夜にささやく

京野 薫

第1話

 暗い。

 とっても暗くて臭いの、パパ。

 わたしは四方から押しつぶされるのでは、と思うような狭いロッカーの中で、恐怖のせいなのかな? 自分の尿臭を感じながら震えていた。


 もし見つかったら……

 それは想像もしたくないものだった。

 この四宮しのみや病院……地方の小さな病院に一緒に入院していた他の人もそうなの?


 そして、私も……

 

 私の脳裏に、隣の病室にいたあきらくんの声が浮かんだ。

 いつも元気に笑っていて、良く冗談を言っていた彰くん。

 そんな彼がある夜言ったのだ。


絵里えりちゃん、この病院から逃げて。分からないけど、ここの人はみんな僕らを出さないようにしてる。絵里ちゃんだけでも逃げて」


「なに……どういうこと。私たち、来月には退院できるじゃないの?」


「僕もそう思ってた。でも……聞いたんだ、佐々木先生と看護師さんが『絵里ちゃん。あの子は……ダメね。動けないように薬を……』ってしゃべってるのを」


 え……

 わたしは愕然とした。

 いつもニコニコと優しい笑顔の佐々木先生。

 パパやママから引き離されて、山の近くのこんな小さい病院に入院している私の、心の支え。

 その先生が、わたしを動けなくする? ダメってなに?


「君はこんな病院に閉じ込められてちゃ行けない。ここの病院はなんか変だ。このままだと僕も君も……殺される」


「じゃ、じゃあ一緒に逃げよう! 彰くんも」


 だって……わたし……あなたの事が。

 その時。

 突然壁の向こうから「早く……運び出して!」「あれ持ってきて! 先生も呼んで!」と、看護師さん達の声が聞こえてきた。

 

 バレた!


 わたしは思わず両手で口を押さえると、震える身体を必死に落ち着けようとした。

 逃げなきゃ。

 わたしも殺される。

 何か武器になる物は……

 

 それから30分になるだろうか。

 病室に入ってきた看護師さんが何本かの注射器を持っていることに気付いた私は、隙を見てそのうちの一本を手に取り、振り向いた看護師さんの口を押さえると注射器を目に突き刺した。

 悲鳴を上げられたらバレちゃう……

 自分でもこんな事が出来ることに驚いた。

 彰くんが守ってくれていたような気がした。

 彰くんのかたきを取れている気がして、泣きながら何度も顔に刺していると、そのうち動かなくなったので吐き気を抑えながら逃げた。


 絶対、パパやママの所に帰るんだ。


 真夜中の病院の廊下をひたひたと歩く。

 でも、このままだとすぐに見つかっちゃう。

 その時、わたしの耳に音が飛び込んできた。

 

 ぺちゃ。ぺちゃ。

 

 なんなの、これ……

 人の足音? でも、なんで……まるで水に濡れてるみたい。

 その音は少しづつ近づいてくる。

 

 絶対振り向いては行けない。

 そんな警告が頭の中に、まるで万華鏡を覗いたように美しく、華やかに散らばっていく。

 でも、わたしは……負けた。

 ゆっくり振り向いたわたしは、悲鳴を上げることも出来ず立ったまま床に少し嘔吐した。


 そこに居たのは顔中を血に濡らした看護師さんだった。

 さっきの人……

 真っ赤な顔に真っ赤な目。

 それは割ったザクロにイチゴソースを乗せたような違和感、そして官能的で不気味な……

 ああ……パパが大好きだったな……


「ご、ごめんなさい……」


 わたしは涙と嘔吐物で顔を濡らしたまま、走り出した。

 そして、近くの更衣室に飛び込んだ。

 どこか……隠れる場所。

 わたしは夢中になってロッカーに飛び込んだ。

 

 カツ……カツ、カツ……


 固い靴音が響く。

 静寂とも言えるほどの静けさなのに、うるさい。

 訳が分からないけど、そうとしか言えない。

 心臓が破裂しそうなくらい動く。

 痛くて仕方ないの。

 ねえ、助けて。

 とっても……痛いの。

 

 その時、フッと思い浮かんでポケットからスマホを取り出した。

 そしてビデオカメラに切り替えてのぞき込む。

 すると……現実感が急激に薄れ、怖さが和らいできた。

 これなら……負けない。


 わたしは急に元気が出てきたような気がした。

 大丈夫。

 わたしは絶対帰るんだ。

 そして、パパやママに会うんだ。

 二人の最後に見た泣き顔が浮かんでくる。

 パパもママもいい年なのに、あんな泣き顔になるくらい悲しんでくれていた。

 両手まで合わせて。 

 絶対にまた会いたい。


 そう思うと、スマホを通していることもあり、目の前の暗闇が急に優しく見えてきた。

 わたしは勇気を出すためニッと笑顔になると、ロッカーを静かに出た。

 光の一筋もない暗闇は変わらないけど、スマホを通すと少しだけ前が見える。

 目の前の机に何気なく目を落としたわたしは、思わず息を呑んだ。

 そこには私の名前が書かれたファイルがあった。

 これ……

 わたしは足を震わせながらそのファイルに近づいた。

 これを見れば……この病院の秘密が。

 そう思って一歩足を進めたとき。


 ひゅっ。


 そんな呼吸音が背中から聞こえた。

 

