沈黙

鈴音さや

異議のあるものは今この場で申し出よ、さもなくば永遠に口を閉ざせ



「おかえりなさい、あらまあ、あんたなんだか右側ばっかり日焼けしちゃってるんじゃない?」

「運転席が右側にあるからね。日焼け止めは塗っていたんだけど」

「北海道でも日焼けするのねえ。ああ、お風呂沸いてるから入っちゃいなさい」

母親の声に押されるように、俺は二階の自室へ続く階段を昇っていった。

「旅行中にきていた郵便物は机の上に置いておいたわよー」

階下から更に母の声が追いかけてくる。


「わかったー」

と返事をして、自室のドアを閉めた。大きな荷物を降ろし、エアコンのスイッチを入れる。机の上から郵便物を取って、そのままベッドに寝転がる。むわりとした空気が吐き出されると、それから少しずつ部屋が涼しくなっていった。


「郵便物なんてDMばっかりだなあ」

就活セミナーやら資格取得講座の案内、それからスーツのセール。幸い、俺はすでに内定を得ていた。だから夏休みに旅行に行けたんだし。そうだ、内定先から何か連絡があるかもしれない。一通一通、俺は郵便物を見ていく。やっぱりDMだらけだ。


「あれ?」

そんな中に、一通だけ暑中お見舞いがあった。俺のバイト先の塾の生徒の一人だ。かき氷と時候の挨拶が印刷されているそのはがきには、『9/30 お願いします』と、あまりきれいとは言えない文字が記されていた。彼とは次の授業の時に話す約束をしていたけど、何かそれに関することだろうか。


「9月30日って、なんかあったっけ?」

補講か、模試か? 今すぐには思い当たらない。まあ、まだひと月以上先の話だ。俺は枕元の棚に郵便物を置いて目を閉じる。


レンタカーで夏の北海道を巡る一人旅。とても楽しかったけれど、やっぱり疲れるもんだ。10日ぶりの自分のベッドは、ごろりと横たわるだけであっという間に俺の意識を吸い取っていった。


「大変よ、起きて。起きなさい」

母親の声がする。肩をゆすられる感覚。

「お風呂はあとで入るから、もう少し寝かせてよ」

「違うの、大変なのよ。早く起きなさい!」

中高の頃はともかく、大学生になってからはこんな風に母親にヒステリックに起こされることはなかったから。


「なんだよ、母さん。俺まだ帰ってきたばかりで」

「いいから早く起きて! あんたの生徒さんが亡くなったって電話で。大変なのよ! 早く起きなさい」

会ったこともないであろう少年の死を告げる涙汲んだ声。寝起きでぼんやりとした俺は、自分の担当生徒の不幸よりも、母親とはこういうものかととりとめなく考えていた。



その頃の俺は早々と就活も終わり、ゼミに顔を出しながらアルバイトに励んでいた。就職してしまえば、なかなか長期の旅行など行けなくなる。大学生活の最後の一年で、国内外をあちこち周ってみたいと思っていた。その資金源として選んだ割のいいバイトが、駅前にある個別指導塾だ。


大人数を前に教壇に立って授業をおこなうのではなく、数人の中学生の横を回転ずしの皿のように移動しながらチョコチョコと教えていく。それぞれが使っている教材や進み具合も違うので、これといった授業準備もいらず。家庭教師のように相手先までの移動時間も、授業前後の親との煩わしい付き合いもない。エアコンのきいた室内で、生徒に質問されるまではボンヤリと過ごすこともできて俺にはうってつけだった。


その生徒の中に彼がいた。中学2年生、14歳になるはずなのに、まだ成長期がきていなかったようで。小学6年生といわれたら信じてしまうような、小柄な少年だった。数学が得意なわけではなく、国語と英語が苦手な彼は、週に3回、3コマの授業を受けに来ていた。ここは進学塾ではなく補習塾だから、学校の進捗にあわせて理解が足りなかったところを補い、似たような問題を繰り返させる。それだけでも校内テストで60点が80点になり、通知表の評価も上がったと喜んでいた。高校も、一つか二つ、上のランクを狙えるかもしれないと嬉しそうにしてくれていた。


