キングス・ネバー・ダイ

逢巳花堂

キングス・ネバー・ダイ

「助けて!」


 盗賊の少女、姑姑ここは、ぼろ切れの服と髪を振り乱し、河原を駆けながら、すぐ目の前に寝転がってぼんやりと青空を眺めている、頬に傷のある男に、大声で呼びかけた。


 男は無視している。


「ちょ、聞いてるの? 助けてよ!」

「よーし、追いついた!」


 戸惑っている間に、追手の兵士に捕まってしまった。他にも三人、周りを囲んでくる。姑姑は押さえられた腕をなんとか外そうと、身をよじって抵抗したが、屈強な男の力には勝てない。


「逃れられると思うな、このガキ!」

「誰に手を出したかわかってるんだろうな!」


 兵士の一人が剣を抜いた。日の光を浴びて、ギラリと刃が輝いた。死を予感させる鋭さ。姑姑はヒッと叫び、恐怖で硬直した。ほんの少し動きを止めたが、しばらくしてから、さらに激しく暴れ出した。


「ちくしょうおとなしくしろ! この楚人めが!」


 押さえつけている兵士が「楚人」と言った瞬間、それまで我関せずでいた、頬に傷のある男が、ゆっくりと立ち上がった。


「さっきからうるせえな。人がのんびりしてるのによ」


 たちまち追手の兵士たちの間に、怯えが広がった。


 頬に傷のある男は、いざ起きてみると、その体の大きさは尋常ではない。八尺(約一八〇センチ)はある。こちらへ近寄ってくるにつれて、その巨躯は、さらなる威圧感を伴ってきた。


「うわ、あ、あああ!」


 兵士の一人が悲鳴に近い雄叫びとともに、剣を振り上げた。相手の男は丸腰、武器を持っているこちらが多少なりとも有利と判断しての攻撃だったのだろうが、その考えは甘かった。


 男は一瞬で懐へと潜りこみ、剣を持った兵士の腕を押さえつけるのと同時に、脚を払った。兵士は、あっさりと転ばされ、地面に叩きつけられてしまった。


 残る三人も、次々に攻撃を仕掛けたが、結果は同じだった。一人は横っ面を裏拳で殴り飛ばされ、一人はみぞおちに剛拳を叩きこまれ、姑姑を押さえつけていた一人も立ち向かっていったが、喉笛に手刀を打ちつけられた。ほんのひと呼吸の間に、全員敗れてしまい、地面に転がってウンウンと唸っている状態となった。


