貴女に紡ぐ恋情の詩
雪広ゆう
全ては貴女に捧げる詩
学生時代の恋愛なんて刹那的、思春期の感情の揺れと心の未成熟さが生み出す儚い夢。
それが特に女子高校で尚且つ女性同士ともなれば尚更の事で、親にも世間的にも認められない恋愛、何れ否が応でも恋人から親友に関係性の変化を求められるは必然。
「……そうなのね。そんなDV男、早く別れちゃいなさいよ」
「玲香ちゃんは簡単に言うけども……柚子の事もあるし、可愛そうじゃない?」
電話口の相手は、学生時代に私の恋人であった加賀夏海。
私は現在、大学卒業と同時に外務省専門職員採用試験に合格し、憧れの存在であった父と同じ道である外交官に就いた。そして今、私はスイスの首都ベルンに位置する在スイス日本国大使館にて仕事をしている。
まあ俗に言うエリート官僚の一員、とか言っても私生活は順風満帆とは言い難いけれども。
「だからって夏海が我慢していたら、心が壊れてしまうわよ!」
そう私は夏海が屑旦那の行為に耐え切れず、壊れてしまう事が一番の恐怖だ。
未練がましいと言われても構わない。私は未だに夏海への恋情を捨て切れない……何なら今からでも駆け付けて彼女を奪いたい。
でも私にそれをする資格はない……私は親の意思に屈した。別れた原因は必然的、当然に反対されるのが火を見るより明らかだから。それは夏海も同意見だったけれども。
だから別れた。仕方ない。私は幾度も自分に言い聞かせた。そうして数年が経過し、私と夏海は大学生時代に自分の意思とは関係なく、親に用意された舞台で愛情のない結婚に至る。
私の旦那は内閣府の政務官、正直向こうも仕方なくと言った様子……お互い我関せずと言った具合で夫婦関係は最初から冷め切っていた。まあ寧ろ私にはその方が気が楽だった。
ただ夏海の結婚相手は本当に運が悪かった。屑旦那の彼は表面上、善良な人間を演じているが、内面は醜悪の塊、家庭内で平然と夏海に暴力を振るう正真正銘の屑男。夏海も夏海で娘に矛先が向かうのを恐れて耐え続けている。……たちが悪いのが、夏海の両親は屑旦那に信頼を置いていると言う最悪な状況。
「夏海、二週間後に東京に戻るわ。一度会いましょ?」
「……うん。私も久し振りに玲香ちゃんに会いたいかな。柚子も一緒で構わない?」
「ええ、当然よ。夏海の娘なら家族も同然、また場所は連絡するわね」
そして二週間後、仕事が一段落して外務省からの帰国指示を受けて日本に飛び戻る。日本の地面を踏むのは約二年振り……そう言えば旦那とも二年以上、顔を合わせていない。
まあお互いに愛情なんて存在しないから、それで別に構わないのだけれども……歳も取り三十路を迎えると、子供の一人は欲しかったかなと思う。
"Thank you for flying with Swiss International Air Lines. Ladies and gentlemen, we have arrived at Haneda Airport. Please remain seated with your seatbelts fastened until the cabin crew gives further instructions"
羽田空港に到着した事を知らせる機内アナウンスが流れる。
機内を見渡しても日本人は少数、殆どが欧州からの観光客、乗務員の案内があるまでシートベルト着用を続ける。十数時間の長旅、でも頻繁に海外に渡航していれば次第に慣れてしまうものね。
スイス航空の旅客機が滑走路とゲートを繋ぐ道=タキシーウェイを通りゲートに向かう。
私は乗務員の案内に従い降機し、羽田空港の国際線ターミナル=ターミナル3に到着する。日本の空気を胸一杯に吸い込めば何処か懐かしさを覚えた。腕時計で時刻を確認する。
午前十時五十分か……今日は夏海との約束が午後四時にある。折角だし一旦、自宅に戻ろうと考えて、私は空港の玄関口まで足を運びタクシーを捕まえる。
「港区虎ノ門のこの住所までお願いします」
小一時間程度の車移動、そして自宅の高層マンションに到着する。
今日は火曜日――旦那の政和さんは仕事ね。私は殆どの時間を海外で過ごしている為、自宅は彼の一人暮らし同然の状態、多忙な男の一人暮らしとなれば部屋は散らかり放題だと思う。
エントランスを抜けて二十三階へと、自宅部屋に到着してカードキーで解錠する。
(んっ? 靴が二足……ある? 女物ね。私、こんな靴買ってたかしら)
不穏な予感が脳裏を過る。その予感は、この後見事に的中する。
玄関を抜けて薄暗いリビングに足を踏み入れる。靴はあれども政和さんの姿は見当たらない。
(まあ……片付けられてる方かしら)
体調が悪く休んでいる可能性も考えて、私は寝室に足を運ぶ。人の気配を感じる――。
「ねえぇ~、貴方、居るの~?」
