ひなげしと、薔薇の栞

泉田聖

ひなげしと、薔薇の栞

 おそらく彼には、甘さが不足しているのです。


 その日二度目のタイムカードの打刻から、はや三時間。時計の長針は、じきに二二時を指さそうとしていた。

 振り向き、眼下の夜景を一望した。が、暗所に慣れた目にはその夜景すら眩しくて、思わず目を細めてしまった。

 向き直って、椅子に深々と腰を下ろす。薄暗いオフィスを見渡しながら、人知れず猫のような欠伸を零す。つぅ、と指先が頬に触れる。瞬間、ぽこり、と小さな膨らみの感覚があって悪寒がした。


「う、肌が……っ」


 ニキビだった。

 このところ残業続きで、ろくに睡眠時間を確保できていなかったのが原因だろう。

 生活習慣と肌の健康を犠牲にせざるを得ない仕事量を無責任に回してきた上司を呪いつつ、オフィスの端を見やった。


 薄暗いオフィスの端。

 照明もなしに独りの男性社員が、直にモニターと向き合っていた。

 頼りない猫背に、乱れた黒髪が猫耳のよう。モニターに齧り付いてしまいそうなくらい顔を寄せているのは、眼鏡を忘れてしまったかららしい。

 顎には赤いニキビを作っていて、見るからに不摂生の祟った顔立ちの彼は、重い溜め息のあとで傍らのビタミンドリンクを乱暴に飲み干していた。


「ありがとうございます。佐藤先輩。こんな突貫の仕事に手を貸してもらっちゃって」


 先輩。そう呼称されたのがくすぐったかったのだろうか。

 こちらを見返して、先輩は苦い笑みを浮かべていた。


「やめてくださいよ、部長。僕の方が部下なんですから。万年平社員の僕なんて、佐藤でいいですよ。皆もそう呼んでますし」


 自虐的に、悲観的に言って先輩はパソコンとの問答を再開した。

 すると、


 ぐぎゅぅぅぅ。


 低い音がして、思わず視線が先輩の方へと向いた。

 見れば、お腹を抑えた先輩がまた苦笑いを浮かべていた。笑いを返して、椅子を立つ。ちょうど机に置いてあったビターチョコレートを握って、先輩のデスクへと歩み寄った。

 空いていた椅子に腰掛け、チョコレートを差し出す。先輩は会釈しつつチョコを手に取ると、ぽいっ、と子供のように口のなかに放り込んだ。


「甘ぁ……沁みるぅ……。いつぶりだろうな、チョコレートなんて食べたの」


 とろけそうな頬を抑えながら、笑顔を浮かべている横顔を静かに見守っていた。ふと、視界に予定のみっちり詰まった卓上カレンダーが目に留まる。一週間前の二月一四日の枠には、小さく虚しいぜろが書かれていた。


「この前のバレンタイン、貰わなかったんですか?」


「え? 僕が? もらえたらこんなこと言ってませんよ……」


 言って肩を落とす先輩。

 慰めることも出来ずに苦笑いしていると、先輩がふとカレンダーを見やった。


「そういえば部長、今日お誕生日でしたよね」


「え? 私ですか? そうですけど……それがどうかしたんですか?」


 訊ねると、先輩がデスクの引き出しから薄い包装紙を取り出した。

 パソコンに向き合っていた先輩が、こちらに身体を向けてくる。手に取った包装紙を差し出して、先輩は柔和に微笑んだ。


「お誕生日おめでとうございます。いつもお世話になっているので、ささやかながら日頃の感謝の気持ちです」


「ありがとうございます……?」


 受け取りつつ答えると、「どうして疑問形なんですか」そう先輩が笑った。

 初めてだった。

 好きな人から誕生日に何かをもらうなんて。

 だからきっと、状況を消化しきれずに困惑している自分がいた。


「開けてみても……?」


「どうぞどうぞ」


 包装紙を開く。

 包まれていたのは、あかい雛罌粟ひなげしと、きいろの薔薇が印刷された栞。

 思わず視線を先輩に返すと、視線が重なってお互い反射的に目を逸らした。


「新人の頃から、本お好きだったでしょう? もしよければ、使ってやってください」


 先輩はそれだけ言うと、またキーボードを叩きはじめた。所々打ち間違えては消し、また間違えては消していて、明らかに動揺している様子がすこしだけ可笑しかった。


 この人はきっと、私が読書家で、は知っていることを失念していたんだろう。

 思いながら、栞をシャツのポケットに差し込んだ。


「こちらこそ、ありがとうございます。……それと、今後ともよろしくお願いします。先輩」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ひなげしと、薔薇の栞 泉田聖 @till0329

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