ぎっちょ

@miura

第1話 ぎっちょ

① 

「なんや、お前、ぎっちょか」

 やすしは生徒のおさむに言った。

「あんた、ぎっちょは差別用語やで」とやすしの妻のやすえが言った。

「あほか、ぎっちょはぎっちょや」

「そんなん、今時言うんやったら大ヒンシュクやで。言うんやったらサウスポー」

「ピンクレディーかお前は」

 わけのわからないやすしのつっこみにおさむはポカンと口を開けた。

 やすえはやすしと一緒になってからすっと専業主婦だったが、やすしが帝大を出ているからなのか、やたらプライドが高く、すぐに上司にたてつく癖があり、五十歳で中途入社した会社の、自分より一回り年下の上司とちょっとしたことで言い合いとなり「ゆとり世代の阿呆がえらそうに俺様に口をきくなっ、お前らはリュック背負って猫背でポチポチとスマホいじって、家に帰ったらそのスマホのエロ動画みてチンコいじってたらええんや」と言って、一年間二十パーセントの給料カットを会社から言い渡され、慌てて書道五段の腕前から自宅の一室で習字教室を開いた。

「おさむ君、師範の言うことなんかきにせんでええからね。右で書こうが左で書こうが上手に書いたらええんやから」

 やすしは子供たち生徒の前ではやすえに“師範”と呼ばせていた。

 理由は簡単、どこの会社に勤めても上司ともめることから“出生”とは無縁で、これまで名刺に刻まれた最高職位は“課長補佐”だったため、とにかく職位に飢えていたからだった。

 しかし“師範”とは名ばかりで、自ら書く字はとにかく小学二年生からまったく進歩しておらず、やすえが習字教室を開くと聞いたとき、子供のころ習字教室に通っていて、後から入ってくる生徒に次々と追い抜かれ、二級という課長補佐にも満たない級位で教室を辞したという屈辱の過去を思い出し蕁麻疹を発したが、家計を助けてくれるからと無理矢理自らを納得させた。

 土曜日の午前の教室が終了した。

「たまには『カレー作っといたから』て言うてや」と言いながらやすえは使い古したフライパンに油を引いて冷ご飯を投入した。

「アホか、男子厨房に入らず、や」

「あんた、ほんまに考えが古いわ。さっきのおさむ君の話かて、今は、個性を伸ばすから言うて私ら時みたいに無理矢理矯正したりせえへんねんから」

「しつけができてないのを“個性を伸ばす”に置き換えてるだけやろ」

「はいはい、もうええわ、あんまりよそ行っていらんこと言いなや。それより、ネギは入れんのん?」

「うん、いっぱい入れて。ネギ食べたら頭良うなるいうからな」

「はいはい、いっぱい賢うなってや」

 呆れて言ったやすえは面倒くさそうにフライパンを振った。


        ②

 やすえに新入社員の歓迎会だと嘘をついてもらった五千円を握ってやすしはいつもの居酒屋の暖簾をくぐった。

 カウンター席に腰を下ろすと生ビールを注文し一服つける。

「やっさん、どしたんや、給料日前やのに」

 店の大将がカウンターの向こうからやすしに声をかける。

「新入社員の歓迎会や」

「あんた、しまいにバチ当たるで」大将が呆れた顔で言う。

「わかっとる、地獄に行く覚悟はできとるし」

 バイトの女の子が生ビールと突き出しの枝豆をカウンターに置く。

「ねえちゃんは右利きか?」とやすしが女の子に聞く。

「はい」と言って女の子は、それが何か?といった顔をした。

「ええこっちゃ、ええこっちゃ、それでええ。これで日本も安心だ♬」

 女の子は首をかしげると店の奥に消えていった。

「大将、造りの盛り合わせ、マグロとイカとアジで頼むわ」

「オーケー、で、右利きがどうかしたんか?」

「いや、うちの習字教室でな左利きの子がようさんおるんや」

「今は昔みたいに無理矢理矯正せえへんからな」

「そうみたいやな、嫁はんも言うとったわ。俺には単なる親のしつけの怠慢にしか見えへんねんけどなぁ」

「あんまり大きい声で言わんほうがええで。そこらじゅうにおるから」

「おお。そやけど、なんかへんてこな世の中になってきたよなぁ。みんなごちゃまぜで、みんななんか知らんけど一緒やし。俺は壁ってのはあってええと思うんやで。アホとかしこの壁、男と女の壁。それがつまらん平等主義で男も女も一緒、0点でも100点でもみんな一緒、みんな合格っ。壁あるからそれをなんとか乗り越えたろ思って努力して頑張って、そこでほんまの個性がでてくるんちゃうの。そのうち俺ら男も人工子宮着けられてこども産まされるかもしれんぞ」

「まあ、そういいなや。やっさん、造りやから熱燗やな」

「おっ、頼むわ」

 暫くして店の奥からバイトの女の子がやすしの熱燗を持って出てきた時「いらっしゃいませ」と狭い店内に大将の声が響いた。

 女の客が一人店に入ってきた。

 女はやすしとの間に二つの席を空けて席に腰を下ろした。

「お飲み物、なにさせてもらいましょ」

 大将の言葉に女は「ウーロンハイをお願いします」と返した。

 やすしは気にすることなく熱い酒を喉に流した。

「あと、出し巻きを頂けますか」

 女の言葉のイントネーションは標準語、いわゆる、東京弁だった。

「へい」と大将は言うとカウンターの向こうから造りの盛り合わせをやすしに差し出した。

「うまそうやなぁ」と言うとやすしは箸を伸ばすと同時に女が注文した出し巻きに思いを巡らせた。

 ここの出し巻きはむちゃくちゃ美味い。しかし、量もむちゃくちゃ多い。ということは、遅れてお連れさんが来るんだなと。

 徳利が空になり二本目の熱燗をやすしが注文しようとした時、女の出し巻きがバイトの女の子によって供された。

「えーっ」

 女が声を上げる。

「すごい量ですよね、うわぁ、こんなに食べられるかなぁ」

 女がこの店に来たのは初めてなんだとやすしは思った。

「すいません」

 語尾の上がった東京弁で女がやすしに声をかける。

「一人で食べれないんで手伝ってもらってもいいですか」

「ああ、いいですよ」と言って初めて女の顔を見たやすしの目が丸くなった。

「どストライク」と心の中で叫ぶ。

 色が白く鼻筋の通った、いわゆる“美人”だった。

 女は小皿にやたら一切れがでかい出し巻きを二切れ盛り、やすしに「どうぞ」と言って差し出した。

「この店は初めてですか?」とやすしが女に聞く。

「はい、そうなんです」

「そうなんですか。ここの店、見た目はしょぼいですけど何頼んでも美味しいですから」

 しょぼいは余計やろ、と大将がカウンターの向こうからやすしをにらむ。

「そうや、出し巻き頂いたお礼になんかお返ししますわ。食べたいもんあります?」

「いえいえ、そんなの気になさらないでください」

「いやいや、それはあきません、女性にご馳走になって男が何もお返ししないのは私の流儀に反しますので」

「そ、そうですか、じゃあ、あ、私、東京から来たんです。何か大阪っぽいもの頂いていいですか」

「大阪っぽいねぇ・・ここはたこ焼きもお好み焼きもメニューにはないからなぁ」

「紅しょうが揚げよか」

 カウンターの向こうから大将が助け舟を出す。

「あっ、それええわ、大将、それやって」

「紅しょうがの天ぷらですか」と女が聞く。

「そう、しょうが天言うてすごい美味いんです。大阪のソールフードですわ」

 紅しょうが天が揚がる間、珍しく団体客が入ってきた。

 バイトの女の子だけでは間に合わず、大将もカウンターの向こうから出てきてコップやおしぼりを運ぶ。

 その隙にやすしは女との間の二つの席を一つ詰めた。

「大阪へは旅行かなにかですか?」

「いえ、仕事で今回大阪に転勤になったんです」

 言われてみれば女の服装は旅行に出かけているという格好ではなくスーツ姿だった。

「どうですか大阪の街は?」

「まだ、今日来たばかりなんで」

「あっ、そうなんですか」

 女は名前をなおみと言った。東京で勤めていて大阪に異動となり今日着任したばかりで、新しい住処は山と積まれた段ボールに占拠されており、ひもを解く気力がなかったので、外で夕食を取ろうと大阪の街を歩いていたらたまたまこの店を見つけたということだった。

 紅しょうが天がやってきた。

「本当に紅しょうがを揚げるんですよね」

 なおみが感心したような表情で言う。

「大阪人はアホやから何でも揚げるんですよ。揚げたら旨なる思てるんですよ。せやから串カツ文化が発展したんですよ」

「やっさん、しまいにその辺からピストルの弾飛んでくるぞ」と大将が苦笑いを浮かべて言う。

「まあ、食べてみてください、むちゃくちゃ美味しいですから」

 やすしの言葉になおみは、衣の向こうで透けて見える赤い物体を恐る恐る箸でつまみ口に含む。

「美味しいーっ」

 なおみが目を輝かせて小さく吠える。

「そうでしょ。たこ焼きだけやないんですよ、大阪は」

「さすが食い道楽の街ですよね」


「なおみさん、結構酔うたんでそろそろいきますわ」

 言ってやすしが立ち上がろうとしたカウンター席には空になった徳利が三本転がっていた。

「もう一軒行きませんか?」となおみがやすしに聞く。

「えっ?」と戸惑うやすしを見た大将が口を開く。

「お客さん、こいつお金ないんですよ。今日も嫁さんに嘘ついてせしめてきた金で呑んでるんですよ」

「こらっ、いらんこと言うな」とやすしが絡む。

「事実やないか。今日はしゃあないからツケにしといたるわ。その代わり、綺麗なお姉さんに大阪の街を案内したげや」

 大将の言うことに従い、勘定をツケ、もちろんなおみの分も含めて、にするとやすしはなおみと店を出る。

「すいません、ご馳走になってしまって」

「いいですよ。安い店ですからしれてます。それより次どこに行きます?」

「折角なんでたこ焼きを食べてみたいんですけど、もうお腹いっぱいですか?」

「いえ、大阪人にとってたこ焼きは別腹です。女性の“デザート”といっしょですわ。なんやったら自分で焼ける店あるんですけど、そこに行きます?」

「そんなお店あるんですか、是非行きたいです」

 本当はカッコよくタクシーで向かいたかったが金がなかったので地下鉄で店に向かう。


「あっ、あのお店ですよね」

 なおみが指さした先に大きなタコのオブジェが店の前に鎮座していた。

「そうそう、いかにも大阪らしいでしょ」

 店に入ると満員で少し待たされたが十分ほどでテーブルに案内された。

 先に注文した生ビールとウーロンハイをすぐに若い男の店員が持ってきた。

「たこ焼きはどうされますか」

「ノーマルなんでええよ、二人前ちょうだい」とやすしが答える。

「ありがとうございます。で、焼きはどうされます?こちらで焼かせてもらうこともできますけど」

「ちゃうねん。にいちゃんな、この人な今日、東京から転勤で大阪にやってきはってん。大阪デビューや。せやから、なにがなんでも自分で焼かせてくれ」

「わ、わかりました」

 店員は飛ぶように店の奥に消えると、飛ぶようにして銀色のじょうろなようなものと具材のタコがはいった浅い皿を載せたお盆を手にして戻ってきた。

 店員は鉄板の上に十秒ほど手をかざすと、うんと頷き、鉄板の窪みに銀色のじょうろから少し黄味がかった白い生地をゆっくりと注いだ。

「あとはおわかりですよね?」と店員が二人を見る。

「当たり前やんか、何年大阪で生きてきたと思てんのよ、まかせといて」

言ってやすしはなおみとジョッキを重ねる。

「せやけど、なおみさん、東京から転勤で来はったってことは、まさか、事務職ちゃいますわね。バリバリのキャリアウーマンってことですよね」

「ええ、ですけど、そんなにバリバリ働いているわけではないです」

 少し黄味がかった白い生地からすーっと湯気が上がる。

「ここからはどうすればいいんですか」となおみがやすしに聞く。

「まずは、窪みに一つずつタコを投下していきます」

「私もやっていいですか」

「もちろん」

 嬉しそうになおみは浅い皿に盛られたタコを手に取り窪みに投下していく。

「すごく楽しいです。大阪には必ず一家に一台タコ焼き器があるってのは本当なんですか?」

「さぁ、どうなんやろなぁ。小さいときには窪みのある鉄板が家にあってひと月に一回は家族で日曜日のお昼にたこ焼き焼いて食べたけどね。結婚してからは電気で焼けるやつを買ったけど娘が小さいときに四、五回使っただけやったね」

「そうなんですか。だけど、いいですよね、みんなで集まってたこ焼き焼きながらワイワイ呑むっていうのは」

「そうやねぇ。最近は公私ともにほんまにせえへんようになったから」

「あっ、タコ、投入完了しました」

 さっきの店からウーロンハイしか呑んでいなかったがなおみは少し酔っているのかなとやすしは思った。

「了解しました。それでは、あとはお好みで天かすや紅しょうがを鉄板上空から投下ください」

「えっ、ここでも紅しょうがが登場するんですか」

「ええ。紅しょうがと大阪人は切っては切れない縁で結ばれていますので、なおみ一等兵、よろしければご投下ください」

「了解」

 言うとなおみは白く細い指で銀色のトレーに入ったみじん切りされた紅しょうがを小さなトングでつまみ、ハラハラと湯気を立てる鉄板の上に投下した。

「この紅色と生地の少し黄味ががった白色とのコントラストがええんですわ。そう、紅と白、たこ焼きは実はめでたい食べ物なんです。

 せやから大阪人はしょっちゅう食べるんです。知らんけど」

「えっ、どっちなんですか?本当の話なんですか、嘘の話なんですか?」

「なおみさん、大阪人はね、喋るだけ喋って最後に『知らんけど』ていう民族なんですよ。非常に無責任な、ひょっとしたら世界で一番自分の言動に責任を持たへん民族かもしれません」

「ここも『知らんけど』ですよね」

 言ってなおみはお腹を抱えて笑う。

「いえ、そこまで大阪人はひどい民族じゃないです。そんなことより、なおみさん、たこ焼きにはやっぱりビールですよ。頼みませんか?」

「あっ、お願いします」

 

注文したなおみの生ビールがやってきた時、鉄板の窪みの生地がぐつぐつと震えだした。

「ここからはどうすればいいんですか」となおみがやすしに聞く。

「この木の柄がついたアイスピックみたいなやつで窪みからあふれ出た生地を窪みの中に戻して窪みの縁に沿って何回も何回も回していると勝手に丸くなってたこ焼きが完成する。いわゆる“すべては丸く収まる”ということでさっきも言いましたけどたこ焼きは縁起のええもんなんですわ」

「知らんけど」

 なおみのへんてこなイントネーションの突っ込みに二人は大口を開けて笑った。

「合格っ、なおみさん、あんた生粋の大阪人に負けてません」


 少し楕円形に仕上がったたこ焼きを二人でつつきあい、やすしが生ビールのお代わりを注文した時、なおみが「こんなに楽しいの、本当に久しぶりです」と薄く赤く染まった顔で言った。

「そう言うてもうたら“素人芸人”として本望ですわ」

「やすしさんね、私、大阪への転勤は自分から申し出たんです」

「へえーっ、そうなんですか。よっぽど大阪に行きたかったんか、それとも、なんか他に理由でもあったんですか?」

「ええ」

 言葉を絞り出したなおみの表情に何かを感じたやすしは出てきた生ビールを舐めると「それはあんまりええ話やないですよね」と聞いた。

 なおみは言葉は発せず“ウン”と頷き、少し間をおいてから「東京という街から出たかったんです」と言った。

「そうなんですか。しょうもないこと聞いてすいません」

「いえ、いいんです。あっ、私も生ビールお代わりしよっ」と言ってなおみは今日一番の大きな声で店員に注文した。

「私、今、三十五なんですけど、実はバツイチなんです。二十九歳で結婚してすごく幸せだったんです」

「ごちそうさま」

「えっ、もう店出るんですか?」

「違いますよ、他人ののろけ話や幸せな話を聞いたときに、もうお腹いっぱい、ていう意味で、よく使うでしょ」

「いえ、使わないです」

「そうなんや。大阪だけで使う言葉やないと思うし、いわゆるジェネレーションギャップなんかなぁ・・・あっ、すんません話の腰折って」

「いえ、で、主人も私も子供が好きだったので早く欲しいなと思っていたんですけど、なかなか出来なくって。それで、妊活を始めたんですけど・・それでもできなくて」

「できんでええとこにはポコポコできるのになぁ、神様はほんま何考えてんねんやろなぁ、あんまり頭良うないかもしれんなぁ、あいつは・・あっ、すいません、続けてください」

「そのうち二人の間は段々冷めてきて、家でもほとんど口を利かなくなっていって。

 そんな時、職場の上司に食事に誘われて、 その方もご結婚はされていたんですけど、子供さんがいらっしゃらなくて、そして、色々と相談させて頂いたんです」

「子供さんがいない、欲しくてもできない、そんななおみさんの気持ちをわかってくれはったんですね」

「ええ」

 なおみの生ビールがやってきた。

「ああ、こんなに呑めないんで半分助けてもらえます」

「いいですよ」とやすしが言うとなおみはジョッキのビールのほとんどをやすしのジョッキに豪快に移した。

「ちなみに、その上司の方はおいくつなんですか」

「五十三です」

「あっ、偶然、同い年やわ。で、それからどうなったんですか」

「結婚してくれって言われて」

「えっ、いきなりですよね、ていうか、もうそういう関係になってたんですよね」

「はい、やすしさんの想像通りです」

「そうなんや、で、それから・・」

「まだ、自分の子供を産みたいという思いがあったので・・」

「五十三でも“種”は全然問題ないですよ。芸能人でもよういますやん」

「それはそうなんですけど、子供が二十歳になった時にもうお爺さんですから」

「まあ、それはそうなんやけど・・・」

「ですけど、奥様と必ず別れるとまで言ってくれたので、主人と別れることにしたんです」

「せやけど、このたこ焼きのように丸くは収まらなかった」

 遠慮の塊で鉄板の上に一個だけ残っていた少し焦げたたこ焼きを指さしてやすしが言った。

「さすが上手く言いますよね」と言うとなおみはそのたこ焼きに手を伸ばし大きな口を開け頬張りジョッキに残っていた少しのビールを喉に流した。

「で、それから、それから」

「彼の奥さんが・・・」

「二人の関係に気づき怒鳴り込んできた」

「ブーっ、違います」

「わかったわ、怒鳴り込むでは収まらず、奥さんが夫を殺してしまった」

「違います」

「じゃあ、何?」

「奥様が急性白血病になったんです」

「マジ?

 酔っぱらってなんかのドラマの筋書きを喋ってるってことない?」

「本当の話です。で、妻を一人にすることはできない、この話は無かったことにしてくれって・・」

「見事に梯子を外されたってわけやね。W不倫がWの悲劇になったってわけやね」

 少し間をおいてから「おもしろーいっ」と言ってなおみは笑った。「やっぱり、大阪の人はおもしろいですよね。なにか、落ち込んでいる自分がバカらしく思っちゃいます、さっ、やすしさん、今日は呑みましょっ」

「そ、そうやね」と言ったやすしは懐を心配した。財布に入っているのは妻のやすえをだまくらかしてもらってきた五千円札一枚。ここの勘定も結構なとこまで来ている。呑めてあと一杯ずつ。地下鉄の終電まであと一時間と少し。家まで歩いて帰るのだけは避けたい。

「あっ、やすしさん」

「は、はい」

「やっさん、と呼んでもいいですか?」

「ええ、いいですよ。やっさんでもやくざでも」

「じゃあ、やっさん、さっきのお店で払って頂いたのでここは私が持ちますから焼きそば食べないですか。なにかお腹が空いてきちゃって。まだまだやっさんも呑み足りないでしょ。日本酒頼みましょうか?」

「なんか悪いですねぇ」

「いいんです。こんなに楽しいの本当に久しぶりですから」と言ったなおみは店員を呼んだ。

「すいません、焼きそば一つと日本酒とハイボールをお願いします」

「ありがとうございます」と言って店員は店の奥へと消えた。

「あっ、やっさん、おつまみはよかったですか?」とやすしに聞く。

「大丈夫です。この紅しょうがのみじん切りがあったら永遠に日本酒が呑めるんで」と言ってテーブルに備え付けられれいる銀色のトレーを指さした。

「そんなこと言わずに、何か頼みましょうか」

「いや、ほんまにいいです。それより、なおみさん、本当は結構呑めるんちゃいます」

「そんなことないです。ただ今回のことがあってから結構呑めるようになったのは事実です」

「そうなんですか。せやけど、やけ酒ってのはようないですよ。酒は今日みたいに楽しい呑まんとね」

「はい。

 今日からはやっさんのように楽しくお酒を呑むようにします」

「よくできましたっ。そしたら、楽しく呑みましょか」


 焼きそばをあてになおみはハイボールを二杯空け、やすしは日本酒を二合喉に流し込んだ。

「ごちそうさまでした」とやすしがなおみに言って店内を見ると他に客はいなかった。

 立ち上がったなおみの体が少し横に揺れた。

「大丈夫ですか」

 言ったやすしの体も少し揺れた。

「大丈夫です。たこを食べすぎて足が八本になったから少しバランスが取りにくくて」

「うまいっ。なおみさん、あんたほんまにもう立派な大阪人ですわ。ようこそ、アホな街、大阪へ」

 店を出て大きな通りに出るとなおみは流しのタクシーに手を挙げた。

「歩いて帰る元気がないんで」と言ったなおみが突然やすしの腕に自分の腕を絡めた。

「やっさん、一緒に帰りましょ」

「ええっ、それはまずいでしょっ」

「いいじゃないですか。何かのご縁でこうやって出会えたんですから」

 久しぶりに胸のときめきを感じながらやすしはタクシーに乗り込んだが、なおみは運転手に行き先を告げると「あーっ、今日は楽しかった」と吐くと突然、眠りに落ちた。

 行き先は堺筋通りにそびえ立つタワーマンション。確か、一年位前に“大阪で一番高価なマンション”と銘打ってマスコミにも取り上げられ、いわゆる、ハイソサエティーだけが住めるマンションだった。

 タクシーはしばらく走ると御堂筋に入る。

 窓から見える景色は少し変わったが、大学を出て入った会社で一年目から営業部に配属され、接待で大阪の夜の街をタクシーで走り回った記憶がよみがえる。

 やがて土佐堀通りを横切り本町通りを東に折れ、しばらく走って堺筋に乗る。

 なおみの腕はやすしの腕に絡んだままだった。

 タクシーが止まった。

「なおみさん、着きましたで」

 なおみは反応しない。

 やすしは絡んだ腕をほどき、なおみの体を大きく揺らした。

「えっ、あっ、着いちゃった、はは、大阪の街、最高―っ」

 やすしはなおみをタクシーから引きずり降ろすと、運転手に「ちょっと待っといてくださいね」と言って彼女の肩を抱き、タワーマンションのエントランスまで運んだ。

「暗証番号は何番ですか?」

 やすしが聞くがなおみは再び眠りに落ちていた。

 しょうがないのでやすしは“警備室”とテプラが貼られたインターホンの白いボタンを押した。

 すぐに「どちら様ですか」と声が返ってきた。

「すいません、苗字はわからないんですけど、下の名前はなおみ言うて東京から引っ越してきたバリバリのビジネスウーマンですわ」

「あー、すぐに行きます」とインターホンの向こうから眠たそうな声が聞こえた。

 警備員は本当にすぐにやってきた。

「だいぶ酔うてはるんでよろしい頼んますわ」 

 言ってやすしは名刺を差し出し「この人に渡しといてください」と警備員に告げると待たせているタクシーに戻る。

「あっ、すんません、中央大通りの緑橋の交差点左に曲がって、三つ目の信号で止めてください」

 言うとやすしはかすかに残ったなおみの腕の感触を楽しみながら眠りに落ちた。


         ③

「やすしさん、外線入ってますよ、3番です」

 隣に座る入社三年目のしんすけに言われやすしは受話器を取り赤く点滅している細長い透明のボタンを押した。

「昨日はすいませんでした」

 なおみだった。

「いえいえ、こちらこそご馳走様になりまして」

 言ったやすしはざわつく周りを見る。中には小指を立てている社員までいた。

「タクシー代まで払って頂いて」

「そんなん気にせんといてください。また、ゆっくり行きましょ。大阪には美味しい店がいくらでもありますから」

「本当ですか?あっ、この週末、金曜日なんかお時間ありますか」

「いくらでもあります」と言いかけてやすしは考えた。

 金が無い。一週間に二回の新入社員歓迎会は通用しないだろう。同僚の親にでも死んでもらおうか。

「大丈夫です。この間の店で六時でどうですか」

「ありがとうございます。楽しみにしています」

 やすしが受話器を置くと電話を繋いだしんすけが「やすしさん、女ですか?」と言っていやらしい笑みを浮かべた。

「当たり前じゃ。お前らみたいに女もようくどかん、円周率“三”の世代とは違うんや」

「また、そんな言い方する。課長にチクりますよ」

「アホ、それはやめてくれ。これ以上給料カットされたら週末にほんまに日雇いにいかなあかんようになる。そんなことより、接待の金、前借しようとしたらどうしたらええんや」

「あっ、空接待ですね」

「アホっ、声がでかいわ。昼飯おごったるから、ちょっと教えてくれ」


 金曜日はすぐにやって来た。

 しんすけを昼間から焼肉食べ放題ランチに連れていき、見返りとして得た大枚三枚を握ってやすしはなおみを待っていた。

「どしたんや、やっさん、おめかしなんかして」と大将が聞く。

「おめかしなんかしてへんよ」

「せやけど、珍しくネクタイしてるやんか」

「アホか。俺かて営業マンの端くれや。ネクタイくらいするわ」

「まさか、この間のお姉ちゃんちゃうやろな」

「相変わらず顔は悪いけど感はええよなぁ」

「ほんまか」

「おお。今日もどっかの大阪の美味しいもん食べに行こうって」

「この間はどこ行ったんや?」

「たこ焼き」

「ベタやなぁ」

「アホか、金ないからしゃあないやろう、って言いながらおごってもうてんけどなぁ」

「で、その後はどしたんや?やったんか?」

「アホたれ、そんな元気あるかい。ちゃんとマンションまで送って行って別れたわ。タワーマンションやで、バリバリのキャリアウーマンや」

「ええやんか、そのままヒモになったら」

「アホって何回も言わすな。男のプライドが許さんわ」

「やっさんは、そういうとこだけ、ちゃんとしてるよな」

「そこだけって言わんといて。俺はちゃんと生きてるんや。正義に従って」

「従いすぎるからマッチせえへんねや、時代に」

「ほっといてくれ。そんなことより瓶ビールくれるか」

「へい。なんか造りでも作ろか」と大将が聞く。

そして、やすしが「いや、ええ。枝豆ちょうだい」と言った時、なおみが店に入ってきた。

「すいません、今日は無理言ってしまって」

 なおみの言葉にやすしは鼻の下を伸ばして「全然、大歓迎ですよ」と言った。

「お飲み物は?」と大将がなおみに聞いたが「瓶ビール頼んでるからいいですよ。ここは軽く呑んで次行きましょ」とやすしがなおみに言うと大将が不満そうな顔をした。

「なんや、やっさん、うちの店は待ち合わせの場所なんか。ロケット広場とちゃうで」

「そんなことないやんか。ちゃんと瓶ビールと枝豆たのんでるやんか」

「すいません、ロケット広場ってなんなんですか?」

 なおみが二人の会話に入ってきた。

「大阪には“なんば”ていう駅があるんですけど、その待ち合わせ場所で今はもうなくなったんですけど、ほんまにつくりもんのロケットが吹き抜けの空間にそびえ立ってたんです。東京駅の銀の鈴みたいなもんです」

「へぇ、そうなんですか。大阪の人っていうか街は大きなオブジェが好きなんですね」

「そう、大阪人の二大特徴。この間も言いましたけど、何でも揚げたがるのと、とにかく、でかかったらええ、というわけのわからん観念を持っていることです」

「お待ち」

 大将が瓶ビールと枝豆を二人の前に置く。

「ね、ビールかって大瓶でしょ。大阪ではあんまり中瓶とか小瓶は居酒屋では出てこないんです。スナックとかでしたら出てきますけどね」

「大(おお)瓶のことをこっちでは大(だい)瓶と言うんですね」

 なおみがやすしのグラスにビールを注ぎながら聞く。

「だって小(しょう)瓶、中(ちゅう)瓶と言うて最後になんで大(おお)瓶て言うんですか。音読み音読みと来たら最後も音読みの“だい”でしょ」

「なおみさん、こいつのへ理屈は適当に聞いといたほうがいいですよ。こう見えて国立出てるからへんに理屈っぽいとこあるんですよ」

「ほっとけ」と言うとやすしはグラスを一気に空けると枝豆を口に放り込み、おしぼりで口を拭った。

「なおみさん、今日は何食べたいですか」

「本場の“二度づけ禁止”を食べたいなって」

「わかりました。そしたら、そのビール空けたらすぐに行きましょ。人気のある店ですから七時回ったら絶対に入れないんですよ。大将、おあいそうして、この間のツケもな」

「どしたんや、やっさん、なんで今日はそんな金持ってんねん。上司の親、二人殺したんか」

「アホか、そんな野暮なことするか」

「ということは空接待やな」

「ピンポーン、ほんまあんたは勘だけはええなぁ、とりあえず領収書だけちょうだいな」


 大将の店を出るとタクシーを拾いお目当ての店に向かう。

「あっ、これ、天満の商店街ですよね」

 タクシーを降り少しだけ歩いてあたった通りでなおみは嬉しそうに声を上げた。

「そうですよ。知ってるんですか」

「何かテレビで見たことがあります」

「私も一時はよう来てたんですけど、なおみさんが言うようにテレビで取り上げられるようになってから人が増えて、早い時間に来んと入れんようになって。

 並んでまで呑みたいタイプやないからどんどん足が遠のいていって。多分これから行く店も狭い店で十人ちょっとしか入られへんとこやから微妙ですわ」

「そうなんですか。空いてればいいんだけどなぁ」と言ったなおみの顔が少し可愛く思えた。

 暫く歩くと「あの店ですわ」とやすしは緑色ののぼりが立つ店を指さした。

 のぼりには“串カツ”と書かれている。

 店の前につくとやすしは腰をかがめ店の中を覗いた。

「あっ、奥に二席空いてますわ」

「ほんとうですか」

 なおみは手を合わせ百万ドルの笑顔を浮かべる。

 鰻の寝床のような店を、先客の背中に触れないようにゆっくりと進み席に着く。

 やすしは「タバコ吸うようなやつばかりですから」と言ってなおみを奥の席に座らせた。

「お飲み物、何させてもらいましょ」

 相変わらず愛想の良い店主がすぐ目の前から聞いてくる。

「生でいいですか」とやすしがなおみに聞く。

「はい」

 なおみの答えを聞いてやすしは店主に「生二つ」と伝えなおみを見る。

「なおみさん、ここはね、最初の一杯だけ生ビールが百円なんですよ」

「えーっ、そうなんですか」

「このサービスを一時他の店がパクッて、あっ、パクるって盗むっていうことですから、それでそこらじゅうの店で一杯目の生ビール百円が蔓延したんですわ」

 百円の生ビールがやってきた。

「それでは、なおみさんの大阪デビュー二戦目に幸多きことを願って」

「乾杯っ」と二人の声が重なり合う。

「さっ、何食べましょ。なんか食べたいもんあります?」

「いえ、やっさんにお任せします」

「了解。で、なおみさん。ここは串カツはもちろんのこと、どて焼きも美味しいんですよ」「その黄色いお味噌のやつですか?」

 なおみはカウンターの向こうの浅い鍋でぐつぐつと煮こまれている串を指さした。

「そう。見た目はいかついけど、食べたらすごいやさしい味でなんぼでも食べれますから。

 とりあえず先に串カツを適当にたのみますね」

 言うとやすしは店主に「すみません」と言って「串カツ、この三本てやつね、あと、イカ、エビ、うずらを二本ずつください」と付け加えた。

「ありがとうございます」と店主は頭を垂れるとすぐに揚げにかかる。

「なおみさん、東京では串カツのこと串揚げて言うんですよね」

「そうなんです。よくご存じですよね」

「実は前に勤めていた会社で三年だけ東京で勤めていたことあるんですわ」

「えっ、そうなんですか」

「もう二十年位前なんですけどね。東京では“肉”言うたら“豚肉”のことで、肉じゃがの肉は豚肉やって聞いてて、そんなアホなことあるかって、赴任した一日目に歓迎会をしてくれたんですけど、試しに肉じゃがを頼んだらほんまに肉が豚肉やって感動したんです。せやから、さっき頼んだ串カツのカツはもちろんここは大阪ですから“牛”ですんで」

