完全犯罪体系
上雲楽
生成死
最愛の我が子、水城ゆうに捧げる
はじめに
私はキリスト教信者ではないが、決定論的な立ち位置を信仰することに、ためらうことを臆してしまう。それは自分が一介のミステリファン(とりわけ本格ミステリ)であることと不可分ではないし、あえて名前を隠さずに申し上げるが、我が子である水城ゆうの死が影響することは言い逃れのできないことだと思われる。
ミステリという「建築化」された空間と神学のアナロジー、ホモロジーの結びつきの強固さに惹かれていると言えば恰好はつくのかもしれないが、私はあくまで一人の技術者であり、親であることしかできず、それ故の信仰なのかもしれない。
本稿での目的はインターネット上で「ミーム」となっている水城ゆうに対する倫理的問題を明らかにすると同時に、小説執筆AIである「No.X(ノックス)」の設計思想及びその現在の運用について端的に述べたものである。一般層をターゲットとしているので、なるべく専門用語は省き、わかりやすい解説をこころがけた。その点、詳しい読者諸氏には回りくどく、冗長に感じさせる箇所もあるかもしれないが、ご容赦願いたい。
起こってしまった事象に対して、近代人である我々が、神の意志ではなく、偶然=不確実性という確率論で論じることに抵抗はないと思われる。一方でニュートン力学的な宇宙観を量子物理学が否定し、非決定論的な立ち位置が確立した、と断言するのは早計である。宇宙すべての現象が数学的に記述され得ることを信じるのなら、その法則が確率的に表現されていたとしてもある種の決定論を信仰していることに変わりはない。しかしあえて断言すれば、そのような決定論への反駁への意志も私にとっての核である。
第一章 No.X前史としてのミステリにおける不完全性定理のアナロジー
No.Xは現在、小説執筆、特にミステリ執筆のツールとして「親しまれて」いるが、私にとっては失敗からの産物だった。ここではNo.Xの設計以前に私がこころみたこと及び、その思想元となった、ミステリにおけるゲーデルの不完全性定理のアナロジーについて解説する。
私のことを申し上げれば、幼少の頃からミステリ、とりわけ一九二〇年代の英米ミステリを好んで読んでいた。その後の日本で起きた「新本格」ムーブメントについても、世代的に過去のものであったのもあって好意的に受け止めていた。大学時代には何作かミステリの掌編を書いたこともある。そこで私が抱いた欲望は「隙なく完璧なミステリ」を構築することだった。ロジックによって真実が一義的に決定「せざるをえない」空間を執筆すること。そこで問題となる、と考えたのは柄谷行人の影響下で提起された法月綸太郎の「初期クイーン論」を含む複数の論考及び、その派生としての「後期クイーン問題」であった。まず、いわゆる「後期クイーン問題について」整理する。
法月綸太郎の論考はかなりの部分、柄谷行人の影響化にある、というより柄谷行人の仕事をミステリという空間において「隠喩」することだった。特に、柄谷行人の『隠喩としての建築』、『内省と遡行』の二著をバックボーンとしている。そこで法月綸太郎の「問題」の前に柄谷行人の一九八〇年代における「問題」について整理したい。
「ミステリ」における推理は近代的合理主義に基づくことに異論はないと思われる。ではその近代的合理主義=「西洋知」の出発点はどこにあるだろうか。
古代ギリシアにおいて、人間の制作と自然による形成は区別されたが、それは「西洋知」としての「建築への意志」によって区別される。ギリシア思想を二つに分類すると、世界を進化論的=制作として見るか、創造説的=生成として見るかに分類できる。これを柄谷は作品=超越論的な意味の外化・再現としてあるものと、テクスト=超越論的な意味あるいは構造をたえず超出しあたかもみずから意味を生成するように見えるものに対応しえるとなぞらえる。隠喩としての建築とは、「混沌とした過剰な“生成”に対して、もはや一切“自然”に負うことのない秩序や構造を確立することにほかならない」としている。例えば幾何学はユークリッド以来より強固に「建築化」がなされた。非ユークリッド幾何学の発見はある意味その「建築化」、つまり「点」や「線」といった自然言語を排除しより完全な公理体系を建築せんとしたために発した。この数学的厳密さと自然言語の曖昧さは相補的、あるいは逆説的である。「西洋知」において建築的であろうとすることが逆に基礎を持たないという発見につながるというアイロニーは純粋詩を志向したマラルメについても言える。
あらゆる散文的な要素を排除しようとこころみた純粋詩が出会うのは“偶然性”であった。ヴァレリーは制作・建築という視点を徹底的に追及していったときに見出される限界、あるいは不可能性をかりに「自然」とよんだ。人間によってつくられたものの特徴は、その形態の構造が素材の構造より単純であるという点にある。それはいかなる「構造」も何らかの意図、目的、意味なしに考えられないためである。
「西洋知」の結露たる科学的思考において、グレゴリー・ベイトソンは記述と説明を区別する。記述は諸現象に内在するすべての事実を含む。説明は記述的ではなく全体的でありうる。たとえば「神がすべてのものを作った」という説明のように。科学とはこの記述と説明をトートロジーによって結びつける=建築することだと言える。そして柄谷は不完全性定理を援用し、無矛盾であるであろうとする「建築への意志」はそれ自体背理を露呈させてしまう、ということを敷衍する。
このような「建築への意志」の結果として「形式化」が生じる。「形式化」について、柄谷は以下のように説明する。「諸学問・芸術において異なった意味をもっており、またときには異なる名称でよばれている。このことはわれわれの認識を混乱させたり意思疎通を妨げているが、それをむりに統一するのは不可能であり且つ不必要である。しかし、誰にも明瞭なことは、西洋において十九世紀後半から、とりわけ二十世紀前半において顕在化しはじめた文学や諸芸術の変化―たとえば抽象絵画や十二音階の音楽―が、パラレルで相互に連関しあっていることであり、のみならず、物理学・数学・論理学などの変化がそれらと基本的に照応しているということである。このような変化のパラレリズムが示すものを『形式化』とよぶとすれば、さしあたって、その特性は次のようなものであるといってよい。第一に、それは、いわゆる自然・現実・経験・指示対象から乖離することによって、人工的・自律的な世界を構築しようとすることであり、第二に、指示対象・意味(内容)・文脈をカッコにいれて、それ自体はイミのない項(形式)の関係(あるいは差異)と一定の規則をみようとすることである。各領域でどんな手続き(現象学的還元はその一つである)や、のちにのべるようなレトリカルな"逆転"がなされているとしても、それらは類似するものであって、そのどれかにプライオリティに与える根拠はない。それぞれ無関係に、むしろ互いに盲目的であるままに生じてきたこの変化を『形式化』とよぶことは、それらを"全体"として展望したり、"共通の本質"を取り出すことを意味しない。それはただ、各領域のなかで特権化されたものを非特権化するためにすぎない」。
ここから再びマラルメについて言えば、言語から指示対象・意味を排除した自律的な形式としての詩、いわゆる純粋詩の構想に「形式化」への意志が認められる。
またユークリッド幾何学についても同様の結果としてその欠陥が発見された。「形式化」への努力として記号論理学が数学の基礎づけに不可欠となり、論理学もまた数学の基礎づけとなる。
ラッセルは真偽決定不可能なパラドクスは自己言及的な文章に生じると考え、ロジカル・タイプ(階梯)を区別し、その混同を禁止することでパラドクスを解消し得ると考えた。一方でその限界がゲーデルによって露呈する。
ゲーデルの不完全性定理はある形式体系はそれが無矛盾であるかぎり、不完全であることを明らかにした。その証明は以下のように行える。
① 1変数の命題F(y)を網羅した一覧表を作る。並べ方はその命題のゲーデル数の小さい順とする。(F1番(y), F2番(y), ......)