「……れ、玲香!? お、お前いつの間に!?」
「……!? 政和さん、この人……奥さん? ご、ごめんなさい!? 失礼しました!!」
見知らぬ裸体の女性、私の姿を捉えた瞬間、大慌てで着の身着のまま立ち去る。
まあこの状況、当然ながら旦那も裸で……性行為に及んでいたのは明々白々、この状況で言い逃れは不可能。……落胆? 私が? する訳ない。内心ではガッツポーズよ。旦那が眼前にいなければ歓喜の声を叫びたいわ。
離婚の確実な理由が出来る。更に旦那の不倫である以上、私に非はない。まあ離婚を待ち望んでいた私も異常だけれども、ただ離婚協議で旦那は私の言葉に従わざるを得ない。
「醜いわね。さっさと服を着てくれる? リビングで話をしましょ」
「あ、ああ……分かった。……すまない」
「罪悪感? 笑えるわね。なら最初からしないでおけば? まあ良いわ」
ソファに旦那と向かい合わせで私は腰掛ける。
不倫を許す許さないは別として、ぶっちゃけどうでも良い話。ただ私はこれを口実に離婚を切り出すだけ。
「単刀直入に、書類は私で用意するから離婚して」
「お、おいっ。玲香、待ってくれ。謝罪する。ど、どうか許してくれないか?」
「どうして? 貴方も好都合でしょ? お互い愛情が存在しないのは明白、私と離婚したところで親同士の関係は切れない……とまでは断言できないけれども」
旦那の魂胆、私との離婚は親同士の関係が断ち切れるから恐怖を抱いている。
私の家は彼の家に対して多額の融資をしているからであって、私と離婚する即ち有力な資金源が途絶えると言う事。まあ私も鬼じゃない……離婚さえしてくれれば構わないわ。
「安心して。私がお母様に談判するわ。これは円満離婚、家同士の関係が悪化する事態には陥らない」
「ほ、本当か?」
「ええ、冗談は嫌いなの。ただ条件はひとつ、直ぐに離婚届に署名捺印して」
「……分かった。お前の気持ちが俺に無い事は知っていたよ」
「そう? なら話が早いわ。後は不倫相手と宜しくやるなり好きにして頂戴」
お互いに愛情の欠片もないお陰で、離婚は十分も経たずに成立した。
私は慰謝料を要求しない。加えてお互い資産分与も行わない。ただ縁を切る……それだけの話。彼からすれば不倫が表沙汰になれば人生終了、涎を垂らす程に嬉しい状況なはず。
――これで吹っ切れた。夏海を屑男から奪い解放させてあげられる。
放心状態の彼を尻目に、夏海との約束の時間が迫っているので自宅を後にする。
待ち合わせ場所は表参道駅近くの喫茶店、私はタクシーで時間間際に喫茶店に到着する。まだ夏海の姿は見当たらない。
そう言えば夏海の娘、柚子ちゃんも一緒だと言っていた。どうしよう……子供連れでも楽しめる場所、何処に連れて行くか全く考えてなかったわ。
「れ、玲香ちゃん~、ごめんね。お待たせ!」
「夏海! 久し振りね。……あれ柚子ちゃんは?」
「急に熱が出ちゃってね。でも玲香ちゃんとの約束も変更出来ないし……だから実家に預けてきたよ。柚子ってば、最後まで玲香ちゃんに会いたいって泣いて大変だったんだよ」
「そうなのね。それで旦那は大丈夫なの?」
「うん、どうせ帰りは深夜だし、気にしないで」
ああ相も変わらず可愛いの感情が込み上げる。そんな自分が少し気持ち悪い……でも小柄で小動物的な可憐さを前にすれば、感情を抑えられているだけ大人になったものよ。
少し地味な服装だけれども、それもそれで良いかも……新たな発見だわ。と言う感情の昂ぶりは一旦置いておいて、席に着いた夏海に先程離婚が成立した衝撃的な話題を切り出す。
「ええぇっ!? れ、玲香ちゃん、今日帰ってきたばかりだよね?」
「そうね。でも私の美貌を差し置いて不倫よ? ……呆れるわ」
「いや、それ自分で言っちゃうところ変わってないね……でも急過ぎない?」
「鉄は熱いうちに打てと言うでしょ。まあ元々、お互いに愛情が無いし良い機会よ」
「……す、凄いね。やっぱり玲香ちゃんはぶっ飛んでるよ」
「褒め言葉として受け取っておくわ。私よりも夏海よ。一刻も早く離婚しなさい」
私の話は自分でも興味ない。本題は夏海の屑旦那、話を聞く限り現時点では娘に手を上げていないまでも、夏海は事ある毎に暴力を振るわれている。
さすが正真正銘の屑具合、唯一そこだけ私が太鼓判を押してあげる。
ああ……話を聞いていると腸が煮えくり返る。やっぱり夏海を解放してあげる必要がある。でも夏海も私も三十路、世間体も当然ある。あまり事を荒立てたくない。
「まあ折角、夏海と会って暗い話も嫌ね。折角だし何処か行く?」
「うん、そだね。でも何処行くの? 柚子抜きで遊びなんて数年以上……」
「折角表参道に来たのだし、夏海の服でも買いに行きましょ。正直、その服装悪くはないけれども地味過ぎるわ。まだ言っても三十歳は若者の分類よ?」
