第13章
「――飛鳥も、まさか俺が即決するとは予想してなかったと思う。多分何人か候補を挙げるつもりだったんだろうし、絃那の名前が最初に挙がったのも単に学籍番号のせいじゃないか」
絃那は1年生で、苗字がイザハラだから。
「だから、俺が絃那を選んだのは本当に偶然だ。そこに偽月の件は一切関係ない」
そう言い切る弥紘は、嘘を言ってないように思えた。
(そんな理由だったんだ……)
驚きはあるけれど。弥紘らしいといえば弥紘らしい気もする。
絃那はこれまでの話を受け止め、彼に小さく頷き返す。
ただ、と彼は続ける。
「門廻のオオカミである俺が絃那に婚約を申し込んだせいで、勘違いする奴らが現れた。隆成は早い段階で薄っすら勘づいてたな。こそこそ門廻家の動向を探るような動きがあったらしい。俺と絃那が婚約した途端のことだったから、『これは何かあるな』って思ったそうだ。月夜会でお披露目させたかったのも、直接オオカミたちの反応を見たかったからだとさ。
……たしかに『門廻が霧崎伊織の娘に接触した』なんて、今回の連中とか、幻中とか、カグヤの創造者についての情報を持ってるであろう奴らが知れば、ざわつくのも当然なんだけど」
ため息を吐いて、それから弥紘は、絃那を攫った連中のことを教えてくれる。
グレイがレベルBのオオカミであり、絃那の母を襲ったオオカミは、新たな偽月の創造を企む首謀者は、別にいる可能性が高いということも。
「そう……なんですか……」
絃那は掠れる声で呟く。
グレイではなかった。事故を起こしたオオカミは別にいる。絃那はまだ、狙われている。
薄ら寒さを感じて、思わず腕で身体を抱くと、
「全部俺のせいだ」
弥紘は言って、絃那を見つめる。
「俺が婚約を申し込んだせいで、こうなった。だから、責任をとらせてくれ。絃那が今まで通りの生活を送れるよう、俺は尽力する。お前の身は俺が守る。絶対に」
「弥紘さん……」
弥紘は、ふっと視線を下げる。
「もし――」
少し言い淀み、それから彼は改めて告げる。
「もし、婚約を解消したいなら…………それでもいい。すぐにでも、そうしよう」
「……え?」
絃那が目を見開くと、弥紘は慌てて言った。
「いや、婚約者じゃなくなっても、ちゃんとお前のことは守る。金銭援助も続ける。絃那が何も気にせず暮らせるようにするから、安心してくれ」
真摯な瞳で見つめられ、絃那は押し黙る。
弥紘と婚約者じゃなくなる。彼はそれでもいいと言っている――
「……で、でもっ、あれは……? 弥紘さん、もう私との婚約をやめるつもりはないって……そう、言ってましたよね……?」
「いや、あれは――」
弥紘が口ごもる。
どうして。絃那の心臓が騒ぐ。
(もしかして……別の人と……?)
こんな厄介ごとを抱えた女じゃなく、弥紘は、もっときちんとした、別の婚約者を新たに設けるつもりなんじゃ……
思い至った瞬間、頭の中が真っ白になる。
弥紘の隣に別の誰かが寄り添う。その誰かは絃那と同じように大事にされる。そして、絃那が貰えなかったものも手に入れる。ちゃんと、彼に、愛される。
(嫌……)
嫌だそんなの。嫌――
「絃那?」
弥紘の声ではっとする。その瞬間。
ぽた、と涙が零れ落ちた。
「え、あ――」
絃那は慌てて涙を拭う。が、流れ出るそれは止まらない。
急に泣き出した絃那を見て、弥紘は狼狽える。
「絃那……? どうした……?」
どこか痛むのか、と聞かれ、絃那は首を振る。また、涙が零れ落ちる。
弥紘が背中をさすってくれる。彼は困った顔をしている。
どうしよう。
困らせたくない。どうしよう。でも。
――いっそもっと困らせてしまえ。
壊れかけの心を庇うように、絃那の頭の中で悪魔が囁いた。
もはや立場は逆転している。
今の弥紘は、絃那の言うことなら、なんでも聞いてくれるだろう。今なら最高にずるいことができてしまう。
「っ、弥紘さん」
言え。言ってしまえ。
そう思うのに、良心の呵責がそれを妨げる。先の言葉が続かない。
「なに?」
弥紘の気遣うような声。いつもの、優しい声。
ほら言おう。大丈夫、むしろ喜ばれるかもしれない……
絃那は唇を噛む。偽月なんて創れないと自覚していながら、霧崎伊織の娘であることを利用しようとしている自分に嫌気がさす。
「絃那……?」
背中に弥紘の腕が回る。躊躇いがちに、そっと抱きしめてくれる。
ああ、もう駄目だ。
「っ、ごめんなさい――」
ずるくてごめんなさい。
「……っ、弥紘さん、好きです。私、弥紘さんのことが好きなんですっ」
まるでそれが最後のピースだったかのように、言葉にした途端、想いがはっきりと形を持つ。
好きだ。貴方が好き。ずっと、貴方の特別でいたい。だから。
「だから私……私っ……婚約を、やめたくありませんっ……」
弥紘の身体が硬直する。
言ってしまった。絃那はもう後戻りできない。
一拍置いて弥紘が身体を離す。
ああ、離れてしまう。ずきん、と絃那の胸が痛む。
弥紘は何も言ってくれない。ずきんずきんと絃那の胸が痛み続ける。
お願い何か言って。絃那は視線を上げ、ちらと弥紘を見る。
彼は――ぽかんとしていた。
え、と弥紘が戸惑いの声を洩らす。
「でも、枦川理九は……?」
「枦川はっ――……」
……?