やがて、授業の前後や合間に少し雑談をするようになった。彼は一人っ子で、兄弟が欲しかったという。小さい頃、弟か妹が欲しいと親に何度も頼んだのに、叶うことはなかったと。でも、今は兄が欲しくなったという。


「オレね、オレ、成長期がきたらいっぱい背が伸びるから。うちのお父さんは先生よりも背が高いんだよ。だからオレも背が大きくなるんだ。そしてちゃんと勉強して先生みたいな大学生になって。そうしたら、オレも塾の先生をやるんだ」


頬を紅潮させて、早口にまくしたてる。ツバが飛んできそうで、内心はイヤだったけれど。塾講だってある意味客商売だし、冷ややかさを隠して俺はなんてことない顔でやり過ごした。1コマに一人を相手にするより、二人、三人と人数が増えるだけ時給は高くなる仕組みだから。彼は練習問題を解くのに時間がかかるので、その間に別の生徒をみることができるし、俺が他の子を教えている間はおとなしく待っていてくれる。親も事細かに口を出してくるタイプでもない。授業の前後にこんな風に絡んでこられるのは少しウザイけど、末永くご指名を受けたいと思っている“お得意さま”だった。


だからリップサービスも追加しておく。

それは兄が欲しいんじゃなくて、やっぱり弟か妹が欲しいんじゃないの? とちょっと揶揄うような口調できいてやると、少し目を見開いて、はにかむように笑ってみせた。これが美少女ならばおいしいシチュエーションだけど、オシャレ風スポーツ刈りの少年だからなあ。昔のドラマや漫画では、塾講と生徒の恋愛ドラマもあったと聞くけれど、いまどきはコンプライアンスが蔓延って全滅してしまったらしい。それは現実も同じことで、これから就職という社会人生活のスタートラインに立つ直前の俺は、トラブルを避けるためにも男子生徒だけを担当していた。


夏休みが近づくにつれ、俺のテンションも上昇していった。これまで貯めたバイト代で旅行に行く機会がとうとう訪れたのだ。受験指導塾と違い、俺のバイト先はお盆時期は休みだった。他の先生たちと調整をして、8月の中旬から半月ほどの休みをもぎ取った。暑いときにはやはり涼しいところに行くのがいいだろう。北海道を巡ることに決めた。大きめのレンタカーを借りれば、いちいち宿をとらなくても車で眠ることもできるし。とりあえず、一番端っこまでいってみよう。それくらいの無計画さで、学生時代の最後の夏休みを迎えた。


補習塾は夏休みでもあまり変わらない。学校の授業がなくて教科書は進まないので、夏休みの宿題をテキスト代わりに苦手分野を補強するような感じだ。俺が担当している生徒の中に、受験生がいないことも大きいだろう。とても夕方とは思えないギラギラとした日差しを浴びながら塾に行き、授業が終わるときにはすっかりと暗くなっている。クーラーのよくきいた塾を一歩でれば、むわりとした夏の空気に包まれる。早く北海道に行きたいものだと思いながら、俺はバイトをこなしていた。


そうして、明日からはようやく塾のお盆休みという日だった。茨城から北海道への深夜フェリーに乗るために、その日の俺は急いでいた。塾から直接駅に行き、予約してある特急に乗らなければいけなかったからだ。受付の隅に置かせてもらっていた大きなバッグを背負い、社員やバイト仲間に挨拶をする。気を付けてとか、お土産期待してるとか、そんな声に送られて。初めての、そしてたぶん最後の一人旅に胸を高鳴らせていた。


「お疲れ様です」

といって塾を出る。歩道の隅に立ち止まり、ちらりとスマホを確認した。大丈夫、これから電車に乗れば十分に間に合う。ポケットにスマホを突っ込み、さあ行こうと思ったそのとき。


「先生」

反射的に声のほうに向くと、塾の窓から漏れる蛍光灯の明かりが届かない暗がりに、彼が立っていた。

「どうした? もう今日の授業は終わりだろ。男子だって夜は危ないんだから、早く帰りなさい」

先生らしく、帰宅を促す。

「うん、オレもう帰るよ。でもその前に、先生、少しだけいいかなあ」


ぎこちなく小さな笑いを浮かべて、彼が探るように俺を見上げた。彼と話す時はいつも、授業の前後や合間の教室だった。塾を出て声をかけられたのは初めてだ。何か、塾の中では言いにくいことがあったのだろうか? 常とは少し違う様子の彼が気にかかった。でも……。