 姑姑はごくりと喉を鳴らした。目の前まで接近してきた男は、見上げんばかりの位置に頭がある。それだけで気持ちが負けてしまいそうになる。涙が出てきそうなほど、怖い。


 だけど、拳を握り締め、声が震えるのもかまわず、男に向かって気丈に言い放った。


「あ、ありがとう。助かったわ」

「楚の人間か?」

「この地にいる人間は、みんなそうよ。外から来たこいつらは別だけど」


 姑姑は忌々しげに、倒れている追手たちを睨みつけた。


「何が起きている? 巻きこまれた以上は、事情を聞かせてもらうぞ」

「じゃあ、場所を移そ。応援が来るかもしれないし」


 そう言って、移動しようとした時、倒れている兵士の一人が早くも回復し、剣を持って立ち上がったのに、姑姑は気がついた。


「危ない、後ろ!」


 教えるのが遅かった。


 頬に傷のある男は、振り返る暇もなかった。背後から突進してきた兵士の剣が、男の胴を貫いた。腹のあたりから刃が突き出る。


 が、男は、平然としていた。


「人の後ろから襲うのが好きだな、劉邦りゅうほう軍はよォ!」


 後ろ手に相手の剣を掴み、ズボッと刃を引き抜くと、男は振り向きざまに拳を振るった。


 渾身の一撃が兵士の頭部に当たり、ゴキッと首の骨が折れる、鈍い音が響いた。


 兵士は力を失い、地面に倒れた。


 すぐに姑姑は男のそばへ駆け寄った。


「へ、平気なの!? 刺されてたじゃない!」

「大丈夫だ。すぐに治る」


 男は服をめくり、できたばかりの傷跡を見せた。


 たしかに、刺された直後だというのに、もう傷口は塞がりつつある。


「うそ……!?」

「こういう体なんだよ。ちょっとの怪我はすぐ治る」


 実際に目の前で見せられても、姑姑は、男の言っていることがにわかには信じられなかった。そんな人間離れした力を持つ者が、この世にいるのだろうか。


「それより、邪魔が入ったが、続きだ。何が起きてるのか、教えてもらうぞ」

「う……うん」


 困惑しつつも、姑姑は男を連れて、話のしやすい場所へと案内した。


 ※ ※ ※


 姑姑は戦争による孤児だ。


 のちの世に「楚漢戦争」と呼ばれる大戦――二人の王、項羽こううと劉邦の間で繰り広げられた壮絶なる戦いは、劉邦の勝利で幕を下ろした。史上最強と呼ばれた武人の王、項羽は、敗戦の末に自刃して果てたという。


 姑姑は、項羽の出身地である楚国の民だ。父親は兵士として項羽に従い、戦場で命を落とした。母親はもともといない。


 土地の権力者たちや、農民らは、いち早く新たなる支配者に従った。だけど身寄りのない、孤児である姑姑は、頼れる者は誰もいない。必然的に、盗賊稼業をやって生き延びるしかなかった。


「同じような境遇の仲間も集まって、日々生きるだけの稼ぎは手に入れていた。でも、小さな稼ぎだから、限界があった。だから昨日の夜、私たちはもっと大きな相手を狙って、そいつの屋敷に盗みに入ったんだけど……失敗した。他の仲間はみんな捕まった。私は追手から逃げ続けて、今朝もああやって河原で逃げてたわけ。そうしたら……って、ちょっと、聞いてんの?」


 途中から男は話半分にしか耳を傾けていない。


 町なかの、古ぼけた飲み屋の一席に、二人は座っている。滅多に客の入らない、潰れかけた店だから、姑姑たちがタダで利用しても誰も文句は言わない。


 けれども明らかに身なりのみすぼらしい、やさぐれた雰囲気の姑姑たちは、道行く人々からは不気味に見えるようだ。ヒソヒソと小声で何か喋りながら、蔑んだ目でこちらを見つつ、人々は通り過ぎてゆく。


 姑姑は胸が痛むのを感じた。戦争の真っ最中は、みんな同じ国の人間で、味方だったのに。


 が、男は、ニヤニヤしている。その目線は、常に女性へと向けられている。


「やっぱり故郷は最高だな。空気がうまい、水も合う、おまけに女は美しい」

「あんたも楚の生まれなの?」

「おう。ご先祖様に至るまで、楚の人間だ」

「もしかして……大王様と一緒に戦ってたの?」


 大王様、というのは項羽のことだ。本名は項籍、字は羽。「西楚の覇王」を自称した項羽のことを、楚の民は大王と呼んで敬っていた。いまでこそ「大王」と言うと、天下を取り、いまや皇帝となった劉邦のことになるが、姑姑にとってはいまでも大王は項羽ただ一人だけである。