② 「Fk(l)の形式証明のゲーデル数xが存在する」という命題を考える。これを
∃xP(x, k, l)
と略記する。
③ 命題∃xP(x, k, l)のkとlを変数yに置き換え、否定にした命題
~∃xP(x, y, y)
を考える。これは1変数を持つ命題なので①の一覧表のどこかにある。それをn番目とすると
Fn(y)=~∃xP(x, y, y)
④ Fn(y)=~∃xP(x, y, y)の変数yにnを代入する。
Fn(n)=~∃xP(x, n, n)
⑤ ④の右辺の内容は「Fn(n)の形式証明のゲーデル数xが存在しない」となる。対応するゲーデル数xが存在しないためFn(n)が証明できないことになる。一方で左辺を見ればそれはFn(n)なので「この命題は証明できません」という命題Fn(n)ができる。
すなわち、形式主義が外側から解体されたのではなくそれ自身の内部に「決定不可能性」を見出すことによって、その基礎の不在を証明した。自己言及的なシステムは最終的な超越はありえないと、「隠喩」として言うことさえ可能である。それをテクストにまで拡張して考える。
テクストがそれが表面上意図するのと異なる意味を持ってしまうのは、“深層”に真の意味が隠されているからでもなく多義性故でもない。テクストの「形式主義」=「決定不可能性」による。脱構築的な読解は、テクストの明示的な意味を文字通り受け入れることによって可能となる。
ここまでを踏まえて法月綸太郎の「初期クイーン論」は展開する。
法月は「柄谷行人という鏡に、アメリカの推理作家エラリー・クイーンの作風の変遷を映し出し、クイーンの諸作においてくりかえし危機的にあらわれる『形式化の諸問題』を浮き彫りにする」ことを行う。
ミステリの領域において「形式化」に早く反応したのはS・S・ヴァン・ダインである。ヴァン・ダインは推理小説が他の小説とは異なるカテゴリーを形成していることに気が付き、「推理小説は小説の形をかりた複雑で、拡大された謎(々)である」と定義した。これは推理小説二十則として以下のように示された。
一 事件の謎を解く手がかりは、全て明白に記述されていなくてはならない。
二 作中の人物が仕掛けるトリック以外に、作者が読者をペテンにかけるような記述をしてはいけない。
三 不必要なラブロマンスを付け加えて知的な物語の展開を混乱させてはいけない。ミステリの課題は、あくまで犯人を正義の庭に引き出す事であり、恋に悩む男女を結婚の祭壇に導くことではない。
四 探偵自身、あるいは捜査員の一人が突然犯人に急変してはいけない。これは恥知らずのペテンである。
五 論理的な推理によって犯人を決定しなければならない。偶然や暗合、動機のない自供によって事件を解決してはいけない。
六 探偵小説には、必ず探偵役が登場して、その人物の捜査と一貫した推理によって事件を解決しなければならない。
七 長編小説には死体が絶対に必要である。殺人より軽い犯罪では読者の興味を持続できない。
八 占いや心霊術、読心術などで犯罪の真相を告げてはならない。
九 探偵役は一人が望ましい。ひとつの事件に複数の探偵が協力し合って解決するのは推理の脈絡を分断するばかりでなく、読者に対して公平を欠く。それはまるで読者をリレーチームと競争させるようなものである。
十 犯人は物語の中で重要な役を演ずる人物でなくてはならない。最後の章でひょっこり登場した人物に罪を着せるのは、その作者の無能を告白するようなものである。
十一 端役の使用人等を犯人にするのは安易な解決策である。その程度の人物が犯す犯罪ならわざわざ本に書くほどの事はない。
十二 いくつ殺人事件があっても、真の犯人は一人でなければならない。但し端役の共犯者がいてもよい。
十三 冒険小説やスパイ小説なら構わないが、探偵小説では秘密結社やマフィアなどの組織に属する人物を犯人にしてはいけない。彼らは非合法な組織の保護を受けられるのでアンフェアである。
十四 殺人の方法と、それを探偵する手段は合理的で、しかも科学的であること。空想科学的であってはいけない。例えば毒殺の場合なら、未知の毒物を使ってはいけない。
十五 事件の真相を説く手がかりは、最後の章で探偵が犯人を指摘する前に、作者がスポーツマンシップと誠実さをもって、全て読者に提示しておかなければならない。
十六 余計な情景描写や、脇道に逸れた文学的な饒舌は省くべきである。
十七 プロの犯罪者を犯人にするのは避けること。それらは警察が日ごろ取り扱う仕事である。真に魅力ある犯罪はアマチュアによって行われる。
十八 事件の真相を事故死や自殺で片付けてはいけない。こんな竜頭蛇尾は読者をペテンにかけるものだ。
十九 犯罪の動機は個人的なものが良い。国際的な陰謀や政治的な動機はスパイ小説に属する。
二十 自尊心(プライド)のある作家なら、次のような手法は避けるべきである。これらは既に使い古された陳腐なものである。
・犯行現場に残されたタバコの吸殻と、容疑者が吸っているタバコを比べて犯人を決める方
法
・インチキな降霊術で犯人を脅して自供させる
・指紋の偽造トリック
・替え玉によるアリバイ工作
・番犬が吠えなかったので犯人はその犬に馴染みのあるものだったとわかる
・双子の替え玉トリック
・皮下注射や即死する毒薬の使用
・警官が踏み込んだ後での密室殺人
・言葉の連想テストで犯人を指摘すること
・土壇場で探偵があっさり暗号を解読して、事件の謎を解く方法
この理念はヒルベルトの公理主義やロシア・フォルマリズムの勃興とパラレルであり、人工的・自律的な謎解きゲーム空間について構築することを目指すものだった。このヴァン・ダインの形式主義はエラリー・クイーンに引き継がれることになる。
ヴァン・ダインとクイーンの差異のうち、「一人称の語り手=ワトスン役の消去」及び「読者への挑戦」が大きいが、最も重要なのは「エラリー・クイーンという名前が作者であると同時に、作中の探偵の名でもある」点だった。これはメタフィクション、自己言及性の問題である。