「本当ですか。私も“豚肉”の文化で育ちましたからカレーに入っているお肉は豚肉が当たり前だとずっと思っていたんです」

「とにかく、その時、東京の街にやたらトンカツ屋が多いなと思いましたから」

「そうですか。

 確かに大阪に来てまだ一週間ですけど、小さないわゆる“町のトンカツ屋さん”をほとんど見かけないです」

「せやけどね、食べもんは東京より大阪のほうが絶対に美味いっていいますけど、三つだけ、私的に、東京のほうが美味しいと思うたのがあるんですわ」

「えっ、その三つってなんなんですか」

「そばと鰻と、あとなぜか枝豆が美味しかったんです。

 大阪はうどん文化ですから美味しいお蕎麦屋ってなかなかないし、鰻は関西の焼いたやつより関東の蒸したやつのほうが口に合いましたわ。枝豆はなんでなんすかねぇ、千葉とか群馬の産地に近いからなんですかねえ、とにかく大阪の居酒屋で食べるやつよりは美味しく感じたんですわ」

 牛(ぎゅう)の串カツがやってきた。

「さっ、なおみさん、召し上がってください。これがいわゆる二度漬け禁止のソースです」

 やすしは銀のトレーにたっぷりと入ったウスターソースを指さすと串カツを手に取り「こうやるんですわ」と言ってソースに串をくぐらせガブリと喰らった。

「もし、ソースが足りんようになったら、もちろん二度漬け禁止なんで、この食べ放題のキャベツあるでしょ」

 言うとやすしはソースが入ったトレーの横でうず高く積まれたキャベツを摘まみ「これで、こうやって」と器用にソースを掬い 串カツの上に垂らした。

「わーっ、美味しそうだし面白そう。私もやってみます」

 なおみは串カツを手に取ると恐る恐るソースにくぐらせ、一呼吸置くとガブリと喰らいついた。

「美味しーっ」となおみは満面の笑みを浮かべた。

「うまいでしょ。今のところ僕の中ではここの串カツが日本一、しいては世界一やと思ってます」

「カツももちろん美味しいんですけど、このソースがいいですよね。しつこくないんですけど何かコクがあって」

「そうでしょ。どんどんいってくださいよ」

 なおみはやすしの言うがままに、わんこそばを食べるがごとく出てくる串を次々と胃袋に収めていった。

「他に何かおすすめはありますか?」

 二杯目の生ビールに突入したなおみがやすしに聞く。

「そうですねぇ、栗なんかどうですか」

「栗って、あの栗ですか?」

「そう。この間も言いましたけど大阪人はアホやから何でも揚げるんですわ。でも、結構美味しいみたいですよ。よう、女性のお客さんが頼んでますわ」

「じゃあ、それにします。やすしさんはなにか頼まれないんですか」

「そやねぇ、じゃあ、とっておきのこんにゃくいくか」

「それも美味しいんですよね」

「もちろん。

 揚げたこんにゃくにあのどて焼きのみそダレをかけて食べるんです」

「わーっ、美味しそう、私も頼んでいいですか」

「もちろん」と言ったやすしは店主に栗一本とこんにゃく二本を注文した。

「今日も最高に美味しいです」言ってなおみは玉子を丸々一個揚げた串を頬張る。

「そこまで喜んでもらえたら、食道楽の街、大阪の人間として本望ですわ」

「ランチで会社の近くの店に連れて行ってもらうんですけど、どのお店もすごく美味しいんです」

「まあ、平均点は高いですよね。まずい店って、まあないですし、客も敏感やから、味が落ちたらすぐに行かんようになってつぶれますわ」

「それに安いんですよね。向こうと比べると」

「まあ、東京は土地も高いし、しゃあないんちゃいます。せやけど、寿司と天ぷらだけはさすがに高いと思いましたわ。一回、お客さんに天丼をおごってもらったんですけど、確かに美味しかったし、大きな海老も二本ついてたんですけど、それが三千円ですよ。大阪やったら暴動起きますよ」

 なおみが「やっぱり、やっさんて面白いっ」と言ったとき、カウンターの向こうから栗とこんにゃくの串が供された。

「じゃあ、栗からいきます」

 言うとなおみはギンナンを少し大きくしたくらいの栗の串カツをなおみは頬張った。

「美味しいーっ、最高っ」

 隣で呑んでいたオヤジがなおみの声の大きさに顔を向けた。

「すんませんねぇ、彼女、一週間前に東京からやって来て、大阪のメシの旨さに狂喜乱舞してるところなんです」

 そうなんか、といった表情でオヤジは顔を元に戻した。

「さっ、久しぶりに食おかっ」

 やすしはどて焼きのみそダレがたっぷりとかかったこんにゃくの串カツにかぶりついた。

「おーっ、たまらんなぁ」

 栗を片付けたなおみもやすしを追いかける。

「うわっ、これ、なんなんですか、やっさん、いったいどうなっているんですか」

「言葉で表現するのは無理やね。感動は言葉を超える。昔、こんなコマーシャルあったんちゃうかな。

 さっ、俺はそろそろおでんゾーンに突入しよ。すんません、おでんの焼き豆腐お願いします」

「あいよっ」と言った店主がすぐにレンガのような焼き豆腐をやすしに差し出した。

 器の縁には黄色い練り辛子が塗り付けられていた。

「なおみさん、ここのおでんがまた美味しいんですよ。薄味なんですけどね、何とも言えんうま味があって、串カツ食べた後にむちゃくちゃ合うんですよ」

「へえーっ、そうなんですか」

「特に豆腐がね。口の中に溜まった串カツの油をサーっとどこかへ持ち去ってくれるんですよ。あっ、すんません、熱燗二合もらえます」

「あいよ」と言った店主になおみが「私もお豆腐ください」と赤く染まってきた顔で言った。

「なおみさん、豆腐いうたら冷やっこあるでしょ。あれ、どうやって食べます?」

 やすしは焼き豆腐の表面に練り辛子を塗りたくりながら聞いた。

「普通、ねぎとしょうがを乗せて、しょうゆとかポン酢をかけて食べますよね」

「そうでしょ。

 せやけど大阪ではおでんと一緒で辛子で食べるんです。しょうゆかけて」

「そうなんですか?」

「最近は呑み屋でもあんまり見かけなくなったんですけど、僕ら小さいときは冷やっこいうたら辛子つけて食べたんですよ。

 たまにお使いで近くの公設市場、今はもうなくなったんですけどね、そこへ豆腐買いに行くと必ず店のおっちゃんが白い半透明の紙に辛子つけてくれて。子供ながらに豆腐の白と辛子の黄色のコントラストがすごく印象に残ってるんです」

 なおみの焼き豆腐がやってきた。

「本当だ、お出汁が透き通っている」と言ってなおみはそのお出汁をすする。

「あーっ、すごく上品な、なんだろう、薄味なんですけど、ちゃんと旨味を主張しているっていうか」

「まあ、これが食道楽大阪の底力ですわ」

 得意気に言ったやすしはカウンターの向こうから供された二合の熱燗を曇ったコップに自らの手で注いだ。


「ごちそうさまでした」

 色白の肌を桜色に染めたなおみがやすしに言った。

「お礼を言うんやったら会社に言うてください。私はびた一文身銭を切っていませんから。

 それより、この後どうします?もう一軒軽く行きます?」

「ちょっと酔っちゃったんで・・」

「酔い覚ましに少し歩きましょか」

「あっ、いいですね」

 二人は天神橋筋商店街を北に向かってゆっくりと歩いた。

 人気店なのか行列のできている店が何軒かある。

「あれ並んでるのはね、ほとんど観光客ですわ」とやすしが言う。

「そうなんですか」

「大阪人はいらち、あの短気っていうか、あっ、せっかちね、せやから、いくら美味しいとわかっていても並んでまでは食べないんですよ。その点、東京の人はえらいなぁとおもいましたよ。大して美味しくもない店でもランチの時なんかみんなだまーって待ってますもんね。しょっちゅう電車が遅れても文句言わんと背中丸めてホームで静かに待ってますもんね」

「何か小さいときから植え付けられているんですよね。とにかく、どこへ行っても人が多いので待つのが当たり前だという少し諦めたようなものが」

「俺なんか歳を取ってきたせいか、ますますいらちになってきて、普段、お金がないから立ち呑みばっかりいってるんで、呑みものもあても頼んだらすぐに出てくるくせがついてしまって、たまに座って呑める店に行って三分立って注文したもんが出てけえへんかったら『注文通ってる?』てすぐに聞いてしまうんですよ」

「じゃあ、この間のたこ焼きの店ではかなり我慢されていたんですよね」

「あっ、わかりました?

 ほんまに鉄板ひっくりかえしたろかなと思て・・・てうそですよ。そんな了見の狭い人間やないですから」

「ハハっ、やっぱりやっさんて面白いですね」と言うとなおみは左腕をやすしの右腕にからめた。

「なおみさん、ここは東京と違って狭い街、大阪ですよ。誰にみられるかわかりませんよ」

「いいんです。もう落ちるところまで落ちましたから」

「そんなことないですよ。なおみさんが落ちたっていうてもタワーマンションの屋上から住んでる三十五階まで。落ちてもまだタワーマンションの三十五階にいる。私なんか公団住宅の四階から地面に叩きつけられましたから。落ち方のレベルが違いますよ」

「やっさん、上手く言いますよね。さらっと簡単に冗談を言うんですけどすごく的を得ているというか本質をついているというか。大阪の人だけに“出汁”が効いてますよね」

「上手いっ。なおみさん、たった一週間で、もう落語で言うたら真打昇進ですわ」

「ありがとうございます」

 言うとなおみは絡めていた腕をほどき左の掌をやすしの右の掌に重ね合わせた。

 

 扇町に出るとやすしは「もうちょっとですから」と言って少し歩き、なおみを東通り商店街にあるバーにエスコートした。

「いらっしゃいませ」

 薄暗い店内のカウンターの向こうからマスターの低く重い声が響く。

 テーブル席もあったがカウンター席に二人は腰を下ろした。

「なおみさん、ウーロン茶かなにかにしときます?」

「いえ。夜風に当たったのでだいぶ酔いがさめました。ハイボールを頂きます」

「ラジャー」

 やすしはマスターになおみのハイボールとハーパーのロックをダブルで注文した。

「昔はこういったゆっくりとウィスキーとかバーボンが呑めるバーが結構あったんですけど今はほとんど無いですからね。若い人らはお酒になんかお金掛けないですから、安もんのチェーン店とか、バーと言いながらワンコインで既製品のハイボールを平気で提供するような店しかないですから」

「価値観が変わりましたよね」

「僕らの若いときなんかスマホなんかなかったから通信費に月に一万も二万も掛けることが無かったですからね。頭の中は女一色で、どうやって誘おう、誘ったらどこの店行こう、そんなことばっかり考えてましたから」

「肉食系とか草食系という言葉なんか無かったですものね」

「みんな肉食系でしたから」

 やすしのつまらない冗談になおみが笑うと、ハイボールとハーパーのロックダブルがマスターから供された。

「じゃあ、なおみさんの真打昇進に乾杯っ」

 マスターの?と言う顔を横目で見ながらグラスを重ねる。

「あっ、おいしいです」

「そうでしょ。僕もハイボールにはまった時期が一時あったんですよ。本当はこういったマジなやつは結構好きなんですけど、今みんなが呑んでる既製品は正直あんまりおいしくないんで」

「何かつまむものはいいですか」とマスターが聞く。

「あの小石みたいなチョコある?俺、あれ好きやねん」

「ストーンチョコですよね」

「あっ、ほんまにストーンチョコて言うんや」

「ありますよ」とマスター。

「じゃあ、それ、お願いします」と言うとやすしはハーパーを舐め「ちょっと吸わしてくださいね」となおみに断りを入れ紫煙をくゆらせた。

「はーっ、最高っ、タバコとアルコール、最高の組み合わせっ」

 マスターが笑みを浮かべながらストーンチョコをカウンターに置く。

 白魚のようななおみの指がスーッと伸び、ストーンチョコを摘まみ口に運ぶ。

「あっ、美味しい」

「なおみさん、ちょっと今日は“美味しい”言い過ぎちゃいます」

「だって、どれもこれも美味しいんですからしょうがないじゃないですか」

 言うとまたなおみはストーンチョコに手を伸ばす。

「あれ? なおみさん、ひょっとして、ぎっちょ、い、いや、サウスポー?」

「そうなんです。で、今、やっさん、ぎっちょ、て言いました?」

「うん。僕ら子供のころは左利きのことをぎっちょって言うたんですよ。今はなんや差別用語やからつこたらあかんみたいで、今でこそ個性を伸ばす言うて単なる躾ができてないのを上手くすり替えて言うてますけど、昔はきらったんですよ。せやから親が無理矢理矯正して、野球で言うたら右投げ左打ちのような選手が誕生するようになったんですわ」

「うちも両親ともすごく厳しい親だったので、食事中に左手で箸を持つものならぴしゃっと手の甲を叩かれて」

「そうなんや」

「だけど、気が緩むと今でも出ちゃうんです、左手が・・」

 言うとなおみはカウンターの下で、左手をやすしの右手に重ねた。

「やっさん・・」

「どしたんですか?」ハーパーを舐めながらやすしが聞く。

「昨日、彼から電話があったんです」

「彼って、元旦那さん? それとも新しく旦那さんになる予定だった人?」

「後のほうです」

「なんて?」

「奥様が亡くなられたと」

「そうなんや」

 それ以上どう言っていいのかわからなかったので、やすしは空いている左手でストーンチョコを摘まむ。

「悪いことをしたって。落ち着いたら一度会ってくれないかって」

「で、なおみさんはどう返しはったんですか」

 なおみは空いている右手でグラスをつかみ、ハイボールをゆっくりと喉に流した。

「考えさせてくださいって」

「そう」言ってやすしはもう一度ストーンチョコを摘まむ。「せやけど、本当は会いたいんやね。ついこの間まで大好きな人やってんから」

 なおみは少しだけ微笑んだ後、泣きそうな顔になり、やすしの肩に頭をもたせかけた。

「どう言っていいのかわからなくて」

 語尾になおみの涙が混じる。

「せやけど、絶対に言わなあかんことありますよ」

 なおみが頭をやすしの肩から離す。

「それは何ですか?」

「この度はご愁傷様でした」

 一瞬の間があった後、こわばっていたなおみの顔が溶けた。

「ちょっと不謹慎やけどね」

 やすしの言葉になおみは小さな声で「やっさん、やっぱり、面白いです」と言った。


 バーを出ると二人は東通り商店街をゆっくりと歩いた。

「なおみさん、まだ電車あるんで、私、地下鉄で帰りますわ」

 地下通路へつながる階段で立ち止まってやすしはなおみに言った。

「うちに来ないですか?」

 なおみはお天気キャスターが「明日は晴れです」と言うようにサラリと言った。

「行ってええんですか」とやすしも駅員に「大阪駅に行くホームはどこですか」と聞くようにツルリと言った。

「もちろんです」

 流しのタクシーに乗った二人は運転手の存在など気にせず激しく舌を絡めた。

 タワーマンションにつくとエスカレーターで二階のフロントに上がり、受付にコンシェルジュがいないのを確認するとエレベーターに乗り、もう一度二人で舌の感触を確かめる。

 部屋に入り、大阪の街を見下ろす絶景に感動しているやすしの陰茎をなおみは激しくいたぶった。

「左手のほうが気持ちいいって、あの人は言ってくれたんです」

 なおみの左手で絶頂を向かえたやすしは遠くに見えるライトアップされた大阪城を見下ろし豊臣秀吉になる。

「天下取ったりっ!!」


         ④

 やすしはコンビニに入るとまずレジを見た。   

 店員は若い男一人と中年の男が一人。

 缶ビールの6本パックを手に取るとお目当ての品が陳列されている棚の前に立つ。

 コンビニでコンドームを買うのなんかは一体いつ以来だろうか。

 やたら派手なパッケージの四角い箱を手に取るとレジに向かう。

 レジには先客は誰もいなかったが中年の男の方に進み出る。

 男は全く表情を変えずバーコードを読み、紙袋に品物を入れると、缶ビールの6本パックが入っているレジ袋に入れてくれた。


「たこ焼き器を買ったんです」と一昨日、金曜日の夜になおみからメールが来た。

“日曜日のお昼間にお邪魔しますわ”と送信してその日曜日がやって来た。

 タワーマンションに着くと、なおみに教えてもらった暗証番号でエントランスに入りエスカレーターで二階に上がる。

 コンシェルジュの中年の女性と目が合い軽く会釈する。

 コンビニのレジ袋を提げた冴えないおっさんを見てどう思っているんだろうとエレベーターのボタンを押す。

 ボスに呼ばれた下部のようにエレベーターはすごい速さで階上から下りてきた。

 乗り込むと35のボタンを押す。

 するとエレベーターは天に吸い込まれるように上昇する。

 耳に違和感を感じながらレジ袋から紙袋を取り出し、中身をジーンズの後ろポケットに収納する。

 串カツの夜、なおみの左手で果てたものの彼女の中には入らなかった。

 そういうロケーションになるとは思っていなかったので備えておらず、まさかを考えた結果、泣く泣く辞した。

 エレベーターが動きを止めると扉の向こうでなおみが手を振って待ってくれていた。

「すいません、無理言っちゃって」

「ノープロブレムです。むしろ歓迎です。どうせ朝から安もんの缶酎ハイ呑んで即パッドで百円馬券買ってるだけですから」


 部屋に入ると、相変わらず眼下に拡がる大阪の街にやすしは感動する。

 テーブルの上にはこれ見よがしにたこ焼き器が鎮座している。

「もう完全に大阪人ですよね」

 やすしの言葉に「ええ、もう大阪で骨を埋める決心がつきました」となおみは笑顔を添えて返した。

「これ、たぶん足りへんと思うけど」とやすしは缶ビールの6本パックをなおみに差し出した。

「あっ、ありがとうございます」

「ほんまはこのタワーマンションに合わせてワインにしようと思ったんやけど、たこ焼きにはやっぱりビールかなと思て」

「そうですよね。郷に入れば郷に従えですから。さっ、焼きましょ、焼きましょ」

 テーブルに鎮座するたこ焼き器は本格的なものだった。

 なおみが手際よく鉄板の窪みに生地を注ぐと、それほど時間を経ずにぐつぐつと煮立ってきた。

「最近のはすごいですよねぇ、ガスのんと遜色ないですもんね。昔、子供が小さいときに買った電機式のやつは焼けるのに無茶苦茶時間がかかって、やっと焼けたと思ったらみんながっついてて、あっという間になくなって、また、そこから焼けるまでに果てしない時間がかかって、その間がすごい嫌やったんですよ」

「鉄板にも色々工夫がされていて、熱の伝わり方もすごく良くなっているみたいです。

あっ、やっさん、タコ入れてください」

「はいはい・・せやけど、なおみさん、たこ焼きを焼く姿がなんか板についてきましたよね」

「ありがとうございます。実は、昨日、今日の為に練習したんです。上手く丸く焼けるように。おかげで右の手首がすごく痛くて」

「そんな時は右手なんですね」

「もう、やっさん・・」

 たこ焼きの生地から立ち上がる煙に紛れて二人は唇を重ねる。

「あっ、やっさん、紅しょうがお願い」

 なおみがまだ唇にやすしの温もりを感じながら言う。

「あいよ」と言ったやすしも、唇になおみの温もりを感じながら小皿に盛られた紅しょうがのみじん切りをプラスチックのスプーンで掬い、はらはらと鉄板の上から散らした。

「あっ、乾杯まだでしたよね」のなおみの声で二人はグラスを重ねる。

「せやけど、一生縁なんかないと思ってたタワーマンションで、なおみさんみたいな綺麗な人と二人でたこ焼きをつつけるなんて夢みたいですわ」

「上手いですね。そうやってたくさんの女性をくどいてきたんですよね」

「そう。女はたこ焼きと一緒。焼けるまでは丁寧に丁寧に、こげんように、丸く丸くきれいに仕上げる。で、焼けたと思ったらソースぶっかけて、青のりかけて、ガブリと喰らいつく・・・ってちゃうちゃう、そんな野蛮なことはしてませんて」

「ははっ、やっぱり、やっさん、最高です。

 あっ、焼けてきましたよ」

「さっ、練習の成果を見せてもらいましょか。そのゴッドハンドやらを」

「そんなこと言わず、やっさんも一緒にやりましょうよ」と言ってなおみはやすしに竹串を渡した。

「竹串って通やなぁ。俺よりよっぽど大阪の文化に溶け込んでますやん」

 二人は口を真一文字に結びたこ焼きを焼き上げる作業に没頭する。

「ええ感じになってきたやん。商売できるんちゃいます」

 額の汗を拭いながらやすしが言う。

「無理ですよ。それに一日中たこ焼きを焼くのはいやです。自分が食べる分だけで充分です。そろそろいけますよ。やっさんはソースだけでしたよね」

「イエス。マヨネーズなんて邪道。愚の骨頂」

 やすしは竹串でまん丸のたこ焼きを鉄板から皿に移すと、なおみがその上からソースを垂らす。

「それではお先」とやすしはたこ焼きに爪楊枝を差し口に運ぶ。

「はふっ、はふっ、あつっ、あっ、うまい、マジでうまいっ」

「本当ですか。私もっ」

 なおみはお箸でたこ焼きを摘まむと二度フーフーをして何もつけずに口に入れた。

「おっ、おいしーっ、はふ、あっ、熱いけど、すごくおいしーっ」

「これ、マジで金取れますよ。なおみさん、土日だけでええからほんまにやりませんか」

「考えときます」


 たこ焼きが3クール目に入った時、6本の缶ビールが空になり、なおみがキッチンに行くと一升瓶を持って戻ってきた。

「あっ、それっ」

 やすしが声を上げた。

 なおみが手にしていた日本酒は幻の酒と言われ、めったに流通することがなく、一升瓶で二万から三万で取引されている、とんでもない代物だった。

「どうやって手に入れたんですか?」とやすしが聞く。

「秘密です。ある闇のルートがあるんです」

「なおみさん、あなたはもう完全な大阪人です。それだけ冗談言えたら合格っ」

「ありがとうございます。光栄です。

 折角ですからどんどん呑んでくださいね」

 なおみは曇ったコップではなく、洒落た切子グラスに酒を注ぐとやすしに手渡す。

「で、あの人とはどうするんですか。もう腹決めたんですか?」と言ってやすしは切子グラスを傾け「美味し」と漏らす。

「会うことにしたんです」

「そうなんですか」

「昨日の夜、また電話があったんです」

「なんて言うてはりました?」

「奥様の一周忌がすんだら一緒になってくれって」

「で、なおみさんはどうしますん?」

「断るつもりです」

「そうなんですか。なんでですか?」

「なんだかよくわかんないんですけど、もう、いいかなって・・」

「なおみさん、実は私も不倫の経験あるんですよ」

「そうなんですか」

「人妻ともしましたし二十歳年下の女性ともしました。それで、これはあくまで私見ですけど、不倫って、男は久しぶりの恋愛を楽しんでるんですよ。もちろんそこにはSEXも含まれます。せやけど好きにはならないんですよ。LIKEにはなるんですけどLOVEにはならないんですよ。何回も言いますけど、あくまで私見ですけどね」

 なおみは缶ビールが空になっているのを確認すると、手酌で切子グラスに幻の酒を注いだ。

「だけど女は違うんですよね。好きになってしまう。LOVEになってしまうんですよね。そして、これも私見で絶対に間違ってないと思っているんですけど、奥さんから夫を奪ってやろうという気持ちが芽生えてくるんです。

 せやから不倫の末、結婚を求めるのはたいがい女やと思うんです。ようニュースでやってるでしょ、ラブホで女性が殺されました。後日捕まった男は『結婚を迫られたので困ってやってしまいました』と供述しています。男には妻子がありましたって。あのパターンですよ」

「だけど私たちの場合は言ってきたのは向こうからですから」

「ほんまやねぇ、私見撤回っ、わずか一分の寿命でした」

「ですけど、奥様から奪ってやろうという自覚は無かったですけど、どこかでそのような思いがあったのかもしれません」

「私見、復活っ」

「ははっ、やっさん、やっぱり面白いっ」

「結婚してくれって言われても困って殺したろうとは思わなかったんでしょ」

「はい」

「やっぱりLIKEではなくLOVEなんですよ」

「だけど今度は違います。ひょっとしたらウザくなって私が殺してしまうかもしれません。それか向こうが私が断ったことに腹を立ててカッとなって私を殺そうとするかもしれません」

「なおみさん、二時間ドラマの見過ぎですわ」

「何か、いろんな意味で彼と会うのが怖くなってきました。やっさん、一緒に行ってくれません」

「なんでやねん。どんな立場でどの面下げて行くんですか」

「やっぱりダメですか・・」

「なおみさんねぇ、イヤやイヤやと思っとってもいざ会うたら変わるんちゃいます。ついこの間までLOVEやった二人ですよ。また、神の手、レフトハンドで彼を・・」

「やめてくださいよっ」

 言うとなおみは立ち上がりやすしの後ろに回ると腕を体に絡ませた。

「やっさん、抱いてください」

「LOVEやないですけどええですか」

「はい、LIKEでもいいです。思いっきり抱いてください」

 まだ半焼けのたこ焼きを鉄板に残して電源を切ると、二人は高校生のようなSEXを始めた。


         ⑤

「あんたがこの間ぎっちょかって言うた、おさむ君、教室辞めたんやで」

「ほんまか」

「今朝、お母さんから電話があって、本人がもう行きたくないって。多分、あんたがいらんこと言うたからやで」

 言いながらやすえはそうめんが入った大きな透明の器をテーブルに置く。

「アホか。そんなこと気にしとったらこれからの人生やっていけるか。嫌なことばっかり目の前に現れてくるんやで、子供のころから鍛えとかな。あっ、ビール取ってくれへん」

「自分で取りいや。ほんまなんもせえへんなぁ」

「ええやんか、お前に甘えてんねやんか」

「きもーっ。しょうもないこと言うとらんと早よう食べてや。夕方からちょっと出かけるんで早う片付けたいねん」

「出かけるって、また、ママ友か?」

「そう。主婦のささやかな楽しみ。あっ、これ晩御飯代な」

 やすえはやすしに千円札一枚を差し出した。

「千円って、お前、酒呑んだらあて頼まれへんがな」

「このそうめん持ち込んだらええやん」

「アホか、もう一枚くれや、頼むわ」

「おさむ君が辞めて三千円月謝が減ったんやで。誰か勧誘してきてや」と言ってやすえは渋々やすしに千円札をもう一枚差し出した。

「わかった。日曜日に駅前で手造りのちらし配るわ」

「絶対にせえへんくせに。その代わり洗いもんだけしといてや。そうめんは残ったらラップかけて冷蔵庫に入れといて。それぐらいはできるやろ」

「当たり前や。こう見えても子供の時はカギっ子で家の手伝いは散々やってきたんや。任せとけ。それより、早うビール取ってえや」

 言うとやすしはそうめんのつけ汁に出来合いのしょうがのチューブを絞った。


 なおみと出会ったいつもの居酒屋の暖簾をやすしはくぐった。

「おっ、どしたんや、やっさん、土曜日に歓送迎会はでけへんやろ」

「アホか、今日はまっとうな金じゃ。嫁はんがママ友と晩飯食いに行くからって飯代もろたんや」

「なるほどな。で、予算はなんぼや?」

「大枚二枚や。酒呑めたらええから、あては枝豆と出来たらなんでもええから魚系造ってくれへん」

「やっさん、それはなんぼなんでもでけへんわ。酒を優先するんやったら、あてはそうめんしか出されへんわ」

「そうめんだけは勘弁してくれ。昼間に鼻から出てくるほど食べたんや」

「しゃあないなぁ、昨日残ったマグロあるからしょうがで煮たるわ。造りで売りたかったんやけど、あたりでもしたら今の世の中、何言われるかわからへんからな」

「すまんなぁ。あと、生ビールをコップ一杯だけくれへんか。そうめんのつけ汁がまだ喉に残っててなんか気持ち悪いねん」

「せこいこと言うな。生一杯おごったるわ」

「うへーっ、大将大好きっ」

「やっさん、悪いけど俺は男には興味ないからな」

 大将はビールサーバーにジョッキをセットすると釦を押した。

「やっさん、この間の女の人、なんて言うたっけ」

「なおみさん」

「昨日、電話くれてな」言うと大将はやすしにビールの入ったジョッキを差し出した。

「なんて?」とやすしが聞く。

「来週の金曜日、二名で予約お願いしますって」

「そうなんや」

 やすしはジョッキを傾ける。

「東京から知り合いが来るんやて。是非とも紅しょうがの天ぷらを食べさせてあげたいのでお願いしますって」

「時間は何時に予約しはった?」

「七時や。なんや、別の男と呑んでるか偵察に来るんか」

「アホか、そんな女々しいことするか」と言いながら、やすしは少し気になった。

 一回りも年下の女と浮気して、おまけに一度は嫁さんを捨ててまで一緒になろうとした同い歳の男。姿だけでも見てみたい。

「やっぱり俺も来れたら来るわ」


 大将におごってもらった生ビールと三合の日本酒でかなりいい気分になってやすしは店を出た。

 電車で一駅の距離を歩いて帰ることにした。

 途中、コンビニでミネラルウォーターを買い財布の中は五円玉と一円玉だけになった。

 なおみのスマホにガラ携からかける。

「金曜日の夜に会うんや」

「えっ、どうして・・あっ、お店に?」

「ピンポーン」

「呼んでくれたらよかったのに、一日ずっとヒマしてたんですから」

「申し訳ない、二人分の資金が無かったから」

「そんなの、自分の分は出すのに」

「いやいや、そういうのは俺の流儀に反する、て言いながら結構出してもらってるけどね」

「今日は何を召し上がったんですか?」

「枝豆と残りもんのマグロを大将がしょうがで煮てくれて」

「美味しそうですね。紅しょうがの天ぷらは?」

「酒に重きを置いたから二品だけ」

「そうなんですか。何か早くお店に行きたくなってきました」となおみが言ったとき、着信を告げる電子音が混ざった。

「それでは存分に楽しんできてください。そしたら、今日はおやすみ」と電話を切るとやすしはガラ携の画面を見る。

 珍しく妻のやすえからのメールだった。

“なんか羽振りええやん。タワーマンションに出入りしてるみたいやね”

 やすしはタバコに火を点けると一服ふかし返信する。

“なんや、スパイでも雇てんのか、詳しくは帰ってから話すわ”


 スパイはママ友だった。タワーマンションのコンシェルジュ、まさかのまさかだった。

「お得意さんの重役夫婦が東京から転勤でやって来はったんや。で、大阪の街になじもうと思ってたこ焼き器を買ったんやけど焼き方がわからへん。やっさん、悪いけど行ったってくれへんかてかなりの上席から言われて、うちの会社で一番売り上げの多いお得意さんやから断ることもできず泣く泣くタワーマンションに入城したってわけや」

「へぇーっ、泣く泣く入城した割には城から出てくるときにはニコニコやってんなぁ」

 そのママ友はやすえに一体どんな情報を流しているんだろうとやすしは思いながら、残っていたミネラルウォーターのペットボトルを傾ける。

「女の人がエントランスまで送ってきてくれたらしいやん」

「旦那さんがな、たいして酒が強くないのに俺と同じペースで呑んで酔いつぶれはったんや」

 いいと言ったのになおみはエントランスまで一緒に降りてきた。おまけにエレベーターの中で唇まで重ねた。やすえが探偵でも雇って録画の映像を見られたりしたら一貫の終わりだった。

「結構若いらしいやんか。そんなに若いのに会社の重役の奥さんでタワーマンションに住めんねんなぁ」

「旦那さんは奥さんの一回り半上や。偶然にも俺と同い歳や。えらい違いやで」

 やすしは立ち上がり、いつもはやすえに取ってもらう缶ビールを自らの手で冷蔵庫から取り出した。

「せやけど、りり君ママはあの女性は一人暮らしのはずやって言うてたで」

「奥さんは部屋の掃除とか色々あって前乗りしてはったんや。で、俺がたこ焼きの指導に行った日の前の晩に旦那さんは東京で仕事を片付けて最終の新幹線でこっちにやってきはったからタワーマンションに着いたのは日付が変わる前後やろ。そんな時間まで、なんやったっけ、りり君ママやったっけ、働いてないやろ。それで気づかへんかったんちゃうか」

