負債を返済する苛立ちを娘と妻にたたきつけるようになった。

 以前の柔和な笑みはどこにもなく、彼は泣き笑いする子供のように声を挙げながら、俺がよく遊んでいた女の子を殴り続けていた。


 それと同時期、虐待の末に死亡したという少女の一報が全国を駆け巡った。

 元格闘家の父親に殴られ続けた娘の顔面は梅干しみたいに腫れ上がって、脳みそは箱に詰めた豆腐を勢いよくシェイクしたようなありさまだったという。当日、母親は気絶していた。


 そして翌週、その母親も首を吊ってこの世を去った、らしい。



 学校は俺が唱えた稚拙な理論武装で見て見ぬふりをして、PTAは警察に問題を投げた。

 恐らくそれは正しい判断だったのだが、明確な事件性を証明できるまでは動けないという欠点も孕んでいる。

 青あざを隠すために8月でも長袖を着ている少女は明らかに異常だったが、日々の業務のプラスアルファで善行を積めるほど、実際的な正義感を持つ人物はほとんど存在しない。ネット上とは違って、行動には責任を伴うからだ。


 故に俺は真実と向き合わなければならないと強く意識した。

 確かに彼らの行いは賢明だったが、できることがあった分際で被害者を憐れむ権利も同時に与えられないと考えたからだ。


「……亮介くん?」


 ある日、俺は詩乃に話しかけた。

 頬には紅葉を貼り付けており、こちらを見上げる目つきはどことなく怯えているように思える。

 俺にヤモリを突きつけて遊んでいた面影は、もうどこにもない。


「どうなんだ?」


 何に対しての「どうなんだ?」なのか、発言した俺自身もうまく捉えきれていなかった。だがあやふやな言葉は柔らかかったのか、詩乃はわずかに視線をさ迷わせて「別に」とだけ答えた。


「多分だけど……」俺は小学生の拙い語彙で、けれど思っていることを伝えようとした。

「法律は、えっと、多く人を安全に生活させるためにあると思うんだ。それはたぶん、倫理とかも同じで、だからそれから外れることは悪だってなるんだ」

「は?」


「でも倫理だと人が傷つくことも悪になるから、それはちょっとだけ違うんだ。だって法律で傷つくことを止められない人がいるから、倫理的には悪になる。

 そういう矛盾があるから、どうしていいのかわからなくなって、ミスしたら自分のせいになるから、どうにもできなくなるんだ。そしてミスした責任を償うことは誰にもできないから、誰も何も動けないでいる……んじゃないかって思う」


 詩乃ははっとした顔をした。


 俺が何をしようとしているのか察したようだ。


 興味のないことに対して能力を揮おうとしない無気力な少女は、勉強が苦手だ。


 だが決して地頭が悪いわけじゃないと俺は知っている。


「なあ詩乃。生命保険って、お父さん、加入してた?」

「……たぶん」

「受取人は、お前の母親?」

「金融業者に、持っていかれると思う」

「それで借金は返済できそうか?」

「本気なの?」


 問いかけられて、ドラマみたいに立ち尽くすことになるのかと予想していた。だが案に相違して、俺は平然としていることができた。


「多分だけど、ある種のヒロイックな動機だから……俺が逮捕されても、同情されるんじゃないかと思う。少年法もある」


「でも」なおも詩乃は食い下がった。「亮介くん、逮捕されたら……」


 俺は何も答えなかった。

 


 宍倉家の母親に連絡してもらって、俺は両親に一日だけ母子を預かってもらうように電話をした。


 両親は、それによって宍倉家の父親が更に荒れることを危惧している。


 警察に繰り返し事態の深刻さを訴えるべきだし、自分たちも証人となる。


 そう主張してきた。


「実際に殴られている現場を見ても、警察は厳重注意しかしなかった。じゃあ次現行犯にするためには、また、詩乃が殴られる必要がある……」


 そうして事態を穏便に解決させようとして、悠長な手段を講じている間に詩乃が死んだとする。

 取り返しのつかない出来事を前にして、人々は責任を擦り付け合うだろう。

 そうして散々懺悔のノルマを終えてから、今度はこれ見よがしに後悔のフェーズへ突入するのだ。

 やがてみそぎを終えたら、きれいさっぱり忘れて何食わぬ顔で生きていく。


「それって」詩乃は恐る恐る問うてくる。それは様々な感情で封鎖されたわずかな隙間から絞り出すような声だった。「私のため?」

「ああ……」

「……人殺すのが、私のパパ殺すのが、私のため?」

「だって詩乃、もう歩けてないだろ」


 後で知った話だが、鼓膜付近の出血が水面下で進んでいたらしい。もう少しで脳溢血にまで達し、取り返しがつかなくなっていたそうだ。

 悠長にやっていたら、三半規管の損傷による歩行の障害以上の後遺症が残っていた。


 俺は、自分の選択を間違ったとは思わない。でも、俺の決断によって、誰かの人生を大きく変えてしまったことには変わりがなかった。


 したがって地獄に堕ちるのは入江亮平だけでいいはずだった。




 夜になって、男は毛布を抱きしめるように眠っていた。

 俺はドラマのイメージから酒瓶片手に大の字になっている光景を想像していたので、その繊細そうな様子に戸惑いを感じた。


 とはいえ止まることはできなかった。


 虫の報せだろうか、さっさと問題を解決しなければ、詩乃の人生に暗い影を差すどころか、二度と修復不可能になるという直観があった。


 男はうなされていた。

 見覚えある顔がくたびれて、髭も眉毛も剃らないまま額にしわを寄せている。歯の根がかみ合わず、皮脂の浮かんだ顔に涙を浮かべる面貌は、まるで被害者のようにも映る。


「……」

 俺は、この人に個人的な恨みがあるわけではない。

 