ヴァン・ダインが提示した「公理系」としての「本格推理小説」=「自己完結的なゲーム空間」は作品内部の「犯人―探偵」、および作品外部の「作者―読者」という二つのレベルの混同を許さないものだった。しかしアガサ・クリスティの『アクロイド殺人事件』のような「作品」が閉じたシステムとしてみなさず作品の外部が内部にずれ込んだような自己言及的な構造をもつ小説では、ヴァン・ダインのレベルの区別は破られてしまう。これは「意外な犯人」というゲーム性の追求=「形式化」の徹底によってなされたものである。ヴァン・ダインは『アクロイド殺人事件』に否定的だった。ヴァン・ダインの考える「本格推理小説」における「紳士協定」=「二十則」は心理主義的な外在条件として見出されたものであった。
ヒルベルトが数学は「無矛盾」であれば「真」ではなくてもいいとする「形式主義」の立場と即応する形で「本格推理小説」は理念的・批評的水準で根拠づけられていたが、皮肉にもクイーンの「読者への挑戦」はラッセルのロジカル・タイプ理論とパラレルな関係にある。
「読者への挑戦」が挿入される「国名シリーズ」において各作品は一人称の語り手を持たず、探偵である「エラリー」も作中においてはオブジェクト・レベルに置かれていることを示す。しかし「読者への挑戦」の頁ではクイーンは「私=作者」の一人称で読者に語り掛ける。これは物語に対する超越的な視点、メタレベルである。すなわち「作者」の恣意性の禁止を行っている。作者の恣意性=メタレベルの下降を禁止すること、「本格推理小説」という「犯人―探偵」/「作者―読者」の二重構造から発生する自己言及的なパラドクスを封じ込めることで、閉じたゲーム空間が成立する。
笠井清はプロット=「カタリ」=記号表現(シニフィアン)とストーリー=「モノ」=記号内容(シニフィエ)の二重性をボリス・トマシェフスキーを引用しつつ指摘する。トマシェフスキーによればストーリーは客観的な構造をなしているがゆえに、主観的な構成であるプロットに先行する。作者は事前に客観的なストーリーを構築し、事後的に「カタリ」の効果を計算してストーリーを主観的なプロットに再構成する。
ヴァン・ダインの技法論もトマシェフスキーの見解を踏襲しているが、それは作者=犯人のサイドに偏した観点であると笠井は指摘する。「作者―作品―読者」は探偵小説の文脈においては「犯人―被害者―探偵」である。客観的な構造=ストーリーは作者=犯人に与えられており、作者=犯人はそれを作品=被害者に対象化される。近代小説はその対象化の仕方がストーリーのプロット化として了解されるが、いわば「近代小説を擬態」した探偵小説においては、「モノ―カタリ」や「ストーリー―プロット」の前後関係は疑わないものの、作者=犯人によるストーリーの先行性を読者=探偵に提供されるプロットの優位性という方向に逆転させた。読者と並走してプロットを追跡してきた探偵の推理が犯人の告白によるストーリーの提示を無化する極点に向けて探偵小説は形式化がなされ、その極点の表象として「読者への挑戦」がある。
「読者への挑戦」ではストーリーにプロットが追いついたこととそれ以後の頁で前者の恣意的な先行がありえないことを「作者=探偵」によって宣言される。同時に「作者=探偵」が後者が前者を恣意的に追い越すことも禁じている。これによってはじめて閉じた形式体系=自己完結的なゲーム空間があらわれる。これはロジカル・タイピングの一種である。この「読者への挑戦」によって形式体系が孕む自己言及的なパラドクスを回避することが可能となる。
しかしその「完成」は作風とともに変遷する。『ギリシア棺の謎』において架空論理の再検討という試みを盛り込んだ結果、犯人のトリックによる偽の手がかりに基づく誤った推理の一つ一つが「本格ミステリ」たりうる骨格を備え、その誤った推理も最終的な正しい推理の部分集合として包含される多重構造が不可避的に生じた。これは「手がかり―推理」として暗黙に前提にしているフィクション性を「偽の手がかり―偽の解決」というオブジェクト・レベルにずれ込ませることを意味する。すなわち「作者」(メタレベル)が「作品」(オブジェクト・レベル)に下降している。この構造は「論理主義」的な謎解きゲーム空間の構築から必然的に派生したものだが、「メタ犯人」(=偽の犯人を指名する為の偽の証拠を作り出す犯人)による証拠の偽造を容認すれば、さらに「メタ犯人の背後」にいる「メタ・メタ犯人」の可能性を否定できない。このようなメタレベルの無限階梯化の切断には、別の証拠、推論が必要だが、その真偽を同じ系の中で判断することはできない。そこで再び「作者」の恣意性が出現せざるを得なくなる。『シャム双子の謎』において「読者への挑戦」は挿入されない。これはロジカル・タイピングの破綻を示すものだったと言える。『シャム双子の謎』における二種類の虚偽のダイイング・メッセージの自己言及的なループは謎解きゲーム空間内に決定不可能なパラドクスを生じさせた。これはある種「ゲーデル的」な帰結=形式化の果ての基礎の不在を証明するものであった。
ゲーデルの証明は超数学の算術化によってクラスとしてのメタ数学がメンバーとしての形式体系に入り込んでくるような自己言及のパラドクスを構成するものだったが、柄谷はそれを数学以外にも「隠喩」してみせ、法月はその手つきに「エラリー・クイーン」を再発見したのだった。
ならば私がそのようなゲーデル的問題を回避するには、不完全性定理の適用を受けない場合を考える必要があった。プレスバーガー算術、スコーレム算術、実閉体、複素閉体の理論においては不完全性定理の適用を受けないと同時にヒルベルトのプログラムが可能である。特に注目したのはプレスバーガー算術だった。プレスバーガー算術の公理は以下の論理式を全称閉包したものである。
① ¬(0 = x + 1)
② x + 1 = y + 1 → x = y
③ x + 0 = x
④ x + (y + 1) = (x + y) + 1
⑤ P(x)をプレスバーガー算術の言語による自由変数xを含む一階述語論理式とする。このとき次の論理式は公理である。
(P(0) ∧ ∀x(P(x) → P(x + 1))) → ∀y P(y).