言うとやすしは、缶ビールのプルトップを引き、今日初めてビールを呑むかのようにゴクゴクと喉を膨らませた。

「ふーん」と言ったやすえは、二時間ドラマの取調室で容疑者を見つめる刑事のような目でやすしを見た。

「なんや、疑ってんのん? 浮気すんのには金がいるねん。呑み屋の大将に生ビールをおごってもろうて喜んでる冴えないおっさんには夢のまた夢の話や。そんなことより、男でりりって、そっちの方が俺には気になるわ」

「また、そういうこと言う」

「なんか今日は酔うたからもう寝るわ。風呂は明日の朝入るから」

 言うとやすしは昔物置だった名ばかりの自室の扉を開けた。


         ⑥

 週が明けた月曜日の朝、会社のデスクでたまったメールの整理をしていると、やすしは上司の“ゆとり世代”に呼ばれた。

 応接室に入るなり「やすしさん、今日で減棒処分が解けましたね」と“ゆとり世代”は潤いの全くない笑みを浮かべて言った。

「ほんまですなぁ、いやーっ長かった、やっと今日から白い米食べれますわ。なんかお祝いでもしてくれるんですか?」

 やすしの嫌味に“ゆとり世代”は表情を全く変えず「いえ、お祝いではないんですけど」と言って少し間ができた。

「なんなんですか。まさか、これでっか?」とやすしは自らの手刀で首を切るふりをした。

「やすしさん、これは会社からの指示なんです」

「私の私情は挟まっていない、ということですね。で、なんですか?」

「東京へ行ってください」

「東京?出張ですか? 私の得意先で本社が東京のとこなんか一つもないですけど」

「いや、違うんです。転勤なんです」


「あのボケっ、なにが私情は挟んでませんや、思いっきり根に持っとるやんけっ」 

 やすしは缶ごと呑み込んでしてしまうくらいの勢いで缶ビールを傾けた。

「せやから言うたやん。あんたよりアホなんかしらんけど、立場上は上司やねんから。口は災いの元って言うやろ」

「くそっ」

 やすしはテーブルの野菜炒めを、ライオンがヌーを喰らうがごとくむさぼった。

「で、いつからなん?」珍しくノンアルコールのビールをコップに注ぎながらやすえが聞く。

「辞令は四月二十日付。ただし、引継ぎあるから実際にはゴールデンウィーク明けやろなぁ」

「住むとこは?」

「俺と代わりに大阪に来るやつが家族で住んどった3LDKのマンション、会社が借り上げているやつ」

「場所は?また千葉?」

「当たり前や。うちの会社が東京にマンションなんか借りれるわけないやろ。一緒に行ってくれへんわな」

「うん。習字教室あるし、香代も社会人になったいうてもなんもでけへんからなぁ、一人置いていくわけにはいかんわ」

「そらそうやわなぁ・・・まあ、通勤地獄はもう諦めてるし、飯も二十年前とは違ってコンビニの弁当もラインナップはかなり豊富になってるからええんやけど、問題は洗濯と掃除や」

「部屋は四つあるけど、どうせほとんどリビングでおるんやろうからそこだけたまに掃除機かけたらええやん。トイレ掃除は便器拭いてそのまま流せるシートがあるからそれ買うといたるわ。洗濯は、Yシャツは全部クリーニングに出して、それ以外の下着とかは週末に宅急便で送ってきい。すぐに洗って送り返したるから」

「うん、そうするわ・・」

 やすしは缶ビールを空けると冷蔵庫からもう一本取り出した。

「まさかこの歳になって単身赴任するとは夢にも思わんかったわ」

「どうしてもアカンかったら帰ってきたらええやんか。その代わりちゃんと前もって言うてや。これまでみたいに黙ってはアカンで」

「大丈夫や、頑張るわ」

 言うとやすしは少しだけ肩を落とすと自室に入った。


 木曜日の夕方、やすしは京橋のガード下の店でなおみを待っていた。

 転勤の話をなおみにしたところ、お酒を呑みながらゆっくり話しましょう、となり、タワーマンションにはスパイがいるので、資金の関係から京橋のガード下を選択したのだ。

 そして、やすしが大瓶ビールを呑み干した時、なおみが店に入ってきた。

「千ベロセット言うて、千円でベロベロになれるセットなんです。呑みもの三杯と小鉢三品がつくんですよ」

「へぇ、それで千円てすごくリーズナブルですよね」

 若い女の子の店員がなおみの注文をとりにきた。

「わたしも千ベロセットをお願いします」

 なおみが京橋の街に全く似つかわしくない標準語で店員に言う。

「小鉢が三品選べますけど何にされますか」と店員がなおみに聞く。

「やっさんは何にしたんですか」

「奴と枝豆とうずら玉子を煮たやつ」

「私もじゃあ同じのをお願いします」

「承知しました。一杯目のお飲み物は何にされますか」と店員が聞く。

「大(おお)瓶、いえ、大(だい)瓶ビールをお願いします。やっさん、二杯目は?」

「レモン酎ハイちょうだい」

 店員は注文の品を復唱し店の奥に戻っていった。

「なおみさん、さすがですよね、もう大(だい)瓶をマスターしましたよね」

「ありがとうございます。結構適応力はあるほうなんです」

「せやけど、悪いですねぇ、明日は大事な日やいうのに」

「そんなの全然問題ありません。もう心は決まっていますから」

 注文した呑みものがやってきた。

 やすしはなおみのグラスにビールを注ぎ、レモン酎ハイのジョッキで乾杯する。

「だけど京橋ってなかなかいい雰囲気の街ですよねぇ。何か大阪らしいっていうか」

「本当は会った初日にお連れしたかったんですけど、あまりにもインパクトが強すぎる街なんで今日まで取っておいたんです」

「へえー、だけどきれいなお店ですよね」

 なおみは店員が持ってきたうずら玉子の煮たやつを口にした。

「この店は京橋の中では高級店に属します。一本通りを渡ったところにはこれぞ京橋ていう立ち呑み屋がひしめいていますから」

「行ってみたいです。私これまで立ち呑みに行ったことないんです」

「そうなんですか。どの店もお世辞にもきれいな店やないですけど、あては間違いなく安くて美味しいですから。ここ出たら行きましょか」

「うわーっ、楽しみです」

 やすしは残っていたレモン酎ハイを一気に喉に流し込んだ。

「なんや、氷ばっかりや、三杯目は何にしよかな」

「やっさん、今日は日本酒は呑まないんですか」

「残念ながらこの千ベロセットには日本酒は含まれてないんです。五百円プラスしたら日本酒も呑めるんです」

「じゃあ、私出しますから頼んでくださいよ」

「いや、いいです。次の店まで我慢します。ここ私出すんで、次の店、なおみさん、お願いしますわ」

「了解しました」

「じゃあ、私は最後の一杯はハイボールにします。なおみさんはまだ二杯残ってるんですよ。頑張って呑まんと次の店に行けませんよ」

「そんなに早く二杯も呑めないんで、やっさん一杯助けてくださいよ」

「ラジャー。じゃあ、ハイボール二杯もらいます。なおみさんは?」

「さっきやっさんが呑んでいたレモン酎ハイにします」


 店を出ると商店街を一本またぎ細い通りを進んでいくとその店はあった。

「おっ、空いてるわ」

 開け放たれたドアに吊るされた暖簾をくぐるとコの字型のカウンターが現れ、向かって右側の一番奥に二人分のスペースが空いていた。

「六時とか七時なんかに来ても絶対に入れないんですよ。かえってこれくらいの時間の方が空いてるんちゃうかと思ってたら正解でしたわ」

「なにかすごいですよね」 

 店内を見渡したなおみが目を少し丸くしてぽつりと吐いた。

「京橋言うたら大阪の立ち呑みのメッカですからね。せやけどまだ平日の夜やからこんなもんなんですよ。たまに土曜日の昼間とかに来たら夜勤明けの酔っぱらいの団体とか、俺の成れの果てみたいな耳に鉛筆刺したおっちゃん連中で一杯ですわ。まさしく人種のルツボですわ」

「そうなんですか。一度その時に来てみたいなぁ」

「いつでも案内しますから言うてください。それよりなんか頼みましょ。なおみさん、お腹空いてんちゃいます。あんな小鉢だけやったから」

「お勧めってなにかあります?」

「そうやねぇ、なんでも安くて美味しいですけど鉄板焼きいきましょか。その鉄板で焼いてくれるんですわ」

やすしはカウンターのすぐ向こうにある小さな鉄板を指さす。

「あとアジフライをおでんの出汁で食べるやついきましょ」

「おでんの出汁でですか?」

「そう。それがなかなか美味いんですよ。あと、この店構えと似つかわしくないんですけどポテサラが意外と美味しいんですよ。呑みものは何にします。私はもちろん熱燗ですけど」

「私も熱燗を頂きます。炭酸でお腹が膨れてるんで」

 うんちくはいいから早く注文しろよ、といった顔で待っていた目の前の店員にやすしは

「すんません、熱燗二本、コップ二つで、あと海鮮焼きとアジフライ、これ出汁で二つ、それとポテサラ一つください」

「海鮮焼きってなんですか?」

 なおみがやすしに聞く。

「海老とほたてとイカを焼いてポン酢で食べるんですわ」

 なおみは店の壁に貼られたメニューを見る。

「えっ、それで二百七十円なんですか」

「そっ、それが大阪の立ち呑み屋なんですわ」

 出てきた二本の熱燗をお互いのコップに注ぎあい乾杯する。

「くーっ、ビールもレモン酎ハイもハイボールも確かにうまいけど、やっぱり日本酒やわ」

 やすしの横でなおみも曇ったコップを傾ける。

「安い酒なんですよ、大きな声では言えませんけど。せやけど、やっぱり日本酒は雰囲気で呑むもんなんですよ。酒浸りの僕が言うから間違いないですよ」

 頼んだ品が次々と出てきてそのどれもをなおみは「美味しーっ」と言って食した。そして、海鮮焼きの海老を口に含みしっぽを白魚のような指で身からポチりとちぎり取った時「やっさん、いつ向こうに行くんですか」とポツリと吐いた。

「多分、ゴールデンウィーク明けになると思います」

「そうなんですか。単身ですか?」

「もちろんですわ。娘も社会人とはいえ、まだ、嫁はんにおんぶにだっこですから」

「せっかく知り合えたのに、寂しいです」

 なおみはやすしに肩を寄せる。

「そんなに寂しいんやったら明日会う人と一緒になったらええですやん」

「それは無理です。っていうか、ありえません」

「そうなんですか」と言ってやすしはコップを傾ける。

「姉ちゃん、ぎっちょやな」

 なおみの隣で一人で呑んでいた初老の親父がいきなりなおみに声をかけてきた。

「それに東京弁しゃべってるし、食べてるもんはポテサラやし、粋やなぁ」

「ありがとうございます」

「大阪にはなにしに来たんや、旅行か」

「いえ、転勤で来たんです」

「そうか、まあ、大阪はなんにも街やけど楽しんでいってや。横の大将は恋人か?」

「いえ、会社の上司です」言ってなおみはちらっとやすしを見た。

「そらそうやわな。こんな店に恋人連れてくる男なんかおらんわな。まあ、ゆっくりしていって」

 親父は店員に「ごっちょうさん」と言って勘定を済ませると店から出ていった。

「まあ、京橋ってこういうとこですわ。あっ、タバコ吸うていいですか?」

「どうぞ」と言ったなおみは目をきょろきょろと動かした。

「あっ、灰皿やったらいいですから」と言ってやすしは床を指さした。

「えっ?」

「大阪の立呑みではようあることなんですわ」

「まあ、確かに一つ一つ灰皿を洗うよりは床を清掃するだけですから手間は掛からないですよね」

「大阪人はね意外と合理的なんですよ。それと前にも言いましたけど“いらち”せっかちなんですよ。店に入ってすぐにタバコに火を点けてテーブルに灰皿がない、一いらち、店員に灰皿をお願いしてもなかなか出てこない、二いらち、そんなことやったら足元に捨てよ、お互いが楽やろう、そんなノリなんですよ」

「そんなに“いらち”なら向こうに行ったら通勤を含め色々と大変ですよね」

「あっ、それはもう諦めてます。二十年前に向こうに行ったとき、電車に乗るのに待って、大して旨ないラーメン食べるのに待って、何をするにも待たされて。初めのうちは“いらち”からしょっちゅう怒ってたけど、そのうち諦めました。この街はそういう街やねんな。だから僕にとっては東京は“諦めの街”なんです」

「そんな寂しいこと言わないでくださいよ。東京だって大阪に負けないくらいいい街なんですから」

「わかっていますよ。大阪なんか東京に比べたら一地方都市ってことは二十年前に認識してますから。人の量、仕事の量、けた違いでしたから。それに嫁はん言うてましたけど、今度住むところも千葉なんですけど、通勤するには確かに大変やけど、大阪に比べたら緑は多いし公園もようさんあるから小さい子供を育てるにはええ街やって」

「奥様そんな風に思ってらっしゃってくれてるんですよね、うれしいです」

「せやけど、やっぱり通勤だけはねぇ・・二十年前、最寄りの駅までバスやったんですよ。例にもれず溢れるくらい人が乗ってて、雨の日なんか最寄りの駅にやっと着いたと思たら、他人の傘や自分の傘とかでもう濡れネズミ状態ですわ。そこから超満員の電車に約四十分揺られて会社の前の交差点でスーツのパンツ見たら、クリーニング降ろしたてやのに、折り目がきれいに消えてるんですわ。恐ろしい街、ほんまにそう思いましたよ」

「あっ、そうだ、やっさん、こうしませんか?明日たかしさんと会うんで・・」

「あっ、たかしさんて言うんや、どんな字書くんですか」

「“高”いに“志”です」

「いかにも仕事できそうな名前ですよね。あっ、大将、熱燗もう二本ちょうだい」

「高志さん、都心のタワーマンションに住んでいるんです」

 秒速でカウンターの向こうから二本の熱燗が出てきた。

「なおみさん、お宅らの会社は一体どんな会社なんですか。みんなタワーマンションに住んで、なんかグロい会社ちゃいますよね」

「違いますよ。ちゃんとまともな会社です。

 そんなことより、使っていない部屋がいくつかあるはずですから、そこで間借りすればいいんですよ。私からお願いしてあげます」

「それはあきませんて。

 結婚してくれいうて女に頭下げに来て、断られた挙句、こんな冴えない中年のおっさんを代わりに持ち帰るって、高志さんてどんな人か知りませんけどさすがに怒りはるでしょ」

「だって、広い部屋で一人で暮らしていると寂しいと思うんです。やっさんが一緒に住んであげれば楽しくなるし、高志さんも喜ぶと思うんです。やっさんも毎日満員電車に揺られなくて済むし、すごく合理的でしょ」

「ですから、その合理性はさすがの大阪人も受け入れられませんて」

 やすしは薄い緑の透明の一合瓶に入った日本酒をすべて曇ったコップに移した。

「で、明日はちゃんと断れるんですか、高志さんに対して」

「もちろんです。何回も言いますけど気持ちは固まっていますから」

「高志さんが土下座して『頼むから一緒になってくれっ』て言うても?」

「それはあり得ないです。もう、電話では気持ちを伝えていますから」

「そんなんわからないですよ。ついこの間まで深く愛し合っていた二人なんですから。会って顔を見た瞬間に・・」

「そんなぁ、イジメないでくださいよ、やっさん」

 なおみはコップに残っていた日本酒を呑み干すと、空いている方の手をやすしの手に重ねた。

「なおみさん、自分に正直にならなあきませんよ。高志さんのことがほんまはまだ好きなんでしょ。一緒になりはったらええやないですか。そして、高志さんのタワーマンションから二人で遠く千葉の街を見下ろしてください。そのどこかで私は雨に濡れた安もんのスーツをプラスチックのハンガーにかけて、安酒をくらってますから、それが分相応ですわ」


 店を出ると二人はフラフラと商店街を歩いた。

 途中、なおみがやすしに唇を求め、やすしはそれに応じた。

 そして国道一号線に出ると流しのタクシーを止め、やすしはなおみを中に収めた。

「ほな、明日頑張って」

 なおみは何も言わずにタクシーと去っていった。

 やすしはタクシーを拾おうと青になった横断歩道を渡り、客待ちしていたタクシーの扉をノックしようとして気がついた。

 なおみからタクシー代を借りるのを忘れていた。

「しゃあないなぁ」と一人ごちるとやすしはフラついた足で、家までの遠い道のりに一歩足を踏み出した。


         ⑦

「ふられちゃいましたよ」

 東京都心のタワーマンションに住み、一回り以上離れた女と不倫し、叶うことはなかったとはいえ、奥さんと別れて一緒になろうとした男。どうせ標準語を喋るいわゆる“すかした”やつだとやすしは思っていた。

 ところが実際にあった高志は違った。

「口落とす自信はあったんですけどねぇ」

 カウンターの向こうからピカピカの大トロが供される。

「あっ、やすしさん、遠慮せずに召し上がってくださいね。食道楽の大阪の方のお口に合うかどうかわかりませんけど」

 おそらくこの一貫で、たまに家族三人で行く回転ずしの会計に匹敵するのだろうと思いながらやすしは大トロを口に含む。

「この店はね、やすしさん、自慢じゃないですけど私は東京中の美味しい鮨を食べつくしたつもりです。その中でも一番です、ナンバーワンです」

 もらった名刺には毎年“大学生が入社したい企業ランキング”のベスト3に入っている会社名が記され、役職は“取締執行役員”となっていた。

 東京中の美味しい鮨を食べつくしたというのはまんざら嘘ではないだろうし、東京都心のタワーマンションに住めるのも納得だった。

「どうですか、やすしさん」

「いやーっ、むちゃくちゃ美味しいです」

 色々思いを巡らせているうちに大トロはいつの間にか溶けてなくなっていた。

「こんな美味しいお鮨、食べたん生まれて初めてですわ」

 やすしはスーパーモデルのウエストのようなグラスに入ったビールを喉に流し込み脇の下に汗を感じた。

「やすしさん、召し上がりたいものあれば、どんどん注文してくださいね。さすがに紅しょうがのにぎりはありませんけど」

「はっはっはっ」

 やすしは小さく手を叩きこわばっていた顔を少しくずした。

「なおみさんから聞きはりました?」

「ええ。美味しいところに色々連れていってもらったって」

「大したとこ行ってないんですけどね。いわゆる大阪のソールフードばっかりですわ」

「そうなんですか。あっ、やすしさん、呑みものはどうされます?」

 緊張していたせいか瓶ビールが空になっていることにやすしは気が付かなかった。

「熱燗頂いていいですか」

「やすしさん、いよいよエンジン掛かってきましたね」

「いえいえ。せっかくこんな美味しいお鮨を頂いてるんですから日本酒で迎えないとね。

 あと、シャコってあります」

 目の前で鮨を握ってくれている、清潔感あふれる短髪の職人にやすしが聞く。

「はい、ございます」と職人が笑顔を添えてやすしに返す。

「じゃあ、それお願いします」

「シャコって渋いとこいきますよね」

高志がビールのグラスを傾けながら言う。

「私、大好きなんですよ。子供のころ、日曜日の昼間になったら親父がちゃぶ台に一升瓶置いて酒を呑み始めるんですわ。あてはザル一杯に茹でられたしゃこ。

 ちょこんと親父の横に座っておこぼれをもらうんですわ。それが美味くてね。

 回転すしに行ったら必ず食べてたんですけど最近獲れなくなって高級魚になってしまってどこの店のメニューからも消えてしまって」

「だいたい魚が高すぎるんですよね」

 高志の言葉に目の前の職人が鮨をにぎりながら苦笑いを浮かべる。

「大阪にガッチョていう魚いるんですよ。こっちで言うたらコチって言うんですかね。子供のころ釣りが好きでよう近くの海に行ったんですよ。投げ釣りなんですけど夏やったら狙い目はキス、冬やったらカレイなんですよ。それが、そのガッチョが外道で釣れまくるんですよ。誰が名付けたのかほんまに“ガッチョ”ていう面構えで、それに触ったらネバーっ糸引くんで釣り人からは嫌われ者やったんですよ。それがシャコといっしょで急に獲れなくなって急に高級魚への仲間入りですわ。確かに白身で美味しい魚なんですけど僕らからしたら、あのガッチョが、なんですよね。なんか寂しい気がしましてね」

「やすしさんもそうでしょうけど、僕ら子供のころは肉は金持ちが食べるもの、魚は庶民が食べるものっていう感覚でしたよね。特に私たち豚肉文化で育った人間には牛肉なんて神みたいな存在でしたから。それが完全に今は逆転しましたからね」

「ほんま残念ですわ。こんだけ科学が発達した世の中ですから、テレビの映像はもう4Kでええやないですか。5Kなんかもういいでしょ。その代わり安くて美味しい魚を提供できるよう養殖技術に国を挙げて取り組んでほしいですよね」

 熱燗が出てきた。

 高志がやすしのお猪口に酒を注ぐ。

「日本酒がすごくお好きだってなおみちゃん、が言ってました」

「そうなんですよ。だって僕ら学生の時なんか呑みに行っても、キリンの瓶ビール呑んだらあとは熱燗やったでしょ。酎ハイとかハイボールなんかなかったですもんね。一杯どうですか」

 やすしは徳利を高志に差し出した。

「あっ、すいません、私はビールで・・」

「日本酒はあまり呑まれません?やっぱり焼酎ですか?」

「そうですねぇ、もともとあんまり呑まないんで、たまにお湯割りで梅干を落として・・」

「なおみさんから聞いてはると思いますけど二十年前に三年だけ東京で働いていたことあるんです。その時に初めて焼酎を覚えまして。最初はすごく抵抗があったんですけど毎日呑んでると、次の日にも残らへんし、それに安いですから。それから大阪に戻ってきてからも呑んでたんですけど、やっぱり四十を過ぎたころから又日本酒に戻ってきまして、鮭が生まれた川に戻って来るようにね。色々ぬる燗や冷にはまったりしましたけど、今は王道の熱燗、それも昔で言う二級酒の熱燗、これが最高ですわ。今は真夏でも熱燗呑んでますから」


 結局、やすしは徳利を三本空け、高志は最後までビールを呑み続け、二人は店を出た。

「いやーっむちゃくちゃ美味しかったです。ごちそうさまでした」

「いえいえ、食道楽大阪の方にそれだけ喜んで頂けたら自称“鮨番長”冥利につきますよ」

 二人は通りでタクシーを拾い、十分ほどで高志のタワーマンションに着いた。

 何気なく空を見上げたやすしは、なおみのマンションの二倍はあるなと思った。

 エントランスに入り、なおみのマンションと同じくエスカレーターで二階に上がると遅い時間にもかかわらず二人のコンシェルジュが笑顔で迎えてくれた。

 二人とも若い男性でなおかつ二人ともかなりのイケメンだった。

 エレベータに乗り込むとすぐに東京の街が眼下に拡がった。

「あの二人、元アイドルなんですよ。芸能界で花が開かず、引退した後も仕事がなくて困っているところ、このマンションの最上階のペントハウスに住んでいる貿易商の男に拾われて、あそこに立っているんですよ」

 エレベーターを降りると高志の館に足を踏み入れる。

 やすしは急な気圧の低下で聞こえにくくなった耳を元に戻すため、つばを飲み込む行為にやっきになっていたが、目の前に拡がった光景を見てその行為をやめた。

 リビングがテニスコートほどの広さがある。雑魚寝すると三十人は泊まれるんじゃないかとやすしは思った。そして、全面ガラス張りの部屋の向こうには眠らない東京の街が拡がっていた。一瞬、なおみのマンションにいる錯覚に陥った。

「やすしさん、どこか適当に座ってください。あの奥の右に入ったところにキッチンがあるんで冷蔵庫からビールでも取ってやっておいてください。私ちょっと着替えてきますので」

 やすしはホテルのフロントのようにそこらじゅうに置かれた大げさなソファやいかにも高級そうな革張りのチェアには腰を下ろさず、テニスコートにそっと足を滑らせる。フローリングから心地いい冷たさが伝わる。

 ゆっくりと進んでいき、相手コートに入ったあたりで、やすしはこじんまりとした仏壇がガラス張りの窓際に置かれているのに気づく。

 歩を進め前に立つと遺影がこっちを見て微笑んでいる。

 見るからに品のある女性だった。

 コンビニのレジのわきに置かれて売られている真空パックの一口サイズの羊羹が供えられていた。

「どうも睨まれているような気がするんですよ」

 いつの間にか傍らに高志がいた。

 スエットに着替えた姿はどこにでもいる中年の男性だった。

「お線香あげさせてもらっていいですか」

「ええ。妻も喜びます」

 やすしは線香に火をともしおりんを響かせると遺影に手を合わせる。

「本当にいい女でしたよ」

 高志が顎をさすりながら言った。

「どこで知り合われたんですか」

「合コンです」

 高志は苦笑いを浮かべて言った。

「合コンて懐かしい言葉ですよね。私も学生の時はようやりましたわ」

「将来、幼稚園の先生を目指すある短大の保育科との合コンだったんです。妻は短大の二回生、私は四大の二回生、同い年だったんです」

「私ら子供の時、女の子の将来の夢はほとんどが幼稚園の先生でしたもんね」

「妻もすごく子供が好きで。短大を卒業すると夢を叶え幼稚園の先生になったんです。で、私が大学をでて三年目に一緒になったんです」

「プロポーズはどっちがしはったんですか」

「もちろん私です。妻はどちらかというと無口な方で余計なことは喋らない女でした。黙して語らず。私はいつも“女 高倉健”と言ってましたから」

「へぇー、そうなんですか」

「やすしさん。今夜は一緒に妻を偲んでもらっていいですか」

「もちろんです」

 高志は仏壇台の観音開きの扉を開いた。

 線香とろうそくとマッチ箱に混ざって丸いウィスキーのボトルと二つのグラスが置かれていた。

「亡くなった後、毎晩、妻と一緒に呑んでいたんです。呑まれますよね」

「当たり前やないですか」

「氷も入れずにストレートでやっていたんですけど」

「このシチュエーションにビールや酎ハイは似合いませんよ。一千万人の民の営みを見下ろしながら亡き妻を偲ぶ。ウィスキーのストレート以外マッチする呑みものはないですよ」

「やすしさん、かっこいいですよね」

 二人はウィスキーの入ったグラスを掲げると遺影に向かって「乾杯っ」と言った後、慌ててやすしが「あっ、献杯でしたよね」と言ってもう一度二人で「献杯っ」とグラスを掲げ喉を熱く濡らした。

「さっきも言いましたけど本当にいい女でした」

 高志が言うと二人はフローリングの床に腰を下ろした。

「私にはもったいないくらいの女でした」

「そんなことないでしょ。私も奥様とお会いしたことはもちろんないですけど、このご遺影を拝見する限り、お似合いのご夫婦やと思いますよ」

「そうですか。やすしさん、ありがとうございます」

 高志はグラスを傾け、フーっと息を吐く。

「だけど、そんな妻を私は捨てようとしたんですよ。最低の男ですよ」

「奥様はお二人の関係には気づいてはったんですか」

「おそらく。

 だけど“女 高倉健”ですから、何も言わない」

「そうだったんですか」

 やすしは空になったグラスにウィスキーを垂らす。

「なおみちゃんに聞かれたかと思うんですけど、うちも子供ができなかったんですよ。子供なんて簡単にできるって高をくくっていたんですよ。それが半年しても出来ない、一年しても出来ない。そして二年たってもできなくて、無口の妻に『病院にいってほしい』と言われ、それから丸十年、いわゆる“妊カツ”をしたんです。今思い出しても気持ちのいいもんじゃなかったですよ。やすしさん、他の動物や魚に聞いたことはないんですけど、子孫繁栄以外の目的でSEXするのは人間だけだと思うんです。というか、子孫繁栄以外の目的でする方が多いかと思うんです。だけど、このつらい十年間でつくづく思いましたよ。SEXはやっぱり子孫繁栄のために行うものだって。だけど、結局、コウノトリはやってきませんでした」

「こんなん言うたら日本野鳥の会に怒られるかもしれませんけど、コウノトリはアホなんですわ。本当に子供が欲しいって思っている夫婦のとこには届けへんくせに、子供を育てる気のない、知性も理性もないコウノトリよりもっとアホな夫婦に届けるんですから」

 高志は何も言わずにグラスを傾けた。

「子供のことを諦めてから、何か二人の間にわけのわからない溝みたいなものができ始めたんです。それは何かはわからないんです。だけど、月日が経つにつれその溝はどんどん深くなっていくんです。妻のことを決して嫌いになったわけじゃないんです。だけど、彼女がどんどん遠くへいってしまう。そして、そんな時になおみちゃんと出会ったんです。彼女も言っていました。私が感じたことを、やはりご主人との間に感じた、と」

「やっぱり人間ていうのは自分では気づいていないところで、どこか子孫を残さなあかんという強迫観念にかられているんですかね。有名な作家が小説の中で書いてましたけど『人間は遺伝子を運ぶためだけに存在する』はまんざら嘘じゃないかもしれないですよね」

「悲しいけど、そうかもしれないですよね。所詮、我々は生かされているんでしょうね」

 やすしは空になった高志のグラスにウィスキーを注ぐ。

「妻との会話は完全になくなりました。何度も言いますけど、嫌いになったわけじゃないんです。だけど、どんどん、なおみちゃんに気持ちが移っていく。そのうち体の関係もできました」

「気持ちはわかりますよ。私も嫁はんと結婚してから何人かの女性といわゆる不倫をしました。せやけど、嫁はんと別れようと思ったことは一回も思いませんでしたよ。そら、向こうからわかれてくれって言われたら何も言えなかったですけどね」

「それは、やすしさん、やすしさんには子供さんがいらっしゃるからですよ」

「小さい子供おるのに簡単に離婚して、誇らしげにバツイチやシングルマザーや言うてなんか勘違いしている阿呆はようさんいますけどね」

「私には子供がいないので子供を思う気持ち、愛する気持ちというのがどんなものかわからないんですけど」

「私が思うに、高志さんは奥様を散々愛された。もうこれ以上ないっていうくらい愛し尽くした。そして、今度はその愛情を生まれ来る子供に注ぐ予定だった。それが、空気を読まないアホのコウノトリはお二人のもとに子供を連れてこなかった。せやけど、愛があり余っているあなたは対象を探した。そんな時にたまたまなおみさんが目の前に現れた」

「やすしさん、詩人ですよね。いやぁ、正直、大阪の人を見る目が変わりましたよ。大阪の人って冗談ばっかり言っていると思っていましたから」

「実は大阪の人間は東京の人よりええかっこしい、きざ、なんですよ。平気で“くさい”セリフを吐くんですけど、照れくさいから、あえて笑いを混ぜてごまかすんですよ」

「そうなんですか、知らなかったです」

「全員が全員そうとは言いませんけどかなりの確率でそうです。

 で、つかぬことをお聞きしますが、一緒になろうと言ったのはどちらなんですか」

「えっ?」

「今日はこうやって奥様も目の前にいらっしゃるわけですから赤裸々に語ってもらいますよ。さっ、どうなんですか」

「い、いや、やすしさん、ちょっと待ってくださいよ」

「まだ、酔い足れへんみたいですよね」

 やすしはウィスキーのボトルを高志に差し出し、無理矢理グラスを空にさせると、おかわりをどぼどぼと注いだ。

「いやーっ、やすしさん、私、そんなにお酒強くないんですよ」

「そんなことええやないですか。で、どちらから?」

 高志はやけくそ気味にウィスキーをあおった。

「私からに決まっているじゃないですか。そして、その三か月後に彼女はご主人と別れま

した」

「なるほど」と言うとやすしはグラスに残っていたウィスキーを呑み干し、グビグビとお代わりを注いだ。「で、奥様にはいつ?」

「確か、なおみちゃんからご主人と別れたと聞いたのが週末だったと思うんです。金曜日の夜、天ぷら屋のカウンターだったはずです。

 その後、このマンションに戻って来て風呂に浸かりながら色々考えました。ほんとうにこれでいいんだな、いいんだな、と自分に言い聞かせました。そして、二日後の日曜日に意を決して、妻を夕食に誘いました。あまり静かな店は嫌だったので結構人気のある串揚げの店のカウンターに二人で腰を下ろしました」

「まさか“二度漬け禁止”の店ちゃいますよね」

「ええ。おまかせで順番に出てきて、お腹がいっぱいになったらストップするやつです」

「そらそうですよね。こんなタワーマンションに住んでる超優良企業の役員夫婦がキャベツをトレイに入ったソースに漬けて食べてたらおかしいですもんね。あっ、すいません、話の腰折りまして」