「……そうだな、ともに戦っていた」


 ほんのしばしの沈黙の後、男は答えた。


 男は、燕梁えんりょうと名乗った。


 項羽の旗揚げ時からずっとそばに付き従っていたという者で、姑姑は燕梁の名を知らなかったが、「軍を率いるような職務には就いていなかったからな」と彼は説明した。


 姑姑はそこまで話を聞いて、目を輝かせた。


「お願いがあるの! 私に力を貸して!」

「盗賊は趣味じゃないんだがな」

「盗みのことじゃないわ! 仲間が捕まってるの! あんたくらい強い人じゃなきゃ、助けられない!」

「腕の立つやつはそこらへんにいる。そいつらに頼め」

「私の仲間を捕まえてるのが――鍾離昧しょうりまいだとしても?」


 鍾離昧、の名を聞いた瞬間、燕梁は目を見開いた。さらに全身の毛を逆立たせ、見るからに尋常ではない怒気を発している。


 それを見て、姑姑は(やっぱり)と確信を抱いた。


「劉邦軍との最後の戦いを前にして、大王様を見捨てて逃げた卑怯者よ。その鍾離昧が、この楚の地にいるの。いまの楚王より財貨をもらって。それが私たちは許せなかった」


 姑姑は興奮気味に語り続ける。


「燕梁も、あいつのことは許せないでしょ」

「……まあな」


 鍾離昧が項羽を見捨てて逃げ去ったのは、項羽軍が落ち目のときのことだった。


 長きに渡る戦いの末、項羽軍と劉邦軍は和平の盟約を結んだが、その後、撤退している項羽軍の背後から、劉邦軍は奇襲を仕掛けた。まさかの裏切りだった。


 史上最強とうたわれた項羽軍でも、流れは覆せず、最後の戦いの地、垓下へと追い詰められた。


 武将や兵士たちの脱走が相次いだ。


 その脱走者たちの中に、鍾離昧もいたのである。


 鍾離昧は優秀な武将であった。項羽の下でよく活躍し、散々に劉邦軍を苦しめた。しかし項羽にその忠誠心を疑われてからはあまり重用されず、ついには耐えきれなくなったのか、崩壊寸前の項羽陣営から逃げ出してしまった。


 鍾離昧がいたとしても、項羽は勝てなかったかもしれない。けれども、死なずに済んだ可能性もある。


「だからやつの屋敷を狙ったの。私たち楚人の無念を味わわせるために。だけど……失敗した」

「で、お前の仲間たちは、鍾離昧に捕まったわけか」

「ねえ、これで少しは考えが変わったでしょ」


 姑姑はすがるような目を向けた。


「鍾離昧だったら、あんただって文句はないでしょ。時間がないの。モタモタしてたら、みんな処刑されるかもしれない。早く助けに行かないと!」


 燕梁は黙って聞いていた。腕を組み、相槌を打つこともなく、ただ静かに。やがて「ふむ」とひと言だけ発すると、席を立ち、スタスタと歩き始めた。


 居酒屋からどんどん離れていく燕梁の姿に、しばし姑姑はポカンとしていたが、我に返ると、慌てて走り出し、燕梁の背中にすがりついた。


「待って! どうして行っちゃうの!」

「聞き覚えのある名前が出たから、一応聞いてやってたが、興味は失せた。結局、お前らの自業自得だろ」

「相手はあの鍾離昧だよ! 大王様を裏切った!」

「じゃあ、聞くぞ、ガキ。お前はその大王様とやらには会ったことがあるのか?」

「ないよ! だけど、それがどうしたのよ!」

「会ったこともないやつのために、なぜ、怒れる」

「大王様は私たち楚人に、希望を与えてくれた! 劉邦軍に負けても、その意思はまだ死んでない! 大王様の思いは、私たちの中に――」

「何が『大王様の思い』だ。てめえは本人に会ったことがあるのか?」


 グッ、と姑姑は言葉に詰まった。


「……会ったことなんて、ないよ。自分の勝手な妄想だってことも、わかってるよ。でも――大王様の伝説は――私たち楚人にとって、生きる希望なの!」

「気持ちはわかるけどな。だからって、かつて第一線で活躍していた将軍の屋敷に飛びこもうとする無謀な行為が、許されるわけじゃないだろ」

「わかった、もういい。私一人でやる」

「おい、どうしてそうなる。俺は冷静になれと忠告したかっただけだぞ」

「部外者だから、そうやって呑気なこと言ってられるんだよね! 私にとって、捕まってる仲間たちは、家族同然なの! みんなが死んじゃったら、また私はひとりぼっち――だから、早く助けたいの!」

「待て、ちゃんと人の話を聞け!」


 燕梁が止めるのを無視して、姑姑は駆け出した


 項羽のそばで戦っていた男と聞いて、期待を寄せていた自分がバカだった。こんな時代だ。他人に頼ることがどれだけ愚かなことか、よくわかっていたはずなのに。


(私一人でも助けてみせる!)