「で、でも持ち合わせが……」
「腐っても加賀家のご令嬢でしょ?」
「親から援助はして貰ってないし、和輝さんは生活費以外渡して……」
「……心配しなくても私が全部出してあげる」
話が決まれば早い。私と夏海は喫茶店を後にして、表参道を練り歩き始める。
若者が集まるセレクトショップのアパレル専門店、それに高級ブランドの旗艦店など、三時間程度は練り歩いたと思う。両手に結構な量の袋を抱えて、でも大半が夏海の衣服や化粧品――最初は遠慮しがちな夏海も、久々の気晴らしに次第と笑顔を浮かべていた。
まあ普段から尋常じゃないストレスに晒されている訳だから素直に楽しんで欲しい。
私と夏海はショッピングを堪能し尽くして、時刻は太陽が沈み切った午後七時前を指している。もう時間が時間、夏海の足取りは自然と駅に向かっている。
まあ友人であればこれで終了も有り得るけれど……今日の私は普段と違う。今日、夏海に屑旦那との離婚を決心させる。
「玲香ちゃん、今日は本当にありがとう! 凄く楽しかったよ」
「何言ってるのよ、夏海? まだ夜は終わってないわ。晩ご飯に行きましょ。行き付けのお店を予約してるから」
「えっ、で、でも柚子が……それに和輝さんも帰って――」
「柚子ちゃんは預けているのでしょ? なら安心じゃない。旦那なんて放っておけば良いわ。自分は平然と朝帰りで、夏海が割を食う必要性がない、不公平よ」
「そうだけどさ……」
「まあ良いから良いから、歩いて数分のお店なのよ」
半ば強引かも知れないけれども、今日の私に夏海を黙って帰す気は無い。
なんせ数時間前に離婚した私は無敵状態よ。なのに夕食を食べて『はい、ばいばい』なんて毛頭有り得ない訳で――それに夏海に決心をさせると決めた以上、私の事を進めるにも滞在期間中の一ヶ月中に決着させたい。
私は夏海の手を引っ張って、表参道から程近い高級割烹店に到着する。
「九瀬様、お待ちしておりました。お席にご案内致します」
店長が出迎えてくれて、特別に離れの個室に案内される。
九瀬家で贔屓にしている割烹店で、行事毎に利用させて頂いている。
「何時ものコースを二人前でお願いします」
「畏まりました。お飲み物は如何されますか?」
「私はこの日本酒で、夏海は?」
「それじゃ、私は……」
何故かソフトドリンク欄を眺める夏海……お酒は全然窘めるはず。
明らかに屑旦那に気を遣っている様子が見え見え……。夏海はカクテルが好きだったはず。居酒屋ではファジーネーブルを良く飲んでいた記憶がある。割烹とカクテルの組み合わせもどうかと思うけれど、まあ好きなお酒を飲ませてあげたい。
「あとファジーネーブルでお願いします」
「畏まりました。それではお待ち下さいませ」
「玲香ちゃん、私お酒は……」
「何を白けた事言ってるの? 私と居る時ぐらい自由でいなさいよ」
注文のお酒が届き乾杯する。そして数分後、先付けが配膳される。
さて本題に移ろうか……私は固い決意で、今日夏海を説得する。夏海に離婚を決断させる。現状で屑旦那が離婚届に署名捺印する可能性は低いけれども、夏海の言う通り朝帰りが多ければ不倫の可能性は十二分に考えられる。後はDVの証拠を掴めばチェックメイト。
探偵業を営んでいる知人に依頼しよう。でもDVの証拠をどうするか……夏海が正直に言えば簡単だけれども、性格的に厳しいと思う。
知人に頼んで隠しカメラを仕掛けて貰うか。離婚裁判に発展しても十分な証拠として認められる。映像があれば心強い。後はその映像と共に夏海のご両親に真実を白日の下に晒す。
夏海のご両親は私に信頼を置いている。まあ九瀬家が国内最大手メガバンクの一行の創設家であるし、更に私の母親が現時点で頭取を務めている。加賀家にも多額の融資をしている関係上、立場を利用するのは嫌いだけれども私の言葉を信じない訳がない。
旦那は否が応でも離婚届を書かざるを得ないわ。
「単刀直入に言うわ。私とフランスに行かない?」
「……へっ? ど、どう言う……旅行ってこと?」
「違うわ、私と向こうで暮らすのよ。もちろん柚子ちゃんも一緒に、まだ年長さんよね?」
「うん、そ、そうだけども……」
「なら海外の環境にも順応できる。貴女は旦那と離婚して、私とスフランスに行くの」
「れ、玲香ちゃん? 帰国して早々に突拍子なくない。そもそも和輝さんが許可――」
「あの屑男は忘れなさい。それとも彼に未練があるの?」
「ううん、そうじゃないんだけども」
「なら決定事項よ。後は私を信頼して全て任せなさい。貴女の苦痛の種を取り除いてあげる」
どうも夏海の反応が煮え切らない……それだけ屑旦那の影響を受けているのかしら。
確かに二年振りに再会した親友に、突然にフランスで暮らしましょうと言われれば、当然な反応とも言えるけれども。ただ今日の私は一筋縄ではいかない……絶対に退かない。