「悪い、俺今日はちょっと時間なくて。これから深夜フェリーに乗るんだよ」

ほら、と肩にかけた大きな荷物を見せる。

「次の授業の時でいいかな?」

彼は押し黙って俺を見ていた。何かいいたげに小さく口を開いたけれど、何も言わずに俯いた。唇をぎゅっと結んで、それから大きく息を吸い込んだ。ぱっと目を開くと、穏やかに微笑む。何かが吹っ切れたような様子だった。


「そっか。うん、いいよ。先生、急いでるところに呼び止めてごめんな」

「いや、俺もごめん。お土産買ってくるし! 帰り、気をつけろよ。もう中学生には遅い時間なんだから寄り道しないでさっさと帰れ」

「先生も気をつけて。どうもありがとう」

そういって彼は夏の夜の中に消えていった。それが、彼にあった最後だった。




「先生、今日は本当にありがとうございました。あの子もきっと喜んでいると思います」

「そんな……。本当に、残念です」

オシャレ風スポーツ刈りをした幼い顔がモノクロの写真に写し取られ、大きな額に収まっている。正座している俺を、仏壇の上から見下ろしていた。先ほど自分があげた線香の香りが畳の部屋に満ちていく。


「ここはね、あの子のおばあちゃんが使っていた部屋で、今は施設にいるんですけどね。仏壇のもう一つの位牌がおじいちゃんなんですよ」

「そうですか」

彼のお母さんと二人、仏壇に向かっていた。


今日は9月30日。補講も模試もない。ただの平日だ。彼が存命でも、今日は授業はない日だった。北海道旅行の前の日の夜に話しかけられたあと。俺が帰ってくる数日前に彼は自ら命を絶ったという。夏休み中のひと気の少ない校舎の窓からその身を投げた。上半身は花壇の中に落ちたということで、隠された下半身はともかく、告別式で見た棺の中に眠る彼は生前と変わらぬ様子で、今にも起きだしてきそうに思えた。


遺書はなかったそうで、一応、事件や事故の可能性を確認する捜査というのが地元警察で行われたらしい。校内でのいじめについても調査されたものの、特に事実が確認できなかったと、結局は自死という結論になったそうだ。思春期の少年には割とある、衝動的な希死念慮。そんな風に、彼という存在が消えてしまった以外には何も変わらない結末。


家族でも学校の教師でもない塾講バイトの俺のところにも警察はきた。

「形式として質問させてください」と、ドラマのセリフのようなことを本当にいわれて驚いた。担当をしていたけれど、特に親しくはなかった。特に変わったところはなかったと思う。そう、通り一遍に答えた。あの夜呼び止められたこと、暑中見舞いが届いたこと、そこに手書きのメッセージがあったことは言えなかった。巻き込まれたくなかった。あの夜、俺が話を聞かなかったからこんなことになったといわれるのが怖かった。


俺は、時々彼と雑談をしていただけのただの塾講バイトだ。大事なことはきっと、友達や学校の教師、親と話しているにきまっている。そう自分に言い聞かせて、暑中見舞いのはがきはDMの束に挟んで机の引き出しにしまい込んだ。警察には話せなかったけれど、捨てることもできなかった。


9月30日。何の日なのだろうか? またはがきや手紙なんかが届くのだろうか? お願いしますって、届いたものを警察に届けろとか、そういうことだろうか。本当は事件で犯人の名前が書いてあるとか、いじめの加害者の名前が書いてあるとか。そんなものを受け取ってしまったら、俺はどうしたらいいんだろう。


そもそも。あの時、5分でもいいから話を聞けばよかったのだろうか。でも、特急に乗り遅れるわけにはいかなったから。でも、本当は5分くらいなら大丈夫だったのに、とか。話をきいてしまったら5分では終われなかったんじゃないか、とか。彼の死を知ってからひと月、俺はもんもんと考え続けていた。