 すでに面の割れている状態で、町を歩くのは危険だったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。


 仲間たちはみんな姑姑と歳は近く、同じように先の戦争で親を亡くした少年たちだった。戦争で父を失い、絶望とともにふさぎこんでいた姑姑にとっては、憂き世のことを忘れてバカ騒ぎできる楽しい仲間たちだ。


 だから失いたくない。


 鍾離昧の屋敷が見えてきた。心臓がバクバク鳴る。勢いで来たのはいいけれど、どうやって仲間を助け出せばいい? ちょっとしたケンカくらいしかしたことがない。武器を持った兵士を相手に戦うなんて、経験がない。失敗して、命を落とす想像しかできない。


(あいつの言うことを聞いてればよかったかな……)


 だんだん気弱になってきた。鍾離昧の屋敷に近づくにつれて、歩みが遅くなる。ついにその足が止まったところで、屋敷の中から騒がしい声が聞こえてきた。


 塀を、何者かが、信じられないほどの跳躍力で飛び越えてきた。


 燕梁だ。


 両脇に姑姑の仲間二人を抱え、背にはもう一人の仲間を乗せている。地面に着地した燕梁は、重々しい足音を鳴らしながら、姑姑のほうへと向かってくる。


 姑姑は目を丸くした。


「な、なんで!? うそでしょ!?」

「おう。助けてやったぞ」

「どうして私より早く屋敷に入ってんのよ!」

「知るか。てめえが遅かっただけだろ。俺は普通に走ってみただけだ。道は、そこら辺のやつらに聞いてな」


 私だって走ってきたのに――と姑姑は絶句した。どれだけ燕梁の足は速いというのだろうか。


 屋敷の中から、兵士たちが飛び出してきた。みんな血相を変えて、追いかけてくる。


「無駄話をしている暇はない、逃げるぞ!」


 燕梁に促され、姑姑も一緒になって走り出した。


 昨日からずっと逃げてばかりだ。


 でも、いまは気分が違う。体が軽やかだ。


 大切な仲間たちが助かった、その喜びと、燕梁への感謝の念で、胸はいっぱいだった。


 ※ ※ ※


 その晩、姑姑たちはささやかながら宴会を開いた。


 河原の木陰で、ひっそりと、たき火を囲みながら、酒と肉を楽しむ。貧しい姑姑たちにとって、少量でも、酒や肉は贅沢品だ。それでも燕梁から受けた恩を返すのに、出し惜しみなんてしていられなかった。


 すっかり気を許した姑姑たちは、燕梁に色々と尋ねた。敬愛する項羽に、そばで仕えていたという男だ。聞きたい話はいっぱいあった。そのひとつひとつに、燕梁は淀みなく答えた。項羽とその周辺の者たちについてやけに詳しく知っているが、一緒に戦っていたゆえかと、特に姑姑たちは不思議に思わなかった。


「大王様って、どんな方だったの?」


 ついに、一番聞きたいところに、姑姑は踏みこんだ。


 最強の男項羽。劉邦軍の目があるから大っぴらには言えないが、いまでも楚人の間では、畏敬の念を持って語られている。姑姑たちは、そんな項羽の本当の姿に興味があった。


 だが、燕梁の答えは、期待しているようなものではなかった。


「戦うこと以外能のない、とても王とは呼べないような男だった」


 あまりにもひどい燕梁の物言いに、姑姑たちは言葉を失った。


「もし少しでも部下に関心を抱き、もし少しでも天下のことに思いを馳せ、もし少しでも人の愛を信じることができたならば、劉邦との戦に敗れることはなかったかもしれない。だけど、やつにはその全てが欠けていた。負けたのも無理はなかった」

「そんな言い方――」


 文句を言おうとした姑姑に向かって、燕梁は手を上げて、黙っていろと制した。


「事実だ。が、やつは最期を迎える時になって……ようやく……初めて……自分が『王』であると自覚した」

「大王様は、その前から、ご自分のことを『覇王』と名乗っていたわ」

「ガキみたいな考えで、言葉の意味も考えず、適当に自称しただけだ。その意味を知ったのは、死ぬ間際だ。それまで誰も信じることなく、頼れるのは己自身だと信じて戦ってきた、そんなひとりぼっちの男が、人に愛されるということを知った……その時にやっと、『王』であることの重みを知ったんだよ」