「いえいえ、で、今でも覚えているんですけど、二人ともお腹いっぱいになって、串揚げもストップして、デザートをお持ちしますから、と女性の店員に言われたときに妻はお手洗いに立ったんです。出てきたデザートの巨峰を竹の楊枝で差し、口に含みながら、よしっ、言うぞっ、と心を決めたんです。妻が戻って来て、巨峰の甘さを口の中に感じながら『あの・・』と言いかけたとき、妻が突然私の目を見て『実は・・』と話し始めたんです。聞く耳を疑う、よく使う言葉ですが、正しくそんな状態でした。あの多くを語らない妻が途中から涙を流しながら話すんですよ。こんなことを言うと傲慢にしか聞こえないかもしれませんけど、日本の有名な外科医を私は何人も知っていました。もっと早く言ってくれていたら、ひょっとしたら助けられたかもしれない。だけど、彼女は言わなかった。最後の最後まで言わなかった。いかにも彼女らしいです。そして最後に『一人にしないでね』と言われました」

「奥さん、やっぱりわかってはったんちゃいますか」

 言うとやすしは遺影に向けて笑顔を送った。

「完全なカウンターパンチ。いや、矢吹丈のクロスカウンター、いや、ホセ・メンドーサをひざまずかせたトリブルクロスカウンターですよ」

「不謹慎ですけど、懐かしいですよね、あしたのジョー。今見ても感動しますよね」

「やすしさん、もう少しだけ入れてもらえます」

 高志は残っていたウィスキーを呑み干しグラスをやすしに差し出した。

「で、リングにひざまずいたホセ・メンドーサはその後どうしはったんですか」

「翌日の月曜日にとりあえず妻のかかりつけの医者に会いに行き、その足で私の知り合いが病院長を務める大学病院に行きました。若い先生から『大変ですけど頑張っていきましょう』とサラリと言われました。

 それからは仕事の付き合いやお客様の接待も極力断り、毎日家に早く帰るように努めました。なおみちゃんからも何度かお誘いがありましたが、やっかいな案件を抱えているからと嘘をついて断りました。彼女に早く告げないといけないと思いつつもなかなか腰が上がらなくて。彼女が私の口から妻と別れたことを聞きたがっているのは痛いほどわかっていたんです。それで、やっと決心がついて、妻には出張だと言って週末に都内のホテルをとりました」

 やすしは高志からホテルの名前を聞くと「それ、テレビでようやってるやつでしょ。安い部屋でも一泊十万円はする」と少し興奮気味に言った。

「万が一誰かに見られるとまずいので、彼女と夜を共にするときはいつもそこを利用していたんです。地下の駐車場から部屋のあるフロアーまで誰にも会わずに行けるので」

「で、いよいよ、なおみさんに真実を告げる時が・・」

「ええ。ホテルの最上階にあるステーキ屋の個室で美味しいお肉を二人で堪能しました。あの時の彼女の幸せそうな、瞳をキラキラと輝かせた顔は未だに忘れられません。私から妻と別れたことを聞かされると信じているわけですから。

 彼女、左利き、やすしさんから聞いたという所謂“ぎっちょ”でご両親からきつく躾けられて右利きに矯正されたんですけど、心を許す人の前だと地が出てくるんですよ。右手でフォークを持って左手のナイフでお肉を切り美味しそうに頬張っていましたよ。まさか、僕が掛けた梯子を外されるなんて夢にも思っていなかったんでしょうね。

 その後、部屋に戻り、体を交えました」

“交えました”の言葉に、やすしはなおみの左手の感触を下腹部に覚えた。

「次の朝、ルームサービスで朝食を終えた後、すべてをなおみちゃんに話しました。泣き崩れてましたよ、彼女は・・」

 高志は残っていたウィスキーを一気に喉に流し込んだ。

「公開裁判、こんなところでいいですか、やすしさん」

「オーケーです。判決は奥様に後日言い渡してもらいましょう」

「了解です。いやーっ、酔っちゃいましたよ。眠ってしまう前にお部屋を案内しますよ」

 フローリングの床から立ち上がった高志はふらつき、やすしが肩を貸した。

「すいません、やすしさん、こんなに呑んだの久しぶりです」

「いいんですよ。呑みたいなぁと思たときはスコーンって腹いっぱい呑んだらええんですよ」

 テニスコートを渡りきると左手に広い廊下が拡がった。

「あっ、この奥なんですよ」というと高志はやすしに借りていた肩を返した。

 自宅のマンションで妻や娘とすれ違う半身になっても体が触れる狭い廊下とは大違いで、大の男が大手を振って歩いてもすれ違う人間と指一本触れないけた違いの廊下にやすしは感心した。

「申し訳ないですけど、妻が使っていた部屋なんです」

“部屋”ではなかった。自宅マンションと同じくらいの広さがある“家”だった。

「トイレとバスは部屋にありますので気兼ねなく使ってください。あと、洗濯物があればバスに置いてある薹の籠に入れておいてください。お手伝いさんが洗ってくれますので」

「ありがとうございます。何から何まで」

「食事は必要な時だけ、部屋に小さなホワイトボードが壁に掛けてあるのでそこに記入してください。食べたいものがあればリクエストしてください。お手伝いさんが作ってくれる料理、結構美味しいんですよ」

「私、朝ご飯は食べないんで、たまに、晩御飯をお願いしますわ」

「じゃあ、やすしさん、私は今日はこれでおいとまします。実は、明日、ゴルフなんですよ。結局、きれいごと言いながら、まだ、泥臭い接待ゴルフをやっているんです。明日はゆっくりしていってください。マンションに入るときと部屋に入るときにカードキーが必要ですので、ベッドの脇のサイドテーブルに置いてあります。暗証番号は生年月日の西暦、1967です。これだと忘れないでしょ」

「わかりました。ありがとうございます」

「まだ呑まれるんですか」と今にも眠ってしまいそうな顔で高志はやすしに聞いた。

「ええ。もうちょっとだけ奥様と呑ませてもらいますわ」

「そうですか。じゃあ、私はこれで」

 言うと高志は、必死で目を見開き、やすしの目をじっと見た。

「やすしさん、同時に二人の女性を愛することはいけないことなんですかね」

「そんことはないと思います」

 やすしが首を横に振りながら答えると、高志は廊下の奥に消えて言った。


         ⑧

 目が覚めると背中に硬さを感じた。

 遺影と目が合う。

 酔ってフローリングの上で寝てしまったようだ。

 体にはブルーの薄手のタオルケットが掛かっている。

 喉が渇いたのでフラフラと立ち上がり、キッチンというよりは厨房といったほうがいいくらいの部屋にやすしは入ると、大人二人が隠れられるような大きな冷蔵庫を開ける。

 目の前にピンク色の付箋をキャップにつけたミネラルウォーターのペットボトルが鎮座している。

“お疲れ様でした、荷物を送られるのなら、ここの住所です”

 ブルーのタオルケットといい、ミネラルウォーターに貼られていたピンクの付箋といい、やはり一流企業の役員を務める人間は凡人とは一枚も二枚も違うなとやすしは感心した。


 ミネラルウォーターを呑み干すとやすしは高志のタワーマンションを後にする。

 地下鉄で東京駅まで行き、JRの快速電車に乗り換える。

 暫くすると東京の街が車窓の向こうに拡がる。

 二十年前に比べるとさらに高層ビルが増えたような気がした。

 大きな川、確か荒川だったはず、を渡る。

 相変わらず、べたーっとした街だ。大阪だとどこへ行っても東西南北のどこかに山の姿がある。しかし関東平野はそのアイテムを持ち合わせていない。

 三十分ほどで快速電車を降りる。

 腹が減っていたので、駅の構内にある立食いそば屋に入り、久しぶりに真っ黒のおつゆに浸かったそばをすする。

 そして、おつゆを吸って大きく膨らんだえび天にかぶりついた時、ガラ携が震えた。

 妻のやすえからだった。

「もうホテル出たん?」

 高志のタワーマンションのことは話していなかった。

「とっくの昔に出て、社宅の最寄り駅で真っ黒なつゆに浸かったそば食べてます」

「宅急便、昨日送っといたから。時間指定で12時から15時にしといたから」

「センキュー。それにしても大きな声では言えんけど、この黒いおつゆはやっぱりあかんわ。二日酔いには大阪の薄味の出汁の香りが立つやわらこいうどんがええわ」

「そうやな。また、大阪帰ってきたらうどんすきつくったるわ。

 それより、さすがに掃除機だけは送られへんかったから、そっちで買ってな。社宅から一番近い店と買うやつの品名書いた紙入れといたから」

「めんどくせぇなぁ、買いに行くの。商品持って帰らんとあかんのかなぁ」

「せやからスマホ持ちって言うてるやんか。スマホやったら店に行かんと買えて配達日も指定できんねんから」

「アホか、俺はデジタル社会に心は売らん」

「はいはい、わかったって。それより明日の晩も部屋で呑みすぎたらあかんで。初日から遅刻は絶対ダメやから」

「わかってるよ、子供やないんやから」

「立派な大きな子どもやんか」

 やすえとの電話を切るとコップに入った水を呑み干し店を出る。

 社宅まではバスで三駅だったが土曜日で本数も少なかったし、そばを消化するため、やすしは歩くことにした。

 駅を離れ暫くすると住宅街が現れる。同じような三階建ての家が肩を並べ、一階の駐車場には取り決めでもあるかのようにワゴン車がすました顔をして収められていた。

 一週間前に総務の人間に連れてきてもらった社宅が前方に見えてきた。

 軽い登り道を進んでいくと左手に小さな商店街が現れた。

 小料理屋に“焼きたて”の看板を掲げたパン屋、一人も客がいない床屋、そして、コインランドリーがあった。その他の店舗には現世との関りを遮断するかのようにシャッターが降ろされていた。

 小料理屋を覗きに行こうと商店街への道に折れようとした時またガラ携が震えた。

「どうでした」

 なおみだった。

「想像以上でしたわ。部屋がどれも“家”でした」

「そうですか。そんなとことで一人で暮らしているときっと寂しいと思うんです。やっさんが一緒に住んでくれることになって高ちゃんは喜んでいると思います」

 高ちゃんと呼んでいたたんだと思いながらやすしは「生まれて初めて超高級鮨屋でご馳走になりましたわ」と言った。

「あの人、お鮨だけはすごくこだわりを持っているんで」

「正直言うけど、一流企業のえらいさんで、俺と同い年のおっさんがなおみさんみたいなええ女と不倫なんかして、どうせ、すかしたやつなんやろうなぁと思ってたんです」

「やっさん、まだ昨日のお酒残ってます?」

「ちょっとだけね。せやけど実際にお会いしたら、飾らない、ええ人で、なおみさんが惚れたんわかりますわ」

「やっぱり、やっさん、まだ酔ってますね」

「俺は常に酔うてますから」

「わかっています。重々承知しています。それより来週の週末は大阪に帰ってこられます?」

「たぶん。久しぶりの東京の街に疲れてフラフラやと思いますから」

「じゃあ、少しだけ昼呑みしませんか」

「いいですよ。

 そしたら久しぶりに天満の串カツ屋にいきましょ。土曜日に十一時現地集合でいいですか」

「わかりました」

「なおみさん、なんかあったんですか?」

「会った時に話します」

 言うとなおみは「楽しみにしています」と言葉を添えて電話を切った。


 社宅に着き、途中コンビニで買った六本パックの缶ビールを二本空けた時、呼び鈴が鳴った。

 宅急便の若い配達員は肩に布団袋を掛け、両手に小さな子供がすっぽり入るくらいの大きさの布袋を持っていた。宅急便の配達員でなければ明らかに借金を背負って夜逃げしてきた人間だった。

「ご苦労様」と配達員に声をかけ受領印を押すとリビングに運び開封する。

 布団袋にはマットレスとシーツが二枚、あと薄目の掛布団と厚めの掛布団、そして枕カバーが二枚入っていた。

“万年床にしないこと。朝出ていくときに畳んでおくだけでもだいぶ違うから。あと、シーツと枕カバーは一週間で替えること”と書かれた紙が出てきた。

 大きな二つの布袋からは五日分のYシャツと下着と靴下、そして、便座カバー、便器を拭いてそのまま流せるシート、娘がおっぱい断ちをしてから食事をするのに使っていた折り畳み式の小さなちゃぶ台、薬缶、新聞紙にくるまれた湯吞、そして何かのカタログみたいなものが出てきた。

 カタログを開くとひらりと小さなメモが落ちてきた。

 社宅から一番近い大型家電店と掃除機の品名が妻の字で書かれており、その該当品と思われるカタログにのっている掃除機に黒の太いマジックで大きな丸がされていた。

 三本目の缶ビールのプルトップを引くと、やすしはやすえが布袋に入れてくれていた宅急便の袋に五日分のYシャツと下着と靴下を入れ、送り状に妻のやすえが書いてくれた自宅住所に横線を引くと、高志に教えてもらったタワーマンションの住所を書き込み、やすえよりは絶対に先に死ななあかんなと強く思った。


 東京での初日、やすしは無事遅刻することなく出社し、一日を社内の挨拶周りに費やし、終業後、ささやかな歓迎会を催してもらった。

 六人で構成されている営業一課のリーダー渡辺の掛け声で乾杯となる。

 渡辺はやすしを東京へ追いやった大阪の課長と同期で、東京の二流私立大学を出て標準語を喋り、乾杯の後、すぐにビールをハイボールに変えた。

 当たり障りのない会話が続き、そろそろお開きが近づいてきた時、隣の席にいた河合がやすしに声をかけた。

「よろしくお願いします」の語尾が下がっていた。

「なんや、自分、関西人か?」

 聞くと河合はやすしと同じ大学を出ており、入社五年目の大阪生まれの大阪育ちだった。

「大きい声では言えんけど、うちの大学出て、なんでこんなしょうもない会社に入ったんや」

「私、二年、留年してたんです」

「俺かって一年留年したけど、当時はいわゆるバブルの真っただ中やったからどこの会社でもいけたからな。今は多少ましになったとはいえ、まだまだ氷河期なんか?」

「東京で働きたかったんです。大きな会社の面接でそれを言うと、最初は地元採用で三、四年してから他の地域への赴任になります、とお決まりのように言われまして」

「すぐに辞める子が多いから、企業としては様子を見たいんやろなぁ」

「そうなんですかねぁ」

「で、留年してたことはそんなに影響はなかったんか」

「はい。腐っても旧帝大でした」

「そうか。まあ、腐りきった俺でも、その情報を耳にしたらみんな一瞬、えっ、ていう顔するもんなぁ」

「ははっ、だけど、係長はまだ腐りきってなんかいないですよ」

「おい、その係長という呼び方はやめてくれ。やすしでええ。やすしで」

「わかりました。で、やすしさぁ」

「誰がやすしじゃっ、誰呼び捨てにしとんねんっ」

 河合は腹を抱えて笑った。

「やすしさん、いやーっ、こんなベタなやりとりしたの久しぶりですっ」

「そうか、そんなに喜んでもうたら素人芸人冥利につきるわ。で、その後どしたんや?」

「うちの会社だけは一年目から東京配属にしてあげるっていってくれたんでお世話になることにしました」

「で、そこまで懇願して着任した東京の街はどうやねん?」

「さっき、腹を抱えて笑ったのが答えです」

「そうなんかぁ、相変わらず、投げっぱなしジャーマンやねんな」

「ええ。投げっぱなしです」

「ボケても、つっこみ無し」

「はい。ほったらかしです」

「二十年前にだいぶ注意してんけどなぁ・・。誰かがボケたら必ずつっこまなあかんでって。で、渡辺はどうやねん?」

 やすしが“渡辺”のくだりだけトーンを落として河合に聞いた。

「バカですけど、結構気ぃ使こうてくれます。すごくいい上司ですよ」

「そうか、やっぱりバカか」

「もうケンカしたらだめですよ。噂はきいてますから」

「大丈夫や。こんどやらかしたらもう行くとこないのは自分でもわかっとる」

 やすしが言ったとき「みなさーん、すいません」と渡辺が言いながら立ち上がった。

「テーブルの上にはまだサンマの開きが残っていますが、今日はこのあたりでお開きとさせていただきます」

「や、やすしさん、つ、つっこまないと」

 河合が肩を震わせながらやすしに小さな声で言う。

「アホか、こんなもん、つっこむに値するか。投げっぱなしでええねん」

 言うとやすしは「皆さん今日はどうもありがとうございました。明日からもよろしくお願いしますっ」と言うと逃げるようにして店を出て今日からお世話になる高志のタワーマンションへと向かった。


         ⑨

 串カツ屋に着くと土曜日の昼間にもかかわらず店の半分ほどが客で埋まっていた。

 わずか一週間だけ大阪を離れただけなのに妙に商店街の雰囲気にやすしは懐かしさを感じた。

 なおみはまだ来ていなかったが「後でもう一人来ますから」と言って鰻の寝床のような店内の一番奥に陣取り、一杯目だけ百円の生ビールを注文した。

 そして、おでんの豆腐とどて焼き二本を注文して、出てきた生ビールを舐めた時、なおみがやってきた。

「すんません、先やってます」

 言うとやすしは店員に生ビールを注文した。

「お疲れのところすいません。二十年ぶりの東京はどうですか?」

「まだ一週間ですけど、やっぱりどっか緊張してんのか結構疲れましたわ。せやけど、高志さんとこに泊めてもらってますから通勤がむちゃくちゃ楽ですからすごく助かってます」

 なおみの生ビールが来たのでジョッキを合わせる。

「食事はどうされてるんですか」

 なおみが味噌のかかったどて焼きを手に取ってやすしに聞く。

「朝は食べない。昼は会社の近くの蕎麦屋でもりそばばっかり食べてます。蕎麦はやっぱり向こうの方が美味しいですから。夜は初日は歓迎会を開いてもらって、その後はええ立ち呑み屋を探しに東京の街を徘徊してます」

 言うとやすしはおでんの豆腐を口に入れ「あぁ、うまい、この味が東京にはないんですよ」と言葉を漏らした。

「やっぱり二十年たっても食については大阪と東京の差は縮まらないですか」

「二十年前からはいろんな店が増えて“関西風”ていう看板掲げてる店もあるんですけど、ただ単に味が薄いだけなんですよ」

 やすしは一気に生ビールのジョッキを空にすると熱燗を注文する。

「で、なおみさん、今日は一体何のご相談、いや、ご報告ですか?」

 やすしは秒速で出てきた熱燗をお猪口に注ぎ喉に流す。

「別れた夫から電話があったんです」

「へぇー、そうなんですか。元気にされてるんですか」

「再婚したって」

 言うとなおみは自分が注文した牛の串カツを頬張る。

「そうなんですか。なおみさんも負けてられないですね」

「子供ができたって・・」

「良かったやないですか」と言いかけて、やすしは「そうなんですか」と言葉を変えた。

「やっさん、私、前にも話しましたけど、すごく子供が欲しかったんです。だけど、できなかった。そして、高ちゃんとああいう関係になって、何も無理して子どもなんか作らなくていい。子供がいなくてもきっと楽しい家庭をつくれるはずだ、と思っていたんです。だけど、一人になって・・」

「寂しなったんやね」

 うん、と頷くとなおみは「私もお酒にします」と言って店員からお猪口をもらい、やすしから熱燗を注いでもらった。

「また子供が欲しくなってきたと」

「その通りです」

 なおみはゆっくりとお猪口を傾ける。

「高志さんのことはまだ愛している。一緒になってもいい。せやけど、子供が欲しい。だけど二人には、苦しい不妊治療を経てもアホのコウノトリはやってこなかった」

 なおみは何も言わず、出てきた海老の串カツをトレーのソースに浸し、何も考えていないかのような表情で口に含む。

 やすしはソースに浸さず、備え付けのアジシオを振りかけ、頭からかぶりつく。

「言い方悪いですけど、万が一、アホのコウノトリがやってきても齢が齢やから。せやけど友人らは言うんです『お金持ちやから大丈夫やん』って。せやけど子供が二十歳になった時にはもう八十に近い。それはあまりにも子供が可哀そうやと」

 なおみは相変わらず無表情で食べ放題のキャベツを頬張る。

 やすしは空になった自分のお猪口に酒を注ぎ、ゆっくりと傾ける。

「さっき、なおみさんが言いはったけど、子供がいなくても楽しい家庭なんかいくらでもあると思うんです。逆に子供がおっても楽しくない家庭もいくらでもあると思うんです」

 なおみはカウンターの向こうから出てきたうずら玉子と丸わかりの串カツの三段ある一番上の段の玉を口に含んだ。

「やっさんは娘さんがいて良かったと思いますか」

「そうやねぇ、今でこそ口はほとんど聞かへんし、なんやこのボケがってあいつの態度みて思うことが多々あるけど、トータルしたら良かったと思いますよ。仕事でしんどい時とか嫌なことがあった時なんか、小さい時のあいつの笑顔にだいぶ助けてもらいましたから」

 やすしは串からうずら玉子をばらし、そのうちの一つに七味をかけて口に運び、それを日本酒で追いかけた。

「高志さんとも話してたんですよ。われわれ人間は遺伝子を運ぶだけの悲しい存在だと。せやから、自分では気づいていないどこかで子孫を残さなあかんという強迫観念にかられていると。儚い生き物ですよ、僕らは」

 なおみはお猪口をゆっくりと傾ける。

「やっさん、優しいですね」

 なおみの瞳は少し濡れていた。

「あっ、なおみさん、泣き上戸やったんや。知らんかったですわ」

 なおみは手の甲で瞳を拭い残っていたうずら玉子を一つずつ口に運んだ。

「だけど、やっさんね、自分の産んだ子供におっぱいを吸ってもらいたいっていう気持ちはあるんですよ。すごくあるんです」

 なおみの“おっぱい”に、横で呑んでいた目を真っ赤に充血させ、薄汚れたキャップを被っていた男が反応した。

「おねえちゃん、うら若き乙女が“おっぱい”なんか言うたら、おっちゃん興奮してしまうやんか」

「お父さん、最近、おっぱい触ってんのん?」とやすしが割って入った。

「長い間触ってへんわ、もう感触も忘れたわ」

 男の言葉に眉間にしわを寄せて一心不乱に串カツを揚げていた店主も形相を崩した。


 店を出ると、商店街には同じように赤ら顔の人間が何人かいた。

「マンションに来ます?」となおみはやすしを誘ったが、やすしはスパイがいることを思い出し断り、代わりに、商店街から少し離れたところにあったホテルに入った。

 シャワーを浴びると、なおみは、神のレフトハンドで何度もやすしを逝かせ、おっぱいを吸った赤子のように口の周りを白濁食で染めた。


        ⑩

 終業のベルが鳴るとやすしは会社を出た。「ちょっと軽くいきませんか」といった声など掛かることもなく、いつもの店へ歩いて向かった。

 東京に来て何軒かの立ち呑み屋を回ったが、値段が安く、最近ますます食べれなくなってきたので一品一品の量が少なく、もちろん美味しく、そして一番大切なこと、店がざわついていないことをこの店は満たしていた。

 ほとんどの客が一人客でまさしく“呑みに来ている”感が溢れ出ていた。

 店内に入ると「大(だい)瓶ビール」と中年の店主に告げる。

すると「大(おお)瓶ね」といつものように店主は言い換える。

唯一気に入らないところだった。

 周りはいつもの顔ぶれで、皆どこをみるともなく、もちろんスマホをしている者など一人もおらず、一心不乱に酒を呑んでいた。

 ポテサラをあてにビールを喉に流す。

 毎日のことながら格別の旨さである。

 所帯が分かれるからと、妻のやすえからは少し小遣いを増やしてもらい、さらに大きかったのが会社から出る定期代が丸々浮くことだった。千葉にある借り上げ社宅のマンションまでの定期代は結構な金額で、『ちゃんと定期買いや』とやすえから金を振り込んでもらっても、住まいは都内のタワーマンション。すべてが自分の財布に入ってくるのである。結果、一人で立ち呑みだけに行くのなら毎日行けるほどの余裕があった。

 瓶が空になるといつも通り熱燗を注文する。

 チェイサーとしてコップになみなみのビールを残してある。これもいつものことだった。 

 パートのおばさんがやって来て、カウンターの上に曇ったコップを置いてポットに入った熱燗を注いでくれる。コップの縁ギリギリに注ぐ神業は健在だった。

 あてにイカ明太を頼む。

 すぐにそいつはやってきて、日本酒に絡んでいい仕事をしてくれる。イカに明太子をからめてある見た目は普通のイカ明太だが、そのイカの下に大根おろしが敷き詰められているのである。こういった一手間がこの店を気に入った一つでもあった。

 あっという間にコップの中の日本酒は胃の底へと消えていき、お代わりを注文する。同時に締めの焼き魚を頼む。今日は鰆の西京焼きにする。

 そして、二杯目の日本酒が空になった時、厨房の奥で誰かが覗いているのではないかと疑うくらいジャストタイミングで鰆の西京焼きが出てきた。もちらん、三杯目の日本酒を注文する。

 鰆の西京焼きが美味しい。だけど、ここでまたこの店の一手間が登場する。 

 紅しょうが、それも牛丼店のテーブルに鎮座している薄いピンク色のものではなく“紅”を強調した深紅の刻まれたしょうがが脇に添えられている。これだけで日本酒一合はいける。おそらく店主は相当な酒呑みなのだろう。


 店を出ると高志のタワーマンションまで歩く。

 電車だと十分程度だったが、酔い覚ましに歩くのにはちょうどいい距離だった。

 遠くに東京タワーが見える。二十年前には“そびえ立つ”という表現がぴったりだったがこれだけ周りに高い建物が立ち並ぶと威厳というものが無くなったような気がした。

 しかし、考えてみると、ついこの間まで大阪の下町で安酒を毎日くらってフラフラと生きていた人間が、東京のど真ん中で、サラリーマンには高嶺の花のタワーマンションに向かってお気楽に歩いている、ある意味、大阪のゆとり世代の阿呆に感謝しないといけないなとやすしは思った。

 ガラ携が震える。

「また呑んでんねんやろ」

 やすえの大阪弁がなぜか懐かしく感じる。

「呑まんでかい」

 横を通り過ぎて行った女性がやすしの汚い言葉に歩くスピードを上げる。

「一人?」

「あたりまえや。大阪から来た変なおっさんなんか誰が相手してくれんねん」

「そらそうやわな」

「認めるな。少しは『そんなことないやろ』って言うてくれ」

「今日、洗濯もん送り返しといたから」

「おう、すまんなぁ」

 高志からは「やすしさん、気を使わないでくださいよ。お手伝いさんが洗ってくれますので」と何度も言われたが断ってきた。バレると定期代が差し止めをくらい毎晩呑みに行けなくなる。

「カッターシャツは大丈夫なん?」

「大丈夫や。すぐ隣にクリーニング屋があるから」

「今週も帰ってくんねやろ」

「おう。今の東京の街は俺にはヘビーすぎる。大阪でちまちまうどんすき食ってるのが身の丈に合ってるわ」

「もう今日は呑んだらあかんで」

「大丈夫や。まだ一回も遅刻してへんから」

 電話を切ると、遠く離れた借り上げ社宅の3LDKのマンションで敷き放しになったマットレスと、小さなちゃぶ台の上で置き放しにされている電気掃除機のカタログをやすしは思い浮かべた。


 タワーマンションに着くとテニスコートに珍しく高志がいた。

 高志は週の大半が出張で、たまにマンションにいるときもやすしが酔って帰って来たときにはすでに部屋で眠りについていた。

「珍しい、どうしはったんですか。なおみさんからの敗者復活メールでも待ってるんですか」

「キツイな~、やすしさん」言いながら高志は赤ワインの入ったグラスを傾けた。

「私もビールよばれていいですか。呑み屋から歩いてきたんで喉乾いてしまって」

「どうぞどうぞ、冷蔵庫にしこたま入っているんで」

 毎晩呑んで帰って来て、少し喉が渇いたなと思っても遠慮してやすしは一度も冷蔵庫を開けたことはなく、途中のコンビニで買ってきたミネラルウォーターを喉に流し込んでいた。

「毎晩呑まれているんですか?」

 やすしが缶ビールのプルトップを引いた時高志が聞いた。

「ええ。大阪で呑んでも東京で呑んでもやっぱり安酒はうまいですわ。もちろん、この間、高志さんにご馳走になりましたお鮨も無茶苦茶美味しかったですよ。せやけど、私みたいな安もんの人間にはやっぱり安酒があいますわ」

「いえいえ、やすしさんは決して安物な人間じゃないですよ」

「高志さん、それは自分自身が一番わかってますんで」というとやすしは缶を傾けた。

「だいたい立ち呑みですか?」

「ええ。それもほとんど一人です。いいんですよ、呑みたいもん呑んで、食べたいもん食べて、酔っぱらったらさぁ帰ろって」

「私、立ち呑みって一度も行ったことがないんですよ。やすしさん、今度一度連れていってくださいよ」

「いいですよ。今日呑んできた店にいきましょう。すごく気に入っていて、そこばっかり行ってるんですよ。その代わり、今呑まれているような高級ワインは置いてないですから。せいぜいあっても赤玉スゥイートワインくらいです」

「ははっ、それ懐かしいですよね。小さいときによくコマーシャルでやっていましたよね」

「あと、その高級そうなチーズなんかも置いていませんから。三角形の6Pチーズですから」

「それも懐かしいですよね」

「それから、あの、紅しょうがの天ぷらもちゃんとありますから」

「そうなんですか」

「こっちにきて置いてる店を探し回ってやっと見つけたんです。すごくいい店ですから。都合のいい日があったら言うてください。私は基本、大阪に帰る金曜日の夜以外は毎晩空いてますから」

「毎週大阪には帰られているんですか?」

「今のところ皆勤です」

「大変でしょ。疲れるでしょうし費用もバカにならないですから」

「月二回分は会社から出るんですけど、残りは適当に引継ぎが残ってる言うて会社の費用で帰ってますけど、もうそのうちその手も使えなくなると思います。ところで、この間の週末、なおみさんと呑んできたんです」

「そうなんですか。元気にしてましたか、なおみちゃんは」

「ええ。

 別れたご主人が再婚されて、奥様に子供さんができたそうです」

「そうなんですか」

 高志はグラスの赤ワインをゆっくりと呑み干した。

「なおみさん、子供が欲しいて言うてはりましたわ」

「じゃあ、私の敗者復活の目はありませんね」

 やすしは何も言わず東京の夜景に目を向けた。

「せやけど、まだ、なおみさんは高志さんのこと好きやと思いますよ。話してたらなんとなくわかりますわ。また、たまには電話したって下さい、掛けにくいとは思いますけど・・」

「わかりました。色々とすいません」

 高志の声を聞くとやすしは「ちょっと今日は呑みすぎたんで先に失礼します」と言って立ち上がった。

「やすしさん、変なこと聞きますけど、なおみちゃんとは・・」

「なおみちゃんとはって・・?」

「いえ、なんでもないです、気にしないでください」

「高志さん、大丈夫ですよ。多分、人畜無害なんでしょ。高志さんと同い齢ですけど、高志さんのことは“男”として見ても私のことなんかただの“おじさん”認識でしょ。

それにもし彼女がそういう気持ちで私に接してきても、私には受け入れる経済力も彼女の人生を受け止める器量もありませんわ」

 言うとやすしは「ほな」と言ってテニスコートを後にした。


         ⑪

待ち合わせの駅のロータリーに着くと河合はすでに車で来てくれていた。

「すまんなぁ、せっかくの休みやのに」

 車の助手席に乗り込むとやすしは河合に言った。

「いえいえ、特に用事もなかったですから」

「おいおい、花の独身男が悲しいこと言うなよ」

「いえ、ほんまですから」


 五分ほど走ると目的地の家電量販店に着いた。

 木曜日の夜、妻のやすえから突然「来週の週末にそっちに行くから」と連絡があった。

「わかった。この週末は仕事の関係で大阪に帰れへんから」と咄嗟に嘘をついて電話を切ると、返す刀で河合に連絡を入れた。

「このフロアーです」

 河合は手慣れた感じでやすしをエスコートした。

 目の前にたくさんの掃除機が鎮座している。

「もう安もんでええで。ほこり吸うてくれたらそれでええから」

 言ったやすしは、使いもせえへん掃除機に金はをかけたくないんや、と今度は心の中で言った。

 そして、河合は店員に掛け合い、ある商品の前にやすしを呼んだ。

「これ、いちきゅっぱ(一九八〇〇)です。この性能でこの価格は無茶苦茶お得ですよ」

「ほなそれにするわ」

 やすしはいちきゅっぱを購入した。

 レジで商品を受け取ると「社宅まで送ってくれへんか」とやすしが頼む前に河合が「送りますから」と言って家電量販店を出た。 

 借り上げ社宅のマンションに着き部屋にいちきゅっぱを下ろすと「ほんまに今日は用事ないんか」とやすしは河合に聞いた。

「ほんまです。終日フリーです」と河合が答える。

「そしたら自分の寮に車置きに行ったら軽くいこか。付き合ってくれたお礼に今日はおごるわ」

「あざーっす」

 