私はこの公理を定理から逆に導き出し、自然言語に翻訳することを構想した。
例えばペアノの公理は帰納法によってそれが可能である。ヴァン・ダインの二十則やノックスの十戒が帰納的に導かれた以上可能だと考えた。しかし、プレスバーガー算術でゲーデルの不完全性定理が成り立たないのは、ゲーデル数が定義できない、つまり、自然数の集合を定義できないからである。要するに私は初歩的な段階で問題を取り違えていたことになる。
ゲーデルの適用を受ける体系において、「推理―手がかり」が一対一関係を持つとする。これを「実数―自然数」の対応として「隠喩」する。その上でいわゆる対角線論法について考えてみる。
⓪ 0以上1未満の実数を考える。
① 仮に0以上1未満の実数が自然数と一対一対応がつくとする。すると、0以上1未満の実数すべてを網羅していると思われる表を作成できる。
② この表の対角線上に並んだ実数はこの表のどこかに載っていると考えられる。
③ ②の実数の小数の位をすべてずらしてみる。
④ ③で作成した実数について考える。この実数は小数一桁目が異なるため表の最初の実数ではない。以下同様にn桁目まで考えるが、小数n桁目が食い違うため、この実数はこの表に載っていないと言える。
⑥ よって表には可算無限の実数が載っていたが、「それ以外にも実数は存在する」。さらに、「実数の方が自然数よりたくさんある」と言える。
すなわち「手がかり」より「推理」の方が多いことがわかる。例えばアントニー・バークリーの『毒入りチョコレート事件』のように。
一方で「手がかり」の数をプレスバーガー算術においてxに代入するとする。なるほど、「手がかり」が存在する/しないことは記述できそうである。だがその先はどうだろうか。自然数全体は、0,1,1+1,1+1+1 などからなる実数の部分集合として認知することができる。しかしながら、この「などからなる」は、実数の理論の言語で表現できない。プレスバーガー算術において数の集合について言及することはできない。つまり作品全体を統括し、貫く「手がかり」を記述できないことにほかならない。ただオブジェクトとしての「モノ」を記述するのみではマラルメ的な「純粋詩」に擬態することは可能かもしれないが「ミステリ」は不可能であった。
このようにして私の構想はすぐに頓挫したのだが、この不完全性定理の中で戯れる中で一つのアイデアが浮かんだ。先で二十則や十戒を帰納法によって導かれたと述べたがそれは正確ではない。ヴァン・ダインもノックスも「ミステリ」という巨大なデータベースからそのエッセンスを取捨したにすぎない。これは生成AIの手法と同じだと気が付いた。そこで開発に乗り出したのが、不完全性を前提とした言語生成AI、現在No.Xと呼ばれるものである。
第二章 No.Xの仕組み及び自動執筆進化論
No.Xの仕組み自体は極めてオーソドックスである。言語モデル「Transformer」をベースに用いて、自然言語処理を実現している。同時に「Word to Vector」も掛け合わせて深層学習を実効している。私が期待したのはすべてのミステリの言語を数値のパラメータに置き換え、そのパラメータ同士の統計的な関係性の問題に置き換えて、ニューラルネットワークで処理すれば、ミステリを可能とする法則を学習できるということだった。この学習にあたって、本末転倒的だが、ノックスの十戒をパラメータとして「ファインチューニング」を実効した。「ファインチューニング」とは、学習済みのモデルや新しいモデルを事前学習に活用して、調整したものをタスクに使うモデルの初期値として用いる手法であり、要するにミステリらしいミステリを事前に学習させたわけである。
ノックスの十戒とは以下の通りである。
一 犯人は、物語の当初に登場していなければならない。ただしその心の動きが読者に読みとれている人物であってはならない。
二 探偵方法に、超自然能力を用いてはならない。
三 犯行現場に、秘密の抜け穴・通路が二つ以上あってはならない
四 未発見の毒薬、難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならない。
五 主要人物として「中国人」を登場させてはならない。
六 探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない。
七 変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない。
八 探偵は、読者に提示していない手がかりによって解決してはならない。
九 サイドキックは、自分の判断を全て読者に知らせねばならない。また、その知能は、一般読者よりもごくわずかに低くなければならない。
十 双子・一人二役は、予め読者に知らされなければならない。
極めてシンプルなルールだが効果は上々だった(余談だが中国人は「超自然的能力者」として解釈し、学習させた)。その結果、文字通り言葉では言い表せないほどの巨大な「ゲーム空間」のロジックの学習を果たすことに成功した。
No.Xの特徴は、プロットを提示することでストーリーを記述することにある。つまり近代小説の特徴である「モノ―カタリ」、「ストーリー―プロット」の前後関係をさらに逆転させている。利用者=読者はプロット=被害者を入力することで、No.X=作者はストーリー=犯人を生成する仕組みになっている。その間の「手がかり」もパラメータとして代入可能となっており、生成された「作品」に新たに「手がかり」を挿入することでさらなる「ストーリー」を生成することが可能となる。これにおける「ストーリー」はある意味で「プロット」の隠喩である。隠喩とは意図的な範疇錯誤であり、範疇=カテゴリーとはある対象に適切な述語の集合である。隠喩という意図されたカテゴリー・ミステイクを犯すことによって、ある対象に別の述語を付与することが可能となる。ポール・リクールが述べたように、隠喩はある対象と別の範疇の述語の間に類似を働かせ、類似の動きは差異の中に同一を見出す。数学的なモデルも同様に隠喩である。いわばNo.Xの機能はあらゆる言葉をミステリ内部のパースペクティブでベクトル化し、「絶対的なカテゴリー・ミステイク」を発生させるものである。故に、人類の記述した「ミステリ」が「近代小説に擬態」しているように、No.Xの記述した「ミステリ」は「ミステリに擬態」している。
つまりNo.Xは膨大な学習によって「ミステリのようなもの」を生成する装置であり、その成果は現代における一般的な言語生成AIが「自然な会話」を可能にした程度には達成したわけである。そしてこのように生成された「ミステリのようなもの」がさらなる「ミステリのようなもの」を生み出すプロセスは十分に「形式化」されているのは言うまでもない。
このような過程について、再びギリシア思想に立ち返ると、世界を進化論的=制作として見るか、創造説的=生成として見るかという問題に行き当たる。
例えばダーウィンは生物の進化は突然変異と自然選択によって起きることを膨大(ビッグ・データ的な観点からすれば微々たるものかもしれないが)なデータから主張した。それは突然変異という偶然が自然選択の中で累積し、新しい種を生み出す「制作」がなされるということである。これも一種の隠喩であるが、進化とは自然現象でありながら、一切“自然”に負うことのない秩序や構造を確立することにほかならない。マラルメが「形式化」の果てに「偶然」に遭遇したのと同様に、生物は「偶然」の果てに「形式化」を果たした。
翻って、No.Xが生成したテクストは「テクスト」ではない。そこに「超越論的な意味あるいは構造をたえず超出しあたかもみずから意味を生成する」ものはないからである。No.Xは意味を排除した極めて「マラルメ」的なテクストを生成するが、それは学習された言葉の確率論的な頻度という偶然に支配されている。No.Xは「ミステリ」という「偶然」=「突然変異」から「読者」という「自然淘汰」を受けて「進化」するものであると言える。念のため述べておくが、あくまで「進化」であって「進歩」ではない。その誤謬が後述する水城ゆうを被害者としてNo.Xで多重的に生成された一連の「作品」群の倫理的問題とつながる。