「なんでそんなのがわかるのよ。まるで大王様本人から直接聞いたみたいじゃない」

「その場に俺もいたからな」


 何かを懐かしむように燕梁は目を細めて、たき火を見つめている。ほんのしばしの静寂に、パチパチと薪のはぜる音が割りこんでくる。


「やつは強さが全てだと思っていた。ただ純粋に強いことこそが美徳であり、人を愛することも、人を信じることも、取るに足らない些事だと考えていた」


 いつしか姑姑たちは、燕梁の話に聞き入っていた。真に迫る話しぶりに、どんどん引きこまれていく。


「戦場で命を落とそうとしていた、その時、やつはきっとこう考えていたはずだ。自分はなんのために戦ってきたのかと。そして、もし、もう一度命を与えられたならば、今度は……」


 燕梁は盃に残っている酒をクイッとあおって飲み干した。それから、「小便だ」とおもむろに言い、森の奥に入っていった。


 姑姑たちは静かになった。しばらく流れる水の音に耳を傾ける。みんな、考えていることは同じようだ。


「燕梁さんを見てると、勇気が湧いてくるよ」


 仲間の少年が、穏やかな笑みを浮かべながら、ぽつりとつぶやいた。


「なんだろうな……大王様のそばにいた人だからかな。まるで話に聞いていた大王様のように、強くて、大きくて、こんなになった僕らの国をなんとかしてくれそうな……そんな安心感がある」

「だな。俺たちにはしみったれた盗賊稼業しかできないけど、あの人なら、もっとでかいことをしてくれそうな、そんな感じがするよ」


 その「でかいこと」については、誰も具体的なことは言わない。天下の趨勢が決したいまとなっては、語るのも虚しくなるような話。でも、もしかしたら、という希望が湧いてくる。


「おいらも、なんかワクワクしてる。燕梁さんだったら、もしかしたら――」


 仲間の、小太りの少年が、何か言おうとした、その言葉は――途中で切れた。


 姑姑が顔を向けると、小太りの少年は、ニコニコと笑ったまま、固まっている。


 その首に、スッと赤い線が走った。


 ゴロン、と、頭が、落ちた。


 最初、姑姑は何が起きたのか、理解できていなかった。やがて、地面に落ちた頭が転がるのをやめてから、やっと事態を把握し、


「いやああああ!」


 悲鳴を上げた。


 仲間の二人も喚きながら、自分たちの剣を手に取る。だが、黒い影が闇の中を駆け抜けたと思った、次の時には、二人とも首から上が無くなっていた。


 血の噴き出す音。気が狂いそうなほどの恐怖。


 いつの間にか、姑姑は、自分の首に冷たい刃が押し当てられていることに気がついた。


 敵は背後にいる。


「主の命令よ」


 姑姑の後ろの敵は、女とも男ともつかない不気味に甲高い声で囁きかけ、うふふと笑った。


「オイタをした子どもたちに制裁を、ってね」

「鍾離昧の、手下……?」

「そのとおり。ずっとつけられてたのに気がつかないなんて、やっぱり、素人ねえ」


 姑姑の意識があったのは、そこまでだった。うなじに衝撃が走った、かすかにその感覚があった直後、何もわからなくなってしまった。


 ※ ※ ※


 目を覚ませば、鍾離昧の屋敷の中だった。


 姑姑は後ろ手に縛られて、建屋の外壁に寄りかからされている。目の前には塀に囲まれた広い空間。仮の屋敷だから、庭にするでもなく、門から建屋までの敷地は何もない広場になっている。そこに、武装された兵士たちが待ち構えている。誰を迎え撃とうとしているのか、姑姑にはわかった。燕梁だ。しかしこの物々しい配備はどうしたことだろう。たしかに燕梁は規格外に強いが、ここまで恐れるものだろうか。


「起きたか、娘よ」


 低く貫禄のある声が聞こえた。横を向けば、口髭を生やした細面の男が、甲冑を着て立っている。


「もしかして、あんたが」

「そうだ。我が鍾離昧だ」


 本人に会うのは、姑姑は初めてだった。もっと器の小さそうな男を想像していたが、さすがにかつては一軍の将、鍛え抜かれた肉体が発する凄みだけでなく、醸し出す空気感が、器の大きさを感じさせる。


