第2話

 2

 学校が終わると、俺はその足でバイト先へ向かう。全国チェーン展開されている喫茶店だ。


 容姿が良くないと採用されないと専らの噂だったが、特に外見を褒められた経験のない俺も採用されている辺り、偏屈な連中が嫌いな層を叩くためにこしらえた嘘だろう。


「入江くん、彼女さん来てるよ」最近第二児に恵まれたらしい店長が、小脇を小突いてくる。

「ああ……」

「幼馴染なんだっけ? すごいね、小説みたいじゃん」

「まあ……」

「嫌いなの?」

「いや……」


 嫌いなわけではない。そんなはずがない。俺の外敵を躊躇なく殺すという欠点はあるが、それにさえ目を瞑れば宍倉詩乃は万人のイメージする理想の彼女だ。


 モデルや美少女と褒めそやされる連中と比較すれば流石に劣るが、それでも長時間眺めていても苦にならない顔をしている。人懐っこい犬のようにコロコロと表情が変わるので、退屈もしない。


 深刻そうな面持ちの親子連れに珈琲を運び、カウンターへ戻る。


「にひー」


 気安い表情で手を振ってくるので、俺は軽く微笑んで振り返した。

 ちょっと混雑したのであわただしくホールを動き回っていると、詩乃の姿は見えなくなっていた。


「……最近は出てないか」


 あいつは運動音痴なので、たまにふらつく。

 とはいえそれは本人の責任ではないため、心配すること自体が奴への侮辱につながるだろう。俺は心配しないように心を鬼にした。


 やがて少しすると文庫本と本屋の紙袋を持って戻ってきた。

 俺の気など知らず、呑気にカフェラテを飲んでいる。本気で待つつもりらしい。ほっと胸を撫で下ろした。


「文庫本読む集中力あるんなら、参考書だって読めるだろ」


 手が空いたのでそれとなく話しかける。詩乃はカウンター席へ移動していた。


「情報量が段違いでしょ? そもそも人って関心の有無で集中力が変動するんだよ、ワトソンくん」


 こんなことを言いながらコイツはホームズを一冊も読んだことがないのでお笑いだ。

 分類的には読書家に入るが、たいてい痴情のもつれで殺し合いに発展する小説しか読まないので、読書界隈では異端児に入る。


「それに、じっと集中してたら三半規管ぐらぐらしちゃうからね」


 詩乃は苦笑し、己の右耳付近をさすった。黒いボブカットの耳にかかる髪の毛が、どこか艶めかしく梳かれる。

 そこから血が漏れ出して聴力を喪いかけている幼い日の詩乃を思い出しながらも、俺は否定も肯定もしないでおいた。


「あのさ、詩乃」

「どったの?」


 何となく気恥ずかしい。

 俺はそっぽを向いたが、女子大生のバイトが映画でも見るような目つきでこちらを観察している。

 もう一方を向けば、店長が常連と話しながら何かこちらを手で示していた。


 俺に逃げ場はなかったので覚悟を決める。


「今日、給料入るんだよ」

「あー、もう15日か。早いね。もう高二も1/3が終わったんだ」

「で、あれだ。バイト終わったらなんか食いに行こうぜ」

「え!?」ぱぁっと笑顔がきらめく。「いいの!?」

「まあ……」


 詩乃は子供みたいに足をバタバタさせながらカフェラテのお代わりを注文した。

 女子大生のバイトさんは素早い動きでコーヒーメイカーを起動させ、店長は「これ持って行ってあげな」とチョコケーキを一切れ、俺に持たせた。


 俺はそのケーキを、詩乃の目の前に置いてやる。「わ」と歓声を上げながら彼女はそれを口に運び、幸せそうに咀嚼した。


「幸福とはオキトキシンのもたらす幻覚である……」

「ケーキは幻覚じゃねーよ。店長に後でお礼言っとけ」

「任せなさい。受けた恩は忘れないことで、水面下でまことしやかに一部界隈でささやかれている詩乃ちゃんだもの」

「誰も知らないじゃんそれ」

「亮介くんだけ知っておいてくれればいいかなー」

「そうか……」

「そうだよー」


 まあ、実態を知っているのは俺だけだ。

 情報を知る者が増えるということは、用いることのできる手段が増えるメリットもある。

 だが日常生活を想えば、弱味を握っている人間が増えるということだ。天秤は、あまりにもデメリットに大きく傾き過ぎている。

 父さんと母さんと、後は詩乃のお母さんが黙認してくれているだけでも奇跡に近い。


 それに何より、もうそういうリスクは犯したくなかった。

 俺は平和に暮らしていきたいだけだ。