 会社が倒産しなければ、半導体輸出の競合に敗れなければ、あるいは会社経営などしていなければ──パターンが異なるだけで、この人も被害者なのではないか。


 保健室から盗んできた注射器にカビキラーを注ぎながら、俺はそんなことを考えていた。


「あぇ……」


 びくっと体が跳ねたまま、苦し気に呻く。

 畳の上にほそぼそとした血の通り道を残しながら注射器が引き抜かれる。成人男性の体臭と、俺の父とは異なる細い腕。


 その腕に抱きすくめられて、遊園地に連れていかれたこともあった。詩乃と宍倉母が不在だったため、二人でラーメンを食べに行ったこともあった。

 誕生日にマリオカートを買ってもらったこともあった。



 たぶん、俺はこの人のことが結構好きだった。



「……ああ」


 男の全身に迷彩のようなシミが浮かび上がって、悪夢の中で殺されたかのように、ゆっくりと息を引き取った。


「出頭、自首」


 それはワイドショーの中にしか存在しない単語だったはずが、今では当事者だ。死後硬直の始まりつつある肉の塊を前に、俺は乾いた笑いを漏らした。


 この人のことを俺は第二の父親か、あるいは年の離れた兄のように感じていた。

 感じていたはずなのに、俺は詩乃の方が好きだったから、二人の被害者を天秤にかけて、より不幸な方を救おうと決意した。


 もう片方も変わらず不幸である事実から目を逸らしていたという点では、皮肉にも静観を決め込んでいた奴らと大差ない。


 俺はポケットからスマホを取り出す。そこには110というナンバーが、あらかじめ入力されていた。


「亮介くん」


 それは女の声だった。振り返る。

 そこには瞼が膨れ上がった女性と、詩乃、そして同じ苗字の二人の男女の姿があった。


「……お父さん、お母さん」


 俺の両親は物言わぬ宍倉父を見て、わずかに瞑目めいもくする。

 詩乃と、宍倉母も続いた。


 短い黙祷もくとうを終え、お父さんはブルーシートを取り出した。


「とりあえず、体液が漏れて証拠になるかもしれない。まずはこれに包むぞ、いいな、亮介」

「え……でも、俺、ひと、ころした」

「いいから!」鋭い一喝が瞬いた。「早くやるぞ。明美さん、手伝ってください」

「ええ……」


 宍倉母が俺を押し退け、夫の亡骸に触れる。

 それは汚物に触れるような手つきでもあったが、同時に思い出を慈しむようでもあった。


「亮介。あんた詩乃ちゃんについてあげて」

 お母さんが窓を開ける。アパートを出てすぐのところに、お父さんが仕事で使う軽トラが留めてあった。トラロープと、ブルーシートの予備が詰んであるのが見えた。

「死体遺棄じゃん」


 俺のボヤキに、彼女らは一切応じなかった。一瞥さえくれなかった。


 二人と協力しながら黙々と作業する母親の横顔は、俺を育てた女と同一人物とは思えない。

 だが詩乃の方が大切だ。

 俺は幼馴染のそばに歩み寄ると、彼女の手をゆっくりと握った。ほんのわずかな震えが、少しずつ沈静化していくのを待った。


「いっせーのーせで、持ち上げる。トラロープ積んだままだけど、目撃されるかもしれないから」

「明美さんはとりあえず病院行って。お金なら、私たち出すから。詩乃ちゃんも、ね」


 両親と明美さんはブルーシートの芋虫を持ち上げて、階段を下りて行った。詩乃は俺の肩に頬を預けながら、荒い呼吸と落ち着くのを単調に繰り返している。

 壁掛け時計の電池は切れているみたいだから、暗がりの部屋に響く音は何一つなかった。


「悪い奴、いなくなったの?」


 沈黙に耐え切れなくなったのか、詩乃はぽつりと漏らした。俺は戸惑った。


 今回の場合における殺人の肯定とは、とりもなおさず救う被害者を選定したということだ。


 だがこちらを見上げる詩乃の目つきはあまりにも心細く、俺が小手先の理屈で否定するのは気が引けた。


 軽トラが発進する音が聞こえる。


「いなくなったよ」

「……亮介くんが助けてくれたんだ」

「たぶん……」

「そっか」詩乃の声に熱が宿った。「そっかぁ……」


 ほどなくして宍倉母が戻ってきて、詩乃を抱きしめる。

 その後俺を見たが、何か言いたげな様子を飲み込んで、ゆっくりと頭を撫でてくれた。

 なぜだかわからないがそれが一番堪えた。

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