様子を見ればもう一押し……私への感情を夏海に問い掛ける。
「ねえ、夏海? 学生時代から十数年が経って、正直に私への気持ちはある?」
「そ、それは……突然で……でも玲香ちゃんの事は好きだよ?」
「それは友情、恋情? 私は断言するわ……未だ夏海を愛している。願っても叶わない恋情に今私は燃えているの。でなければ、夏海をここまで説得する?」
「ちょ、直球だね。……私も心を掘り返せば、玲香ちゃんの事が好きだよ」
「なら自分の人生は自分で決断しなさい。二度はもう存在しない――世間体? 親の反対? 決断すれば時間が解決する問題よ。夏海、私は神に誓うわ。貴女と娘を生涯に渡り護り愛する、裏切りは必ずない」
「……う、うん。分かった。分かったよ。玲香ちゃんの言葉を信じる」
その言葉を引き出せた。願っても願っても叶わないと思っていた夢、それが叶う。ああ、人生で最高の瞬間とはこの事、幸福感が波の様に押し寄せる。
なら私は本腰を入れないと……明日から早速行動ね。
「明日、夏海の家に行くわ。策があるの」
「えっ、急過ぎない?」
「先手必勝よ。あと知人の探偵に旦那の朝帰りの理由を探らせる。加えて夏海の家に隠しカメラを複数台設置して貰うわ」
まあ裁判まで発展させる気は毛頭ない。屑旦那には判を押す以外の選択肢を与えない。
話が一段落すると、談笑を交わしながら配膳される料理を堪能する。小一時間が経過し、会計を済ませて店を後にすると時刻は夜九時頃を指していた。
――正直な話、屑旦那の下に帰らせたくない。と言うかホテルに連れて行きたい……下品な話、込み上げる性欲が収まらない。でもそんな迂闊な行動を取って誰かに見られでもすれば……いや端から見れば女性同士、何を警戒しているのよ。
と結論付けたら事は急げと言う事で、徒歩圏内の高級ホテルを予約する。
当の夏海は帰るつもり満々……何か気に食わないわね。屑旦那なんて忘れて欲しい。
「今日は本当に楽しかったよ。玲香ちゃん、また明日連絡を――」
「ねえ、夏海? 私、帰って良いって言ったかしら?」
「えっ? いやだって、もう十時前、篤さんも帰って来るかも……」
「私に全てを託す決心をしたのよね。なら今日は帰さないわ」
「えっと……それって。つまり……」
「ほら行くわよ。私に身を委ねて、全てを任せれば良いの」
帰るなんて言わせない……私を信じるのなら、黙って帰す訳がない。
そもそもの話、もし夏海が今から帰宅して、屑旦那に暴力を振るわれる光景を想像するだけでも腸が煮え繰り返り吐き気が込み上げるわ。尚更、帰す訳がない。
半ば強引だろうけれども……私は夏海の手を引いて歩き出す。
「ね、ねえ、玲香ちゃん? 不粋かもだけども……ね、眠るだけだよね?」
「……秘密よ。気持ちを確かめ合いたいだけ」
「それって、つまり……」
つまりも何も想像通りよ。予約のホテルに到着して、チェックインを済ませて部屋に入る。
二年間も仕事漬けだと、欲求不満にもなる……と思うものの、実際問題の話として夏海だからって言うのもある。ここで黙って帰す程に私、女が出来ていないの。早速、私は夏海の不意を突いてベッドに押し倒すと、お互いの視線が重なり見詰め合う。
「れ、玲香ちゃん? 本気で……その……す、するの?」
「まあこの状況でしないなら女が廃るわ。拒んでも構わない……でもそれを貴女はしない。心底では私と同じ感情を抱いていると知っているから。何年間、親友をしているのよ?」
私は夏海の瞳を直視する、夏海は頬を紅潮させて私の視線を逸らす様に首を傾ける。
掴んだ両腕は既に脱力している――夏海は本心のところ受け入れている。さすがに強引に事に至ろうとは私も当然考えていない……まあ犯罪だし。まあ夏海の様子から同意と見て良い。
こう言うのはお互いの気持ちが一番大事だからね。
「ほら腕の力が抜けてる……私に全て任せれば良いのよ」
「う、うん……玲香ちゃん」
「それじゃ脱がすわよ」
「や、やっぱり――」
夏海のブラウスのボタンを外し終えた瞬間、夏海は一瞬だけ制止する。
その行動の意味を私は知る。DVの決定的証拠、胸部や腹部に複数の痣がある。出来て時間が経過したもの、昨日今日のものまで。
「ご、ごめん。玲香ちゃん、ひ、引いたよね? やっぱり……」
「くっ……何も言わなくて良いわ。私に身を委ねなさい」
これは私が夏海を見捨てた贖罪でもある、一層に夏海を護りたいと心が決意する。
私は夏海の潤んだ瞳を見詰めて、言葉を紡ぐ事なく唇と唇が触れ合う。
そこからは記憶が曖昧だ。性行為自体が数年以上振り、女性同士となると尚更……虚勢を張るものの大分緊張して、夢中になり過ぎた影響で記憶があやふや。
短いかも知れないけれども幸福な時間に心が満たされる。
(いつの間にか眠っていたのね……あれ、夏海は?)