 え……

 わたしはその場に立ち尽くした。

 気のせい……だよね。

 そんな気持ちをあざ笑うように、背中に息がかかる。

 荒くて、汚い呼吸音。

 まるで……なんだろう? 聞き覚えあるけど思い出せない。

 

 そんなことよりも……そう、わたしは身体が震えて涙が溢れてきた。

 そう、心から恐れていた。

 振り向いたら、殺される。

 分かっていながらどうすることも出来ない。

 背後の気配はますますハッキリしてきた。

 振り向いたらダメ!

 でも……どうすれば。


「勇気を出して。君は強い子だ」


 突然ドアの向こうから聞こえてきた声。

 ……彰くん?

 良かった! 逃げられたんだ。


「負けちゃダメだ。勇気を持って。君は強い子だ。絶対負けない。絶対負けない。一緒に自由になろう」


「彰くん……」


「……一緒に逃げよう」


「わたし……死にたくない!」


 わたしはそう叫ぶと、目の前のファイルを持って、振り向きざまに背後の人物に振り下ろした。

 その直後、ぼきゃ、と言うカエルを潰したときのような変な声が聞こえて、背後の人が倒れた。

 まだ……確実に。

 わたしは念のため、もう10回ほど振り下ろした。

 

 人影は動かなくなった。

 白衣を着てる。

 そうか。この人が全ての黒幕……


「わたし……やったよ」


「頑張ったね。怖かったね。よくやった。さあ、おいで。このドアを開けて。そうすれば君と僕は自由だ」


「う、うん……」


 わたしはスマホを覗きながら、ゆっくりとドアに近づいてノブに手をかけた。

 その直後。

 勢いよくドアが開き、中に何人もの男の人が飛び込んできた。


 ああ……敵の仲間。

 わたしはハッと気を取り直した。

 彰くん!

 彼もつかまった?

 

 わたしはファイルを構えた。

 これでどこまで戦える?

 いや、これでダメならわたしにはまだ……


 だけど、男の人たちの動きは素早く、力強かった。

 抵抗空しく取り押さえられて、床に押しつけられる。

 その途端、酷い恐怖と嫌悪感が蘇って、わたしは激しく嘔吐した。


「容疑者確保。現在看護師詰所。医師1名の遺体発見。通路には通報者と思われる看護師1名の遺体。繰り返す。容疑者確保」


 容疑……者。

 何を言ってるの?


「あの……わたし、彰くんと一緒にこの変な病院で殺されかけてたんです。ほんとですよ」


 しゃべってる間も吐き気が止まらない。

 どうしよう、こんなの彰くんに見られたら恥ずかしい。


「容疑者、篠山絵里しのやまえり。年齢50歳。女性。現在2名で取り押さえているが応援頼む。後、パニック発作も酷い。容疑者は10代の間、継続的に両親から性的虐待を受け、後に二人を殺害。その記憶もあると思われる」


「わたし、50歳なんかじゃない。後、パパもママもそんなことしません。ほんとですよ。よく、お友達のところに遊びに連れて行ってくれて、ホームビデオとか撮ってくれたんです。後、彰くんは無事ですか? わたし……実は彼の事が好きなんです」


 ※


 彰くん……大丈夫かな。

 わたしは真っ黒な車に乗って、外の景色を見ながらボンヤリと考えてた。

 わたしは悪い奴らに捕まっちゃったけど、彰くんさえ無事なら。

 そしたらきっと彼は助けに来てくれる。


「絵里ちゃん。聞こえる?」


 彰くん!

 わたしは思わず声を上げそうになって、口を押さえた。

 危ない。彼が助けに来てくれたことを知られちゃったらダメだよね。


「勇気を持って。君なら乗り越えられる。未来は自分の手で掴むんだ。あの時も……そうだっただろ?」


 あの時……

 よく覚えてないけど、そう言えばそれを初めて聞いた後、私は戦って……悪い奴らを倒した気がする。

 そうだ……彰くんはその時からわたしの味方だったんだ。


 私は笑顔を浮かべた。

 そうだ。

 未来は自分の手で掴むんだ。


 わたしは車内を見る。

 運転してる人と、隣の人。

 あれ? 隣の人ボンヤリしてる。


 そうか! 彰くんが何かしてくれたんだ。わたしを助けるために。

 有り難う。私の愛する人。


 私はもしもの時のために隠しておいた、注射器をそっと取り出した。


【完】

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