そんな俺に家族やバイト先の人達は、思いつめるなとか、生徒さんが亡くなれば辛いよね、と腫れ物に触るように慰めの言葉をかけてくれた。悲しんでいるのではなくて、巻き込まれるのが怖いんだ、俺のせいだったらと思うと不安なんだともいえず。深くは踏み込んでこない周囲の距離感がむしろありがたかった。


そして迎えた当日。午前中は自宅で郵便物を待っていた。何が届いても、家族の目に触れさせずに自分で受け取らなければと思っていた。宅配便も、あれば午前中に届く地域だ。でも、何も届かなかった。胸を撫でおろした。だから、俺は午後から彼の家にきた。もしかしたら、彼の家に何かが届いたりするかもしれないと思ったのだ。昼過ぎに電話をかけて、お悔やみを申し上げたいと伝えると、彼のお母さんは快諾してくれた。俺を歓迎してくれる様子から、俺に不都合なものが届いてはいないと察せられて気が抜けた。


スマホで地図を確認しながら戸建ての建ち並ぶ住宅街を歩く。彼の家に到着すると、お母さんは挨拶もそこそこに仏壇のある部屋に通してくれた。「主人は仕事なんです」と、お母さんが一人で迎えることに謝罪をうけた。線香をあげて手を合わせる。こうして直接会っても、お母さんから俺に対する敵意のようなものは感じられず、俺は内心ほっとしていた。何も問題なさそうだ。あとは早くここから撤退することだ。だが、お邪魔してまだせいぜい5分。故人の話などをして、あと20分くらいはここにいるのが一般的かもしれない。息子の通っていた塾の講師として怪しまれない行動をしなければ。


「あの、これ。彼の遺品といいますか……」

俺は、カバンから以前に彼が塾でやった小テストに採点をしたものを何枚か取り出し、そっとお母さんのほうに差し出した。お母さんは何も言わずに受け取ると、書かれている数字を目に焼き付けるようにじっくりと眺めて紙をめくっていく。


「彼、大分点数が取れるようになってきましたね」

いたたまれずにそういうと、お母さんは手のひらで口を覆った。少し俯いて、何かを堪えている。それから顔を上げて、涙をにじませた瞳で俺を見た。

「あの子のいう通りだわ」

俺はぎゅっと心臓が締めあげられる心地がした。

「彼が、何か?」


彼は母親に何を話したのだろう。あの夜のことや暑中見舞いはがきのことを知っているのだろうか。確かめなければ。そして、もし親が知っているのなら謝って、隠していたことを許してもらわなければいけない。俺はもうすぐ就職する。万が一にも、親の口から世間に俺の悪事が漏れることがあってはいけないのだ。背中をつーっと汗が流れていくのがわかる。


「先生は本当に優しいですね」

お母さんがふわりと微笑んだ。

「息子がね、日記を残していたんです。国語が苦手だったでしょう? 先生が毎日三行でもいいから日記を書く習慣をつけたらいいって指導してくださったんですよね」


そんなこともいったかもしれない。毎回宿題を考えるのが面倒で。日記なら本人が書いて、簡単に他人に見せることなく自己完結するから手間がない。でも……。

「確かにそんな指導もしたと思いますけど」

喉が締め付けられる感覚がする。声をだしにくくて、俺は小さくいった。


「息子はそれから欠かさず日記をつけていたようなんです。私たちも知らなくて。今回見つかったんですよ。枕の下なんて、それで隠したつもりでいるんだからあの子もまだまだ子供なのね」

お母さんが泣き笑いしている。


そんなものがあったのか。でも、お母さんの様子から察するに、俺に都合の悪いことは書いていなさそうだ。俺は密かに胸を撫でおろす。


「日記の最初にね、先生にいわれて日記をつけることにしたって宣言があってね。それから毎日、本当に三行から始まって。それでも、少しずつ長くなって文章も上手くなっていってるんですよ。塾のこと、学校のこと。親にはあまり話したがらない年頃ですからね。こんなことがあったのかとか、こんなことを考えていたのかとか。今さらですけど、あの子の暮らしや気持ちを知ることができて」