私の傍で眠っていた筈の夏海の姿が見当たらない。
とりあえずベッドから起き上がり状況を把握する。時刻は朝の八時。サイドテーブルにメモ用紙が置かれていて、それは夏海の書き置きだった。
私への感謝の言葉、自宅に帰る旨の内容、連絡を待っていると。
――のんびりとしている場合じゃない。
時間は有限。私は急いでシャワーを浴び始めて身支度を済ませる。
(今日中にはある程度の準備は整えたい。時間はまだ残されていると言っても、仕事もある。実際に夏海に費やせる時間は有限だ)
身支度を終えて知人の探偵業を営んでいる大友さんに連絡を取る。
幸運な事に迅速に私の要望に応えてくれた。次に夏海に連絡を取って、屑旦那が居ない事を確認し、大友さんとの待ち合わせ場所へと急ぐ。
大友さんと合流後、夏海の家に急行する。都心部から離れた郊外の真新しい一軒家、時刻は既に午前十一時頃、私は呼び鈴を鳴らす。
玄関から姿を現した夏海は、虚ろな瞳で苦悶の表情を浮かべている。
その瞬間、大体何があったのかは察しが付く。
「お、おはよ。玲香ちゃん」
「え、ええ、おはよう。こちらは私の知人で探偵業を営んでいる大友さんよ。この手の仕事のプロで、今日は監視カメラを寝室とリビングに仕掛けて貰うわ」
「まあ九瀬さんの依頼とあればね。地球の裏側でも出向きますよ、僕は」
「頼もしいわ。同時並行で不倫調査も依頼しているわ」
まあ現実的に今日出来るのは隠しカメラの設置までかしらね。
後は証拠の成果を待つだけ。その間、夏海に耐えて貰う必要があるのが心苦しい。ただ屑旦那の動かぬ証拠を確保する事が最重要事項、夏海の精神の摩耗具合を鑑みると理想で言えば今週の土日には成果を得たいところね。
証拠が揃えば一気に攻勢に出る。私の滞在期間の関係上、離婚届の提出やら夏海のビザ申請やら、準備する事が山積している。
夕刻前、リビングと寝室に複数台の隠しカメラの設置が完了する。ただ今日は運悪く屑旦那が寄り道せず帰宅するらしくて、口惜しい気持ちで夏海の家を後にする。
数日間、本省での仕事を終えて土曜日の早朝、大友さんから電話連絡が入る。
お昼前に合流の約束だったけれども、この時間に連絡が来ると言う事は取り急ぎの伝達事項があるのだろうと容易に推察できた。
「九瀬さん、どうも。ばっちりだ……昨日の深夜、対象の不倫現場を写真に収めた」
「本当に!? これで次の展開に進める。それに隠しカメラの映像も含めたら完璧だわ」
隠しカメラの映像だけれども、ここ数日間で夏海には頻繁に連絡を貰っている。
内容はとても耐え難い内容だけれども、確実にDVの証拠現場を映像に撮れている。もう屑旦那は離婚届に判を押す以外の選択肢は残されていないわ。
もし彼が拒めば、私が直々に人生奈落に突き落としてあげる。
今日は屑旦那が朝から夕方まで外出しているらしい。夏海の自宅に急行し映像を入手、そのまま夏海と一緒に夏海の実家を訪れる。
圧倒的な証拠があれば、ご両親も認めざるを得ない。加えて夏海に語って貰えれば、不思議とご両親からの評判が良い屑旦那の信頼を地の底に落とせる。
「チェックメイト。代償を払わせてあげるわ」
そして絶対的な証拠を入手した私と夏海は、夏海のご実家に赴く。
加賀家は大手電機会社の創業家で、世間一般敵に富裕層の家系、郊外に使用人付きの立派な豪邸を築いている。ただ子供には自立を求める父親の方針で、大学卒業後は一切の資金援助を夏海には行っていない。
夏海のお父様もお母様も私と面識は当然ある。むしろ毎度毎度、恐縮されて気が引ける。
「お久し振りです。九瀬玲香です。突然の訪問で申し訳ございません。夏海さんのご家庭に関して、今日は大事なお話があり参りました」
「こ、これは大した九瀬家の……お持て成しの準備も出来ず、お母様はお元気ですか?」
「はい。まあ母親も生粋の仕事人間ですから、死ぬまで仕事すると言っている程です」
「それはそれは、お元気で何よりです。それで夏海の事でお話とは……?」
「ええ、内容と言うのが夏海さんの旦那様に関してでして――」
屑旦那に配慮する理由は一切無い。洗い浚い事実をぶちまける。不倫現場の証拠写真も添えてね。
「……なるほど。これは……」
「まあ一度の不倫程度、まだ許せる余地はありますが、本当に深刻な問題は――」