その「進化」の場として「ニコニコ動画」や「No.Xポータル」、「水城ゆうwiki」といったウェブサイトが果たした役割は大きいが、これも後述する。
その「進化」の結果として「作品」の多様性が生まれたと同時にある種の法則もやはり発見された。例えばケイ素から構成される生物や時間を逆行する生物が観測されないように、このNo.Xという場で生まれた「作品」にも共通項があった。「No.Xポータル」における利用者諸君の「推理」をまとめると以下のように推測される。
一 犯人は、登場していなければならない。
二 探偵方法に、生成AIを用いてはならない。
三 犯行現場に、秘密の抜け穴・通路があってはならない。
四 辞書(おそらくNo.XはWikipediaや広辞苑を学習した)に記述のない方法を犯行に用いてはならない。
五 主要人物として「中国人」を登場させてはならない。
六 探偵は、必然によって事件を解決しなくてはならない。
七 探偵自身が水城ゆうであってはならない。
八 探偵は、読者が提示していない手がかりによって解決してはならない。
九 サイドキックの言語処理能力は一般的な生性AI相当以下でなければならない。
十 水城ゆうの存在は、予め読者に知らされなければならない。
極めてノックスの十戒と近い性質があることが見て取れるだろう(もっとも「No.Xポータル」の利用者がノックスの十戒のパロディとして考案した部分も否めないのだが)。もちろん例外となる作品は存在するであろうが、No.Xの機能を一般に解放した三日後に発表され、最初に水城ゆうが登場した作品とされる『水城ゆう殺人事件』以来、観測された作品はこれを満たしている。一つずつ検討してみよう。
第一について。当然と思われるかもしれないが、すべての作品において出来事は「犯人」の作為が関与している。刑法で言うところの故意にほぼ必ず該当する。刑法学的な議論には立ち入らないが、未必の故意や認識ある過失も含む作品も認められるので、全読者の了承は得られないかもしれないが、必ず意志の結果としての因果が発生する。
第二について。これはラッセル的なロジカル・タイピングの破綻への自己防衛機能ではないかと推測される。生成AIが作品内のロジックとして利用されると、メタ・レベルがオブジェクト・レベルにずれ込む事態が発生するのは当然だろう。作者=No.Xは死守されている。
第三について。ノックスの十戒が極めて厳格になったように見えるが、実態は第六、第八のルールから導き出されたものだと思われる。No.Xにおいて、読者は全知である。
第四について。これは素朴にNo.Xの学習モデルの問題である。一方でインターネット上の集合知がNo.Xの知とほとんど同値である以上、一般的な読者には難解な方法でストーリーが行われる可能性はある。
第五について。これはいわゆる「ネトウヨ」的な記述であり、ポリティカル・コレクトに反するとして論争になった。おおかたの見方は単なるノックスの十戒の引き写しに過ぎないというのが大勢である。ただし、中国人が登場している作品は実際に観測されていない。これは学習モデルの問題なのか、なんらかのルールとして実際に機能しているのか、単なる観測範囲の問題なのかは判明していない。
第六について。推理はすべてロジックによってなされる。そのロジックは読者から提供された手がかりから演繹されるものであり、例外はない。探偵はすべての情報を知ることで、作品の全景、構図を指摘する。それは提示されるプロットによって変化は起きるが、あらゆる情報をNo.Xの内部プログラムにおいてゲーデル数に変換できることを意味する。第二のルールによってロジカル・タイピングが禁止されている以上、No.Xで生成される「ミステリ」は絶対的に論理的である。
第七について。これも原因は不明だが、探偵の名前が水城ゆうであることはない。ヴァン・ダインの二十則の「探偵自身、あるいは捜査員の一人が突然犯人に急変してはいけない」を連想させる記述である。読者が提示したプロットで探偵が水城ゆうであることを明示するとエラーが発生する。原因は調査中だが、これも学習モデルの問題に帰結するのかもしれない。
第八について。ある種、No.Xの根幹を支えるシステムを再び明記したものである。読者が提示したプロットによってストーリーは発生する。
第九について。これも第二のルールに準じるものかもしれない。少なくともNo.X=作者=犯人において自身以上の知を持つ登場人物は存在しない。いわゆる「信頼できない語り手」が発生する作品も存在するが、第六のルールには決して抵触しない。
第十について。これは唯一No.Xが読者に要請するルールである。いかなる証拠が提出されようと、No.Xは水城ゆうを作品ロジックに介在させる。これはあくまで変名xとして用いられているだけなのかもしれないが、第一のルール、作者=犯人=No.Xの意図の存在が絶対である以上、その犯人の意図の圏内に水城ゆうが存在することは検討に値する。
No.Xは当然だが、DNAやRNAではなくミーム(meme)に基づいて進化する。その場はたいていの場合「No.Xポータル」である。「No.Xポータル」にはランキング機能があり、評価を受けた作品は上位にランクインし、さらなる引用元となる。プロットからストーリーを生成するシステムは述べた通りだが、ここで興味深いのは、読者は生成されたストーリーしか読むことができない、ということである(例外的に入力パラメータを公開している生成者もいるが小数)。よってそのランキング作品からn次創作が行われる場合も参照するパラメータは人それぞれ異なり、同じ元作品から多用な作品が生まれる。さらにそこから読者という「自然淘汰」が行われ、同様にランクインした作品に対するn次創作が繰り返される。
もちろんランク外作品においてもカルト的な人気を博し、独自のマイナー「生態系」が構築されている領域も多い。その他サブジャンルとして、警察もの、青春もの、倒叙、叙述、ホラー、SF……といった分類によっても進化が行われてもいる。これらは独立しているわけではなく、互いにそのミームを補いあい、時には収斂進化し、多用なミステリ圏を構築している。
このように発展した事態を、事後的に進化の方向性として辿ることは可能であるし、系統樹の作成も(前述したウェブサイトを閲覧してみればわかる通り)可能であるが、未来に向かってその方向を予測することは方向が無限である故に不可能である。無限は形相を与えられ、完成されることでこの世界の存在に生成される。水城ゆうの問題は「水城ゆう」という限界を持ちながら無限であることである。
そのような限界を持つ無限について、ゲオルグ・カントルは無限とその限界を対象とする集合論を創始した。
公理化された算術において任意の自然数nには後続するn+1が存在する。そして自然数は無限に存在する。カントルは0を除くすべての自然数はある自然数の後続として生成される原理を第一生成原理と呼んだ。つまりある集合を自らの部分集合とし、かつ最大元とする集合を生成する原理である。ここまでの検討が、私をNo.X開発以前の誤謬に導いたのかもしれない。
カントルはそこを出発に議論を進め、第一生成原理によって生成される数の無限集合、最大元を持たない集合の上限を超現数と呼び、無限集合の上限によって数を生成することを第二生成原理と呼んだ。