 だからコイツをなるべく平和に導こうとしていた。それが詩乃の幸福につながると信じている。


 だがあるいは、それはケーキ未満の幻覚に過ぎないのかもしれない。


 バイトが終わってから、俺たちは連れ立って店を出た。セブンイレブンでATMを借りて、4万円前後を引き出す。

 残り6万で今月を乗り切らなければならないが、生憎俺はPS5がどうしても欲しかった。どうしたものか。


「おっとと」

「ゆっくり歩け。合わせるから」


 ふらついた幼馴染の肩を支えた。昔からそうなので慣れたものだ。

 なまじっか慎重さを心がければ普通に歩けるので、松葉づえを必要とするほどのことではない。


「亮介くん」

「ん?」


 詩乃がうつむいて言う。耳を真っ赤にして、言った。


「肩じゃなくて……手握って欲しいなー、なんて……」

「ああ……」


 俺は小さくため息を吐き、彼女の手を取ってやった。この幼馴染のペースにまんまと乗せられていることを自覚しながら。


 ぶんぶんとつないだ手が勢いのいいブランコみたいにされながら、俺はふいに服屋のウインドウを見つめた。

 そこに映る二人は、何の変哲もない、たぶんそこら辺に腐るほどいる頭の悪いカップルに見える。


 地獄に堕ちるのであれば、俺になるだろうとは思う。

 彼女は悪くない。死後があるのだとしたら、彼女の魂には安らぎが訪れて欲しい。


「どうしたの亮介くん」


 何気ない問いかけだが、その裏に潜む鋭い切っ先を感じ取ることができた。

 ここでの返答が、詩乃を更に天国から遠ざけてしまう。その魂に穢れをまとわせてしまう。


「いや……」

「あのバイト先で何かあったの?」


 ──亮介くんの敵になるような奴がいたの?


 詩乃は、言外にそう言っている。


「みんないい人だよ。っていうかチョコケーキもらっただろ。応援してくれてるんだよ、俺らのこと」

「あー、店長さんいい人だよね。わかるわかる。裏で何してるのかわからないけど」


 パチスロと釣り堀と嫁さんとの喧嘩と子供を連れてディズニーランドと説明しても、まあ詩乃は納得しないだろう。だから俺は店長から話題を逸らすことにした。


「何食べたいんだ?」

「え、ノープラン? 格好よく彼女誘ってまさかまさかのノープランですか、この男。マジすか」

「俺はリスクを好まないからな」

「なんかカッコつけてる……。ええとね……」


 牛角の前を通り過ぎる。


「肉は嫌だろ」

「あー、論外論外。吐いちゃう。流石にね。半年くらい開けたいけど」

「じゃあ炭水化物にするか。イタリアンとか? タルみたいなチーズ輪切りにして、そこで直接チーズパスタ調理してくれるところ知ってるけど」

「誰と行ったの?」


「米村」カードゲームオタクの友人の名前を挙げた。


「あー、ならいいや。じゃ、そこ行こ? っていうかチーズパスタってなに? カルボナーラとは違うの?」

「なんか……こう、白ワインとチーズを絡めたソースみたいな。後は燃える」

「火事じゃん! ヤバいよ」

「いやあの、なんだろう、フランベみたいな」

「亮介くん説明下手だねー」


 ちょっとイラっと来たが、まあ事実なので受け入れることにした。


 世の中には不都合な真実で満ちているが、目を逸らしたら更に都合が悪くなるので、なるべく早く向き合うようにしている。


 そうしなければ、少なくとも宍倉詩乃は実の父親から殺害されていたからだ。


 だがそうしなければ、高藤先輩も、里穂子も、古村氏も──田中も石塚も寺内恵子も天津沙織も山村耕平も高橋洋子も竜胆南も東信一郎も、その他数多くの人間も死なずに済んだのかもしれない。


 人間は近くのものを過大評価する生き物だから、少なくとも彼ら彼女らの人生より、俺にとっては詩乃の方が大切だ。


 だからこそ彼女には幸せになって欲しかった。

 血に汚れるのは俺だけでもよかったし、何も詩乃まで終わった後にもたらされる永遠の安らぎから遠ざからなくてもいいのに。


「亮介くん? お腹痛いの?」

「お腹は常に痛いよ。バレないかとか、明日朝起きたら同行を願われないかとか」

「そうなったら後追うよ? っていうか追ってよ?」

「……ああ」


 気楽そうに腕を振る幼馴染。

 あんまり激しく動くとよろめくため止めなければならないが、彼女があまりにも楽しそうなので、俺は何も言えなかった。

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