得手不得手ホラー劇場

渡貫とゐち

金曜日であれ


 その男は夜に現れる。

 その日は雷雨だった。

 街灯は細工もしていないのに点滅し、やがて消え、闇を作り出す。ほぼ音と同時に輝く雷がその男の姿を一瞬だけ照らした――

 大きな「なた包丁」を片手に持ち、感情の読めない片目だけ穴が空いた白い仮面を付けている三メートルの身長を持つ大男……――人外の存在。

 彼は白いワンピースを身に着けた少女を追いかけていた。


 ゆっくりと、決して走らない。

 足音は雨足に消えてしまう。ぬかるんだ土に彼女は足を滑らせ、白いワンピースを泥で汚していた。広めの自然公園を抜け、入り組んだ住宅地を何度も曲がり、少女は逃走する。

 土地鑑がある彼女の方が当然ながら有利であり、追いかける側の男は彼女を追いかけるが、出せる速度のこともあり、追いつけない。

 土地鑑がないが、ないなりに想像して迂回する。運が良ければ先回りすることもでき――今回はばったりとターゲットである少女と再会した。


「ひっ、きゃあ!?」


 少女を覆い隠せるほどの大男が目の前に現れたことで、少女は尻もちをついてしまう。隙を見つけた男が片手の包丁を振り上げて――だが、遅い。

 少女が悲鳴を上げながら立ち上がって、男の横をすり抜けていった。振り下ろした包丁は遅れて地面に突き刺さ……ることはなかった。

 硬いアスファルトなので刃が入ることはなく、かん、と弾かれる。


 ゆっくりと振り向いた男が少女の後を追うが…………はて、どこへいったのだ?



「…………」


 男は追いかけようとしたが、途中で諦め、すぐ傍の塀に手をついた。

 ……雷雨の中、なにをしているのだろう、と心が折れかけている……なにをしているのかと言えばターゲットを殺すことが目的なのだが、彼の専門は解剖であり、捕縛ではない。

 つまり苦手分野を任されたわけで……時間がかかってしまうのは仕方のないことなのだ。


 彼の見た目と挙動で相手を怖がらせることができるが、しかし逃げる相手を追い詰め捕まえることは大の苦手だ。

 手助けしてくれる味方がいれば多少は成功率も上がるのだが、今日はひとりきりである。ただでさえ足が遅いのに……、相手がちょこまかと動く少女となれば無理難題である。

 不可能ではないか?

 少女はワンピースの裾を千切って短くし、逃げ切る態勢万全だ。逃走のトップランナーを鈍足のハイエンドが追いかけ、追いつけるわけもない。

 ……適材適所で間違った場所に送られた典型例である。



「……モウ、カエッテシマオウカ……」


 すると、水溜まりを踏んだ足音があった。

 壁に体を隠し、顔だけひょこっと出してこちらを窺っている少女がいる……さっきまで恐怖で悲鳴を上げ、殺されることに怯えて心が摩耗していた彼女が、今は男の心配をしているような目で見つめている……。

 追いかけてこないことが気になって戻ってきてくれたのか? いや、そのまま逃げればいいものを……。


 殺人鬼が追いかけてこない理由をきちんと確かめないと眠れない子なのだろうか。

 男は片手を軽く振り、「今日はもう追いかけない」と示したつもりだったが……、彼女がおそるおそる、近づいてくる。


「……なんで、追いかけてこないの?」


「――ハヤイ、カラ……オイツケナイン、ダ……」


「ふうん」


 少女は靴を脱いだ。裸足でアスファルトを踏む。


「これでハンデになるかしら。足下に気を遣うし、やっぱり走りにくいから、あなたでも追いつけるかもしれないわよ?」


「…………ナゼ、コンナコトヲ……?」


「なんだか可哀そうに見えたから」


「…………」


「さっきまでは怖かったけど、なんだか今は……近所の小さな子を相手してるみたいで、力になりたいって思ったの。まあ、ハンデを与えても捕まる気はないけどね」


「ソウカ」

「じゃあ追いかけてきてよ。わたしは逃げも隠れも――いえ、隠れはしないから!」

「ナラ、コッチも、マジメニヤロウ――」


 男が上着を脱ぎ、仮面を取った――……彼の素顔は想像通りの、体格に似合った男性の顔である。ただし、白目の男は普通の人間ではないことは確かだ。マネキンのように無感情だが……彼の姿勢を見ればさっきよりもやる気があることがよく分かる。


「じゃあ、五秒後に追いかけてきてね」

「アア……」


 カウントを始めようとした男だったが、その場から動く気がない少女に疑問を抱いた。

 首を傾げると、少女が、にぃ、と笑って、


「五秒もいらないかも。きっと一秒の差でも、捕まることはないと思うもの」


「ホォ……――バカニスルナヨ、ガキ……ッ!!」


 カウント、一、と同時に男が手を伸ばすが――――少女が、ひょい、と躱して反転。

 彼に背中を見せて走り出した。


 顔だけ振り向いた少女が舌を出して、


「追いついてみなよ、べーっ、だ!」


 住宅地を駆け抜けていく少女――男の闘志に、火が点いた。



「……ナルホド、ナラバコチラモシュダンハエラバナイ――」



 男は懐にしまってあった軽食を口に入れ、エネルギーを補給する……。ここから先は速度ではなく忍耐力である。

 夜が明けて太陽が出てこようとも、追いかけ続ければいずれ少女の体力が尽きるだろう……それまで粘るのが、彼のやり方だ。


 彼は大きな包丁を捨てた。こんなものを持っていれば速度が落ちて当たり前だ。今は少しでも、体が重くなる要素は捨ててしまおう――そして。


 体を大きく見せるための装備を外し、多少はスリムになった彼が体の調子を確かめ、クラウチングスタートの姿勢に――――準備は万端だった。


「マッテイロ……」


 速度ではやはり追いつけないと自覚しているが……しかし彼に自覚がないだけで、荷物を減らした今の彼であれば、普通に走って追いつくことができる。

 ……ただ、当初の思い描いていた恐怖を与えることはできず、包丁も手離してしまったので派手に殺すこともできないけれど……、とにかく逃げる少女に追いつくことだけはできる。



 他の全てを犠牲にすれば。


 たったひとつの目的であれば、達成することは難しいことではない。




 …了

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