 河合が住む借り上げ寮のマンションにに車を置くと二人で最寄り駅に向けて歩く。やすしの住んではいないが借り上げ社宅がある駅の二つ東京寄りの駅だった。

「じぶん、家電のことよう知っとんなぁ。いわゆる“家電オタク”ていうやつか」

「学生の時にバイトしてたんです」

「ジョっ、ジョっ、ジョっ、ジョーシン、か」

「その通りです」

 駅に着く。

「へえーっ、うちの社宅のある駅とはえらい違いやなぁ」

 駅前にはチェーン店の焼き鳥屋と焼き肉屋、それに牛丼屋があった。

「どっかこのへんでええ店知ってんのか?」

「いえ、どこにも行ったことないんですよ」

「そうか、まあ、俺も一元の客で一人で初めて呑みにいったんは三十過ぎてからやったからな。最初は無茶苦茶緊張したけど、一回行ってもうたら後はなんともないんやけどな」

 チェーン店の焼き肉屋を過ぎて少し歩くと小料理屋っぽい店があった。

“酒”とか“焼き鳥”と書かれた看板もなく、掛かっている暖簾にはなんの文字もなかった。

 やすしが恐る恐る扉をスライドさせる。

「まいどっ」

 店の奥から女性の声が飛んできた。

「今日は暑っいなぁ、さあ、入って入って、クーラー効いて涼しいから」

 二人が店内に足を踏み入れると、そこら中に阪神タイガースが氾濫していた。

「生でええ?」

 カウンターの席に腰を下ろすと髪を虎色に染めた店主が聞いてきた。

「うん、ちんちんに冷えたやつちょうだい」

 やすしが答えると「お客さん、関西?」と店主が聞く。

「イエス。俺もこの青年も大阪ね」とやすしが河合を指さして言う。

「そうですか、うれしいわ、久しぶりに生の大阪弁聞けるわ」

「おかあさんは?」

「私も大阪。三十年前にこっちに嫁いできてんけど、五年前に旦那が亡くなって、もう大阪に戻るの面倒くさいから、知り合いがやってたこの店を譲ってもらってん。娘は二人とも嫁いだから、あとはここで楽しくやって骨も埋めようと思ってんねん」

「そうなんや。

 おかあさん、これからこの青年がちょくちょくお邪魔すると思うからよろしゅうたのんますわ」

「おおきに。今日はゆっくりしていって」

 すぐに店主からジョッキが供され乾杯となる。

「今日はすまんかったなぁ、助かったわ」

 やすしは口に付いた泡を拭う。

「いえ。ほんまに暇でしたから」

 言って河合は付きだしの枝豆を口の中にはじかせる。

「大きなお世話やけど、自分、彼女はおるんか?」

「はい、いちおう」

「なんや、そうなんか。そら一安心やわ。こっちの人か」

「はい。三つ年上なんです」

「ほーっ、結婚とか考えてんのか」

「ええ」

 河合の顔が少し曇った。

「おかあさん、肉じゃがちょうだい、もちろん肉は牛肉やろね」

「当たり前やんか。あと、紅しょうがでも揚げよか」

「ええなぁ。たのんますわ。あと、熱燗二合もね」

「あいよ」と店主が言ってやすしがジョッキを傾けた時、河合が「実は・・」と言ってやすしの目を見た。

「彼女、バツイチなんです」

「そうなんか。今時、珍しくもなんともないけどな」

「そうでしょ。だけど、親がね、アカンて言うんですよ」

「彼女に子供さんはおるんか?」

「いえ」

「それやったらええやないか。子供さんがおったら俺もちょっとは考えるとこやけど」

「親父は勝手にしろって言ってくれてるんですけど、おかんがね・・」

「まあ、お母さんのお気持ちもわからんではないよ。お前も俺らの大学出てるから、お母さんからしたら“自慢の息子”やと思うで。その“自慢の息子”の嫁さんが、悪いけどバツイチいうたら、知り合いとか友達にちょっと言いたくない・・いわゆる世間体ってやつやなぁ」

 店主から肉じゃがが供される。

「おかあさん、ちゃんと牛肉やんか。ほんまは俺らの分だけ牛肉にしてくれたんちゃうん。普段は豚肉で」

「あっ、バレたっ」

 やすしと店主は手を叩いて笑ったが河合は表情を変えなかった。

 続けて紅しょうがの天ぷらと熱燗が供される。

「おかあさん、手空いたらええんで、お造り適当に盛り合わせて」

 気が付かなかったが、いつの間にかカウンダ―だけの店内は客で埋まっていた。

「彼女が分かれた理由なんですけど・・」と河合がゆっくりと言葉を吐く。

「DVか?」

「似たようなもんです。モラハラなんです」

「モラハラ?なんやそれ。セクハラとかパワハラとかはしょっちゅう聞くし、何回か現場も目撃したこともあるんやけど」

「言葉の暴力です。

『お前は俺の稼ぎで飯食ってんだろう』とか『専業主婦なんやからもっとまとめなメシ作れやっ』みたいなこと言うんです。

「そんなん、結婚するまでにわからんかったんかい」

「どうなんですかね」

「その前のダンナの居場所わかるんか?」

「彼女は知ってると思います」

「そしたら、そのダンナのとこ行ってぶん殴ってこい。それからご両親に彼女を紹介したらええわ。お母さんにもわかってもらえると思うで」

「わかりました。ありがとうございます。やすしさん、私も日本酒もらえますか」

 河合はお猪口をやすしに差し出した。

「大丈夫かい。俺、力ないから、よう背負って帰らんぞ」

「大丈夫です。この距離なら這ってでも帰れます」


 二時間後、河合は本当に地面を這っていた。

「せやから言うたやろ、呑みすぎるなって」

 店を出て十歩も進まないうちに河合のひざは砕けた。

 まだ明るさの残る街を行きかう人々が二人を憐みの目で見る。

「いやーっ、やすしさんっ、今日は本当にありがとうございました。勇気をもらいましたよっ。あの野郎っ、ぶん殴ってやりますから」

「アホか、ほんまに殴ってどうするんや、捕まるぞ。ぶん殴るくらいの気持ちで話してこい言うてんねん」

「いえ、僕はあいつはもう絶対に許さないですから。ケイちゃんをイジメるやつは俺のこの手で・・」

「手はええねん。その前に足何とかせえ」

「うまいっ、さすがやっさん、大阪人の誇りですわ」

「おおきに、おおきに。それより、彼女、ケイちゃんて言うんか」

「えっ? なんで知ってんすか」

「俺にはわかるんや。超能力があるんや」

「へえー、そうなんすか」と言った河合は突然死んだかのように眠りに落ちた。

 駅前で客待ちしていた運転手に手を上げ助けを求める。

 行き先を告げ、千円札を運転手に差し出し「釣りはええですから」とやすしは言う。

 信号を二つ渡り角を一つ曲がると河合が住む借り上げ寮のマンションに着く。

 運転手の肩を借りなんとかマンションのエントランスまでたどり着く。

 運転手に礼を言うとやすしは河合の頭をはたいた。

「こらっ、何階やっ、お前の家はっ」

 しかし、河合は何の反応も示さなかった。 やすしは管理人室らしきものがないかエン

トランスの周りをあたりにいったがそれらしき部屋はなかった。

 郵便受けを見に行ったが部屋番号の下に“河合”という文字はどこにもなかった。

 誰に聞けばいいかとガラ携の連絡先に目を通していると一人の女性がエントランスに入

ってきた。

 そして、河合とやすしの姿を見るなり「河合君っ」と声を上げた。

「まさか、ケイちゃん?」とやすしが声を上げる。

「あっ、やすしさんですか? すいません、お世話になってしまって」


 二人で河合をなんとかエレベーターに押し込む。

「いや、どうしようかなぁと思ってたんですよ」とやすしが河合に負けないくらいの赤い

顔で言う。

「河合君、メールくれてたんです。今日はすごく嬉しいことがあったから滅茶苦茶呑んで

ベロベロに酔っぱらうから面倒見に来てくれと」

「なんや、確信犯やったんや」

 二人で笑うとエレベーターが止まる。

「もうここからは大丈夫です」とケイが言う。

「いや、部屋までは連れていきます。酔わした責任として」

 と言ったものの、やすし自身もかなり酔っておりケイと引きずるようにして河合を部屋

の前まで連れて行った。

「ケイちゃん、ふつつかな男ですがよろしくお願いします。こいつ、ほんまにええ男なん

で。それにケイちゃんのことを心底愛してますんで」


 河合のマンションから離れると駅まで戻る力は残っていなかったので流しのタクシーを

拾う。

 そして、眠りに落ちかけたところで借り上げ社宅のマンションに到着する。

 エントランスにある郵便受けから宅急便の不在届を取り出す。もちろん差出人は妻のや

すえ。

 エントランスを出て宅配ボックスからいつものボストンバックを取り出す。

 灯りのついていない部屋に入りやすしは「ただいま」と誰にともなく言う。

 リビングの灯りをともすと、敷きっぱなしになったマットレスとちゃぶ台、そして、今日買ってきた掃除機が迎えてくれる。

 ボストンバックのジッパーを開ける。

 いつもなら開けることなく高志のタワーマンションの住所が書かれた送り状を貼りコンビニへ持っていくところだが、今日は中に入った下着を取り出すとマットレスの周りに並べる。

 妻のやすえから来週末にこっちへ来ると連絡があった時、やすしは、マンションには家電製品が掃除機以外何もなく不便だし、滅多に来ないんだから都内のホテルを取ると言ったが、もったいないからとやすえが言って、結局借り上げ社宅に来ることになった。

 やすしは「浮気してないかの確認か?」とその時やすえに聞いたが、やすえからの返答がなかったので「それほど俺はもてへんよ」と独り言のように言った。


 翌朝、目が覚めると強烈な頭痛が襲ってきた。河合につられて結構呑んでたもんなぁと思いながらちゃぶ台の上に置いてあるガラ携を見ると、着信を知らせる緑色のランプが点滅していた。

 河合からのメールだった。

“昨日はすいませんでした。もっと鍛えてやすしさんと同じくらい呑めるようになります。ケイちゃんを絶対に幸せにしてみせます”

「なんや、まだ酔うてるやんけ」

 一人ごちたやすしは顔を洗うとマンションを出た。

 

 昨日、河合に連れてきてもらった家電量販店は日曜日とあってか、開店間もない時点でたくさんの人で溢れかえっていた。

 お目当ては隣接するホームセンターだった。

 生活感を偽装しなくてはならない。

 朝起きてから夜眠るまでの間の行動をシュミレーションする。

 朝、目が覚める。歯を磨き、ひげをあたる。こっちへ来たときに妻のやすえが揃えてくれた歯ブラシ、歯磨き粉、髭剃り、シェービングジェル、アフターシェービングローションは全部タワーマンションに持って行った。

 すべてを終えるとタオルで手と顔を拭く。タオルは確か二、三枚残っていたはず。次はトイレ。トイレットペーパーは全く使わず放置されている。芳香剤だけが唯一体をすり減らし時を刻んでいた。

 トイレを出ると、食事をとるわけでもなく、お湯を沸かして珈琲を淹れるようなことはしない。

 出勤し、一日働き、立ち呑み屋で一杯ひっかけてマンションに戻ってくる。

 もう少し呑もうとするも冷蔵庫がない。よって、ビールの買い置きはしない、というか、できない。バーボンをストレートで呑もう。あてに乾きものを少し買おう。わざとらしく読みかけの週刊誌を置いておこう。あと、カップラーメンならお湯を沸かせれば食べられる。カップの味噌汁も少し買っておこう。


 ホームセンターを出て、ビールだけは冷えたのが呑みたかったので、マンションの最寄り駅のコンビニでレギュラー缶を二本と、電子レンジもなかったので、揚げ物が入っていない弁当を選びチンしてもらい、週刊誌を三冊買って帰路につく。

 マンションに着くとすべての窓を開放し缶ビールのプルトップを引く。

 だだっ広い関東平野は相変わらず開け放した窓の向こうから山の姿を供してくれない。

 畳の上であぐらをかき、ちゃぶ台の上のコンビニ弁当をつまむ。

 まだ、少しだけだが温もりが残っている。

 週刊誌を開く。

“お父様方の愛読書NO1”とうたわれた週刊誌の今週のメインテーマが“バブル世代のいらない五十代が日本をダメにする”だった。

 パラパラとページをめくり五行ほど読んだところでやすしは週刊誌を壁に向かって投げ捨てた。

 あっという間に一本目の缶ビールが空き二本目のプルトップを引く。

 コンビニ弁当は昔に比べると格段に美味くなったがなぜか口に合わない。

 しかし、腹が減っていたので無理矢理胃に押し込む。

 そして、二本目の缶ビールが軽くなった時、ホームセンターのレジ袋からジャックダニエルを取り出し、唯一の食器の湯吞にドボドボと注ぐ。

 来週の週末にやすえと来るまでは部屋に立ち入らないので生ごみを残すことはできなかったので残っていたコンビニ弁当を掻きこみ、ジャックダニエルで追いかける。

 喉が焼けるのを感じたのと同時に時が二十年前にトリップする。

 娘が生まれる一週間前に会社の嫌がらせで東京への異動となる。無事娘が生まれ、毎週金曜日には仕事を終えると大阪に戻った。しかし、月曜日から金曜日の夜に会えるまでは顔を見ることができない。スマホやテレビ電話などはまだない時代で、生まれて初めてフォトスタンドを買い娘の写真を入れ、首が座ったら呼び寄せる予定だったので電化製品は何も持ち込んでいなかった六畳一間の独身寮で、近くのコンビニで買ったジャックダニエルを湯吞に入れ寂しさを紛らわせていた。

 ちゃぶ台の弁当殻の横で鎮座していたガラ携が震える。

「もう仕事終わったん?」

 妻のやすえからだった。

「イエス。部屋で一人寂しく呑んでます」

「新幹線の予約取れてん」

「何時なん?」

「八時三十分 新大阪発」

「十一時過ぎに東京着やな。そしたら、東京駅で昼飯食おか。それから雷門でも行って、その後、スカイツリーでも上りにいこか。で、晩飯は月島でもんじゃでも食おか。東京観光の教科書みたいやけどな」

「任せるわ。あっ、それと、枕だけ宅急便で送っとくからちゃんと受け取っといてな」

「ほんまに泊まるんか?テレビも冷蔵庫もなんもないんやで。今やったらまだ東京でビジネスホテルくらい取れるで」

「ええねん。もったいないやんか。二人で泊まったら二万円くらいするんやろ。それやったら美味しいもん食べよや」

「そしたら昼飯は江戸前鮨食べて晩飯は天ぷらでも食べよか」

「うん、わかった。そしたら待ち合わせは?」

「新幹線降りたらそのままホームで待っといて。東京駅は新大阪なんか比べもんにならんくらい広いから、変なとこに出てしもたらほんまにわけわからんようになるから。到着ホーム調べとくわ」

「わかった。何号車だけなんかあとでメールしとくわ」

「了解」

 携帯を切ると空になった湯吞にジャックダニエルを注ぐ。

 窓の外を黒いカラスが青い空を背景に飛んでいく。

 注いだばかりのジャックダニエルをゆっくりと喉に流すと浴室に向かう。

 前の入居者が残していったプラスチックのパイプだけで組まれた棚に置き放しになっていたバスタオルがやっとめぐってきた出番にそわそわとしているのがわかる。

 証拠作りの為だから髪などは洗わない。汗を流す程度にシャワーを浴びるだけでバスタオルに体を託す。

 冷たいものを飲みたかったが、ジャックダニエルしかなかったので、タワーマンションへの帰り支度をする。

 体に残った熱を感じながら窓を閉めると鴨居にぶらさげた針金だけでできたチープなハンガーに吊るされたバスタオルがゆらりと揺れた。


         ⑫

 やすしはいつもの立呑み屋にいた。

 金曜日の夜だったので店はほぼ満員で団体客も何組かいた。

 明日は妻のやすえを東京駅に向かいに行き、一日東京観光をするので今宵はあまり呑み過ぎては・・と思っているとガラ携が震えた。

 高志からだった。

「これから行っていいですか?」

 断る理由はなかった。

 三十分ほどして高志はやって来た。

「すいませんっ、急にお願いしちゃって」

「いやぁ、そんなん全然かまわないですよ。どうせぼけーっと呑んでるだけですから。それより、何呑まれます?」

「喉が渇いたんでビールにします」

「大(だい)瓶、いや、大(おお)瓶にされますか。それか生?」

「生にします。大(おお)瓶だと呑み切れませんので」

 やすしは店員に生ビールを注文し、自分なりのおすすめを高志に教えた。

 その中から高志はポテサラとハモ皮ポン酢を注文した。

「やすしさんは何呑まれているんですか」

「もう日本酒ゾーンに入っています。だいたい、いつもビール一本呑んでその後はコップ酒を二杯、調子が良かったら三杯呑むんですよ」

 高志の生ビール、ポテサラ、ハモ皮ポン酢が一緒にやってきた。

 二人はコップとジョッキを重ねる。

「どうですか、立ち呑みデビューは」

「いいですよねぇ。何か酒呑んでるーって感じで」

「まあ、間違っても接待している人間なんかいませんし、単に酒が呑みたい、ていう輩ばかりやと思います」

「ところで、やすしさん、このハモ皮ポン酢ってなんですか。五十余年の人生で初めての出会いなんですけど」

「私もつい最近出会ったんですよ。大阪でいつも行く立ち呑み屋の定番メニューで、私も存在は知ってたんですけど注文したことはなかったんですよ。ある時、隣の客が食べているのを見て美味そうやなぁと思って一度頼んでみたらこれが美味くて」

「そうなんですか」と言って高志は備え付けの木の箸を割った。

「高志さんみたいなお金持ちはハモの身を食べれますけど、私ら貧乏人はお金が無いですから、せめて皮でもって、その願いを叶えてくれたあてやと私は思ってます。

 ハモ皮の脂とポン酢とさっぱりしたキュウリが無茶苦茶合うんですよ。

 こっちに来て何軒か立ち呑み屋をまわったんですけど、たまたまこの店に置いてあったんですわ」

 高志は「いただきます」と言ってハモ皮ポン酢を食した。

「あっ、これは美味しいですよね」と声を上げる。

「でしょ。

 ビールとも合うし日本酒とも合うんですよ。あっ。ワインもありますよ。小さなボトルでたまに呑んでる人いますわ。ただ、あてがねぇ、カウンターに置いてあるチーかまか6Pチーズかオイルサーデインの缶詰くらいですわ。間違っても海老とマッシュルームのアヒージョはありませんから」

「ありがとうございます。適当に頼みます」

 やすしは自分もハモ皮ポン酢を注文し、コップ酒で流し、高志は生ビールを空けるとワインを頼み、やすしご推奨のチーかまをかじった。

「やすしさん、先週末は珍しくこちらにいたんですよね」

 高志が手酌でワインを曇ったコップに注ぎながらやすしに聞く。

「そうなんですよ、実は嫁さんがね・・」

 やすしは経緯をすべて高志に話した。

「そういうことですか。アリバイ作りも大変ですよね。明日の朝は早いんですか」

「いえ、十一時ごろに東京駅へ迎えに行きます」

「そうですか。でもあんまり遅くなってもなんですし、奥様がこちらへ来られるのもちょうど良かったです」

「ちょうど良かったって?」

「いえ、実はやすしさん、お願いがあるんです」

「お願い?何ですか?たこ焼きの焼き方を教えてほしいとか」

「いえ、真面目な話、うちの会社に来てもらえないかと思いまして」

「へっ!?」ハモ皮を口に運ぼうとしたやすしの手が止まった。

「確かに、みんないい大学を出て仕事もきちんとこなす、いい意味でコンパクトにまとまっている、だけど、何かが足りないんですよ」

「御社の若い社員さんのことですか」

「そうです。私は第三世代と陰で言っているんです」

「なんですか、それ?お笑いの第七世代みたいなもんですか?」

「円周率ですよ」

「あっ、なるほど、そういうことですか。僕らの時は三.一四でしたけど計算が難しいから言うて三になったんですよね」

「社会人として、我々の時代はみんなが持ち合わせていた最低限の読み、書き、そろばんができないんですよ。英語はペラペラなんだけど分数や確率、按分の意味を分かっていない社員が何人かいます」

「高志さん、まだましですよ。うちの会社なんか英語なんかもちろん喋れない、おまけに算数ができない大卒がゴロゴロいますよ」

 言うとやすしは自虐的に笑った。

「勉強の絶対時間が足りていないんですよ。だから基礎ができていない。要領のいい子は専門用語を拾ってきて自分の会話の中にペタペタと貼り付けてお茶を濁すんですけど、すぐに剥がれちゃう。それに、小さいころから塾や予備校に通っているから、わからないことがあるとすぐに人に助言を求めるクセがついてしまっている。問題が自分に降りかかった時に、まず自分で何とかしよう自分で解決策を考えようというのが全くないんです。だから、自分でストーリーを描けない。恋愛と一緒ですね。結婚していない三十代、四十代がそこら中にいるでしょ。それが原因とは言えませんけど何らかの関係はあると思うんです」

「そうですよね」と言いながらやすしは河合の顔を思い浮かべた。

「そこでやすしさんに“第三世代”を少しでも三.一四に近づけてほしいんです。

 年度下期の十月から教育推進室という部署を立ち上げます。仰々しい名前ですけど、要は社員の再教育課です。社会人としてのね。

 そこの責任者、役職名は“シニアディレクター”です。それをやすしさんにお任せしたいと」

「私にですか?」と言うとやすしは今日三杯目のコップ酒を注文する。

「ええ」と言うと高志はボトルの底に残っていたワインをコップに注いだ。

「物忘れがひどうて、昨日の夜の晩御飯も思い出せんような人間ですよ」

「やすしさん、それは私も同じです。確かに歳はとりましたよ。だけど、我々と今の若い子達とはベースが違いますよ。我々が若いころに今の時代にタイムスリップすれば二人とも楽勝で赤門をくぐれますよ」

「あの子らが悪いんちゃうんですよ。昔のアホの文部省が悪いんですよ。しょうもないことやりやがって」

「本当です。やすしさんの仰る通りです。自論ですけど政策の失敗は十年もあれば取り戻せますけど、教育の失敗は二十年、いや三十年、いや、もっとかかるかもしれません」

「ほんま、そうですよね」

 やすしはでてきたコップ酒を舐める。

「やすしさん、ということなんで、明日奥様とご相談いただいてお答えを頂戴できますか」

「わかりました。いつまでに返事したらいいですか?」

「やすしさんに断られたら次の人を探さないといけないので、できれば六月中に頂ければ助かります。

 やすしさん、是非、力を貸してください。失礼ですけど、あなたは今の会社の今の地位でくすぶっているような人では決してありませんから」

「高志さん。決してくすぶってなんかいないですよ。機嫌よく佇んでいるだけです」

「いや、それはダメです。やすしさんっ、それは大袈裟かもしれませんけど国家の損失です。いや、地球規模での損失です」

「高志さん、今日は悪酔いしてはりますよ。まあ。嫁さんに一回相談してみます」

「あと、やすしさん、もし、この話を呑んでいただいた時の待遇ですが、今お勤めの会社の規模と役職から推測すると、おそらく、倍のお給料は支給できるかと思いますので」

「わかりました。嫁さんとよう話して決めさせていただきます。では」

 二人はコップを重ねた。

「じゃあ、そろそろ行きましょうか。ここは私が出しときますんで」

 高志の言葉に「いやいや、割り勘にしましょうよ。でないと、今後一緒に来ずらくなりますから」とやすしは上着のポケットから使い古した財布を出した。

「やすしさん、誘ったのは私なんで」

 言うと高志は店主に大枚を手渡した。

 そして「あっそうだ」と言ってやすしの目を見た。

「やすしさん、お願いしようとしている仕事は本社に限ったものではありません。全国の社員が対象になりますので、上手く日程を調整頂ければ週末だけに限らず、いくらでも大阪に帰ることができますので。それに、なおみちゃんとも繋がりがでてくると思います」

「そうですか」と言ったやすしは、本当に高志は自分のことを必要としているのか、それともなおみとのパイプ役としてより身近に置いておきたいだけなのか、どちらだろうか、と思った。


         ⑬

「酒くさ~っ」

 開口一番、やすえがやすしに言った。

「場所が変わってもやってることは変わらんなぁ」

「安定してると言うてくれ」と言ったやすしは胸のむかつきを覚えた。

「何時まで呑んでたん?」

「そんな遅ない。短期集中型や。合宿免許といっしょや」

「よう遅刻せんと来れたなぁ」

 千葉の借り上げ社宅のマンションからだと無理やったやろなぁと思いながら、やすしはやすえに「で、何食べに行く?」と聞いた。

「お鮨て言うとったけど無理やわなぁ。その感じやったらうどんかお蕎麦が精一杯やろなぁ」

「さすが長年連れ添ってきた伴侶やなぁ・・」


 二人は東京駅構内にある蕎麦屋に入った。

「江戸前鮨の予定やったから何でも頼んでや。だいたいおばちゃんは蕎麦屋に入ったら天ざる頼むから、上天ざるでも頼んだら」

「そうやなぁ・・」と言ってやすえはメニューを手にした。

「三、三千五百円―っ!!」

 静かに佇んだ店内にやすえの声が響き渡った。

 やすしは慌ててやすえの口をふさぎ周りの客に頭を垂れた。

「東京はな、もちろん大阪より物価が高いんやけど、特に鮨と天ぷらがええ値段するんや。会社の近くの人気のある天ぷら屋、昼のランチで上天丼四千円やからな。大阪やったらとっくに暴動起きてるからな」

「そうなんや。まぁ、そしたらお言葉に甘えて上天ざるにするわ」

「そうしぃそうしぃ、俺はお決まりのざるの大盛に瓶ビールにするわ」


 蕎麦屋を出た二人は雷門に行き、有名なあんみつ屋でやすえは一番人気の抹茶クリームみつ豆を食し、やすしは甘いものが苦手だったのでホットコーヒーを飲んだ。店内はもちろん禁煙だった。

 雷門を離れると二人はスカイツリーに行き、やすえは近所の人へのお土産を買い、やすしは借り上げ社宅のマンションの鍵につけるキーホルダーを買った。

 そして、二人が月島駅に降り立った時、初夏の空はまだ太陽の“おいとま”を拒んでいた。

「あーっ、やっと昨日の酒が抜けたわ」

 やすしは大きなあくびを一発かました。

「それやったらお鮨に変更しよか」とやすえが聞く。

「いや、せっかく東京へ来てんからもんじゃを食べて帰って」

「て、言うか、タバコ吸いながら呑みたいんやろ」

「ピンポーン、ただでさえ酒を提供しながらタバコは吸わさんというあほんだらな店が増えてるのに、鮨屋ではまず100%吸えんと思うわ。特にこっちは大阪と比べて厳しいから。もう喫煙という行為はこの国から、いや、地球上からいずれは抹殺されんねやろなぁ」

 

 週末だけあってどの店も混みあっていて、普通なら「空いてます?」と聞くところ、やすしは「タバコ吸えます?」と聞いて回り、五軒目でやっと入店することができた。

 小上がりに腰を下ろすと「生中たのんで。あとはあんたに任せるわ」とやすしはやすえに言い、今日初めてのタバコに火を点けた。

「なんも悪いことしてないんやけどな」とひとりごちたやすしは紫煙をくゆらせる。

 暫くすると、生中とウーロン茶が運ばれてきた。

 ジョッキとグラスを重ねる。

「たまには呑んだらええやんか」

 口の周りに泡をつけてやすしが言う。

「ええよ。あんたが私の分まで、いやそれ以上に呑んでるから」

 もんじゃが供され店員が焼いてくれる。

 あっという間に丸い土手ができあがり茶色い生地が投入される。

「何もんじゃにしたん?」

「プレーンにベビースターラーメンをトッピングしてん」

 確かにそれらしきものが茶色い生地の上に浮いている。

 もんじゃが焼けた。

 小手ですくい口に運ぶ。

「うっまいなー」

 やすしは言葉を漏らし二杯目の生ビールを注文する。

「前んときも一回三人で食べに来たやんなん?」

「うん。どこの店かは忘れたけど、あの子まだ二歳か三歳やったけど、何を頼んでどうやって食べさせたか覚えてないわ」

 青のりをかけてやすしは味を変える。

「お好みもうまいけど、たまにはもんじゃもええなぁ」

 二杯目の生ビールがやって来た時、鉄板からもんじゃの姿はなくなっていた。

「次、何にする?」とやすえがやすしに聞く。

「ええよ、任せるわ」とやすしが答える。

「そうやなぁ」と言って壁に貼ってあるメニューを眺めていたやすえが「あっ!」と声を上げた。

「どしてん、一枚三千五百円のもんじゃでもあったんかい」

「違う、焼きそばがあんねん」

「マジか?ええやん、それにしよ。紅しょうが大盛言うてや」

「あっ!」

「なんやねん今度は?メニューにたこ焼きでもあったんかい」

「あの時、焼きそば頼んだんよ。あの子、もんじゃ食べさせようと思たら嫌がって。それで、麺類好きやったから焼きそば頼んだら喜んで食べて」

「そうやったかなぁ。俺はあんまり記憶にないわ。

 せやけど、食べ物とか音楽ってのはその時の記憶を呼び覚ましてくれるっていうか、その時に引き戻してくれるよなぁ」

 湯気を立てた焼きそばが鉄板に供される。

 やすえの横に娘が現れる。

「メンメン、メンメン」

 興奮する娘の横でやすえが鉄板から焼きそばをパンダの絵が描かれたプラスチックの皿に移し、食べやすいように短く箸で切る。

「あーん」

 やすえの声につられて口を開けてしまう。

 焼きそばの脇に添えられている紅しょうがをつまみビールで流す。

 娘が「おいちぃー」と百万ドルの笑顔で言う。


 店を出ると月島で都営地下鉄に乗り、両国でJRに乗り換え、千葉方面へと向かう。

 娘は疲れと満腹からやすえとの間で眠りの沼に沈んでいる。

 そのやすえも疲れからか夢の中にいる。

 やがて最寄り駅に着く。

 腕には娘が眠っている。

「冷蔵庫もないし、なんにもないで」

 コンビニの前でやすしがやすえに言った。

「ええよ。お腹いっぱいやし、朝、新大阪で買ってきたお茶もまだ残ってるし」

「そしたら、ちょっとだけ贅沢しよか」とやすしが言うと駅前のタクシー乗り場に向かう。

 娘の口から垂れたよだれがポロシャツの袖に黒く丸い染みを作っている。

 マンションに着き部屋の明かりを灯すと敷き放しのマットレスが目の前に現れる。

「あっ、私の枕は?」

 やすえの声で現実に引き戻され、腕から娘が消えた。

「しもたっ、宅配ボックスに入れたまんまや」

 危うくアリバイが崩れるところだった。慌ててエントランスに降り、郵便受けから不在配達表を手に取ると、自動扉を出て宅配ボックスから布製のバッグを手に取り部屋に戻る。

「あかん、往復したら無茶苦茶汗かいたわ、先にシャワー浴びるわな」

 やすしは烏の行水よろしくあっという間に浴室を出ると冷たいビールを呑みたかったが水道水で我慢する。

 やすえが浴室に入ると部屋の隅に置いてあったジャックダニエルを湯吞に垂らし、乾いた喉に垂らす。

「かーっ」

 焼けた喉が奇声を発する。

 何気なく敷き放しになっているマットレスに目をやると二つの枕が並んでいる。

 妻と一つの布団で寝るのはいつ以来だろうか。確か、娘が小学生になってすぐくらいにある日会社から帰ると、それまで畳の六畳の部屋で三人で川の字になって寝ていたのを、物置部屋だった六畳の部屋を「今日からあんたの部屋な」とやすえに言われたあの日の前の夜以来だった。

 やすえが浴室から出てきた。

「なんか冷たいもんでも買うてきたろか。マンション出たとこに自販機あるから」

「ええよ。髪の毛乾いたらもう寝るから」

「そうか」

 やすしはジャックダニエルをゆっくりと喉に流すと「あんなぁ」と言葉を続ける。

「どしたん?」やすえがパリパリに乾いてハンガーに掛けられていたタオルで濡れた髪をなでながら聞く。

「酔っぱらう前に言うとくけど、実は俺、ヘッドハンティングされたんや」

「ヘッドハンティング?」

「そう。ヘッドのハンティングや。日本語で言うたら“引き抜き”や」

「あんた、酔っぱらう前って、もう思いっきり酔うてるやんか」

「アホ、まだシラフや」

「ほんまかいな」

 言うとやすえは今日の朝、新大阪駅で買ってきてまだ少し残っているペットボトルのお茶を喉に流した。

「この前、タワーマンションでの俺の浮気疑惑あったやろ。お得意さんの重役夫婦にたこ焼きの焼き方指導に行ったあの案件。あの重役の友人が大きな会社の役員してはって、ある人材を探してると。その人材が俺にぴったし当てはまるからいうて紹介してくれはったんや」

「人材ってどんな人材なん?」

 髪をタオルでなでながらやすえが聞く。

「従業員を再教育できる人や」とやすしがどや顔で答える。

「再教育!?」

「そう」と言ってやすしはジャックダニエルをあおる。

「教育・・教育・・まだまだ教育受けなあかんあんたがなんで他人を教育することができんのん?」

「アホか。確かに俺はデタラメな生き方をしてきて、あんたにも散々迷惑を掛けてきたし、今だに掛けてる現在進行形や。せやけど、前にも言うたけど、人間的には手前みそやけどかなり資質は高いと思てる。ただ、時代にアンマッチなだけや。せやから、俺を東京に飛ばしやがったあの“ゆとり世代“レベルの阿呆どもを再教育するんや。いたって、まっとうなことやと思うで」

「ふぅーん」とやすえは大阪から持ってきた綿棒で耳くそをほじくる。

「俺は、世話になろかなと思てんねんけど、どうやろ?」

「なんていう会社なん?」

 やすしが会社名を告げるとやすえはびっくりして綿棒を激しく耳に突っ込んだ。

「痛たーっ、て、ほんま?」

「ほんまや。給料もたぶん倍くらいになるわ」

「そんな美味しい話ある?なんか落とし穴あるんちゃうの」

「かまへんよ、落ちたって。今まで散々自分で掘ってきた穴に落ちてきてんから。二回落ちんのも三回落ちんのも一緒や」

「仕事はこっちなん?」

「うん。せやけど全国の社員が対象やから、大阪へはこれまでよりは融通つけて帰れるようになると思うわ」

「住むところは?」

「その役員さんが東京のど真ん中のタワーマンションに住んでるんや。去年に奥さん亡くしはって一人で住むのもなんやから言うて、一緒に住まへんかて言われてんねん。社宅はここから一駅だけ東京寄りやから、通勤地獄は今とほとんど変わらへんから、お言葉に甘えようかなと思てんねん」

「せやけど、なんで、あんたなんかがええねんやろなぁ。あんな大企業の従業員の再教育て、これからの会社の命運がかかってるんやで」

「その役員さん、俺と同い齢なんや。日本で一番エラい私大出てんねん。俺らの時は東大より入るの難しいって言われてた私大をな。

 一時間ほど喋っただけやけど、資質の高い人間同志にしかわからんなにかを感じたんや、ほんまに」

「はいはい、わかったから、偏差値世代のほざきはもうええから」とやすえが言うと思ったが声がしなかった。

 朝早くに大阪から出てきて疲れたのだろう、まだ髪も乾いていないのに、やすえは敷き放しのマットレスの上で眠りに落ちていた。


        ⑭

「やすしさん、寂しいですよ。大阪のノリのわかる人がまたおらんようになるんですから」

 河合が真っ赤な顔をしてハイボールを傾ける。

「まあ、そう言うなよ。出会いがあれば別れもある。それが人生やないか」

七月末での退職はすんなり受け入れられた。

 上司の渡辺に退職の意思を告げた翌日には、東京へ飛ばした大阪の“ゆとり世代”からも「やすしさん、当社にとっては大きな損失です」と誰が聞いてもお世辞とわかる言葉を電話でもらった。

「やすしさんはいいですよ。超一流企業と出会えたんですから」

「アホか、お前にはケイちゃんがおるやないか。で、その後どうなったんや?」

「いえ、実は、やすしさんが会社を辞めると聞いてなんか寂しかったんですよ。で、一緒になってくれってプロポーズしたんです」

「ほんまかっ? いつや」

「昨日です」

「昨日!?