「よくも私の大切な仲間を……!」

「先に手を出したのは、お前らだ。我はただ相応の報いを与えただけに過ぎぬ」

「そーよお。主を困らせる人間は、たとえ子どもといえども、死、あるのみよお」


 クネクネと気持ちの悪い動きを見せながら、黒衣の男が、姑姑の前に進み出てきた。その声音と喋り方で、黒衣の男が、仲間たちを殺した人間であるとわかった。おそらく金で雇われた殺し屋だ。


 カッとなった姑姑は、涙を浮かべながら、散々に怒鳴り散らした。自分でも何を言っているのかわからないながら、とにかく罵詈雑言を並べ立てた。


 だけどどれだけ声を張り上げても、大事な仲間たちを失った喪失感は、消え去ることはない。


「うるさいわね!」


 黒衣の男は姑姑の頭に回し蹴りを叩きこんだ。ぐわんと脳味噌を揺さぶられる衝撃。地面に横倒しになった、姑姑の頭に、黒衣の男は足をのせると、グリグリと踏みつけてきた。


「頭悪いなりに、おとなしく体でも売って生きていればいいのに、ほんと、楚人ってバカよねえ!」

「よせ。その娘は人質だ。あの男を呼び出すための」

「もう、大袈裟ねえ。信じられないわ。あんな迂闊な男が、本当にあの伝説の?」

「あれから一年経つ。戦場から離れた分、カンを失っているのかもしれん。だが、聞く限りでは、屋敷に突入したというその男の容貌は、間違いなく……」


 燕梁のことを話しているのだと、姑姑には理解できた。だけどなぜだろうか、鍾離昧の声には、若干の恐怖が混じっている気がする。


「ねえ、教えて。なんで大王様を見捨てたの?」


 鍾離昧が黙ったところを見計らって、姑姑はずっと聞きたいと思っていたことを、そのまま素直に尋ねた。


 チラリと横目で見てきた鍾離昧は、ふん、と鼻を鳴らし、冷たい笑みを浮かべた。


「大王、というのは、項羽のことか」

「そうよ。なんで、あんたは、逃げたの」

「まだあの暗愚の王を崇拝する楚人がいるとはな」

「あんたはただの臆病者じゃない! 大王様を悪く言う権利なんてないわ!」

「いや、我にはその権利がある。お前のような部外者と違い、我は、項羽とともに戦ってきた。ゆえに、わかるのだ。あの男が天下を取らなくてよかった、と」

「あんたは大王様の配下だったんでしょ! 主に忠義を尽くすのが武人の務めじゃないの!?」

「哀れな小娘だ。何も知らないとはな」


 鍾離昧は、姑姑の正面へと回りこんできた。そして、話がしやすいように屈みこんで、彼女の目を見ながら、話を続けた。


「忠義を尽くすのは、それ相応の恩恵を与えてくださるからこそ、だ。しかし項羽は何も与えようとはしなかった。やつにとって臣とは、いつの間にか周りに集まっている人間――その程度の存在でしかなかった。さらに、ちょっとしたことで人を疑い、次々と有能な武将たちの扱いを悪くしていった。そんな男に、どうして、忠義を尽くすことができようか」


 鍾離昧の目に、嘘の色は宿っていない様子だ。その語る内容は、燕梁が話していたことと同じもの。つまり信憑性は高い。思わず、姑姑は目をそらした。


「だけど……だからって!」


 姑姑には納得がいかなかった。たしかに項羽は、王としての器はなかったのかもしれない。でも、それで鍾離昧の裏切り行為は正当化されるのだろうか。


「よいか、小娘。お前の敬愛する『大王様』の伝説は全てまやかしだ。本当のやつの姿は――」


 鍾離昧がなお言葉を重ねようとした、その時だった。


 突然、屋敷の門が、吹き飛ばされた。


 土煙をかき分けて、ゆっくりと、燕梁が姿を現した。 その姿を見た瞬間、鍾離昧は、歓喜とも悲鳴ともつかない震え声で、大きく叫んだ。


「まさか――本当に――生きていたのかッ!」


 え? と姑姑は首を傾げ、鍾離昧と、燕梁の顔を見比べた。


「――項羽!」


 時が止まった。


 姑姑だけではなく、鍾離昧の兵士たちも、「項羽」の名を聞き、全員が言葉を失っていた。


 あの男は、かつて死んだはずの、大王項羽?


