月とペンギンとチョコレート
高橋志歩
月とペンギンとチョコレート
泰己はその日の深夜、酔っ払って道を歩いていた。
会社で取引先と揉めて電話口で罵られ、上司からの仕事の指示内容に反発して散々叱責と嫌味を浴びせられてしまった。
面白くない。しかも恋人の久美子からもメールが届いて、急用が出来たのでと週末のデートを断られてしまった。水族館に行きたい、とねだったのは久美子なのに。面白くない。
泰己は飲み屋でビールとチューハイをちゃんぽんで飲みまくり、ようやく一人暮らしのアパートに帰る気になった。
最寄駅から歩いていると、酔いで火照った体に涼しい風が気持ちいい。
思わず深呼吸をした泰己は、ふとどこからか笛の音が聞こえてくるのに気付いた。
笛といっても、テレビの正月番組で流れてくるような雅な音色である。どこかで祭りでもやっているのかなと泰己はのん気に考え、巨大な満月を見上げた。
……あれ?さっきまでこんなに大きく見えてたっけ?
首をひねった泰己は、自分が広い広い道路の真ん中、全く知らない場所にひとりで立っているのにようやく気付いた。
何だか眩しいぐらいの月光に照らされながら、酔いが冷めていく。
なぜなら目の前でペンギンが踊っているからだ。
泰己はペンギンの種類名なぞ知らないが、大きなペンギンである。そのペンギンが黄色い嘴を振り、黒い羽を広げ、白い腹を揺らし、黒い足で地面を蹴っている。まるで、キリっとかビシッなどの効果音が聞こえてきそうなキレのある動きである。
呆然と眺めていると、くるりと一回転して動きを止めたペンギンが泰己の存在に気付いたのか、頭を下げてお辞儀をした。
「あ、どうも」と思わず泰己も頭を下げてしまう。
ペンギンはしばらく泰己の顔を見上げていたが、また踊り始めた。今度は足の爪をカタカタ鳴らして、まるでタップダンスのようである。上手いもんだな、と眺めているうちに泰己は急に不安になってきた。踊るペンギンに無人の広い広い道路に巨大な満月。見回しても誰もいない。車も通らない。俺は無事に元の場所に帰ることが出来るのだろうか?泰己は思い切ってペンギンに話しかけた。踊るペンギンなら言葉も通じるかもしれない。
「あの、ここはどこなんですか?」
なぜか丁寧な言い方になってしまう。ペンギンはぴたっと動きを止めると、そのままの姿勢で考えているようだった。悪い事をしたかなと思った時、ペンギンは背筋を伸ばすと嘴で泰己の腰のあたりをペシペシと叩いた。そしてテクテクと歩き出した。まるで、ついて来い、と言わんばかりの動作に泰己は一瞬迷ってから後をついて歩き出した。
静かな世界に、ペンギンの足音と泰己の足音だけが響く。満月に向かって歩いて行って、このまま満月に入り込むのかもしれないと泰己がぼんやりと非現実的な事を考えているとまた笛の音がどこからか聞こえてきた。ペンギンが止まったので泰己も止まる。
そしてそこに十二単を着た美しい女性が立っていた。
陰陽師が主人公の映画にこういう女性がいたな平安時代だったよな、と驚きのあまり口を開けたままそんな事を考えている泰己に女性が優しい声で話しかけてきた。
「おやまあ、お客様ですか。珍しいこと。どうやってここに来たのですか?」
「すみません全然わかりません。気が付いたらここにいて、このペンギンが踊っていました」
泰己はもうやけくそになって、はきはきと返事をした。
ペンギンは一人で回転している。何だか自慢げだ。
「ぺんぎん?ああ、あなた達はそう呼んでいるのですね。彼は月の大きな鳥です。今夜地上を訪れたいと希望したので私と一緒に降りて来たのです。地上では体が重くなりますが、大きな鳥はそれが面白いらしくてさっきからずっと歩き回って動き回っているのですよ」
「月の鳥?えーとそのもしや、あなたも月から来たのですか?」
「ええそうですよ。地上の方々とは滅多にお会いしませんが。まだ時期ではありませんからね」
「はあ、そうなんですか」
泰己は何で言葉が通じるのですかとか、どうしてそんな服装なんですかと尋ねようとしてから急いで考え直した。
「あの、俺は元の場所に戻りたいんですがどうすればいいんですか?」
女性はくすくすと笑った。
「そんな心配そうな顔をしなくても、ちゃんと開閉扉から出してあげますわ」
「良かった。ありがとうございます」
「……ところで、あなたは何か地上の食べ物をお持ちではないですか?」
「は?食べ物?お腹が空いているんですか?」
「いえ。あなたの姿を見てお話していたら、何だか昔食べた地上の味を思い出して……味わってみたくなったのです。月では食べ物を口にする事はありませんので」
女性は懐かしむような悲しんでいるような表情を浮かべた。
「全部忘れたはずですのに、やはり色々と覚えているものなのですね」
泰己は残念ですが何も持っていません、と言いかけてふと思い出して上着のポケットを探して女性に差し出した。
「あの、これをどうぞ」
女性の手の平に、飲み屋のママから貰った小さなチョコレートの鮮やかな色の包みを5個乗せてやった。ペンギンも伸びあがって泰己の手元を覗き込んでくる。
「まあ可愛らしい」
「チョコレートというお菓子です。甘くて美味しいですよ」
「甘いお菓子……ちょこれいと。ありがとうございます」
「溶けやすいので、それだけ注意してください」
女性が嬉しそうに微笑み、ペンギンは羽を広げて空中に飛び上がった。あれ、ペンギンは飛べないはずなのにと泰己が考えた次の瞬間、彼はアパートの前の道路に立っていた。どこからか笛の音が聞こえてきて、そして消えた。
夜空には月がいつもの大きさで浮かんでいた。
酔っぱらって見た夢だったのかもしれない。
けれどポケットの中からチョコレートは消えていたし、関係あるかどうかは不明だけども深夜の富士山の上空に謎の巨大な光が一瞬現れて消えたと翌日のネットニュースで話題になっていた。
だからあの日の夜に本当に奇妙な体験をしたのだと、月から来た女性とペンギンに出会ったのだと、そう信じた方が愉快だよな、と久美子と訪れた水族館でペンギンの集団を眺めながら泰己は考えた。
月とペンギンとチョコレート 高橋志歩 @sasacat11
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