もう一押しが必要、絶対的な理由、次に私が紡いだ言葉にご両親の顔が蒼白する。
夏海のお父様の表情は端から見ても怒気に満ちている。ただ言葉だけは不十分、私は鞄からタブレットを取り出して隠しカメラの映像を再生する。これで確実なチェックメイトだ。
「私の妄想と思われても心外ですので、この映像をご覧下さい。三日前です」
映像は動かぬ証拠、屑旦那が怒声と共に帰宅後、理由までは分からないまでも夏海の顔を平手打ち、映像は続き髪を鷲掴みし投げ飛ばす。夏海は口内が切れたのか、唇から血液が滴っている……正常な人間の所業じゃない。
彼は誰が見ても断罪されるべき人間、こいつと同じ空気を吸っている時点で吐き気がする。
それは夏海のご両親も同じ感情な様子で、顔面蒼白の状態、更に私は映像が捏造でない事を示す為、夏海に促して上半身の衣服を脱いで貰う。
当然ながら複数の痣、DVの絶対的な物的証拠だ。……お母様今にも倒れそう。
「正直申し上げます。一番の親友として、絶対に離婚をさせるべきなのです」
「お父さん……お母さん……」
「ふぅ……はあぁ。私たちにも責任の一端がある。夏海、本当にすまなかった」
「う、うん……」
「心中お察し致します。ご両親の許可を頂けるのであれば、私が彼に断罪を下して参ります」
「九瀬のお嬢様に、そんな……ですが非常に心強い。では私たちも――」
「いえ、言い訳を並べ立てられ怒りが増すだけだと思います。頭の回る屑は一筋縄では自分の非を認めません。ですので、私に全任して頂きたい。職業柄、交渉は長けておりますので」
「和仁さん? 玲香さんの言う通りよ。お任せしましょ?」
「……分かった。それではお任せしても宜しいですか?」
「ええ、九瀬家の名に誓いましょう。必ず朗報をお伝えします」
これで舞台は完全に整った。屑旦那に抗う術は一片も存在しない。
ただ警戒するべきは、利口な屑は自暴自棄になると実力行使に出かねない。そこまで脳ミソ空っぽとは考えたくないけれども……その時は本当に彼の人生は完全終了だもの。
夏海の実家を後にする私たち、再び夏海の家に向かう。
どうも先程、屑旦那から電話が入り早く戻って来いと言われたらしい、既に帰宅している。
「夏海、家出する準備は出来ている?」
「うん、荷物は見つからない様に屋根裏部屋に隠してるよ」
夏海の自宅に到着し、玄関を開けるや否や、屑旦那の怒声が響き渡る。
その声量に夏海の娘、柚子ちゃんが脅える。私は柚子ちゃんを二階にと言って夏海に連れて行かせる。
「おいっ! 夏海、飯の準備は!? 本当に役立たずだ――」
「どうも、お久し振りかしら?」
「へっ? えっ、あっ……」
玄関先に姿を現した屑旦那、怒気に満ちた表情は一瞬で蒼白する。
威勢は見る影も無くて、分が悪そうな表情を浮かべている。それも当然と言えば当然、この屑男との面識は一度だけだけれども、結婚式で夏海の友人代表として祝辞を述べたのだから私が誰かを知っているはず。
彼の家は準大手工務店を経営しており、私の母親が頭取を務める銀行からの多額融資で何とか債務超過を免れている苦境に立たされている。
当然ながら私が誰かを知っていれば、まず横暴な態度は当然取れない。
「お久し振りね。篤さん? 上がっても宜しくて?」
「え、あっ……は、はい。どうぞ……お、お~い、な、夏海、九瀬さんにお茶を――」
「必要ない。そうね……なら寧ろ貴方が淹れてくれるかしら?」
「えっ、あ、は、はい。で、ではお待ちを……」
案の情の反応、借りてきた猫の様に大人しくなる。
夏海がリビングに戻り私の傍に腰掛ける。お茶を配膳する屑旦那、彼は私の対面のソファに腰掛ける。
「私、まどろっこしい話は嫌いなのよね。単刀直入に伝えるわ」
鞄から事前に準備した離婚届を取り出して、ペンと一緒に机に置く。
離婚届には既に夏海は署名捺印済み。屑旦那の表情にクエスチョンマークが浮かぶ。自分の胸に手を当てれば自ずと理解出来るはずだけれども。
「貴女が今直ぐ署名捺印をすれば、私は消える。全てが丸く収まるわ。どうする?」
「――は、はて、僕がこれに? 少し理解に苦しみますが、な、なあ夏海?」
「今、貴女は私と話しているのよ! まあ……予想通りの反応ね。馬鹿は死ぬまで治らない」
往生際の悪い屑男だ。もう手札を出し惜しみする必要もない。そこまで理由が欲しいのね?