「……枦川……?」
どうしてここで彼の名前が出てくるのか。困惑したまま弥紘を見つめ返すと、
「好き、じゃないの?」
恐る恐るといった様子で尋ねられ、何か、何か大きな勘違いされていることに絃那は気づく。
絃那はぶんぶん首を振る。
「枦川は、本当にただの幼馴染で……! わ、私が好きなのは――」
弥紘さん、と。絃那はそう零す。
弥紘が息を呑む。
室内に沈黙が降りる。
「…………俺も」
ややあって、俯きながら弥紘は言った。
「俺も、絃那のこと……好きだ」
顔は見えない。けれど、耳元が赤い。
彼の言う『好き』と、絃那の抱く『好き』が恐らく同じ種類であることを、絃那は理解する。
「だから――少し離れて、そこからお前のこと守ろうと思ったのに……」
弥紘は少し顔を上げて、困ったような表情で絃那を見る。
「……本当に俺のこと好きなの?」
「はい……好き、です……」
絃那が頷くと、弥紘は益々困り顔になる。
「なんで?」
へ? と絃那が目を瞬くと、
弥紘は目を逸らして言った。
「……絃那も見ただろ? 怖かっただろ? 俺は――ああいうオオカミなんだ。感情にのまれていつも歯止めが効かなくなる。絃那が嫌いな……お前の母親に重傷を負わせたやつらと、本質的には何も変わらない」
絃那は困惑する。グレイたちと弥紘が同じ?
「違います。全然、違いますよ。あの時だって、私を助けるためにやったんでしょう……? まあ……その、ちょっと……」
少し躊躇って。それから絃那は腰を上げ、弥紘に近づく。
手を伸ばし、彼の顔にそっと両手を添える。彼がよく絃那にやるのを真似て、おでこに軽く頭突きする。
「あれは……やりすぎだったと思います」
見つめてそう伝えると、弥紘は叱られた小さな子供のようにしゅんとする。
……そんなに落ち込まれるとは思わなかった。
絃那が狼狽え手を離そうとすると、
弥紘はその上に自身の手を重ね、引き留める。
「……俺のこと怖くないの?」
視線を斜め下に逸らしたまま、弥紘はぽつりと尋ねてくる。
これは嘘偽りのない、本音の回答を求められているのだと分かり、絃那は真剣に考える。
あの時の弥紘は――
「……怖かったですよ」
確かに、怖かった。
「あの時の弥紘さん、いつもと違う感じがして。全然違う人みたいで」
弥紘は悲しそうに笑う。
「うん。でも、そっちが本当の俺。それが俺の本性」
本当の……本性……
それを聞いて、心に不安がよぎる。
絃那は恐々と尋ねる。
「あの……もしかしてさっき私を手当てした時『めんどくせー』とか思ってました?」
弥紘はぽかんとする。「は?」
「私のことを守るって言ってくれましたけど、それも『ダルいわー』とか内心思って――」
「思ってねぇよ!」
ぎょっとして弥紘は叫び、眉を下げる。
「っ、俺は本当に――」
「本心で、私を心配して、優しくしてくれたんですよね……?」
絃那は弥紘を見つめる。
「なら、今ここにいる弥紘さんも本物です」
弥紘は目を見開く。
頷いて、絃那はゆっくり思いを伝える。
「私、両方見ました。怖い弥紘さんも、ちゃんと見ました。そのうえで、やっぱり、貴方のことが好きです。すごく好き」
絃那は瞳を細め、微笑みかける。
「これからも、一緒にいたい」
弥紘の顔がくしゃりと歪む。
腕を強く引かれ、絃那は弥紘に抱きしめられる。ぎゅっと抱きしめられる。
「こんな俺でいいのか……?」
その声には僅かに躊躇いが残っている。
絃那は弥紘の背中に腕を回し、答える。
「はい。貴方がいいです」
弥紘の身体からふっと力が抜ける。弥紘はゆっくり身を預けてくる。
「…………絃那には敵わないなぁ」
呆れが混ざった声でそう言って、絃那の肩にこてんと頭をのせてくる。
絃那は笑って、腕に力をこめ、しっかりと愛しい彼を包み込んだ。
強くて、不器用な、私のオオカミ様。
「……もう婚約やめようなんて、言わないでくださいね……?」
そっと囁くと。
絃那こそ、と弥紘から小さな呟きが返ってくる。
それから彼は何やら思案して――
ふいに顔の向きを変え、絃那の方を見た。
「……この際だから、婚約するところからやり直すか」
「へ?」
弥紘が身体を離す。
向き合った彼はいたずらっぽく笑って、それから、
すっ、と笑顔を消し去る。
「『お前に婚約を申し込みたい。返事を聞かせて貰えるか』」
絃那は目を瞬く。
……懐かしい。いや、よく見る表情なのだが。絃那自身がこの表情を向けられるのは、実に一か月ぶりで。
思わず笑いそうになるのを堪えながら、絃那は記憶を辿り、お返しの言葉を発する。
「『その前にひとつお尋ねしたいのですが。なぜ私なんです?』」
弥紘が微笑む。
とびきり甘いその笑みとともに、彼は、あの日くれなかった答えを絃那に与えてくれる。
「――世界で一番、愛してるから」
(了)
幻月ノ狼様 柁霍羅 @takakura16
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