 ……そんなバカな!


 場に混乱が広がりつつある中、鍾離昧は一歩前へ出て、兵士たちに向かって大喝した。


「ためらうな! 放てい!」


 兵士たちは、言葉に弾かれるようにして、反射的に、一斉に矢を放った。


 燕梁の体に、次々と矢が突き立った。姑姑は悲鳴を上げたが、兵士たちは手を止めることなく、放てる限りの矢をひたすらに放ち続けた。


 針鼠のごとく、全身に隙間なく矢が刺さった燕梁は、仁王立ちしたまま動かなくなった。


「あ……あ……」


 姑姑は涙を流し、唇を震わせる。


 自分のせいだ。自分が燕梁を巻きこんでしまった。そのせいで、彼はこんな無惨な最期を――


「――重てえな。ここまで矢を使う必要ねえだろうが」


 燕梁が、喋った。


 頭にまで矢が突き刺さっているというのに、何事もなかったかのように、平然と。


 メリメリと音が聞こえる。体中に刺さっている矢が、内側から押し出されるようにして、ボロボロと地面に落ちていく。傷口も塞がっていく。あまりにも異様な光景に、兵士たちはざわめいた。


 姑姑は、初めて会った時のことを思い出した。後ろから兵士に剣で貫かれても、平気でいた燕梁の姿を。


「驚いたわね! まさか不死身の体を持つなんて! でも、首を落とされたら、どうなるかしらね!」


 黒衣の男は恐れることなく、燕梁との距離を詰め、「キエエエ!」と奇声とともに、剣を振り上げた。


 燕梁は「フン」と鼻を鳴らし、無造作に手を伸ばして、黒衣の男の腕をガシッと掴み、押さえつけた。


 黒衣の男は驚き、「キアッ!?」と叫ぶ。


 燕梁は、相手から剣を奪い取った。と同時に、踏みこみ、黒衣の男を頭頂部から真っ二つに、切り裂く。


 盛大に血と臓物が撒き散らされ、黒衣の男は、あっさりと、物言わぬ骸と化した。


 黒衣の男の死を目の当たりにして、兵士たちは絶叫を上げた。多くの兵士たちは逃げたが、勇敢な一部の兵士たちは燕梁を取り囲んだ。が、軽く燕梁が剣を振っただけで、その五体はバラバラに飛び散っていく。


 まさに天下無双の武。大王の剣には誰も敵わない。


 無人の野を行くがごとく、兵士たちをどんどん薙ぎ倒して、燕梁は前へ前へと突き進んでいく。


 鍾離昧は剣を抜き、姑姑の首筋に、刃を当てた。


「それ以上動くな、項羽」


 冷や汗を流しつつも、鍾離昧は脅しをかけた。燕梁は言われたとおり、足を止めた。


「まさか死なずの体になっていたとは。垓下がいかで死んだと聞いていたが、どうやって生き延びられた」

「死んださ。たしかに一度。全身に傷を負い、血を流し尽くし、俺は死んだ」

「ならば、なぜだ! どうして、まだ、生きている!」

「生かされたんだよ」


 燕梁の目が鈍く輝いた。瞳が揺れ動き、その揺れ幅が次第に大きくなっていった。


 そしてあろうことか、瞳が、二つに分かれた。


「なんだ……その瞳は!?」

「見えるか。二つあるだろ。俺の体にはもう一人分、魂魄が宿ったんだ。そのおかげで、俺は蘇った」

「ふざけるな……そんなことがあってたまるか!」

「ところが、ここに、いるんだな」


 ニヤリと燕梁は不気味に笑った。鍾離昧はすっかり平静を失い、おおお! と雄叫びを上げた。


「この化け物めッ!」


 鍾離昧は剣を振り上げた。こうなったら、もはや人質など関係ない、まずは姑姑の首を刎ねんと、躊躇なく凶刃を示す。直後、その手が、ちぎれ飛んだ。建物の外壁に、燕梁が投げた剣が、突き刺さっている。手首より先が無くなり、鮮血が噴き出す。