そこで言葉が途切れたお母さんは、顔をこわばらせた。そして胸元を両手でぎゅうっと握りこむ。苦しいのだろうか。

「お母さん? 大丈夫ですか? 具合が」

「あ…、ぁあああ」

俺の言葉を遮るように、嗚咽を絞り出す。やつれた顔に滂沱の涙を流して。


「私、私たち何も知らなくて。特に変わった様子もなくて毎日きちんと学校や塾に行ってくれていたから。あの子が何か悩んでいるなんて思いもしなくて。先生、あの子の日記にはね、楽しかったことばかり書いてあるんです。お友達と塾の帰り道にコンビニに寄って肉まんかピザまんか迷ったから、二人で一つずつ買って半分こにして食べたとか。塾で先生とおすすめの漫画の話をしたから今度買ってみようとか。大人からしたら他愛ないことがとても、とても楽しそうに書いてあって」


「お母さん……」

俺はお母さんの隣に座り、そっと背中を撫でた。

「私たち本当に何も知らなくて。あの子の楽しかったことですらあとから日記を読んで知るくらいで。辛いことや苦しいことなんて想像すらできなくて。あの子、辛かったことや悩んでいたことは、親に話すどころか日記にすら書かないでいたなんて。誰にも話せず、書くことすらできず、それで、それで今回こんなことになってしまったかもしれないって……」


「お母さん……」

そんなことないですよ、とか。大丈夫ですよ、とか。いろいろな言葉が浮かんできたけれど、どれもどうにも空々しく思えて。俺はただ、お母さんと繰り返しながら、その細い背中をさすることしかできなかった。


「これなんです」

泣き止んだお母さんが、俺に一冊のノートを差し出してきた。表紙は厚紙でできていて、普段塾の授業で使っているものよりも、少しだけ高そうなリングノートだ。

「拝見します」

手に取って、ぱらりとめくる。大丈夫、俺に都合の悪いことは書いていないはずだ。それでも中身が気になって、焦る心を押さえつけながらあえてゆっくりとページをめくる。


この日記によると、彼には塾でとても親しいゲーム仲間がいたようだ。春先に発売されたゲームの進捗をお互いに報告しあっているらしい。塾の帰り道にはちょっとだけコンビニに寄り道をして肉まんやホットドッグを食べたり、遅くまでやっている本屋さんで漫画を見たりすることもあるらしい。学校には特に親しい友達が二人いて、いつもゲームや漫画の話で盛り上がっているらしい。勉強をがんばって、一緒の高校に行く約束をしているんだって。その二人のいっている塾の先生はそれぞれ怖いおじさんらしい。だから彼の通う塾の先生、俺がわりとイケてる大学生で、生徒の話をよくきいてくれる。休み時間には漫画の話もするんだというと、二人がとても羨ましがるらしい。


お父さんもお母さんも仕事がとても忙しくて、自分は塾に行ったりしていて平日はあまり話したりはできないけど。でも、土曜日の夜には時々、お母さんがハンバーグを作ってくれる。それを三人で食べるのがとても好きらしい。


『早くまたハンバーグが食べたい』

少し幼げなみかけの中学生らしく。平凡で特別なことはないありふれた日々の暮らしが、あまりきれいとは言えない字で綴られている日記。辛いことや悩みなどは何も書かれていない日記。これが本当なら、確かに学校の調査でいじめなど確認できるはずはない。彼はいつでも二人の友と、他愛無い会話を楽しんでいたはずだ。遺書もなく、事件なのか事故なのか判別できずに、消去法で自死と判断されたことにも納得ができる。これが、本当ならば。


俺は気づいてしまった。彼は『信頼できない語り手』だ。俺は彼とおすすめの漫画について話したことはない。俺の担当している、彼と同じ授業を受けている生徒たちは確かに全員男子でそれなりにゲームもたしなむようだ。けれど、彼以外の3人は塾が終わる頃に親が車で迎えにきている。誰も一人で帰ることはないのだ。だから彼とコンビニや本屋に行ったりするはずもない。


家庭でのくだりはおそらく事実なのだろう。お母さんは違和感を持っていない。学校での記述はどうなのだろう。俺はもう深く考えたくなくなった。彼は中学二年生にしては小柄で、成績が飛び抜けていいわけでも、スポーツに秀でているわけでもない。塾ではどちらかといえば距離を取られがちで、それを肌で感じ取っているからこそ、彼は休憩時間には俺に話しかけてきていたのだ。学校でだけは友達が多いというほうがおかしいだろう。