 で、ケイちゃんの回答は?」

「YESでした」

「マジかーっ、良かったやんけーっ、よっしゃ、今日はお前のお祝いや、もっと呑もやっ」

 やすしは店員に自分の熱燗と河合のハイボールを注文した。

「いつ言うかってすごい迷ってたんですけど、やすしさんとの別れが背中を押してくれました」

「そうか。で、あのモラハラやったっけ、あいつはどうしたんや?殴りに行ったんか」

「行くわけないですよ。ですけど、一言なんか言うたろうと思ってケイちゃんに居場所を聞いたんですけど、もういいって言われて」

「そうなんか。もう思い出したくないんかなぁ」

「かもしれないです」

「結婚式は挙げるんか」

「はい。さすがにジューンブライドは間に合わないんですけど九月の第一週の土曜日に」

「家族と、仲のええ友達集めてコンパクトにか」

「いえ、それが、あんだけ反対してたおかんが、結婚式は女の子が主役やねんから、そんなちんけなんはあかん言うて、今時珍しくなったホテル挙式やるんですわ、ごっつい金掛かりますわ」

「ええやないか、お母さんがそう言うてくれてんねんやったら」

 頼んだ熱燗とハイボールがやってきた。

 徳利とジョッキを重ねる。

「せやけど、やすしさん、これだけは誰にも言わんといてくださいね」

「なんやねん?実は私もバツイチでしたってか」

「ちゃいますよ。実はその九月の第一週の土曜日、その日、ケイちゃんが前の旦那と離婚した日なんです」

「へえー、そうなんか」と言ったやすしは徳利の酒をコップに移す。

「すごく迷ったらしいんですけど、やっぱりその日でって・・」

「思い出したくないんやけど、次の新たな人生を踏み出さなあかん。あえて、選んだわけや」

「そうなんでしょうね」と言って河合はゆっくりとジョッキを傾ける。

「俺が言うのもなんやけど、幸せにしたらなあかんで」

「はい、何が何でも幸せにします」

「よっしゃ、そのジョッキ空けたら行こか」


 JRの駅に着くとやすしは「ちょっと寄っていくとこあるから」とふらついている河合の肩を叩いた。

「マジっすか。もう少し話したいことがあったんですけど、これですか?」

 河合は小指を立てる。

「もちろんや。明日遅刻したら渡辺には適当に言うといてくれ」

「わかりました。じゃあ、今日はありがとうございました」

「おお。お前こそまっすぐ帰れよ」 

 河合に手を挙げるとやすしは背を向けた。

 その背に河合は声を掛けた。

「結婚式、来てくださいよ」

 その声にやすしは答える。

「当たり前やっ、ただし、会社辞めてへんかったらな」

 ホームに電車が入って来たのか、車輪とレールのこすれる音が二人の頭の上に降りかかる。


         ⑮

 一昨日、仕事を終えていつもの立呑み屋に行こうとしたところ上司の渡辺に呼び止められた。

「やすしさん、明日の夜なんですけど、ささやかですけど送別会を行いたいんですけど、ご都合は如何ですか」と聞かれ特に断る理由もなかったので昨夜会社近くの居酒屋で執り行われた。

 終了後、皆の万歳三唱に送られ、少し感情的になって駅に向かって歩いていると誰かが肩を叩いた。

「寂しいなぁ、もう少し呑みましょうよ」

 もちろん、赤い顔をした河合だった。

「前に一緒に掃除機買いに行った後、ご馳走になったあの僕がつぶれた店行きましょうよ」

 マンションを引き払うため戻る予定だったので「ええよ」と言って二人で電車に乗った。

 しかし、二軒目はないと踏んでいたので結構呑んだせいか、乗ったとたんに熟睡してしまい、あやゆく乗り過ごすところだった。

 店に入ると確かケイちゃんがいて、三人で何かを話していたが何を話していたか全く記憶がなかった。

 そして、いつも通り呑みつぶれた河合をケイちゃんとマンションまで送っていたところで記憶の映像は途切れ、どうやってマンションまで帰って来たかはもちろんなにも覚えていなかった。

 強烈な頭痛を覚えながらガラ携を開くと総務課の人間が部屋の鍵を取りに来る時間まで一時間を切っていた。

 頭痛に負けないくらいの喉の渇きにフラフラと立ち上がるとキッチンへ行き、水道水をがぶ飲みする。小学校の夏の校庭を思い出す。

 しかし、あの時のカルキの臭いは全くしない。

日本のインフラのレベルの高さに感謝しつつ荷物をまとめるが、幸い持ってきたものが少なかったのであっという間に準備が整った。

持ってきたものに増えたのは、また来るからとやすえが置いていった枕だけだった。

部屋の隅に立てかけてある掃除機に目が止まる。

あっ、眠っていた脳みそがやっと目を覚ました。

昨夜、酔いつぶれた河合をケイちゃんと介抱しているとき「引っ越しの準備は済まれているんですか」と聞かれたのだ。

そして「いえ、そんな大した荷物無いですから」と答えた時に掃除機のことを思い出したのだ。

「ほとんど使っていないんで良かったら引き取ってくれます?河合君が選んでくれたんですよ」

「いいんですか?」とケイちゃんが聞く。

「どうぞどうぞ、餞別ということで」

 交渉成立。

 しかし、どうやって渡すのか、いつ誰が取りに来るのかといった話をどこまでケイちゃんと話したかまでは思い出すことができなかった。

 河合に電話を入れようと思ったが、まだ酔いつぶれて眠っているだろう。おそらく傍らにいるケイちゃんは眠っている河合に掛かってきた電話を覗き見るタイプの女性ではない。メールだけ打っておこう。

“喋れるようになったら電話くれ”


 約束の時間の五分前に部屋の呼び鈴が鳴った。

「総務課の早坂です」

 河合と同い齢くらいの今風の“さわやか”系の男の子だった。

「すまんなぁ、休みの日やのに」

「いえいえ、これも総務の仕事ですから」と言った早坂は部屋の中をぐるりと見渡した。そして「荷物はあれだけですか」と布団袋と二つの布袋を指差した。

「そう。あと、あの掃除機ね」

 やすしは相変わらず部屋の隅で仁王立ちしている掃除機を指差す。

「裸じゃまずいんで、何か、元々入っていたケースか段ボールありませんか?」

「いや、あれは河合にやるんやけど、河合rと連絡が取れんで」

「河合なら、私、同じマンションなんです。同期なんですよ」

「そうなんか」

「車で来てますから持っていきますよ」

「すまんなぁ、助かるわ」

「あいつ、結婚するんですよね。たまに彼女もマンションに来ていますよ」

「早坂君は予定はないんか?」

「ええ、残念ながら」

「そうか、まあ、社内見ても、おばちゃんばっかりやもんなぁ。俺ら社会人になったころは、寿退社言うて、女の子は大概、結婚したら退職して、また、新しい女の子が入ってくる。常に循環してたけど、今は結婚しても子供産んでもガッツリ残るもんなぁ。そら、社内恋愛なんかでけへんわなぁ。言うたら怒られるけど、女性に定年制を設けたほうが絶対にええよ、会社にとって」

「ほんと、なんとかして欲しいですよ」

「まあ頑張ってくれ。人口の半分は女やねんから、そこらじゅうにうじゃうじゃおるよ」

「わかりました。

 では、後はやっておきますんで」

「荷物は?」

「コンビニで宅急便にだしておきます」

「すまんなぁ」と言ってやすしは早坂に千円札二枚を差し出した。

「大丈夫です」と早坂は言う。

「なんでや、自己都合の退職やから費用はでえへんやろ。これから大阪に帰る新幹線代もくれへんねんから」

「適当にやっときますから」と言って早坂はツルリとした顔に笑みを浮かべた。

「センキュー」とやすしが言うと、早坂はさっきとは違った笑みを浮かべた。

「やすしさん、その代わりと言ってはなんなんですけど、すごい会社にいかれるんですよね。そこの女性、いい女性がたくさんいると思うんですけど、その方たちを紹介してくださいよ」

「オッケー、まかしといて。

 自分、河合の結婚式には呼ばれてんねやろ」

「はい、もちろんです」

「俺も呼んでくれるって言うてくれてるから、その席でいい報告ができるようにしとくわ」

「お願いしまっす、楽しみにしていますっ」


 希望にあふれた瞳の早坂に送られマンションを出ると駅までの道をゆっくりと歩く。

 おそらく二度と来ない街を足の裏に憶えこませる。

 駅に着くと、盛夏間近の陽ざしはきつく、ポロシャツの脇にたっぷりの汗をかいた。

 駅構内の立ち食いソバ屋に入ると缶ビールとえび天ソバを注文する。

 すぐに供された缶ビールを傾け、続いて出てきたえび天ソバのえび天を黒い汁に沈め、ふやけたところでアテにする。

 こんなシチュエーションで呑んでも酒は旨い。

 缶ビールが空き、そばの器にえび天の衣のカスだけが浮いて残った時、ガラ携が震えた。

 なおみからだった。

「もう大阪ですか?」

「いや、昨日送別会してもらって、今、マンションを引き払って東京駅に向かってるとこです」

「ちょうど良かった。私も出張で昨日からこっちに来ていてこれから大阪に戻るところなんです。一緒に新幹線で帰りませんか?」

「いいですよ。じゃあ、昼間から新幹線の中で宴会しましょか。東京駅に着いたらまた連絡します」


 待ち合わせの場所に着くと、なおみは両手に大きなレジ袋を手にして立っていた。

「なんや、こだまで帰るんですか。その量は二時間半では消費できないですよ」

「大丈夫です。ほとんど呑みものですから、やっさんなら問題ないですよ」

 やすしはレジ袋の一つをなおみから受け取ると「チケット買いに行きましょか」と言った。

「もう買っています」となおみはサラリと言い、一枚のチケットを差し出した。

「あっ、すんません。席に着いたら払いますんで」

「いいですよ。私からの入社祝いです」

「いや、そんなん申し訳ないですわ」

「いいんです。その代わり、これからは社の為に死に物狂いで働いて頂きますから」

「ラジャー、と言うても残された時間はしれてるけどね。では、お言葉に甘えさせていただきます」


 席は二人掛けのいわゆるDとEだった。

「さっ、やっさん、呑みましょう」

 レジ袋からアルコールが湯水のごとく沸いて出てくる。

 ビールのロング缶が四缶、紙パックのワンカップが数えきれないくらい、そして、赤ワインのハーフボトルがトリとして現れた。

「とりあえず乾杯しましょ」

 なおみの声でビールのロング缶を準備よろしく紙コップに注ぐ。

「改めて、入社おめでとうございます」

「ありがとうございますっ」

 二人は紙コップを重ねる。

「朝ご飯は食べられました?」

 なおみがやすしに聞く。

「ええ、駅構内の高級蕎麦店でちょい呑みセットを」

「相変わらずですよね。私何も食べていないのでサンドウィッチを買ってきたんです。良かったらどうぞ」

 なおみが差し出したプラスチックの容器に入った、ハムとレタスを挟んだだけの白いパンをやすしは「いただきます」と言ってつまんだ。

「せやけど、なんでサンドウィッチとかちくわとかソーセージいうたら電車の中で食べたら美味しいんですかねぇ。家で食べても、まずくはないけど、こんなに美味しくは感じないですもんね」

「そうですよねぇ。私も新幹線の中で呑みながらかじるチーカマが大好きです」

「いやぁ、なおみさん、完全に呑み助になりましたよね。もうほんまもんですわ」

「いえ、そんなことないですよ。まだまだ、やっさんの足元にも及びませんよ」

 やすしは空になった自分の紙コップにビールを注ぐ。

「高志さんとは会いはったんですか」

 聞くとやすしはコップを傾ける。

「今日、ランチに誘われたんですけど断りました」

「そうなんですか。なんでなんですか」

「何か、会っても特に話すこともないですから」

「それやったら私のこと話してくれたらいいですやん。なんで、あんな先の知れたおっさんなんか雇ったんですかって」

「違うんですよ、やっさん、久しぶりにやっさんと大阪で呑みたかったんですよ」

「うわーっ、嘘やとわかっててもうれしいですわ」

「嘘じゃないです、本当です」

「そしたらワインでも呑みましょか。もうビールじゃあダメでしょ。今のなおみさんの揺れる心を収めるのは」

 なおみは何も言わなかったがやすしは赤ワインのハーフボトルを開けると、新しい紙コップに注ぎ、なおみに手渡す。

「すいません」言うとなおみはゆっくりとコップを傾ける。

「あぁ、美味しいです。あっそうだ、サラミ買ってきたんです」

 なおみはレジ袋から真空パックされたサラミを取り出し封を開けた。

「やっさんもそろそろお酒に行きます?笹かま買ってありますよ」

 言うとなおみは薄くカットされたサラミを前歯でかじり、それを赤いワインで流し込んだ。

「いえ、まだビールでいいです。なおみさんほど心が揺れてませんから」

「やっさんのいじわるっ」と言ってなおみはやすしの内肘の肉をつまんだ。


 車窓から富士山が見えてきた時、やすしはビールから紙のワンカップに変え、笹かまのパックを開けた。

「なおみさん、元気だしなはれや」

「私は元気ですよ。早くワインのおかわりをください」

 なおみは空になった紙コップをやすしに差し出す。

「ちょっとピッチ早いんちゃいます。まだ半分も来てないのにボトルは半分以上減ってますよ」

「大丈夫です。今日は土曜日、明日は日曜日、そうでしょ」

 少し大きくなったなおみの声に同じ列のC席で缶ビールを傾けていた男性がちらっと二人を見た。

 すいません、とばかりにやすしが少し男性に頭を垂れる。

「やっさん、私やっぱり子供が欲しいんです」

 ワインを傾け、なおみがポツリと吐く。

「そうなんですか・・で、どうしようと・・」

「精子バンクに登録しようかなと・・」

“精子”という言葉にC席の男性が又、二人を見た。

「どこの誰ともわからん男の子供を産むんですか」

「ええ。いけないですか?」

「いけなくはないですけど、僕はなんかすごく抵抗がありますねぇ」

「だって、バツ一の三十路半ばの女が再婚するのって難しいでしょ」

「何言うてますの、なおみさん」

 やすしは河合の話をなおみにした。

「へぇー、そうなんですか。だけど、その河合君のご両親は反対しなかったんですか?」

「親父さんは最初から自分の好きなようにしろというスタンスだったらしいんですけどお母さんはすごい反対しはったみたいです」

「やっぱりそうですよね」

「ところが、本人と会ったとたん、すごい気に入りはって、最初、河合は結婚式を挙げるつもりやなかったんですけど、お母さんが、そんなんあかん、結婚式は女の子が主役ねんからちゃんと挙げなさいってて言われてこの九月にやることになって。私も一応呼んでもらえる予定なんですけど」

「羨ましいなぁ、そんな人、どこかにいないかなぁ・・」

「いますよ、一人」

 やすしは今朝会ってきたばかりの早坂を思い浮かべた。

「さっきの河合の同期ですごい結婚願望のあるやつがいるんです。今風のさわやか系で、ゆで卵みたいなツルリとした顔してます。それになかなかのナイスガイです」

「紹介してくださいよ、やっさんっ」

「いいですよ。河合の結婚式にも呼ばれてる言うてましたからその時に話しときますわ」

「やっさん、ぜひともお願いしますね」

「ラジャー」


 新幹線が名古屋駅を発つ。

 ワインのお代わりが無くなったので、てっきり眠っていると思っていたなおみは起きていた。

「もう呑まないんですか」とやすしがなおみに聞く。

「ワインばかりで飽きちゃいました」

「そしたら日本酒呑みはったら。まだ、ようさん残ってますよ」

 やすしはレジ袋から紙のワンカップを取ろうとした。

「あっ、少しだけでいいんで、やっさんの呑んでいるやつください」

 やすしが呑みかけのワンカップを渡すと、なおみは舐めるようにして日本酒を喉に流した。

「おいしい」と言ってなおみは腕をやすしにからませる。

「やっさん、今日はこの後何か予定あるんですか」

「いえ、特にないですけど」

「そうなんですか」と言ってなおみはもう一度日本酒を舐める。


 一つのワンカップを二人で交互に舐めながら、新幹線は米原を通過する。

「新大阪に着いたら少し時間をもらえますか」

 なおみが口元に付いた日本酒を白いハンカチで拭いながらやすしに聞いた。

「いいですよ。せやけど、今日はうどんすきなんで五時には解放してくださいね」

「うどんすきですか?」

「そう。

 前も話したかと思うんですけど、二十年前、東京に転勤になった時、たった五日間大阪を離れただけで、家で食べたうどんすきに出汁の風味を感じて。それまで、そんなことは一度もなかった。せやから、今回の東京行きも、大阪に帰ったら必ずうどんすき作ってもらって食べるんです。

“親と金 失くしてわかる ありがたさ”

 正にその通りですよね。離れて初めて、それまで気づかなかったことに気づく。良さを再認識する。大阪のうどんすきなんか美味いに決まってる。せやけど、たった五日間離れただけで、ああ、こんなに美味しかったんやと再認識する。

 人間もおんなじちゃいますか」

 なおみは何も言わなかった。

「“他人に嘘をついても自分には嘘をつかない”

この言葉をモットーに私は生きてきました。ええのか悪いのかわかりませんけどね」


 新幹線が京都駅のホームに滑り込むと、なおみはやすしにからめていた腕をほどき「ちらかしたまますみません」と言って、ホームに飛び降りると、階段に向かって駆けて行った。

 その姿を見て、やすしは、新しいワンカップを開けた。


         ⑯

 携帯ショップは月曜日の午前中だというのにたくさんの客で混みあっていた。

 客の大半は高齢者だった。

「年寄りだまして、こいつらあこぎな商売しとんなぁ」とつぶやいた時、手にしていた整理券の番号がコールされた。

「他社からの乗り換えをご希望でしょうか」

 窓口の女性店員が作り笑顔でやすしに聞く。

「いえ、ガラ携からスマホにかえようかと思て」

「かしこまりました」と言った女性店員が少し人を小ばかにしたような薄い笑みを浮かべた。

「それではこちらが料金プランになりますが如何されますか」

 女性店員がパンフレットを拡げるとやすしはあとをやすえに託した。

 4G、5G、LINEギガフリー、わけのわからない言葉が宙に舞う。

 十分ほど店員と会話したやすえがやすしに聞く。

「電話番号とかのデータどうする?移してもらう?」

「そうやなぁ、俺のことやから、また気に食わん奴がおったら、アホ、ボケ、カス言うて辞める可能性があるから、その時はまたあのゆとり世代アホんだら課長に頭下げて雇てもらわなあかんから、そうしてもらって」

 念のため、なおみの番号だけは控えておいたが杞憂に終わった。

「こういう慣れへんとこにきたら疲れるよなぁ、あとどれくらいかかるん」

「たぶん一時間くらい」

 やすえの回答にやすしは大きなあくびを返した。


 晴れてスマホデビューを果たすと次はオーダースーツ屋へと向かう。

 スーツを新調するのは五、六年ぶりだった。

 新しい会社への入社が決まってから、やすえは「超一流企業で働くんやから」と何度も口にした。

「今時の乗ってる会社の人間なんか暑苦しいスーツなんか着えへんで」と言ったが聞かず、二着のスーツと二本のネクタイを買ってくれた。

 スーツの仕立て上がりは入社する日の三日前だった。

 

 オーダースーツ屋をでると遅い昼食を取りに洋食屋へ入る。

 あっさりしたものがよかったが、晩御飯がうどんすきに決まっていたので昼は少しガッツリ系がいいかと二人の意見が一致してのことだった。

 やすえは二千五百円のビフカツ定食を注文し、やすしは瓶ビールとチキンライスを頼んだ。

「えらい景気ええやんか」とやすしがやすえに言う。

「滅多にけえへんねんから、ええもん食べとこうと思て」

 おのれの学歴と年齢からすれば半分にも満たない収入。ずっと経済的には苦労をかけてきた。年収が倍になる・・・財布のひもが緩んでもおかしくない。すべてはおのれが悪いのだ。

 瓶ビールがやってきて、珍しくやすいがついでくれる。

「もう、前の会社と違うんやから二日酔いで出勤したらあかんで」

「あほ。その取締役からは俺の全てを若いバカどもに注入してくれって言われてるんや。スタイルを変える気はないよ」

「あほやなぁ、あんたのええとこだけ、まあ、ほとんどないけど、それを若い社員さんに教え込んでくれって言うてはんねんやんか」

「そうなんかなぁ・・まあ、そのへんは入社してから取締役さんから聞いてみるわ」

 やすえのビフカツ定食がやってきた。

「一切れ食べる?」

 やすえがビフカツを箸でつまんでやすしに差し出す。

「ええわ。もうそういうのん食べるパワーないねん。その代わり、そのサラダちょうだい」

 やすしはミニサラダに添えられていた三日月型のゆで玉子を口に放り込みビールで流す。

「もう、あと揃えなあかんもんない?」

 やすえがデミグラスソースにまみれたビフカツを頬張りながら聞く。

「そうやなぁ、下着の替えもYシャツも前のんがそのままあるし、週末は基本こっちに帰って来てるから普段着はいらんし、特にないなぁ。で、お手伝いさんがおるらしいから洗濯もクリ―ニングも全部やってくれはるみたいやから、これまでみたいに洗濯もん送ってすぐに送り返してもらうことはもうなくなるから」

 チキンライスがやってきた。

 ウスターソースを掛け、やすしはがっつく。

「せやけど、ほんまにシンデレラストーリーやなぁ」とやすえが目をキラキラさせて言う。

「あほか、どこのシンデレラがチキンライスにドボドボとウスターソース掛けて食べんねん。

 まあ、せやけどマジな話、こういう会社は必要と思った人間にはよその会社と違って中途採用でも結構なサラリーだすんやろなぁ。

その代わり見切りは早いと思うで。使いもんになれへんと思えばすぐにこれや」

 言ってやすしは手刀で自分の首を切った。

「そうなんやろなぁ・・」と言ったやすえはフォークでライスをすくい口に運ぶ。

「まあ、長くて三年やろなぁ、結果を出す猶予は。

 三年いうたら五十七歳やで。その齢で無職になったら路頭に迷うやろなぁ」

 やすえはフォークを置き、グラスに入った水をゆっくりと飲んだ。

「そうや、習字教室をもっと大きいせえへんか」

 やすしが口の周りをケチャップ色に染めて言う。

「そんなん無理やって。今時習字なんかいかせる親なんかおれへんねんから。せやから、今習いに来てくれてる生徒さんがおるだけでも御の字やって」

「ぎっちょ専門の習字教室をやるんや。謳い文句は“自由な教育 自由なしつけ”や。結構、需要があると思うで。ほらっ」

 言ってやすしが指差したテーブルには学生っぽい女の子が五人で食事していて、そのうち二人が左手でスプーンを持っていた。

「子供へのしつけの“怠慢”を“自由”と言い換える、言い換えられる・・すばらしい国、ジャパン、豊かな国、日本、きっと成功するはずや」


 結局、二本の瓶ビールでウスターソースにまみれたチキンライスをやすしは胃袋に流し込んだ。

 お勘定を済ませ店を出ると、やすえがやすしの足元を指差した。

「あんた、靴、むちゃくちゃくたびれてるやん。今から買いに行こっ」

 やすしは必要ないと首を横に振った。

「ガラスの靴は東京で買うから」


        ⑰

 宅急便で送って万が一シワになるのが嫌だったので、新調したスーツを手にして自宅マンションを出て二週間ぶりのタワーマンションに着くと陽はすっかり落ちていた。

 リビングに入ると高志がワインを傾けていた。

「お疲れ様です。やすしさん、ご飯は食べられました?」

「新幹線の中であてをぽちぽちと食べてきました」

「そうですか。少し呑みませんか?」

「ええ」

 やすしは二着のスーツを部屋に置きすぐにリビングに戻る。

「ワインでいいですか」と高志が聞く。

「ええ。もう、ビールと日本酒は新幹線の中で散々呑んできたんで」

 やすしが来ると見越しておいてテーブルに置いてあったであろうグラスにワインを注ぎ高志はやすしに差し出す。

「では、やすしさん、改めまして」

 二人はグラスを重ねる。

「高志さん、よろしくお願いします。期待に応えらるれよう頑張りますんで」

 やすしは頭を垂れる。

「やすしさん、そんなにかしこまらないでください。私はやすしさんの“地”を期待しているんですから」

「はぁ、わかりました」

 頭を掻きながらやすしはサラミが乗ったチーズに手を伸ばす。

「今度の新しい部署は、やすしさんのように違う業界からお二人と、うちの違う部署にいた人間が二名異動してきての全部で五名となります。

 明日は朝から諸手続きを行って頂いて、昼からはガイダンスを受けてもらいます。終了後、ささやかですけど歓迎会も用意させて頂いています。火曜日と水曜日は新しい部署についての説明とか今後の方向性を聞いていただきます。座学ですが頑張ってください。木曜日と金曜日は他支店へ行っていただいて関係部署へのご挨拶と、これから新しい部署が何をやっていくのかの説明を行います。

 木曜日は名古屋支店と大阪支店、金曜日は福岡支店へ行っていただきます。

「なおみさんのいる部署にも?」

「ええ。ただし、木曜日の夜のうちに福岡に入ってもらいますのでグラスを交わすことはできません」

「わかりました。で、高志さん、一個人としてお聞きしますが、その後、なおみさんとは?」

 高志はゆっくりとグラスを傾けると立ち上がった。

「すんません、なんか癇に障ること言いました?」

「いえいえ、そんなことありません。やすしさん、実は敗者復活戦のテーブルにつけそうなんです」

「そうなんですか。良かったやないですか」

「やすしさん、私はそのテーブルについていいんですかね。もう、妻へのみそぎは済んだんですかね」

「いえ。高志さん、奥様へのみそぎは永遠に済まないですよ。あなたは奥様を裏切った。すごくひどいことをしたんですよ。ですけど、本当になおみさんのことを愛し、彼女を幸せにしようと本気で思っているのなら奥様は許してくれると思いますよ」

「それならいいんですけどね・・いえ、やすしさん。私、これまで仕事では一度も迷ったことはなかったんですよ。これだ、と思ったことは人の意見など聞かず行動に移してきました。そして、運が良かったんでしょう、どれもうまくいってきました。

 だけど、今回のこの件だけは、まあ、やすしさんが仰る通り自分が過ちを犯してきたので、すぱっと、決断することができないんですよ」

「せやけど、羨ましい悩みですよ、高志さん。私らのこの齢で、そんな悩み持ってるおっさんなんかほとんどいないですよ。悩み言うたら、たいがい、老後の生活の心配とか、嫁はんに定年離婚されへんやろなぁとか、娘ちゃんと結婚するんやろかぁ、みたいなもんですよ」

「ですけど、やすしさん、もし、やすしさんが私の立場だったらどうされますか」

「そうですよねぇ、私は高志さんとちがって甲斐性がないですから万が一そんな局面にぶつかってもテーブルにはつかないと思います。分相応です」

「そうですか、というか、普通はそうですよね」

「せやけど高志さんね、私ずっと前からね、万が一嫁さんが自分より先に死んだら絶対に再婚はせえへんと思ってたんです。ところがね、だんだん齢とってきて、私、家事とか全くできないんですけど、もし一緒になってくれる人がおったら再婚するかもしれんなと思うようになってきたんですよ」

「いや、やすしさん、実は私もそうなんですよ。なおみちゃんのことはもちろん好きだから一緒になりたい。これまではその思いが100%だったんですけど、わたしもやすしさんと同じで家のことはすべて妻に任せていましたから、近頃はやすしさんのその気持ちが30%ほど入ってきだしたんですよ。打算的だって怒られるかもしれないですけど」

「せやから、何としてでも嫁さんより先に死ななあかんと思うて、こうやって毎日、呑みたくもない酒を呑んでいるんですけど、人間の体は意外に丈夫にできていますわ。まだ、どこも悪くないですから」

「本当、やすしさんにはわからないでしょうけど、男が一人残るとみじめなもんですよ」

「いえいえ、高志さんはこんなすごいマンションに住まれて地位も名誉もありますから全然みじめでなんかないですよ。

 その点私なんか何もない。地位も名誉もお金も、そして、友人も」

「娘さんがいるじゃないですか」

「あんなん寄り付きもしないですよ。

 きっと、朝から安酒喰らって、夕方になったら指の出ている靴下につっかけひっかけて、近くのスーパーへちらしを持っていくんですわ。そして、割引のシールが貼られたおかずとワンカップ買うてとぼとぼと家に戻ってきて、それらを片付けると、酔って風呂も入らんと歯も磨かんと寝てしまうんですよ。みじめという以外の何物でもないですわ」