「う、ぐ……なめるなァ!」


 かつて項羽ともに最前線で戦い、劉邦軍を震え上がらせた、あの頃の力が蘇ってきた。


 鍾離昧は残る片手で、地面に落ちていた兵士の剣を拾い、燕梁に突撃していく。


 が、燕梁もまた剣を拾い上げ、上段に構えた。そして間合いに入ってきた鍾離昧を、一刀のもとに、斬り伏せた。


 胴から血を撒き散らし、青ざめた表情で、膝をついた鍾離昧は、それでもなお口元を歪めて、冷笑した。


「我らを蔑ろにし……民をも顧みず……ただ己の武のみを求めた……暗愚の王よ……いまさら……生きて……なんのために戦う……のだ……」

「そう、俺は王失格だった。だからこそ、後始末をつける。まだ俺の戦いは――終わってはいない!」


 力をこめて、燕梁は、横薙ぎに剣を振った。


 鍾離昧の首は一刀で刎ねられ、宙を飛んでいった。


 ※ ※ ※


 決着はついた。すっかり戦意喪失した鍾離昧の兵士たちは、みんな逃げ去ってゆく。


 地面に転がる鍾離昧の首を、姑姑はぼんやりと見つめている。仲間たちの仇である男の、首。だけどなんの感慨も湧いてこない。いまは、まだ。


 それよりも先に、聞きたいことがあった。


「あなたは……大王様、なんですか?」


 燕梁が、姑姑の手首を縛っている縄を切ってくれた、その時に、恐る恐る尋ねてみた。


「急にどうした、その言葉づかいは」

「だって……その……大王様でしたら、私……」

「いまの俺は燕梁だ。これからも、それでかまわない」


 姑姑は混乱していた。燕梁の正体は、先の戦争で死んだはずの大王項羽その人だろう。しかし、なぜこうして生きているのだろうか。不死身の肉体を伴って。


「あの日、俺は、魂を分けられた。誰も信じていなかった俺のことを、最後まで愛してくれた女だ。戦場で倒れたとき、あいつが、俺の近くにいたのを憶えている。意識が闇に落ち、眠りについている間、何かが体の中に入ってくるのを感じた。そして目を覚ませば――俺はまだ生きており、あいつは、息絶えていた」

「その人が、大王様に、魂を分けた……?」

「残酷なことをしてくれたもんだ。あいつはもうこの世にいない。俺には何もない。だけど、俺はまだ生き続けないといけない。あいつのおかげで与えられた、最後の機会を、無駄にしないためにも」

「これから大王様は、どうされるんですか……?」

「決まってる。天下分け目のケンカをやり直すんだよ」

「まさか――劉邦軍を相手に――!?」

「興味あるか? 手伝いたいなら、来てもいいぞ」


 ただし、と断りを入れて、燕梁はニヤリと笑った。


「その気色の悪い敬語と、『大王様』をやめたらな」


 迷うまでもなかった。姑姑は、今日を生きることにも苦心していた。いつか野垂れ死ぬかもしれない。それだったら、我ら楚人の英雄とともに、華々しく劉邦軍に戦いを挑んで散るほうが、よほどマシな死に方だ。


「私も、連れてって……燕梁!」


 姑姑の言葉に、燕梁は黙って、優しげな目を向けてきた。肯定とも否定ともとれぬ仕草だったが、やがて、


「馬を探せ。この町を離れるぞ」


 そう言われて、姑姑は満面に笑みを浮かべた。


 ※ ※ ※

 

 これは、蘇りし不死身の王と、一人の少女の物語。


 歴史の裏に隠された、王たちの最後の戦いが、いま幕を開けようとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

キングス・ネバー・ダイ 逢巳花堂 @oumikado

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