教室で共に過ごす二人の友人はきっといたのだろうと思う。それは、友情からではなく、自分たちの身を守るための小さな同盟関係。草食動物が肉食動物を恐れて群れをつくるように、似たもの同士のクラスメイトと肩を寄せ合っていたのではないだろうか。


読み進めていくうちに、涙が溢れだしてきた。日記の中の、笑いの絶えないありふれた日常。10年前には彼くらいの中学生だった自分からすると、少し嘘くさい。でも、お母さんくらいまで年齢が離れてしまうと、きっと気がつかないのだろう。


日記の中の俺は、彼におすすめの漫画だけでなく、自分が中学生だった頃の思い出話を語ったりしている。こんな風に勉強をしていたとか。彼と同様に中学生までは背が伸びずに、高校に入ってからぐんと伸びたらしい。ごめんな、俺、小学生の頃から背が伸びすぎてランドセルが背負えなくなったんだよ。中学に入ってからも伸びて、三年生になる頃には制服の袖や裾の丈が足りなくなって。安くもない制服や体操服を買い替えては『あと一年なのに!』と親を嘆かせていたんだ。


ごめんな。日記の中の俺は、彼にとても優しくて。早口に捲し立てる彼を疎ましく思ったりはしていない。彼と一緒にゲームの話で盛り上がって、休憩時間にトイレに行きそこなったって笑っていた。


俺だけじゃない。日記の中に出てくる誰もが、彼に優しくあたたかい。ささいなことで笑いあう穏やかな日常。幸せな暮らしの記録。これが、本当ならばどんなに。


「先生、息子のためにそんなに泣いてくださって。ありがとうございます。本当に優しい先生で、息子は幸せです」

今度はお母さんが俺の背中をさすってくれた。大の大人が二人で涙を流しながら。



どうして俺はあの夜。ほんの5分、足を止めて彼の話を聞いてやらなかったんだろう。



あの夜。彼が何を話したかったのか。あのはがきの言葉の意味はなんなのか。それは今でもわからない。俺は塾講バイトで、彼は生徒で。中学生にしては少し幼く感じる彼の言動が、本当はウザイと思っていた。本当は、彼のことをあまり好きではなかったのだ。だからあの夜。声をかけられて様子がおかしいとわかっていたのに、俺は特急の時間を理由にして逃げた。翌日からの北海道を目の前に、お金にならない時間外に面倒な子供に関わりたくなかった。それに、俺が5分だけ話を聞いたとしても、結果は同じだったかもしれない。あの夜は断ったけれど、次の授業の時に話そうといったのだから、彼を切り捨てたわけではないんだ。だから。でも。やっぱり。


後悔と自己弁護がぐるぐると渦をまく。

だって、でも、きっと、日記の中の俺ならば。


『先生』

『どうした? もう今日の授業は終わりだろ。男子だって夜は危ないんだから、早く帰りなさい』

『うん、オレもう帰るよ。でもその前に、先生、少しだけいいかなあ』

『もちろん構わないよ。どうした?』

きっと、そんな風に彼を受け入れていたはずだ。日記の中の、彼が望んだ俺ならば。


俺は日記の最後のページを開く。そこには、あの夜の二人のやりとりは書いてはいなかった。授業の後、日記の中の俺は『明日から北海道に旅行に行ってくる。みんなにもお土産買ってくるからな』といって、彼にだけ、北海道が舞台になっている人気漫画のゆかりの地も見てくるとこっそり声をかけたようだ。


ふと思う。なぜ、彼はこんな日記を遺したのだろう。わかりやすく、枕の下に隠して。本当に辛いことや苦しいことは一行も書かずに。普通はこの世界に見切りをつけた理由こそ、誰かに知ってもらいたいと思うだろうに。遺書も残さなかったくせに、どうして彼のただ平凡で幸せな偽りの日常だけを記していったのだろう。