「やすしさん、それは悲しすぎますよ。万が一そういう状況になったら、こっちへ来て、みんなで暮らしましょうよ」

“みんな”という言葉にやすしは反応したが、高志は「ねっ、やすしさん、絶対にそうしましょうね」と言ってやすしのグラスにワインを注いだ。

「あっ、すいません。新幹線でかなり呑んできたんで、これを空けたら今日は終わりにします」

「そんなぁ、もう少し呑みましょうよ、やすしさん」

「いえ、ほんまに今日はこれ空けたらお開きということで」

「まだ、こんな時間ですよ」と言って高志が指さした壁に掛けてある時計の短針は10と11の間にいた。

「いや、いきなり初日から二日酔いはまずいでしょ。齢は食ってますけど一応新入社員ですから」

「それなら大丈夫です」

「大丈夫? それどういう意味ですか」

「やすしさんの人となりはもうみんなに伝えてありますから」

「そ、それはあきませんやん。へんな先入観持たれますやん」

「やすしさん、先入観ではありません。情報です。やすしさんの人となりの情報です。

 正直みんなすごく気になっているんですよ、やすしさんのことが。どんな人なんだろう、五十四歳で旧帝大を出て、上司にたてついて会社を何社も渡り歩いている酒豪の大阪人、戦々恐々としているんです」

「ちょっと待ってくださいよ、高志さん、それ滅茶苦茶イメージ悪いですやん」

「大丈夫ですよ、やすしさん。間違いなくお前らよりは頭がいいからとフォローしておきましたから」


    §§§§§§§§§§§§

 目が覚めるとリビングに行き、亡き奥様の遺影に頭を垂れる。

「また今日からよろしくお願いします」

 昨日の酒がまだ少し残っていたのでキッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し喉に流し込んだ。

 高志は、酔ってうろ覚えだったが、確か東北への日帰り出張だから早く出ますと言っていた通り、すでに部屋にはいなかった。

 歯を磨いて髭をあたるとワイシャツに手を通し新調したスーツを身に纏いネクタイを締める。

 空調が効いているにもかかわらず既に脇の下に汗を感じる。

 つい十年位前までは真夏でもスーツを着てネクタイを締め営業周りをしていて、クールビズなんかくそくらえ、営業マンたるものスーツもネクタイもなしでお客さを訪問することなどご法度極まりないと思っていたが、ある夏の日、新規のお客様とある工場見学に出向いた時、空調も何も聞いてない倉庫の中を一時間あまり歩きまわされた結果、強烈な眩暈に襲われ死にそうになった。それをきっかけに思い切って客前に出る時も上着を脱ぎ、ネクタイをはぎ取った。なんて楽なんだろう。なんて快適なんだろう。これまではただの我慢比べだったのだろうか。

 それ以来この時期の服装はスラックスに長袖のワイシャツ、所謂“サラリーマン健康診断ルック”だった。


 最寄りの駅に着く。

 びっしょりと汗を吸い込んだ下着を不快に感じながら社までの連絡橋を渡る。

 受付で入社の手続きに来たと告げると、セキュリティカードを手渡され、入場ゲートを通過するとエレベーターに乗る。

 クールビズを徹底しているのだろう、教えてもらったフロアーで降りると空調はほとんど効いておらず不快感が収まらない。

 部屋に通されると既に二人の男性が着席していた。

 軽く会釈すると席に着く。

 どう見てもその二人が三十代以上には見えなかったので、昨日高志さんが言っていた、他の部署から異動してきた二人だと思った。

 しかし、暫くすると部屋に女性が入って来て「それでは入社に当たっての手続きを行なって頂きますので順次説明してまいります」と言ったので、二人の男性は自分と同じく“新入社員”だということがわかった。

 自分と同世代の人間と一緒にやっていくと思っていたのですごい意外だった。やっぱり、高志さんはなおみさんとのパイプ役で俺を雇ったのか。

「よろしいですか?」

 女性の声で我に返る。

「あっ、すいません」 

 女性は淡々と説明を続ける。なにか役所の窓口にいるような錯覚に陥る。パスワードを三つ設定させられ、どれが何で何がどれなのか途中からわからなくなってしまった。日本で、今、一番乗っている会社に入社するんだからといってやすえが新しく作ってくれた印鑑の出番は一度もなかった。

 すべてが電子で処理された。


 わずか二時間ほどだったが、くたくたに疲れた。

 一服つけたくなったので、自分の任務を終え部屋から出ていこうとした女性に「すいません、このビルに喫煙ルームはありますか」と聞いた。

 女性は少し呆れた表情で「社則はお読みではないですか?当社は就業時間内は禁煙ですので」とサラリと言った。

 十五分の休憩時間だったので社屋を飛び出ると連絡橋を降りどこか吸えるところが無いか辺りを探すとサラリーマン風の男たちがたむろして紫煙をくゆらしている場所を見つけた。

 駆けつけるとタバコ屋の前だった。

 慌てて火を点け駆けつけ二服する。

 しかし、どうして高志さんは言ってくれなかったのだろう。今の時代そんなこと当たり前でしょ、ということか。

 しかし、もし就業時間中に吸っているのが見つかったらどうなるのだろう。懲罰でも受けるのだろうか。ひょっとしたらこの群れの中にスパイがいるかもしれない。

 慌てて二度三度と吹かすと短くなったタバコを灰皿に落とす。と、やすしは思った。

 臭いで、バ レ ル 。

 スーツに鼻をあてる。

 かすかに臭いを感じる。しかし、タバコを吸わない人間はわずかな臭いでも敏感に感じると聞いたことがある。

 困ったなとふとタバコ屋の店先に目をやると“消臭スプレー”のポップに目が止まる。

「ええ商売してんなぁ」とおつりと商品を受け取ると連絡橋を上がる。

 エントランスの十メートル手前で消臭スプレーをスーツに吹き付ける。

 部屋に戻ると“同期”の二人はすでに着席していた。

 暫くすると三十代前半と思しき男性が入ってきた。

「みなさん、お疲れ様でした。午後からは当社についての概要ですとか社長方針などいわゆるガイダンスを受けて頂きます。みなさんにはIPADをお渡ししますのでご確認ください。不明な点や質問等がございましたら最後にまとめてお請けいたしますので申しつけください。

 それではこれから昼食をとって頂きます。混雑を避けるため三部制になっていましてみなさんがご利用いただける時間は十一時三十分から十二時までです。IDカードを渡せるのが明日になりますので今日は現金でお支払いください。食堂にはその旨を伝えておりますので、お支払いの時に申し出てください。あと食事の後は、最上階にリフレッシュルームがございまして、軽い運動やお昼寝ができますのでよければご利用ください。そして、十二時半からガイダンスを始めますのでそれまでにこの部屋にお戻りください」

 男性が出ていって暫くすると三人で食堂へ向かう。

 エレベーターに乗り込み二人の後ろに立つ。

 二人とも上着は羽織っておらず、もちろんネクタイもしていない。同じようなリュックを背負い、スマホをぎゅっと握りしめている、街のそこら中で見かける光景だった。

 食堂に入ると街の洋食屋さんのコックを思わせる、溢れんばかりの清潔感に包まれた中年の男性が笑顔で迎えてくれた。

 男性は食堂の利用の仕方とお勧めメニューを教えてくれた。

 いつも通り二日酔いの胃が“軽いもの”を求めていたので大阪では“たぬき”こっちでは“きつねそば”と梅干の入ったおにぎり一つをトレーに乗せテーブルに着く。

すぐにあとの二人もやってきて、二人とも男性がお勧めした生姜焼きと大盛のごはんを

トレーに乗せていた。

 食事を始め暫くすると自己紹介が始まった。

 一人は柴田君といい日本を代表する自動車メーカーで設計をしていて、もう一人は土井君といって同じく日本を代表する通信業の会社で営業をしていた。

 二人は偶然かどうか同い年で子供が一人いて奥さんとは共働き、それもパートではなく正社員で、左手の薬指にシルバーリングを通しペットで犬を飼っていた。

 やがて会話が無くなると二人はテーブルに置いたスマホを見ながら箸を動かした。

 子供のころ、テレビを見ながら食事をすると行儀が悪いといってよく両親に叱られた。そんなしつけを彼らは親から受けていないのだろう。

 そんな彼らと何をどうやって、何を考え、社員に対する再教育を行っていくのだろう。高志さんの考えがますますわからなくなる。

「お勧めの生姜焼き、美味しいん?」

 聞くと二人は慌ててスマホから目を離し「すごく美味しいです」と声を合わせて言った。

「そうなんや」と言ってふと二人の手元を見ると柴田君は左手で箸を持っていた。 

 

連絡橋を降りて十分ほど歩いてやっと喫茶店を見つけた。

なぜか辺りをキョロキョロして、上着のポケットに消臭剤が入っているのを確認して店に入る。

席をキープしてセルフでコーヒーを購入、灰皿を手にして戻る。

慌てるように紫煙をくゆらす。

なんで、たかがタバコを吸うのにこんな苦労せなあかんねや、と心の中でぼやく。

そして周りを見渡すと見事におっさんばっかりだった。男性の喫煙人口は右肩下がりで若い人たちは電子タバコに傾き、紙タバコを吸う絶滅危惧種は昭和のおっさんでほぼ占められていた。

 一本目を吸い終え、店の壁に張り付いている時計を見るとガイダンスの開始まであと十五分しかなかったので慌てて二本目に火を点け妻のやすえに慣れないスマホでメールを打つ。

“就業時間中禁煙やて、最悪や”

 すぐに返信が来る。

“今時やん。もうタバコ吸うこと自体ダサいねんて。我慢しぃ”


 ガイダンスが始まる。

 IPADを渡されるが何度パスワードを打ち込んでもエラーになる。

 午後からの予定を説明してくれた男性が見かねて助け舟を出してくれる。

 首からぶら下げたIDカードには”末次温心”と書かれていた。

”温心”?

 気になったがガイダンスを“聞く”ではなく“見て読む”ことにする。

 初めて三十分ほどして温心が部屋に入ってきた。

「休憩は適当にとってください。全部で約三時間ありますけど、五時までには終了できるように時間配分をお願いいたします。終了後にはささやかですが懇親会をご用意しております。私、末次と申します。これから皆さんと一緒にお仕事をさせて頂きます。あと、もう一人、高田というものも一緒にお仕事をさせて頂きます。懇親会には参りますのでよろしくお願いいたします」


 五時の十分前にガイダンスの全てが終了した。どういう会社かというのはなんとなくわかった。押しつけがましい企業理念などはなかったが、波に乗っている会社らしく、次々と出てくる社員の表情は皆自信に満ちていた。

「皆さん、お疲れ様でした。初日ということで緊張もされていたかと思います。懇親会ではその緊張を少しでもほぐしてください」

 温心の言葉で入社一日目が終了した。


 店は社から歩いて五分ほどのところにあった。

 チェーン店の居酒屋ではなく“個人経営のイタ飯屋”といった感じの店だった。

 乾杯は全員ビールだったが、他の四人はすぐにハイボールに切り替えた。

 隣の席の高田が「執行役員からお聞きしています。かなりの酒豪だそうですね」と話しかけられた。

「そんなことないですよ。人並みよりちょっと上なだけです。で、高田さんは?」

「たしなむ程度です。家では全く呑まないですし、たまにこういった席で軽く呑む程度です」

 言われてみれば乾杯のビールもほとんど減っておらず、テーブルに置かれたハイボールのグラスも傾けられることがなかった。

「どこの部署から今回の新しい部署に異動になられたんですか」

「私も末次も人事部の能力開発課という部署から参りました」

 高田は末次よりは年配に見えたが四十代には届いていないようだった。

「高田さんとこは家で犬飼うてはります?」

「いえ、マンションなので。また、どうしてですか?」

「いえ、同期の二人がどちらも犬飼うてはったんで流行りかなと思って」

「うちも、娘は飼いたいと言っているんですけど・・」

「娘さん、おいくつですか?」

「まだ三歳なんです。結婚したのが遅かったもので」

「奥様はお仕事を?」

「ええ。私まだここでは課長補佐なんですけど、妻は小さな会社なんですけど課長をやっています。私よりバリバリ働いていますよ」

「そしたら子供さんは保育所かどっかに?」

「一歳の時から預けています。保育所様様ですよ」

“子供を育てるのは母親”

 こんな金言はもうどこか遠い山の麓にでも捨てられてしまったのだろう。

「あっ、何か呑まれます?」

 高田がいつの間にか空になっていたジョッキを指差した。

「日本酒なんかないですよね」

「ええ。ここは安くて結構美味しいワインがあるんですよ」

「あっ、そうなんですか。そしたら何かお勧めのやつもらいますわ。ただし、甘いのはちょっと苦手なんで辛いやつをお願いします」

 高田が店員と話をして暫くすると白ワインの入ったグラスが供された。

 臭いを嗅ぐがよくわからないのでそっと喉に流す。

 まずくもないがうまくもない。酒は喉で呑むものだがこの酒は喉で味を感じない。

「あーっ、美味しいですね」と永年の営業マン人生のくせで調子のいいことを言ってしまう。

「そうでしょ。ここのワインはみんな美味しいって言ってくれるんです」

「よくご利用されるんですか」

「ええ。会社からも近いんでちょくちょく利用させてもらっています。色々召し上がっていってください」

 言うと高田は向かいに座る柴田と土井に話しかける。

 あてをつまもうとフォークを手にするが、おそらく食べると美味しいのだろうが、どれも油っこいというかあっさりした感じのものが一つもない。

 唯一、ほうれん草を巻き込んだオムレツらしきものがあったのでフォークで割り口に運ぶ。

 美味い。

 すぐに白ワインで追っかけるが、追いつかない。オムレツの美味さが勝りワインが負けてしまう。

 無性にタバコが吸いたくなった。

 聞くまでもなく店内はおそらく禁煙だろうと店員に吸える場所があるのか聞くと店の玄関の脇に灰皿を設けていると言う。

「高田さん、就業時間過ぎてるんでタバコ吸わせてもらいますね」

 高田は苦笑いを浮かべて「どうぞごゆっくり」と言った。

 店を出ると確かに玄関脇に灰皿が設けられており、自分と同じ齢くらいの男性が紙タバコをふかしていた。

「生きにくい世の中になりましたね」

 紫煙をくゆらせた時その男性が声を掛けてきた。

「ほんまそうですよね。ちゃんとお金払って買うて、吸わへん人より多く税金払って、悪いことしてるとは到底思えないんですけどね」

「関西のかたですか?」

「ええ」

「向こうでもやっぱり肩身の狭い思いされていますか」

「こっちほどじゃないですけど年々エスカレートしてきてますね。

 コーヒーやアルコールを提供するのにタバコはあかん。あいつらアホですわ。超高齢化社会になって国はもうあんまり長生きせんといてくれって暗にお願いしてるのに、さぁーっ健康になるぞって朝の早うから“健康バカ”がようさん走ってますからね。私なんかちゃんと国の言うこと守って一日でも早く死ななあかんと思って、毎日呑みたくもない酒をたらふく呑んでるんですから」

「ははっ、やっぱり関西の方はおもしろいですね。大阪ですか?」

「はい。こてこての大阪人です」

「大阪の人はすごいですよね。どんな話でも最後には笑いにもっていっちゃう」

「遺伝子に組み込まれているんですよ」

「そうですか。じゃあ、私はまた“健康ゾーン”に戻りますので」

「おもしろいじゃないですか。充分関西人の一員になれますよ」

「ありがとうございます」

 言うと男性は店内に戻っていった。

 暫くまた吸えないので二本目のタバコに火を灯す。まだ青みが残る東京の空を眺める。紫煙がゆらゆらと目の前を上っていき弱い光を放つ月を隠す。

 店内に戻ると四人はグラスを傾けることもなく会話もなくテーブルに置いたそれぞれのスマホをじっと見てたまに画面に指を滑らせていた。

 高田が「あっ、おかえりなさい」と言った後も会話は一つもなく、やがて懇親会はお開きとなった。

 もちろん二次会などなく、高田が「それでは明日も九時に今日のお部屋にお越しください」と言って店の前で解散となった。

 四人はリュックを背負い駅へと向かう。

 昔、東北のどこかの街へ旅に出た時、行商のお母さんたちで混みあう電車に乗り込んだ光景を思い出す。

 彼らはどこの街へ一体何を売りに行くのだろう。


 地下鉄で二駅だったが流しのタクシーを拾い、いつもの立呑み屋の近くでおつりを断り下車する。

「熱燗と枝豆」

 やっといつもの自分モードに戻る。

 枝豆を口に放り込みコップ酒で追いかける。 

 美味い。

 やっぱり、オムレツをワインで追いかけるより、こっちの方が己にあっている。新しい会社に馴染んでいけるのだろうかと、二杯目のコップ酒を頼んだ時スマホが震える。

「どうですか、うちの会社は?」

 なおみさんからだった。

「就業時間中が禁煙とは聞いてなかったですよ」

「あっ、すいませんっ、お伝えするのを忘れていました」

「一日中コソ泥のように周りをキョロキョロしながら吸うてましたよ」

「本当にごめんなさい」

「まあ、今のご時世からしたら当然ですけどね」

「もちろん、もう呑んでいるんですよね」

「当然ですよ。さっきまで懇親会を開いて頂いてたんですけど、どうしても日本酒が呑みたくなって・・」

「紅しょうが天をあてに?」

「まだ、これからです。なおみさんはそっちで食べてはります?」

「ええ、週に一度は必ず」

「すっかり大阪人ですよね」

「はい。大阪弁もむちゃくちゃうまなりましたでぇ」

「はっはっ、もう完璧ですやん。木曜日の午後からそっちに行くようなんでよろしい頼んますわ。その日のうちに福岡支店へ行かなあかんようなんで呑めませんけど」

「わかりました。お待ちしています」

 スマホを切ると、お代わりしたコップ酒がやってきたので紅しょうが天を注文する。


 結局枝豆と紅しょうが天でコップ酒を三杯呑み店を出る。

 タワーマンションに着くとまだ高志さんは帰っていなかった。

 首に絡みついたネクタイを取り、汗をたっぷり吸ったYシャツと下着をはぎ取りシャワーを浴びる。

 出ると食堂へ行き大きな冷蔵庫から缶ビールを取り出し喉に流す。

 そして半分ほど呑んだところで高志さんが帰ってきた。

「どうでしたか、初日は?」

 高志さんも食堂から缶ビールを取って来てプルトップを引きながら聞く。

「いやーっ、疲れたというかなんというか、タバコは吸えないし、思ってたより若い人ばかりで」

「あっ、タバコのこと言ってなかったですよね。うちの創業者は大の嫌煙家でして、何もそこまではしなくていいと私は思うんですけど、最近の若い人はあまり吸わないですからあまり社員からもブーイングもないんで」

「そうなんですよね。他の四人も誰も吸わなかったですから」

「今時ですよね。末次君も高田君もあまり呑まないでしょ。他の二人はどうでした?」

「いや、本当にたしなむ程度です。おっさん一人が真剣に呑んでましたよ」

「今の若い人は結構しっかりしてますから。柴田さんも土井さんも私が面接しましたから、まあ、やすしさんの足元には及ばないかとは思いますけど第3,1世代くらいはいけてるかなと思います。気が付いたことがあれば遠慮なく言って頂いて、風通しのいい職場にしていってください。今後のスケジュールとかは明日と明後日で末次君と高田君から説明がありますのでよろしくお願いします」

「わかりました。こちらこそよろしくお願いいたします」

「ちょっと今日はハードなスケジュールだったので先に失礼します」

 言うと高志さんは自分の部屋へと消えていった。


 翌朝、ネクタイはもちろんスーツの上着も脱いでいつもの“健康診断ルック”でリビングに行くと高志さんはもういないようだった。 

 執行役員にもなるとやることがいくらでもあるのだろう。

 社屋に入る前に一服つけたかったのでかなり余裕を持ってタワーマンションを発つ。

 昨日入ったコーヒーは美味くないがタバコが吸えるのが唯一の取り柄の店に足を踏み入れると、早い時間にもかかわらず同じ齢くらいのおっさん達で混みあっていた。

 相変わらずコーヒーは美味しくなかったが遠慮なく紫煙をくゆらせる。

 結局三本のタバコを吸い殻に変え、氷も何も入っていない生温い水に一口だけ口をつけ社に向かう。

 受付のデスクに末次が腰かけていた。

「おはようございます。IDカードができましたので」と渡された赤い紐にぶら下がっているカードを首にぶら下げる。

 昨日の部屋に入ると柴田と土井はすでに来ていた。

「昨日はお疲れ様でした」と柴田が目を見て言う。

「あの後、どっか行きはったんですか」

「いえ、まっすぐ家に帰りました」

 わかっていたが「そうですか」と言って席に腰を下ろす。

 すぐに末次が部屋に入ってきた。

「IDの登録が済みましたので、今お手元にあるIPADが皆様個人のものになります。今後、新幹線の予約やホテルの予約はこれで行ってください。

 それでは今日、明日の予定を説明させて頂きます。紙の資料はございませんので、まずIPADにログインをして頂けますか」

 この“ログイン”がまたもやできず、土井の力を借りて何とか皆と同じ画面にたどり着く。

 さすがに昨日のガイダンスのように自分で勝手に読んで、質問があれば聞いてくれというスタンスではなく、末次が丁寧に説明を行ってくれた。

 これから自分たちは何を会社から望まれ、何をどうやって行っていくのかを末次が丁寧に説明をしてくれ、真剣に聞き入っているうちに午前中はあっという間に終わった。

 柴田と土井に社員食堂へ誘われたが、体が猛烈にニコチンを欲していたので丁寧に断り社屋を出る。

 どこか、タバコが吸えて飯が食える店が無いか捜し歩いたところ“タバコ吸え〼”のポップに目が止まる。

 夜は居酒屋をやっていて昼間はランチを提供している感じの店だった。

 店に入ると、朝のセルフのコーヒー屋と同じく、見事に席はおっさん達で占められていた。 

 そこかしらのテーブルから紫煙がゆらゆらと立ち上っている。 

 四人掛けのテーブルに通され、むかいにはやはりおっさんが鎮座していた。

 タバコは吸っていなかったがYシャツの胸ポケットが四角く膨れていたので、気兼ねせず紫煙をくゆらせる。

 店員が湯吞を持って注文を取りに来た。

 相変わらず前日の酒が残っていたので、たぬき、こっちでいうきつねそばといなりを一つ注文する。

 暫くすると向かいのおっさんの料理が運ばれてきた。

 ちらっと見ると、豚の生姜焼き定食のようだった。

 おっさんが箸を割ったのでタバコをもみ消す。タバコ吸いとしてずっと守ってきているマナーだった。

 湯吞をすすり、拡げたスポーツ新聞に目を落としているとなんやらある臭いを感じた。もう一度ゆっくりと嗅ぐ。

 まさかと思い、顔を上げると、スポーツ新聞の向こうで、むかいのおっさんが白いプラスチックの容器に箸を立て、ぐるぐると掻き回していた。

 周りを見ると同じ所作をしているおっさんが何人かいた。

 慌ててタバコに火を点ける。

 が、間に合わず、あの匂い、あの、足の裏の臭いが鼻腔を占拠する。

 くぅーっ、湯吞を傾け、二度三度とタバコをふかす。

 決して嫌いではなかった。ただ、あの匂いだけがどうしても苦手だった。

 きつねそばが来たので七味をたっぷり掛け掻きこむ。まだ若干鼻腔に臭いが残っている。

そして、最後にいなりを一口で胃に放り込み、そばとあまり香りのしない出汁で追いかけると昼食を終わらせ、すぐにタバコをくわえる。

やっぱり、ここは大阪ではない、東京なのだと痛感した。


 社屋に戻ると柴田と土井は相も変わらず、机に置いたスマホを凝視し、たまに指を上や下や右や左に滑らせていた。

「執行役員が少しだけ顔を出されるらしいですよ」

 柴田が左手の指をスマホの上で滑らせながら言う。

 始業時間ジャストに末次が部屋に入ってきて午後からのスケジュールを説明し始め「それでは午後からもよろしくお願いします」と言った時、高志さんが部屋に入ってきた。

「皆さん、ご苦労様です。久しぶりの座学でお疲れでしょうけど、もう少し頑張ってください。明後日からは各支店を回ってもらいますので。で、土井さん、どうですか、うちの会社がどんな会社で、これからあなた達にやって頂くことはだいたいご理解いただけましたか?」

「はい。すごく責任感を感じています。とにかく頑張っていきます」

「そうですか。是非お願いします。この新しい部署が当社のこれからの命運を握っていると私は真剣に思っていますから」

「はい」と柴田も声を合わせ二人は目を輝かせた。

「やっ・・」と言いかけて高志さんは苗字で呼んだ。

「どうですか?」

「いや、今、土井さんが仰ったようにすごくプレッシャーを感じています」と言って高志さんの苦笑いを誘う。

「東京は如何ですか?」

「いえ、さっき、昼食を食べてたら周りの皆さんが納豆を食べられてて、えらい目に遭いました」

 柴田も土井も末次も高志さんもくだらない冗談に笑わなかった。

「えらい街ですわ、ここ東京は」

 ここで三人と高志さんが声を出して笑った。

 笑いのポイントのズレに違和感を覚えた。


 午後のレクチャーが終了した。

 もちろん「軽く一杯っ」などはなく解散となる。

 タワーマンションへまっすぐ帰る気などサラサラ無く、連絡橋を降りる。

 昼間の納豆の店が居酒屋ぽかったのを思い出し向かう。

 店の前に着くと“ちょい呑みセット”の文字に目が止まる。

 好きな呑みもの一杯に枝豆とおでん二品と小鉢がついて税込みでジャスト千円だった。

 店に入ると想像通りおっさんだらけだった。

 カウンター席に通されるとすぐにタバコに火を灯す。

 店員のおばさんが灰皿と空のコップを持ってやってくる。

 どうみても食事に来た人間には見えなかったのだろう。

「なにされますか」とおばさんに聞かれ「ちょい呑みセット」と言いかけて“小鉢”の文字を思い出した。まさか、小鉢の中に昼間のヤツが入っていないだろうなぁ・・・咄嗟に「大瓶(だいびん)と枝豆ちょうだい」と頼む。

 すぐにビールと枝豆を持っておばさんが戻ってきた。

「お客さん、関西の方?」

「ええ。大阪です。ガラの悪さでわかりますか」

「違いますよ、大瓶(だいびん)とおっしゃったから」

「そうかそうか。こっちでは大瓶(おおびん)て言うんやね」

「そうなのよ。だから関西から出張に来られた方はすぐにわかるのよ」

 おばさんが去っていくと、曇ったコップにビールを注ぎ喉に流す。

 いつ呑んでも美味い。酒は嘘をつかない。

 瓶が空になりコップに残ったビールを呑み干すとおばさんを呼ぶ。

「熱燗となんかおすすめのあてってあります」

「そうですねぇ。お客さん、やっぱり納豆は苦手?」

「嫌いやないんですけど、あの臭いと糸引くのがねぇ」

「納豆の天ぷらってのがあるんだけど、一度召し上がってみる?」

「美味しいんですか?」と聞いて一服ふかす。

「海苔で納豆を巻いて揚げてるの。あの臭いもまったくしなくて結構評判なのよ、関西の人からも」

「そうなんや。そしたら、それもらえます、あっ、量が多くて残したら申し訳ないから・・」

「じゃあ、ハーフサイズにしましょ。それならいいでしょ」

「うん。あと、おかあさん、おでんの大根とちくわぶもらえます」

「ちくわぶってよくご存じですね」

「おかあさん、実は私、二十年前にこっちに来てたことがあったんですよ」

「あら、そうなの」

「初めてコンビニのおでんの鍋に入ってるのを見た時びっくりしてね。こっちの人は一体何食べてんねや思うて。せやけど、食べてみたら結構美味しいて。こっちで嫁さんにおでん作ってもらう時は必ず入れてもらってて。向こうではあんまり売ってないから、今日は久しぶりによばれようと思て」

「大阪には負けますけど、こっちにも美味しいものは結構あるので色々と召し上がっていってください」

 大根とちくわぶをあてに熱燗をちょろちょろと喉に流し込んでいると、納豆の天ぷらが目の前に現れた。

「そのままでも美味しいですし天つゆにつけていただいても結構です。とにかくチャレンジしてみてください。是非、納豆を好きになってください」

 薄い衣をまとい、乳飲み子のように海苔に包まれた納豆を食す。

「あっ、美味い」

 自然と言葉が出た。

 あの臭みはなく、納豆の豆の旨味が海苔の香りを連れてやってくる。

「いいでしょ?」

「最高です。酒のあてにぴったりですわ」

 

 三本目の熱燗が空になると店を出た。

 考えてみればこっちへ来てから、紅しょうが天を大将として向こうのものばかり口に入れてきた。郷に入れば郷に従えではないが、こっちの美味しいものを探して食べてみるのもいいかもしれない。

“えらい街”にもきっと“ええもん”がいくらでもあるはずだ。

 流しのタクシーには手を挙げず東京の街を歩く。

 そびえたつ高層ビル群の隙間から月が見える。もちろん星などひとつもない。子供のころ、大阪の空にもわずかだが星があった。しかし、人間は星と交換に“経済成長”を勝ち取り高い高いビルをいくつも建てた。

 しかし、いくら高い高いビルを作り空に近づいても星の姿はもう見えない。


 タワーマンションに着くと、高志さんの部屋の明かりは灯っていなかった。

 一日の汗をシャワーで流しリビングに足を滑らせる。

 ガラス張りの窓からはもちろん星は一つも見えない。

 亡き奥様の遺影の前に立つ。

「いつもすいません」と言って缶ビールのプルトップを引き喉に流す。

「うまい」と自然と声を漏らした時、ふいに線香立ての脇に置かれたシルバーリングに目が止まる。

 高志さんの指にはリングが通っていなかったはずだ。

 しかし、手に取って見るとサイズ的に男性のものだった。どうして高志さんはリングをここに置いているのだろう。いつまでもお前と一緒だよ、それとも、悪いけどお前とはさようなら、心はここに置いていくから、どっちなのだろうと考えているうちに、湯に当たったせいか急にアルコールが回ってきたので自らの寝室に戻る。


 翌日の午前のレクチャーは座学に慣れてきたのか、あっという間に終了した。

 柴田と土井と階上の社員食堂で卓を囲む。

 二人はもちろん二日酔いなどではなく、柴田は焼肉定食を、土井はトンカツ定食を食している。

 自分はというと、相変わらず前日の酒が少し残っていたのと、東京の味に少しでも触れようと、二十年前からずっと気になっていたコロッケそばなるものを食す。

「それだけで足りますか」と左手に箸を持った柴田が聞いてくる。

「毎日二日酔いですからね。ほんまはコロッケではなく刻んだ揚げなんやけど、郷に入れば郷に従えで」

 柴田も土井も笑わず二人ともテーブルの上に置いてある神様仏様スマホ様に目を移す。 

 コロッケそばとの格闘はしばらく続いたが半分も食さないうちにリングに膝をついてしまった。

 ただでさえ濃い出汁にコロッケの油が溶け出し、完全にそばのジャンルを逸脱していた。やはりコロッケはソースを掛けて刻んだキャベツと一緒に食べるものだと再認識した。

 社屋を出るといつものセルフのコーヒー屋に入る。

 紙コップに水を注ぎ、コロッケの油でギトギトになった口の中を洗浄する。

 タバコに火を点け、いつもながらのあまり美味しくないコーヒーをすする。

 ズボンのポケットに消臭スプレーがあるのを確認する。

 スマホが震える。

 妻のやすえだった。

「ちゃんとついていけてんのん?」

「あぁ、なんとかね。せやけどコロッケにそばを入れるのはあかんわ」

「食文化の違いやん。そっちの人からしたらお好み焼き定食なんか理解でけへんのんと一緒やん」

「まあ、それはそうやけどなぁ」

「明日はお昼にはこっちに来るんやろ。それこそ、ランチでお好み焼き定食でも食べたらええやんか」

「おぅ、そうするわ」

「金曜日は何食べたい?」

「そやなぁ、やっぱりいつものうどんすき作って。ちゃんとした出汁の香りのするやつな」

 電話を切ると香りのかけらもないコーヒーをすすり、もう一本だけタバコを吸い社に戻る。

 

午後からのレクチャーは二時間ほどで終り、後は明日からの出張の説明となった。

末次が説明を始めると高田が部屋に入ってきた。

「ハート、名古屋支店の集合時間が九時から八時半に変更になったから」

 ハート!?

「総務部長が急に出張になったんだって」

 総務部長の出張などどうでもよかった。

 ハートっ!? ハートっ!?