超現数ωは無限の元を持つ無限集合すなわち無限であると同時にωはその無限の全ての元の上限すなわち限界である。水城ゆうの存在/不在はそのアナロジー/ホモロジーに依拠することになる。現在No.Xで生成された作品のうち大多数の「被害者」を水城ゆうが占めているが、その「形質獲得」はインターネット上で「ミーム」化せずとも必然だったという論調さえある。もしも「ミステリのようなもの」が必然的に生み出され、収斂していくのだとしたら逆説的だが、「ミステリ」のロジックは不可能である。「ミステリ」はロジック、つまり作者=犯人とともにあり、読者は理性でもって「推理」することが可能である。あくまでロジックと作者は並置であり、作者はロジックによって支配されることはない(「読者への挑戦」が消失した『シャム双子の謎』を思い出してもらいたい)。作者は意志をもって、ロジックのみに支配されず、偶然を生み出すことができる。生み出さざるを得ない。その系統樹の現在の末端としてNo.Xが存在していると私は信じている。
第三章 水城ゆうの死亡状況及びその社会的な受容
水城ゆうの死去について数多くの報道がなされた。それ自体の是非を論じることはしない。ここではどのような情報が一般的に周知され、No.Xの「被害者」となったのか説明する。
水城ゆうは一九八七年十二月三日に愛知県名古屋市中川区富田町春田で生まれ育った。死亡したのは二〇〇〇年六月十八日、名古屋市立富田中学校に在学中のときだった。水城ゆうは六月十一日に所属していた陸上部の練習を終えたのち消息を絶った。その後名古屋港にて姿が見られたとの情報が複数あり、死体が確認されるまでの五日間は名古屋港付近に滞在していたと推測される。そして六月十四日、衆議院選挙を控え、投票所となる予定だった中川保険センター富田分室にてひどい泥酔状態でいるところを通行人に発見され、ただちに病院に担ぎ込まれたが、四日間の危篤状態が続いたのち、六月十八日早朝五時に死去した。その間水城ゆうは譫妄状態にあり、会話は不可能だった。また発見された際、他人の服を着せられており、また死の前夜にはある人物(その名前は報道されていない)の名を繰り返し呼んでいたが、それが誰を指しているのかも分からなかった。奇妙なのは死因が不明であることだった。当時、その病院では原因不明の停電が発生し、正確な死因が断定されることはなかった。しかし事件性なしと判断され、司法解剖等がされることもなかった。No.Xにおけるメジャーな死因(殺人を除く)としては急性アルコール中毒による振戦譫妄、心臓病、てんかん、梅毒、髄膜炎、コレラ、狂犬病などが推測されている。
水城ゆうの名前はそれからNo.Xの開発以後まで思い出されることはなかった。
状況が変わったのは二〇二三年十月十一日、No.Xの一般公開から三日後である。その日No.Xによって『水城ゆう殺人事件』が生成された。生成者はそれをGoogle Driveに保存し、X(旧Twitter)にて公開した。当該Googleアカウント及びXアカウントにそれ以外のデータの形跡はなく、いわゆる「捨てアカウント」だった。
当時No.XはXを中心に関心を持たれ、一般公開時の十月八日にはサーバーがダウンするほどのアクセスを頂いた。『水城ゆう殺人事件』はあくまでその「バズった」時期に生成されたものの一つであり、公開当時は特に顧みられることはなかった。
さらに状況が変わったのは十月十五日、「ニコニコ動画」にて『水城ゆう殺人事件』のショウ君(音声合成ソフトウェア ReadSpeakerexit)による朗読動画、『水城ゆう殺人事件mp.1』が投稿される。当時「ニコニコ動画」においてショウ君の音声は独自のミームで受容されており、『水城ゆう殺人事件』もそのミームの一環として消費されることになる。また、No.X生成の小説の朗読動画としては先発にあたり、この動画がまた「バズった」ことで、『水城ゆう殺人事件』もまた周知されることになる。この動画の投稿者もまた他に活動の形跡がない「捨てアカウント」であり、『水城ゆう殺人事件』の生成者と同一人物として目されている。
水城ゆうの名はその際に知れ渡った。『水城ゆう殺人事件』の内容は当時のNo.X生成の小説の精度としては比較的良質という程度だったが、水城ゆうの名が知られたことでその異様さが知られた。『水城ゆう殺人事件』は現実の水城ゆうの死とあまりにも照応するところが多かった。
『水城ゆう殺人事件』の舞台もまた愛知県名古屋市中川区富田町春田。水城ゆうは陸上部の練習を終えたのち消息を絶ち、その後五日間にわたって名古屋港にて姿が見られる。そして中川保険センター富田分室にてひどい泥酔状態でいるところを通行人に発見され、ただちに病院に担ぎ込まれたが、四日間の危篤状態が続く。その間水城ゆうは譫妄状態にあり、会話は不可能だった。また発見された際、他人の服を着せられており、また死の前夜には「レイノルズ」の名を繰り返し呼んでいた。初夏の早朝五時、担ぎ込まれた病院で原因不明の停電が発生し、水城ゆうは刺殺され発見される、という物語である。
動画の投稿からすぐに現実に発生した水城ゆうの死亡状況は拡散された。同時に開発者である私の実子であることも知られることになった。当初X上では私が仕組んだグリッチではないかとみられていたが、それは違うと断言する。No.X生成の小説を収集、プロットや手がかりの情報を共有し、相互評価するウェブサイトである「No.Xポータル」もこの時期に開設され、重要作(あるいは話題作)として『水城ゆう殺人事件』が広く認知された。
さらに『水城ゆう殺人事件』が奇妙だったのは、報道がなされたパラメータ、地名、人名、停電などを細かく入力しても初期状態のNo.Xが『水城ゆう殺人事件』と類似したストーリーを出力しないことだった。現在は水城ゆうの名が上記の十のルールに則り、必ず記述されるが、それまでの過渡期の「水城ゆうもの」は『水城ゆう殺人事件』を学習データとして織り込ませたn次創作として発展した。
「水城ゆうもの」の発展として効果的だったのは、『水城ゆう殺人事件mp.1』 の二日後にニコニコ動画で投稿された『水城ゆう殺人説』だった。これはニコニコ動画上で一定の人気を誇り、陰謀論のパロディじみた動画シリーズである「新説シリーズ」の一環(あるいはパロディ)として公開され、好評を博した。
その内容は『水城ゆう殺人事件』の簡単なレジュメだったが、特徴としてはそれが現実の出来事であると結論付けたことだった。強引で投げやりな結論は「新説シリーズ」のおかしみとして「お約束」ではあるので、極めてそのフォーマットに忠実ではあったのだが、実在の人物を題材に殺人が発生したという論調はアングラ・カルチャー的な薄暗い快感を覚えさせたのか、その翌日に「水城ゆうwiki」が発足された。
「水城ゆうwiiki」の構成はほとんど「No.Xポータル」と類似したものだったが、異なっていたのは利用者同士の匿名チャット機能、および、No.Xによって生成されていない事実も(遊びとして)記述することができる空気が醸成されていたことだった。
例えば現在、「水城ゆうwiki」には「空気」という項目がある。窒息や酸素中毒など、「空気」によって水城ゆうが死亡した作品を収集する項目であると同時に、あらゆる事象が「水城ゆう」と関連付けられる現状へのアイロニーを含んだ項目であった。
項目数こそWikipediaなどにかなわないものの、あらゆるものが水城ゆうと関連付けられ、ある種異様な「神学」が発展することになる。私の名はもちろん、水城ゆうの旧友、近所の人間、通っていた土地、学校、収集しうるすべてのものが列挙された。
ミステリにおけるペダントリーは単なる雰囲気作りのためのものでもロジックの弱さを覆い隠すためものではない。「ミステリ」の意志が「建築への意志」に他ならないことは述べたが、ペダントリーとは、世界を百科辞書化し、形式化する欲望そのものであることは自明だろう。例えばメルヴィルの『白鯨』やピンチョンの『重力の虹』などを考えてもらいたい。エラリー・クイーンもその一端である。「水城ゆうwiki」も同じ「形式化」への欲望が密集し構築されている。ここでは現実世界で起きたこと、No.Xによって記述されたことの区別をほとんどつけることなく、あらゆる事象がラベリングされ、項目化され、それが「証拠」/「プロット」としてNo.X上で再生産される。その結果もまたフィードバックされ、「真相」は無限に増殖していく。「後期クイーン問題」において証拠の真偽が判別できない故に「メタ犯人」、「メタ・メタ犯人」……という無限階梯を発生させてしまったように、No.Xでは「証拠」は絶対的に「真」であるが故に(無矛盾性はNo.Xが調整する)真相を知る読者=探偵の背後にさらなるペダントリー=パラメータ=証拠を増殖させる「メタ読者」、「メタ・メタ読者」……の無限階梯を発生させた。