なら言い訳も思い浮かばない程の理由をあげるわ。鞄から不倫現場の証拠写真を数十枚取り出すと机に一枚ずつ並べる。旦那の表情は一枚毎に青褪め始める。
「プ、プライバシーの侵害だ!!」
「それじゃあ裁判でもする? 私を誰だと思っているの? 勝てると思う?」
「あっ、いや……な、夏海、本当に済まない!! もう金輪際しないから許してくれ。頼む!」
(夏海、返答は不要よ)
心底呆れてしまう。正直言って不倫以上の問題があるのに、屑男は理解していない。
「そうそう。不倫は文化と芸能人が言っていたわね……。まあ一度の過ちで即離婚に発展する夫婦の割合は統計的に少ないとは思う。――問題の本質はこれじゃない」
最後の手札、これを見せれば彼に言い訳の余地はない。
私は鞄からタブレットを取り出して、DVの証拠映像を再生する。映像は複数本ある。むしろこの数日程度でどれだけ暴力を振るうのか……映像の分数が刻まれる毎に、屑旦那の表情から生気が消える。
それも当然で、仮にプライバシーの侵害と戯れ言を吐いたところで彼が圧倒的に不利。
「どうする? 警察に届け出ても良いのよ? むしろ今直ぐそうしたいわ」
「あっ、えっと……いや、く、九瀬さん、本当にそれだけは――」
「本当に屑ね。笑えるわ。確か貴方、来月から父親の会社の常務に昇進するのでしょ? 警察沙汰になれば人生終了ね。親に勘当されて、路頭に迷って、前科持ちで地の底を這う。ああ、清々するわ」
「……わ、分かりました。今、印鑑持ってきます。……夏海、本当に済まなかった」
「善人面しないで!! 冗談抜きで反吐が出るわ。私がどれ程に甘いか……墓場まで感謝し続けなさい」
屑旦那が離婚届に署名捺印する。
私が甘いと言うのは、離婚届に判を押す条件の対価に、これらの証拠を屑旦那に譲渡する。そんな事をする必要性もないけれども……激情で実力行使に出られても困る。
まあ不倫現場の写真もDV映像も当然ながらコピーを取っているけれども。
「夏海、柚子ちゃんを連れて来て、さあ行くわよ」
「あ、あの……な夏海と娘を何処に?」
「教えないわ。今、貴方は離婚届に判を押した。既に成立と言っても良い。と言うか、此処に夏海と娘を置いていくと思う? ……どれだけ貴方は頭お花畑なのよ?」
「そ、そうですね……」
「まあ安心して。貴方の引き際を鑑みて、私は約束を守る。この件を表沙汰にしない。夏海のご両親も説得するし、墓場まで持って行ってあげるわ」
万が一にも不穏な言動があれば、この屑男程度の人生なんて一瞬で終わらせてあげる。
夏海と柚子ちゃんがボストンバッグを抱えて姿を現す。屑旦那もこれ以上は何も夏海を引き留めなかった。私たちは夏海の家を出て彼の下から立ち去る。
もう夏海がこの家に帰る事はない。
とりあえず離婚届の提出もあるし、その他にも手続きが山積している。三週間後の渡航までに手続きを全て済ませる必要がある。だからその間は私の自宅で一緒に三人で住む。
私の元旦那は不倫相手の家に転がり込んだ。相手は二十代前半で有名若手女優らしい……阿呆らしい。まあ好きな相手と添い遂げるのが一番ではある事は認めてあげるけれども。
既に時刻は陽も沈み夕刻の時間帯、タクシーで私の自宅に到着する。
「玲香ちゃん……す、凄い所に住んでるんだね」
「日本に殆ど居ない以上、本当に無駄金よ。恐らくフランスに移住する可能性もあるから、今月退去するけれどもね。柚子ちゃんも利用できる保育施設も完備されているから安心よ。手続きやらは月曜日に私が一気に済ませるわ」
そうして私と夏海、娘の柚子ちゃんによる平穏な三週間を過ごした。
夏海の娘なら私の娘も同然、私は仲を深める為に休日には色々な場所に連れて行った。私なりに相当努力を費やしたと思う。そのお陰か今現在は私を慕ってくれている。
外交官と言う職業柄、子供は必要ないと思っていたけれども……意外と良いわね。忙しくても何とか構ってあげられるもの。またひとつ経験値が上がった気がする。
今の状態ならフランスでの生活も不自由ないでしょうね。お国柄日本人に友好的な国だし、まだ年長の柚子ちゃんも馴染めるはず。ただ早速英語を習わせる必要があるわね。
二人分の離婚届は既に役所で受理済み。夏海と柚子ちゃんの渡航手続きやビザの取得も完了、それにフランスでは二〇一三年に同性婚法が成立しているから婚姻届も郵送済み。
我ながら凄い。この短期間で間に合った事を褒め称えたい気分よ。
「夏海、十一時発だから急ぐわよ」
「うんっ。準備終わったよ。柚子、おトイレは大丈夫?」
「うん、玲香おばちゃん、フランスってぇ……楽しいところ?」
「ええ、まあ素敵なところよ」
まあ私たちが暮らす首都パリは移民問題もあり治安が悪化傾向だけれども、それでもね。
それを五歳児に説明したって……ただ私たちの自宅は日本国大使館の目と鼻の先、治安的には問題ないはず。治安が治安がなんて言い出したら日本と韓国にしか住めないわよ。
既に時刻は九時頃。私たちは予約した空港送迎ハイヤーで羽田空港へと向かう。
小一時間程度で到着し、国際線ターミナルに急ぐ。荷物を預けて、搭乗時間を待つ。
ビジネスクラスなのでラウンジを利用できる筈、朝食を摂る為に向かう。
「そう言えば、夏海? ご両親は大丈夫なの?」
「うん。最初は警察にって言ってたけれども玲香ちゃんの説得のお陰で落ち着いたよ。玲香ちゃんに頭が上がらないって言ってた」
「まあ、当然の事をしたまで。感謝されてもね……柚子ちゃん、何食べたい?」