考えて、答えに思い当って。俺は両手で顔を覆い隠した。こみ上げてくる嗚咽を抑えることができない。


ああ、このお母さんのためだ。生きる気力を失くしてしまった理由は絶対に知られたくなくて。お母さんに自分の孤独や不幸、苦しさを知られたくなくて。“こんなに幸せだったのに、なぜか死んでしまった”自分を作り出すために。彼は一体いつからこの日記を書き始めたのだろう。日記の始まりの日付は4月からだけれど、実際にいつから書き出したのかはもう誰にも知る術がない。


『9/30 お願いします』

このはがきの消印は、彼が遠くへ、北海道よりもはるかに遠い生者の手の届かぬ世界に旅立った日。俺は頼まれたのだ。あの夜には期待を裏切ってしまったけれど、それでも、最後に彼に託されたのだ、きっと。本当にこれが正解かはわからない。でも、俺はお母さんの前で精一杯『日記の中の俺』になりきることにした。この日記が全て正しいという証人になるために。それがきっと、彼の最後の『お願いします』なのだと。彼の大事なお母さんのために、この一瞬、彼の望んだ俺になろう。


「お母さん、見てください」

俺はスマホを取り出して、写真フォルダを流していく。

「これです。これが彼と約束した、人気漫画の舞台なんですよ」

ノープランだったから、有名どころの観光地には総当たりの勢いで旅行していた。本当に良かった。北限の元刑務所や、ビール工場に付属している博物館、湿原で有名な国立公園の写真などを見せた。


それから、俺も中学生までは背が伸びなかったのだとお母さんに話した。彼が、お父さんは俺よりも背が高くて、だから彼も高校生になれば俺より大きくなるはずだと自慢げにしていたことも。


お母さん、俺と彼は、塾の休憩時間にはよく家族の話をするくらいに親しかったのです。だから、彼が幼いころには弟妹を欲しがっていたことも知っています。塾での彼の友達と、時には三人でゲームの話をしたのです。俺は授業の後も少し報告書を書いたりするから見たことはないですが、帰り際に“今日は何を食べようか”って塾友とよく話していましたよ。


これは嘘ではない。俺が知るささやかな彼の事実を交えて、ただ彼の望む世界を代わりに語っているだけだ。真実はもう誰にも語ることはできない。これがあの夜、5分を惜しんだ俺の罪。警察に口を噤み、はがきを隠した俺の償い。


「お母さん、彼は塾ではいろいろしゃべるほうでしたよ。お母さんたちには話したがらなかったのかもしれませんけど。年頃ですからね、どの子もそんなものですよ」

塾講バイト歴半年ほどの俺は、まるでベテラン教師のようにお母さんの安心するであろう言葉を、罪を重ねた。



「先生、今日は本当にありがとうございました」

「こちらこそ、葬儀の時はあわただしかったですから。ゆっくりと彼の菩提を弔うことができました」

玄関を出て、お母さんが門まで見送りにきてくれた。お互い、真っ赤に泣きはらした目をしている。予定より少し長引いてしまったが、無事に撤退できそうだ。そもそも弔問客というものは、古来、長居するものではない。


「先生、どうぞまた来てくださいね。またあの子の話を聞かせてください。今度は是非主人のいるときに」

「ええ、また。是非」


俺はにっこりと微笑んでみせた。いいえ、お母さん。今日で最後です。俺は演技派ではないから。ボロが出ないように、彼の虚構を壊さないために。もう俺はお母さんに会うことはありません。ごめんなさい。心のうちで、お母さんに謝った。


「では」

失礼しますと頭を下げて、俺は駅への道を歩き出す。一歩、一歩。虚構の彼から遠ざかるように。涙がまたあふれてくる。大の男が歩きながら泣いているなんて、周りから見ればさぞ不気味だろう。それでも涙を止めることができないまま、ギラギラと照り付ける日差しの中を歩き続けた。一度足を止めたら、何かに捕まってしまいそうだから。


俺は半年もすれば就職する。結婚して、いつかは子供を持つかもしれない。いくつになっても、どんなときでも。決して誰にも話せないことがある。俺の罪、俺の償い。虚構の彼を守る約束も。俺が年を取って認知症になった時、隠し通せるかが今から少し心配だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

沈黙 鈴音さや @suzunesaya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