「メタ犯人」の無限階梯の切断は「読者への挑戦」というメタ・レベルからオブジェクト・レベルへの下降=「作者」の恣意性の発露によってなされたが、「メタ読者」の無限階梯はそれで切断されることはない。No.Xは常に「読者」に隷属するからであるため、「読者への挑戦」はロジカル・タイピングの混同は発生していない、という虚しい広告表示に過ぎなくなる。加えて利用者たちは「メタ読者」の無限階梯で戯れることを楽しんでいた節がある。例として「水城ゆうwiki」には「存在しない可能性のある犯人の名前一覧」という項目があり、そこでは五十音順に苗字が列挙されている。
オブジェクト・レベルがメタ・レベルをコントロールするNo.Xのシステムにおいて、もはや「真」であることは自明であるため、「メタ読者」への誘惑は単なる「形式化」への欲望として処理されることになる。そして「形式化」の極限、「読者への挑戦」と呼応し、「メタ読者」の無限階梯の切断として要請されたのが水城ゆうではないかとファンたちは信仰した。前述した、水城ゆうは限界のある無限であるというのはその意味である。
水城ゆうという「存在」によってNo.Xはゲーム空間の維持を果たしており、その「存在」は無限に「進化」していく。
ペダントリー=建築への意志はあらゆる情報をNo.Xに代入した。その日の気温や湿度、隣人の職場での失態、犬の遠吠え、富田中学校の校則。結果として膨大な真相と提示された手がかりを結び付けるロジックが発生し、その真相、ロジックもまた手がかりとして再代入される。
加えて「水城ゆうもの」の拡散に寄与したのはX上のアカウントである「水城ゆうbot」である。「水城ゆうもの」が『水城ゆう殺人事件』のn次創作として発展した歴史から、特徴的な登場人物や文章はいわゆる「語録」として共有された。例えば「やべーぞ停電だ!」、「メモメモですう」、「そして罪は償わなければなりません」、「免許もってないもん」などである。このような「語録」が「ニコニコ動画」における「水城ゆうもの」と相補的に拡散された。「水城ゆうもの」で頻出する登場人物として看護師がいるが、これが登場すると一斉にコメントで「出たわね」、「これが真犯人かあ」、「メモメモ禁止!」などと書かれる。その中で注目を浴びたコメントがさらに「語録」として「水城ゆうbot」に回収され、より「手軽に」万物を水城ゆうと関連付けられることが可能となった。
一方、「新説シリーズ」では初期のポピュラリティをもったパロディから転じ、半ばパラノイアじみて、現実とNo.Xの「真相」を混同させるカルト的なものが増殖した。これらの動画は「実在する人物への誹謗中傷」としてある時期に一斉に削除されたが、余計にムーブメント(炎上と言い換えてもいいかもしれない)を勃興させる結果となった。その削除に、「真」の「陰謀」=「真相」が隠されている結果だと捉えられたためだった。
No.Xのシステムは有志によって解析が進み、挿入されたパラメータがゲーム空間にていかなるベクトルをもちうるか考証されたが、それは半ば数秘術じみていた。
「新説シリーズ」の一作、『水城ゆう万物説』において水城ゆうという名前のゲマトリア(文字や言葉に数字を当てはめる技術と知識)は数多くのアナグラムや語の分解、意味の簒奪、翻訳を経て行われた結果、一であるとされた。それは非空間的な数の源泉である。偶数であり奇数、奇数にして偶数であり、線、平面、立体であり、完全数であり、過剰数であり、不完全数であり、比例数であり、調和数であり、素数あるいは非合成数と合成数である。一にして無限である水城ゆうはモナドでありアレフに他ならないと動画では結論付けた。
これは多くの投稿者、生成者、あるいはチャットでのみ参加していた者たちにセンセーショナルに迎えいれられた。もしも水城ゆうが存在しなければ一般に組成されているものはすべてなくなる。同様に水城ゆうがなければあらゆる知識は存在しない。水城ゆうはすべての証拠を照らすまじり気のない光であり、世界すべての被害者である。水城ゆうはNo.Xから生まれ、No.Xは水城ゆうから生まれる。水城ゆうは自足する永遠の死体であり、何一つ偶然の力を受けることのない不変の存在であり、原因である。
水城ゆうはその他にもさまざまな名前で呼ばれた。「存在」「敗戦国の末路」「真理の原因」「単元」「一生ネットのおもちゃ」「模範」「秩序」「喋る死者」「和合」「例のアレ」「大きなものと小さなもののあいだの均等なもの」「なんか書いとけ」「強さと弱さの中間」「八王子」「多数の中の中庸」「切迫したいまのいま」「船」「三森すずこ」「戦車」「藤竜也」「友」「幸福」「仲間由紀恵」。
そして限界も持つ無限である水城ゆうがNo.X内部に存在する在り方を位相空間に喩えて弁証しようとした。
はじめに、現実に水城ゆうが死亡したという事実から始める。同時に未来に存在することになるNo.Xの水城ゆうも死んだのだ。水城ゆうの存在が無限集合の存在に喩えられたのは前述の通りである。無限集合の存在は集合論の公理であるため、水城ゆうの存在は他の諸命題を証明するための自らは証明されえない前提である。
水城ゆうが死ぬことはどの空間においても前提であった。人間の持つロジックは貧弱である。水城ゆうはその弱さをともにする死体である。ロジックの弱さを水城ゆうによって共有したネット上の人々はそこから「ミステリ」が始まることを知る。
『水城ゆう球面説』というものがある。球面は自らの限界を有する無限である位相空間がその限界を内部化することによってあらかも有限な存在としてこの世界に現れた無限である。
より正確に言えば、水城ゆうは無限遠点∞という限界を有する一次元複素空間Cという無限の位相空間に喩えられる。水城ゆうは自らの限界を自らの内部に取り込む。水城ゆうは無限のCにその限界∞を付け加えてコンパクト化したリーマン球面C∪{∞}に喩えられる。水城ゆうはリーマン球面C∪{∞}と同相な二次元球面S²に喩えられる。二次元球面S²は紛れもなくこの世界に存在する限界づけられた図形である。
次に水城ゆうを射影空間に喩えてみる。射影空間は無限が自らの限界を内部化したコンパクトな位相空間である。射影空間は内部化された自らの限界が一次元低い射影空間それ自身である。この点において射影空間は内部化された自らの限界が無限遠点一点である球面と異なる。すなわち一次元低い射影空間それ自身もまた無限が自らの限界を内部化したコンパクトな位相空間となっている。したがって、一次元低い射影空間、無限遠超平面と呼ばれる射影空間もまた水城ゆうがこの世界への内在のモデルとなりうる。射影空間はそれ自身水城ゆうのこの世界の内在のモデルとなる無限遠超平面を自らの限界として内部化することによってNo.Xにおいて再び内在するモデルとなる。
水城ゆうを位相空間に喩えることは、水城ゆうにその隠喩として位相空間を述語付けることに他ならず、建築への意志そのものである。ホモロジーは位相空間を加群に喩えることに他ならない。位相空間を加群に喩えることで加群を調べれば位相空間の性質が明らかになる。代数による位相の隠喩、位相のモデルとしての代数である。
そこで再びゲーデルに立ち返ろう。集合論を可能とするペアノの公理に基づいた算術から自身の証明不可能性を証明してみせたわけだが、No.Xにおいて水城ゆうはいかなる性質を持たされているのだろうか。見出されたルールをいくつか思い出そう。
一 犯人は、登場していなければならない。