 まっ、まさか、あの末次の首からぶら下がっていたIDカードに書かれていた“末次 温心”の“温心” “温かい” “心” で ハ ー  ト ♡ 末次 ハート・・・

 気絶しそうになったが何とか立て直し続けて説明を聞く。

 出張はすべて現地集合、現地解散で各自IPADを使って自分の乗りたい時間の新幹線を予約、修学旅行のように徒党を組んで移動することは基本しない。移動時間も“自分の時間”気を使って上司と缶ビールを酌み交わす時間ではないとのこと。泊まるホテルも自分で予約。総務課が取ってはくれない。会社が提携しているホテルの中から自分で泊まりたいホテルを選ぶ。提携していないホテルを選ぶのは個人の自由だったが会社からお金はでない。

 すべての説明が終わるとハートは「それでは、明日、名古屋支店のエントランスに八時半の十分前にご集合願います。まだ、定時まで少し時間がございますので適当に過ごしてください。チャイムが鳴れば解散頂いて結構です。明日もよろしくお願いいたします」と言って高田と部屋を出ていった。

 暫くすると無言で立ち上がった柴田と土井に声を掛ける。

「悪いけど、新幹線の予約の仕方を教えてくれへんかなぁ。もう一つわかんないんですわ」

 柴田も土井も「いいですよ」と言って快く受けてくれた。

「自分らさすがに若いから一回聞くだけでわかるんや」

「いえ、前の会社も同じだったんですよ」と土井が言う。

「さすがに一流企業は進んでるよね。僕らはチケット屋で安売りチケット買って差額を新幹線の呑み代に充ててたから」

「そっちの方が絶対にいいですよ。このシステムは確かにお金が無い時には助かるんですけど、差額の恩恵を被ることがないですから」

「僕もそう思うけどね。サラリーマンのささやかな楽しみやからね。あっ、悪いけど、明日の名古屋までの分と、名古屋から新大阪までの分と、新大阪から博多の分まで取っといてくれる」

「わかりました。希望の便とかありますか」

「いや、時間までに間に合うやつやったら何でもいいですわ」

「席はどこがいいですか?」と土井はキーボードをすごいスピードで叩いていく。

「二人掛けの窓際でお願いします」

「E席ですよね」

 土井はあっという間に三便の予約を取ってくれた。

「すまんねぇ、助かりました」

「さっき渡された青いカードを自動改札にかざすと紙が出てきます。それが切符の代わりで便の番号と出発時間、座席番号が書かれています。あと、明日の博多のホテルもとっておきましょうか」

「いえ、それは大丈夫です。さすがに何百キロ歩け言われたら無理ですけど、泊まるところくらいでしたら、最悪、漫画喫茶にでも泊まれますから。それに、自分でもちょっとは練習しとかんとね」

「わかりました」

 土井は屈託ない笑顔を向けると終業のチャイムが鳴り始めた部屋を柴田と出ていった。


 木曜日の朝、名古屋支店に向けてタワーマンションを出る。

 悩んだが、ネクタイはせず、上着だけを羽織った。

 東京駅に着く。

喫煙ブースでタバコを一本だけふかしホームに上がると、土井が取ってくれた新幹線に乗り込む。

 朝の早い時間だったがビジネスマンらしき人たちでほぼ満席だった。

 土井や柴田がいないかと周りを見るがいなかった。

 始発の次の便だし、ひょっとして前乗りしているのかもしれない。

 新幹線が動き出す。

 隣のD席のビジネスマンはすぐに折り畳み式のテーブルを開き、小さなパソコンを乗せ仕事開始。

 暫くすると車内販売のワゴンがやってきたのでホットコーヒーを購入する。

 半分ほど飲んだところで体がニコチンを欲する。

「ちょっとすんません」と断ると、隣のビジネスマンは少し面倒くさそうな顔でパソコンを自分の膝の上に乗せテーブルを畳んでくれた。

 出張の帰りでは、ワゴンをしょっちゅう利用するので通路側のD席を取ってきたが、往きは車窓から朝陽を受けた街を眺めたりたまに眠りに落ちたりするので窓際のE席をとることにしていた。そもそも隣のビジネスマンのように朝からもりもりと仕事をしている人間など自分が若いころには皆無だった。時代なんだろう。ハートが言っていた、移動時間も“自分の時間”ということだ。往きは寝て帰りは呑む、そんなことは時代錯誤も甚だしい、ということなのだろう。

 喫煙ブースは見事に同い齢くらいのおっさん達で占拠されていた。

 席を立つたびにD席のビジネスマンに頭を下げるのがうっとうしかったので三本を吸い溜めし、トイレで小用を足し座席に戻る。

 ビジネスマンは“一心不乱”という感じでパソコンとにらめっこしている。

「すんません」と声を掛けると、さっきと同じように少し面倒くさそうな表情でパソコンを自分の膝に乗せテーブルを畳んでくれた。


 新幹線が名古屋駅のホームに滑り入る。

 また「すいません」と言わないといけないなと思ったが、隣のビジネスマンも席を立ったので少しホッとした。

 改札を出て少し歩き駅を出ると、本社同様、連絡橋とつながっている名古屋支店の前に立つ。

 社員に求めるものは大きいが、社員が働きやすい環境を作っている。

 新幹線を降り在来線に乗り換え、何十分も掛けてたどり着く様なところに拠点は作らない。乗っている会社は違う。

 集合時間までに三十分ほどあったので、連絡橋を降りると朝の名古屋の街を歩く。

 すぐに、いかにも“純喫茶”といった店を見つけ足を踏み入れる。

 海岸に群れるトドを連想させるおっさんの群れが目の前に拡がる。

 アメリカンを注文すると名古屋名物の豪勢モーニングと一緒にでてきた。

厚さ三センチはあるバターがたっぷりと塗られたトーストにゆで玉子、でかいサラダに半分にカットされたバナナがつく。

 ゆで玉子は朝からは喉がつかえて食べれないので早々と白旗を立て上着のポケットに入れる。そして、タバコを一本くゆらせると豪勢モーニングとの格闘を開始する。まずは分厚いトーストにかぶりつく。美味い。サラダに乗ったプチトマトを指でつまみ口に放り込む。あとは一心不乱に食べ続けトーストとサラダを完食する。腹がかなりやばい状況だったが思い切って半分にカットされたバナナを涙目になりながら口に放り込み戦いを終わらせた。

 紙ナプキンで口を拭き、壁にかかった時計を見ると集合時間まで残り十五分だった。

 慌てて一口しか口をつけていなかったアメリカンをすすり、紫煙をくゆらせる。


 名古屋支店のエントランスに着くとすでに柴田も土井も来ていた。

「新幹線大丈夫でしたか?」と土井が聞く。

「ええ、おかげさまでちゃんと乗れて無事にここにたどり着くことができました」

 土井と柴田が笑う。

 自分ではそんなにおもしろいことを言ったつもりではなかった。

 暫くするとハートがやって来た。

「おはようございます。皆さん、緊張もあって疲れがピークにきているかと思います。今日も結構なハードスケジュールですが頑張ってください」

 ハートに連れられ広いオフィスに入る。

皆、こいつら誰だ、といった視線を投げかけてくる。年齢からみて新入社員ではなさそうだと思っているのだろう。

「部長、お忙しいところすいません、本日はよろしくお願いいたします」

ハートが頭を下げたのは今日の開始時間を三十分早めた張本人の総務部長だった。

「申し訳ない、私の都合に合わせて頂いて」と言って総務部長は頭を垂れた。悪い人ではなさそうだ。

 その後、ハートが新しい部署がどんなことを今後していくのかを立ったまま説明し、我々三人を紹介してくれた。

「じゃあ、よろしくお願いいたします」

 言うと総務部長は忙しそうにオフィスを出ていった。

 その後、ハートに連れられ五つの部署を回った。たくさんの人を紹介してもらったが誰が何という名前でどこの部署の方なのかはどれ一つ頭の中には残っていなかった。

「それでは大阪支店のエントランスに十三時半までにお集まりください」

 ハートの言葉で解散となり駅へ向かう。

 時間的に新大阪駅で食事をとるか、駅弁を買って新幹線の中で食べるか微妙なところだったが、大阪の地で何か食べたかったので新幹線の中ではコーヒーだけで我慢することにした。


 新大阪駅のホームに新幹線が速度を落とし滑り入る。

 一週間もたっていないのになんだか久しぶりに大阪の地に降り立ったような気がした。

 たまに立ち寄る立ち食いうどん屋へ行ったが券売機の前に人の列ができていたので諦め、駅中の店を見て回る。

 しかし、時間的にどこも満員で、ファーストフードの店までビジネスマンらしき人間の列ができていた。

 しょうがないので駅を出て、連絡橋から周りに何かないか辺りを見渡す。

 だが、どこの街の風景も同じでコンビニの屋号が二つ三つ見えるだけだった。

 その中の一つの店に行くとフードコートがあり、運よく一席だけ空いていたので、椅子に場所取り用として鞄を置いて店内を歩く。

 集合時間まで三十分を切っていたので、ペットボトルの緑茶と、紅しょうがののったちらし寿司を買って席に戻る。

 久しぶりに食べる大阪のちらし寿司がやけに美味かった。そして、やっぱり俺は大阪が好きなんやなぁとつまらない感慨にふけりながらのんびりと箸を運んでいるうちにタバコを吸う時間が無くなり、しかたなく社に向かう。

 エントランスに着くと柴田と土井はいつも通り先に来ていて、二人の向こうになおみの姿があった。

 軽く会釈するとなおみは薄い笑顔を返してきた。

 やがてハートがやって来た。

「皆さんお疲れ様です。ハードなスケジュールで申し訳ないですが、明日の午前まで残りがちょうど一日となりました。何とか頑張って乗り切ってください。それではお願いいたします」

 ハートとなおみに連れられ応接室と思われる小さな部屋に入る。

 すぐにハートが三人になおみを紹介する。

 もらった名刺には“教育推進室 室長”と書かれていた。

 ハートが新しい部署がこれから何を行っていくのかと今後のスケジュールをなおみに説明する。もう同じことを何度も隣で聞いてきたので空で言えるくらいになっていた。

 ハートの説明が一通り終わると、なおみが「わかりました。じゃあ、新入社員のみなさん、簡単な自己紹介とこれからの意気込みを聞かせてもらえますか」と言っていたずらな笑顔を向けた。

 柴田と土井は淡々と話をしてなんの盛り上がりも見せずに自分の番がやってきた。

「えーっ、言葉からもわかるように大阪のええ齢こいたおっさんです。前の会社では“やっさん”と呼ばれていましたので今後はそう言って頂いて結構です。“やすしさん”はなんかけつがこそばいので、それならいっそのこと“やすし”と言うてもらった方がいいです。柴田さん、一回“やすし”と言うてもうてもいいですか?」

「えっ」と柴田は目を丸くする。

「いいじゃない、柴田さん、言ってみたら」となおみがあおる。

「え、えっ」と柴田は一瞬視線を落としたが、すぐに戸惑う表情で言葉を発した。

「やすし」

「われっ、こらっ、誰の名前呼び捨てしとんのじゃいっ!!」

 会議室が凍る。

 なおみは一人笑いをこらえている。

 えっ!?という顔をして柴田は固まっている。

「柴田さん、冗談よ冗談。ギャグギャグ。大阪人の持ちネタやから」

 柴田はまだ、いったい何が起こったのかと放心状態だった。

「この齢で、今、日本で一番勢いのある会社に入れてもらってすごく興奮しています。自分に何ができるか考えたんですけど、やっぱり皆さんよりは齢をくっているんで、これまでの経験の中で得たものを皆さん、これから会社を背負っていく人たちにお伝え出来たらなぁと思っています。仕事は楽しく、をモットーにしてこれまでやってきたので、これからも継続していきたいと思っています。以上です」

「みなさん、ありがとうございました。期待していますのでよろしくお願いいたします。やっさん、年の功、発揮してくださいね」

 なおみの“やっさん”にハートと土井は少しだけ笑ったが、柴田はまだ解凍されていなかった。


 三つの部署を回り終えると、福岡に向けて現地解散となった。

 土井が取ってくれた博多行きの新幹線に乗り込み、ビールのロング缶のプルトップを引いた時、スマホがビーンと震えた。

 なおみからのショートメールだった。

“さすが素人芸人。柴田君のフォローよろしく。月曜日に久しぶりに東京に行くので二人で呑みません?”

“もちろん”と返信するとビールを喉に流し込む。

“会社の近くに魚の美味しいところがあるので予約を取っておきます。ちゃんとタバコも吸える店ですから安心してください”

“了解です。もちろん、当社の方針『現地集合』『現地解散』ですよね”

“いえ、私はなんなら会社から手を繋いでいってもいいですよ”

“せっかくこんな大企業に入れたのに、スキャンダルで台無しにしたくないので”と打ち、最後にペコリと頭を下げている絵文字を添えて返信する。


 新神戸駅を発ってすぐにロング缶が空になりワンカップのふたを開ける。

 車内を見渡すとビジネスマンらしき人間でほぼ満席だった。

 あたりめをしがみ、酒を舐める。幸せとはこんなものなのだろう。

 西の空にあと少しで暗闇の幕を引く太陽がオレンジ色に輝いている。

 今夜の宿をとっていないことを突然思い出す。

 網棚から鞄を降ろしIPADを取り出す。

 作業を始めるが予想通り難航する。

 宿を予約するためのサイトにアクセスできない。会社で与えられたいくつかのパスワードを打ち込むがすべて拒否される。

 結局、岡山駅への到着アナウンスが流れた時に宿予約の作業を断念する。

「やっぱ俺には無理」と諦めの声を漏らし、二本目のワンカップを開ける。

 あたりめを完食した時、ちょうど通路をワゴンがやってきたので手を挙げる。

 笹かまとワンカップをさらに二本購入する。

 そして、車窓を流れる景色を眺めているうちに眠りに落ち「すいません」の声で目を覚ますと、隣のE席の人が立ち上がっていた。

 新幹線は小倉駅に到着目前だった。

 慌てて目の前のテーブルに乗ったワンカップとあたりめと笹かまの亡骸を慌ててレジ袋につっこみテーブルを畳む。

 新幹線が小倉駅を発つと、亡骸でパンパンんに膨れたレジ袋をゴミ箱に捨て、ちょうど一人分のスペースが空いていたので喫煙ブースに体を滑り込ませる。

 おそらく酒臭いんだろうなぁとブースの中の人に気を使いながら紫煙をくゆらす。

 どんどんと乗降口に集まってくる乗客の視線が刺さる。

 いまだにタバコを吸っているバカどもが、とでも思っているのだろう。

 新幹線が博多駅に到着しホームに降りる。

 日は暮れていたが生暖かい空気が体を包む。

 今日一日の汗を流したかったので、自腹は痛かったがビジネスホテルをあたる。

 しかし、駅周辺はどこのホテルも満室だった。聞くと明日の金曜日から三日連続で人気アイドルのコンサートがドーム球場で行われるらしい。

 駅から少し離れたところにある漫画喫茶を見つけたがやはり空いているスペースは無かった。

 新幹線の中で呑んだビールと日本酒はすべて汗となって下着に浸み込んでいた。

 なおみに電話を入れて宿の取り方を教えてもらおうと思った時“試写室”という看板が目に入った。

“完全個室 シャワー室あり”の言葉が添えられている。

 狭い階段を上った二階に受付があった。

「空いてます?」

「はい。コースはどうされます?」

 エプロンを掛けている店員に聞かれる。

「明日の朝までで」

「ありがとうございます。それではお好きなDVDを十枚まで選んでこちらにお越しください」

 まだ若いころ、終電を逃してタクシー代が無く、一度だけ利用したことがあった。

 一時間近く歩き回り、早く横になりたかったので、適当にDVDを選び、渡された小さなレジ籠に入れて受付に戻る。

 部屋の鍵を渡され狭い階段を上り三階のフロアーに立つ。

 紙が擦れる音や、咳払い、そして、小さくではあるが間違いなく女の喘ぎ声がそれぞれのタコ部屋から漏れてくる。

 自販機にビールがあったのでロング缶を二本買い部屋に入る。

 液晶テレビと、それを睨みつけるようにリクライニングチェアが鎮座し、ティッシュの箱が一つ置かれているだけだった。

 ビジネスホテルに泊まるつもりで部屋着など持ってこなかったので、スーツを剥ぎ下着だけになる。

 リクライニングチェアに体を沈め、ビールを喉に流す。

 空調もよく効いていて思ったより快適だった。

 暫くの間、昭和の時代を一斉風靡した漫才コンビのDVDを見て体を震わせる。

 あっという間に二本のロング缶が空になったので、スーツのパンツとYシャツを身に着け、素足に革靴を履いて部屋を出る。

 ビールはさすがに飽きたので、チューハイ、それもアルコール度が高い、所謂“ストロング”系のロング缶を二本買うと、あたりめと笹かましか入っていない胃袋がグーッと悲しい音を奏でる。

 隣の自販機を見ると“食べ物”が陳列されていたが、おやつ系のものしかなかった。まさか、チョコレートでコーティングされたクッキーを食しながらアルコールを舐めることはできなかった。

 諦めて部屋に戻り、また下着姿に戻ってストロングを開け漫才の続きを見る。

 そして一枚六十分のDVDを二枚見終えた時、二本目のストロングが空になった。新幹線の中で呑んだ量を足すと、日本酒に換算して七号を超えていた。

 そろそろ寝ようかとリクライニングを少し傾けた時、DVDが入った籠にある一枚だけ借りたアダルトのDVDに目が止まる。

“不倫OL 乱れた性活”

 プレーヤーに挿入し暫くすると主人公と思われるOLが画面に現れ、すぐに会社の上司と思しき男性と交わる。

 下腹部に少し熱を感じる。

 これ以上呑むとまずいなと思いながらスマホを見ると日付が変わるまでにまだ一時間余りあった。

 部屋を出ると自販機の前に立つ。

 Yシャツを着ていないことに気づく。

 スーツのパンツに上半身は下着。足元は素足に革靴。街を歩いていると間違いなく職務質問を受けるだろう。自分が感じているよりかなり酔っているようだ。

 心を鬼にしてストロングを二本買いたいところを一本だけにして部屋に戻る。

 DVDを再生する。

 OLが自宅マンションに上司を連れ込み、行為を致しているところに元カレが現れる。お決まりのパターン。やがて三人は激しくまぐわう。

 目の前の三人に触発されたわけではないが突然腹がグーと鳴る。

 しょうがないのでビスケットでも買いに行こうかとリクライニングチェアーから立ち上がろうとした時、今朝、名古屋の喫茶店で上着のポケットにゆで玉子を入れたことを思い出した。

 ハンガーに掛けた上着のポケットに手を入れると玉子はどこにも行かずにいてくれていた。

 塩が欲しかったが贅沢は言えなかったので無心に殻をむき、てかてかに光った白い玉子にかぶりつく。

「うまっ」

 思わず声がでて、ストロングで追いかける。

 OLが上司の体液で口を汚す。

 あの時のなおみを思い出し、さらに下腹部に熱を感じる。

 玉子にかぶりつきストロングで追いかける。

 元カレの体液でOLはさらに口を汚す。

 そして、玉子の最後の一かけらを口に放り込み、ストロングで胃に流し込み、ティッシュペーパーの箱を手元に手繰り寄せたところで記憶が途切れる。


 朝、目を覚ますと、体中の節々が痛かった。

 床には空き缶が散乱しティッシュペーパーを丸めたものがいくつか落ちていた。

 嫌な汗を体全体に感じスマホを手に取ると集合時間まで三十分しかなかった。

 シャワーは断念し、スーツのパンツを履きYシャツを羽織り部屋を出る。

 受付に行き歯ブラシと髭剃りを売っていないか聞いたがなかったので、洗面所へ駆け込み、顔を洗い、口を何度もゆすぎ部屋に戻る。

 下着と靴下だけでも替えたかったが時間が無かったので、来た時の恰好そのままで試写室を飛び出る。


 福岡支店のエントランスに何とかたどり着くと、いつも通り柴田と土井はすでに来ていた。

「ちゃんとホテルはとれましたか」と言って土井が近づいてきたが、二歩手前で足を止めた。

「むちゃくちゃ酒臭いですよ」

「マジかっ」と言いながら、わかっていることだった。

「土井君、何か口臭をケアするやつもってない?」

「やっさん、これでいいですか。あまり効き目はないと思いますけど」と言って土井は小さな四角いプラスチックのケースを渡してくれた。

「やっさん!? お前、誰に、やっさん・・」

 土井が「ひぃーっ」と声を上げる。

「冗談冗談、素人芸人は同じネタは二度使わんから。それが俺のプライドや」

「なんなんですか、そのプライドってのは・・」と言って土井は額の汗を拭う。

 やがてハートがやって来た。

「おはようございます。研修も今日が最終日です。かなりお疲れかと思いますがあともう少し頑張ってください。午前中に各部署への説明を終えて、その後、ささやかですが皆さんの慰労を兼ねた昼食会を用意しております。終了後、解散となりますので、よろしくお願いいたします」


 ハートに連れられ四人でエレベーターに乗り込む。

 柴田が酒の匂いを感じたのかこっちを振り向く。

 手で“すまん”とポーズをとる。

 エレベーターを降り廊下を進む。いつもならハートの真後ろについたが、今日は柴田と土井を前に置いて最後尾を歩く。吐く息ができるだけハートに届かないようにする。


 結局、三つの部署を回り、今回の研修はお開きとなった。

 昼食会まで少し時間があったので社を出て駅近くのセルフのコーヒーショップに入る。

 昨日の酒が思いっきり体の中で鎮座していて、おまけに、あたりめと笹かまとゆで玉子以外何も胃に入っていなかったので、レジの脇に置かれていた小さなバームクーヘンをコーヒーと一緒に購入する。

 喫煙ゾーンに一席だけ空きがあったので腰を下ろしすぐに紫煙をくゆらす。

 いったいいつ以来だろうかと思いながらバームクーヘンを食すと、少し胸のムカツキがましになった。

 妻のやすえにショートメールを打つ。

“やっと研修終了。くたくたや。昼食会がたぶん二時ごろ終わるから六時ごろには家に着くわ。うどんすきよろしく”

 すぐに返信が来た。

“はい。新幹線で呑み過ぎたらあかんで”

“ラジャー”

 二本目のタバコを吸い終えると昼食会の店へと向かう。

 また、東京の時のように、スカしたイタ飯屋かと思っていたが、そうではなかった。

 初めてなおみと出会った大阪の行きつけの居酒屋を少し広くした感じのお店だった。

 一つだけある四人掛けのテーブルには柴田と土井、そして、ハートと高田がすでに腰を下ろしていた。

「すいません、遅くなりまして」と言ってカウンターの席につこうとした時、柴田が立ち上がった。

「やすし、遅かったじゃないか、みんな待ってたんだよ」

 一瞬はっとしたが、すぐに返す。

「柴田君、腕上げたなぁーっ」

 その言葉を聞いた柴田は利き腕の左腕をぬうーっと天井に向けて上げた。

「その腕ちゃうやろっ」

 柴田一人が笑い、他の三人が口をポカンと開けた時、店に客が入ってきた。

 高志さんだった。

 三人はポカンと口を開けたまま立ち上がり、柴田も加わり四人で最敬礼する。

「よっ」と手を挙げた高志さんは「みなさん、大変お疲れ様でした」と言ってカウンターの隣の席に腰を下ろした。

「昼食会ということでしたが、特例で昼呑み会に変更します」

「マジですかっ」と高田がやっとポカンと開いた口を締め「ありがとうございます」と続けて昼呑み会が始まった。

「やすしさん、お疲れになったでしょ」

 ビールの入ったグラスを重ね高志さんが言った。

「ええ。久しぶりの座学はこたえましたわ。それにパソコンていうかIT社会についていけなくて、どうも、あの、パスワードですかね・・いくつもあってどれをどこで使うのか覚えきれなくて」

「そうですよね。私もあまり得意な方じゃなくて、世の中の誰が主導しているのか、どんどんそっちの方へ向かって行ってますよね。スマート、スマートって、一部の使いこなせる人間にとって“スマート”であって、それ以外の人間にとっては決して“スマート”ではなく“ストレス”それが原因での過食による“肥満”ですよ」

「ははっ、ほんまにそうですよね。えらい世の中になりましたわ」

 言ってYシャツの胸ポケットに手を伸ばそうとしたが社則を思い出した。

「やすしさん、特例です。心置きなく吸ってください」

 言うと高志さんは自分の目の前にあった灰皿を差し出してくれた。

「すいません、じゃあ、お言葉に甘えまして」

 紫煙をくゆらし、グラスに残っていたビールを呑み干す。

 高志さんのグラスが空になっていたので瓶を差し出すと「夜にお客さんと一席ありますので」と言って申し訳ない顔を向けられた。

 そして、瓶ビールが空になった時「じゃあ、先に失礼します。今日は大阪に帰ってゆっくりと休んでください」と言って、高志さんは他の四人にも「じゃあ、お先に」と手を挙げて店を出ていった。

 高志さんがいなくなると、四人は緊張感が抜けたのか、話す声が少し大きくなった。

 途中、柴田がカウンターにやって来て「やっさん、もし執行役員が『やすし』と仰ったら僕がやられたのと同じことをするんですか」と聞いてきたので「アホか、俺もそこまでバカちゃうわ」と言い返す場面があったが、すぐに四人は会話をやめ、自らの目の前に置いたスマホを食い入るように見つめ、たまに笑ったり、独り言を言ったり、画面に指を滑らせたりした。

 まずいかなと思いながらビールから熱燗に切り替える。

 カウンターの奥に置かれた液晶テレビでは太平洋戦争のドキュメンタリー番組が流れていた。

 終戦記念日が近いことに気づく。

 十八、九の少年が遠方の地で恐怖と飢えに苦しみ、愛する人を思いながら短い生涯を閉じていく。

 お国の為、片道分の燃料を積んで敵艦隊に突っ込んでいく前日、恋人と最後の夜を送る。

 奇跡的に生き残った元日本兵の男性が涙ながらに『本当にわしが同じ日本人面していていいのか毎日自問自答しております』と言葉を吐く。

 日本酒を煽り四人のテーブルに目を向ける。

 柴田は肘をテーブルに立て掌に顔を乗せスマホを凝視している。

「柴田君っ」

 柴田が視線をスマホからこっちに移す。

「君、ここへ何しに来たんや?」

「何しに来たって、慰労を兼ねた昼食会が途中から昼呑み会に変わって・・」

「そやろ。そしたらもっと真剣に酒を呑め」

「はっ? やっさん、それどういう意味ですか?」と言って柴田の目が黒い点になる。

「君はここに酒を呑みに来たんやろ。そしたら、もっと真摯に酒に向き合え。今の君のその態度は酒に対して失礼やろ」

「へ、へぇっ?」

 柴田の目がさらに小さな黒い点になる。

「一人の人と向かい合っているとき、その目の前にいる人を好きになれ。その人のことだけを考えろ。俺はずっとそう思って人に接してる。当たり前のことや。それが人と接するときの礼儀やと思ってる。

 そう思いませんか、高田さん」

 ハートの上司の高田は何も言わなかった。

「それが、目の前に自分が好きにならないといけない人がいるにもかかわらず、横やりを入れてくる電話に出てみたり、スマホの画面に目を落としたり。これ、むちゃくちゃ失礼なことなんですよね。だけど、今はそれが当たり前になってしまっている。失礼な行為やと誰も思わない。

 そのおかしくなった感性を皆さんに元へ戻してもらうため、私はこの会社に採用されたと思ってます。

 高田さん、私の言うてること間違ってますか?」


 お通夜状態になった店内で二本目の熱燗が空になる。

「やっさん」と言って土井がカウンターにやってきた。

 いつの間にかカウンター奥の液晶テレビでは戦争のドキュメンタリー番組に変わって、昔で言う“ワイドショー”的な番組が流れいていた。

「少し酔っていますか?」と土井は、左手の人差し指と親指をひっつけ“少し”を表現して聞く。

「ちょっとだけな」

「そうですか、良かったです」

「何が良かったんじゃっ!こらっ!」

 店主が何事かとこっちを見る。

「うそうそ、冗談や冗談」

「もう、やっさん、お願いしますよ。今日のやっさんなにかおかしいですよ」

「そんなことあらへんよ、いつもの俺や。それより何の用?」

「いえ、これから大阪に帰られるのに新幹線の予約を取られてるのかなと思って」

「あっ、そうやったわ、お願いしていい?」

「もちろんです」

 言うと土井はテーブルに戻り、リュックサックから取り出したIPADを操り始めた。

「二時過ぎの博多発でいいですか?」

「はい、それで頼みますわ」

「新大阪着でいいですよね」

「うん、い、いや、東京にしてくれる。ちょっとマンションに忘れ物してきたんで」

「どうしても今日に取りに戻らないといけないんですか。月曜日とかじゃダメなんですか。かなりお疲れの様なんで・・」

「いや、どうしても明日に必要やねん。東京着でお願いしますわ」


 昼呑み会はお開きとなり、博多駅に向かう途中に妻のやすえに電話を入れる。

 初めは「えーっ、折角ええ会社に入れたのにもったいない。もう考え直す気ないの?」と抵抗されたが、最後は「わかった。じゃあ習字教室の生徒勧誘にちょっと力入れるわ」と折れてくれた。

「すまんなぁ、短い夢で終わってしもうて。また、けったくそ悪いけど、あのアホゆとり課長にでも頭下げに行くわ」と言って二人の会話は終わった。


 見慣れた新大阪駅を新幹線が発つた時、まだ西の空で存在感を示していた太陽は、東京駅に着いた時にはお勤めを終えていた。

 タクシーで向かおうと思ったが、また元のつつましい暮らしが待ち構えているので地下鉄で向かった。

 やがて夜空にそびえるタワーマンションに着く。

 エレベーターでゆっくりと眼下に下がっていく東京の街を見下ろすのもこれで最後だ。

 扉を押し開けると、高志さんが使っているシューズラックに見覚えのあるハイヒールが収まっていた。

 お客さんとの一席とはなおみとの逢瀬のことだった。

 高志さんの部屋の前を通ると二人の交じり合う声が聞こえる。

 広いリビングを横切り奥様の遺影の前に立つ。

「色々とお世話になりました。二人のことは優しく見守ってあげてください」

 頭を垂れると自分の部屋に戻り荷物をまとめる。

 お手伝いさんが洗ってくれた下着とアイロンをあててくれたYシャツを鞄に詰め込みリビングに立つ。

「やっさん」

 声の方を振り向くと、少し顔を紅潮させたなおみが驚いた表情で突っ立っている。

遅れて高志さんが「どうしたんですか?」とさっきの居酒屋で柴田が見せた小さな黒い点のような目をして現れた。

「高志さん、本当に申し訳ないんですけど、折角入れて頂いたんですけど、辞めさせていただこうと思いまして」

「えーっ、どうしてですか」と高志さんは珍しく声を上ずらせる。

「やっぱり私には無理です。ガラに合わないです」

「そんなぁ、もう少し考えてみてくださいよ」

「いえ、もうこの五日間で充分考えさせて頂きました。折角掛けてもらった梯子を自ら蹴飛ばしてもうて。本当にすいませんでした。柴田君も土井君もすごい優秀な方ですから新しい部署は大丈夫やと思います」

 高志さんはしばらく顎に手をやり、思案していたが、やがて口を開いた。

「わかりました。やすしさんのことですから散々お考えになった結果でしょう。何か困ったことがあったらまた連絡ください。力にならせていただきます」

 なおみがゆっくりと近づいてきて右手を差し出す。

「やっさん、本当にありがとうございました。大阪の街の楽しさを教えてもらって、他にもいろいろと助けてもらって・・」

 なおみの頬を涙がつたう。

「こちらこそ、色々とお世話になりました。

 それより、あんたの利き腕は左でしょ。ぎっちょなんやから」

 左手を差し出すとなおみは右手をひっこめ、左手を差し出す。

 そして、握ったなおみの左手には、さっきまで高志さんの体に触れていただろう温もりが残っていた。


 二人に別れを告げエレベーターに乗り込む。 

 ゆっくりと東京の街が、いや、現実が近づいてくる。やっぱり夢を見ていたんだ。

 タワーマンションを離れると前の会社の河合にメールを打つ。

“わけあって東京の街を離れることになりました。結婚式に出れなくなったことをお詫びします。彼女にもよろしく。あと、同僚の早坂君にも謝っておいてください。合コンは夢と消えました、と”

 そして、スマホを背広の胸ポケットに収めると、遠ざかるタワーマンションに向かって右手の親指と人差し指と小指を立てて突き出す。

「さばら!!」



         了

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