「う~ん、オムライスッ!」
オムライスはラウンジの提供料理にあるのかしら? まあお子様用の料理にあるか。
そんな事を考えながら家族団欒な雰囲気の中でターミナル内を進む私たち――でも平穏は突然に終わりを告げるもの。
「キャアあああああっ!」
「えっ、な、なに?」
突然にして近くで響き渡る甲高い女性の叫び声、私は咄嗟に振り向く。
人生で一番最悪の状況……そこには夏海の元屑旦那、小宮篤の姿が見えた。見送りなんて、そんな筈もない。私は一言、『私の馬鹿』と呟く――その理由は、彼の右手に刃渡り数十センチ程度の出刃包丁が見えるからだ。
これ程までに彼が頭お花畑だとは、私の甘さが招いた状況とも言える。
(彼が救えない程に馬鹿だったなんて……甘過ぎたわ)
「れ、玲香ちゃん!?」
「夏海、柚子ちゃんと必ず私の後ろに隠れてなさい。絶対よ」
下手に夏海を逃がせば、標的が変わり追い付かれて二人が刺される可能性もある。
窮地は幾度と経験してきた私、屑男の殺気は間違いなく本物だ。
標的は私か。でしょうね……私を殺した後は、夏海と柚子ちゃんと一緒に心中を図る。周囲の人間は誰も割り込む様子もなく、野次馬根性で動画を撮っている……まあ当然か。巻き添えで刺される可能性が高いでしょうし。なら空港警察官が駆け付ける数分を稼ぐしかない。
「ふうぅう……お、お前だけは、殺さないと気が済まん!!」
「そう。残念な短絡的な思考ね。屑は治らないとは良く言ったものよ」
「ああぁぁあああっ! 何つったっぁ!? 本当に殺すぞ。殺すっ!」
私も大概大馬鹿者よね……激情させる必要もないのに、つい心の声が漏れてしまった。
屑旦那が出刃包丁を胸の位置で両手で構える。そして――私に向けて駆けて走る。……どうする? 回避だけなら簡単、でもそれは夏海と柚子ちゃんに危害が及ぶ可能性が跳ね上がる。
――はぁ、仕方ないか。一瞬でも幸福を体感した。私は何があっても夏海を護る。
苦渋の決断だ。私は人生に感謝し、屑男の刃を受ける事を、死を覚悟する。やっぱり悲しいかな……でも最後に夏海を護れたと自分を誇りたい。
「あああっ! 死ねぇっ!!」
「あっ、がっっ!? あっぐっ――」
「れ、玲香ちゃんっ!! 玲香ちゃん!!」
屑男の出刃包丁が私の腹部を深く一突き。
殺意に燃える彼は、確実に私を殺す為に突き刺した刃を引き抜く、私は腹部から大量の鮮血が溢れ出る。これで終わる筈もなく、彼は再び私の胸部を一突き、力一杯に押し込んで刃が深く深く沈み込む。
既に鮮血が血溜りを形成している。次第に血液が込み上げて来て唇からも溢れ出る。
でも私は諦めない。刃を抜かせまいと、必死の抵抗で屑男の手首を強く握り締める。その拘束が解けない彼は、焦燥感に満ちた表情を浮かべている。
刃を抜かせると、確実に夏海と柚子ちゃんに標的が変わる……必ず阻止する。
(夏海を一度見捨てた罪が……これかしら)
「お、おいっ!! そこのお前何やっているんだっ!」
「く、くそっ。手を離せこの屑女がっ」
「がっぽっ……あ、貴方にだけは、言われたくない言葉ね。断罪を……受けなさい」
「くそがっ!! くそっ――がっ!! お前ら離せ、離せぇぇっ」
「れ、玲香ちゃん!? 玲香ちゃん!!」
屑男は駆け付けた空港警察官に取り押さえられる。
力の差は歴然で、当然ながら彼は拘束から逃れられない。私はその光景を見て安堵する……しかし、間違いなく致命傷だ。死を実感する、これは助からないと。
形成された血溜りに私は膝から崩れ落ちて倒れる。夏海が駆け寄ると、返り血を厭わず、私の上体を抱き抱えてくれる。
「玲香ちゃん、玲香ちゃん!! し、しっかりしてっ! だ、誰か早く救急車を!!」
「夏……海……。ごめ……なさい。私が……居なくても、不幸には――させない」
私は懸命に力を振り絞って、私のキャリーケースの方向を指差す。
職業柄なのか。毎回遺言書を渡航先に持参している。その遺言書には万が一にも私の身に何かあった場合の言葉、夏海と柚子ちゃんが不自由なく暮らせる内容になっている。
無念で仕方ない。ここでそれが役立つなんて、人生と言うのは予想できないものね。
「泣か、ないで……夏海。最後……ぐらいは、笑ってよ……」
「玲香ちゃんがどうして、こんな……私のせいで……」
確実な死、意識が遠のき始める。救急は間に合わないだろう。……死ぬ直前の感覚か。
不思議と切創部の痛みは無くて只々熱い。でも体温が急激に低下する感覚に襲われて、死が目前に迫る感覚……ただ最後に夏海の可愛い顔を拝んで死ねるのなら本望か。
霞み始めた視界に映る夏海の泣顔、大粒の涙が私の顔に滴り落ちる。
「絶対に……幸せに、なりなさい。そして……私を……忘れ、なさい」
「な、なんで……そんな悲しい事、言わないで……玲香ちゃん」
「私の影に……囚われて、幸福に、なれないなら……私の、努力が……泡よ」
「で、でも……」
「でも、じゃ……ないわ。心から……愛しているわ、夏海――」
私の影に囚われて、夏海が幸福を掴めないのなら本末転倒だ。
薄れ逝く意識の中で、最愛の夏海の名前を呼び死に逝く。最後の最後に夏海に抱かれて死ねるのなら、これ程に幸福な終わり方はない。
私は最後の力を振り絞り、最大限の笑顔を浮かべながら夏海に今生の別れを告げた。
貴女に紡ぐ恋情の詩 雪広ゆう @harvest7941
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