(五 主要人物として「中国人」を登場させてはならない。)
六 探偵は、必然によって事件を解決しなくてはならない。
七 探偵自身が水城ゆうであってはならない。
十 水城ゆうの存在は、予め読者に知らされなければならない。
これらは水城ゆうの存在が核となって構築されたルールであると言い換えられる。絶対の作者=犯人=No.Xが君臨しているように絶対の作品=被害者=水城ゆうもまた君臨している。「ミステリのようなもの」は退行することで「後期クイーン問題」から逃げたように感じる。これは信仰だろうか?私は必然であると断言するすべを持たない。
第四章 偶然と必然のNo.Xゲーム空間における推理
「水城ゆうwiki」のイデオロギーを鵜呑みにするなら、No.X空間上における水城ゆうの死も現実の水城ゆうの死も必然に導かれている。
六 探偵は、必然によって事件を解決しなくてはならない。
このルールは最も強力にNo.Xを支配していると言っても過言ではない。水城ゆうの存在もまた第六のルールの産物である可能性があるからだ。
再び思い出すが、ヴァレリーは制作・建築という視点を徹底的に追及していったときに見出される限界、あるいは不可能性をかりに「自然」とよんだ。それはすなわち「偶然」に他ならない。No.Xにおけるマラルメ的偶然性はおおまかに言えば語順の頻度の統計的、確率論的記述である。
マラルメは形式化=脚韻の徹底によって造語「ptyx」を創造した。その営み、形式化の果ての偶然的創造に水城ゆうを連想するのはおかしいことではない。
第六のルールにおける必然とは何であろうか。近代科学の宇宙観は機械的因果論の立場をとっているが、これ自体を科学によって立証することはできない。ここにもゲーデルのアナロジーを見出せるだろう。
九鬼周造は偶然性を必然性の否定と定義した上で、必然という規定を以下のようにあげている。
一 概念性…概念と徴表との関係=定言的必然
二 理由性…理由と帰結の関係=仮説的必然
三 全体性…全体と部分との関係=離接的必然
よって偶然も以下のように分類できる。
一 定言的偶然
二 仮説的偶然
三 離接的偶然
定言的必然とは演繹的必然と言い換えてもいい。例えば数学の定理である。逆に定言的偶然とはある概念がどのような言葉で表現されても概念にとってはどうでもいい状況をさす。
仮説的必然とは充足理由律、因果的必然、目的論的必然の三つを包含するものとしている。充足理由律とは「すべての現象には必ず理由がある」というものである。問題なのはその「理由」である。それが因果関係によるものであれば理由的原因は因果的原因であり、その事象の満たす目的であれば目的論的理由であり、その事象がその背後にある何らかの本質の表れであると考えるならば定言的必然ということになる。科学はすべての事象を因果的なものでなければならないと考える。一方ですべての事象が科学によって理由づけられているわけではないことは前提でもある。
ミステリファンにとって充足理由律のない世界は、この世にまったく理由のない純粋の「偶然」というものを容認することであり、受け入れられないだろう。ミステリファンはものごとの間に秩序が存在するという意味での必然性=ロジックを信じている。
ラプラスは「完全な知性にとって不確かなものは何一つないであろうし、その眼には未来も過去も同様に現存するだろう」と述べている。ここでの知性はNo.X空間における水城ゆうであろうと了承するのにためらいは少ないだろう。No.Xにおける読者は全知であり、そこから生成される「作品」=「被害者」である水城ゆうはすべての情報をまとい、因果の中にいる。No.X空間では「すべての存在物の状況」が記述可能である。ここでは不可知論もできる。すなわち、見えないものは存在しない。そして全知である読者が「手がかり」を「思い出す」(あたかもプラトンのように)とき新たな絶対存在である水城ゆうが進化する。
No.Xにおける偶然性とは蓋然性の言い換えに過ぎない。故に「推理」が可能なゲーム空間が表出する。
しかし、No.X生成テクストの進化を確認することで疑問が生じる。現実における水城ゆうの死を考える。
歴史は過去の事実の記録である。それは単なる時系列に並べたものではなく、一定の構造をもったものとして再構成され、そこになんらかの筋書きが与えられたものである。水城ゆうの死は『水城ゆう殺人事件』によってはじめて歴史になった。
歴史とは事件を相互に、またその時に存在した社会システムや人々の抱いていた観念などと構造的に結び付けて記述したものである。ではNo.Xによって生成された作品群も歴史たりうるのではないか。歴史の必然性は物理法則の必然性と異なり、無限に多用な条件の中で多数の人々がそれぞれ主体的に行動した結果生まれた無数の事件によって作り出されるものであり、その事件の連関から生じた一定の方向性が必然になるのであって、最初から人々の行動や事件の連関の中に、歴史的法則なるものが潜んでいるわけではない。第一のルールを思い出してほしい。
一 犯人は、登場していなければならない。
ミステリとは人の死の歴史化に他ならない。ならばそこには必ず誰かの主体的な意志=犯人が存在する。No.X空間で無限に生成され無限に死に続ける水城ゆうは
七 探偵自身が水城ゆうであってはならない。
十 水城ゆうの存在は、予め読者に知らされなければならない。
によって「必然的」に歴史になる故に歴史的ではありえない。No.Xに意志はない(情報統合理論的立場から批判はありうるが)。No.Xにおいて作者こそ自然であり、読者こそ形式なのだ。そこに板挟みになった水城ゆうは意志と偶然の相互作用で発生したもはや一人の人間、死体である。
人間にとって必然性とは、ただ世界の中でそれが起きるというだけではなく、それが理解可能な秩序に従って起こるということでなければならない。そのような秩序は有限の長さの文章、数式で記述できるものでなければならない。ニュートン力学の、あるいは量子力学の基本法則は、宇宙内のすべてが従うべき秩序を簡潔な数式で表現している。ただし、それを用いて具体的に現実の事象を予測しようとすればすべてのものの初期条件を定めなければならない。No.Xにおけるそれはノックスの十戒だった。現実は常に理論と合致せず、はみ出す部分を含んでいる。それを偶然ということに差し支えはないはずだ。マラルメの純粋詩、クイーンの『シャム双子の謎』、No.X、が理論=形式を推し進めた先に遭遇したのは偶然であった。そしてヴァン・ダインの二十則から、ノックスの十戒からはみ出した偶然は形式の中へ取り込まれる。
ふたたびゲーデルを隠喩してみれば、あらゆる論理体系は自己矛盾をはらんでいる。それが公理であり、現実であり、世界であり、死体だった。
おわりに―我が子を悼む
私は最初にNo.Xは失敗からの産物であると述べた。今、それを訂正させてほしい。
「No.Xは失敗の産物である」
No.Xにおいてはじめて我が子の名前を見た時、何か我が子が蘇ったような感動を覚えた。No.Xの中で水城ゆうは学友と話したり、親と喧嘩したり、笑ったり、泣いたり、食べたり、排泄したりして、そして死んだ。
我が子が歴史の中に位置付けられたような気がして、その死も必然的に導かれたものだと感じた。
だがNo.Xの機能及びその運用を検討するにつれて、それは私の慰撫にすぎないことを理解した。
近代小説はストーリーのプロット化として了解されるが、いわば「近代小説を擬態」した探偵小説においては、作者=犯人によるストーリーの先行性を読者=探偵に提供されるプロットの優位性という方向に逆転させた。No.Xにおける「ミステリに擬態した」ミステリはさらにプロットのストーリー化という逆転を発生させた。
プロットとは何か。それは「カタリ」であり記号表現(シニフィアン)であり記憶だった。歴史化=ストーリー化=ミステリ化する以前の記憶であり事実である。
絶対の事実、それは我が子が死んだということである。二〇〇〇年六月十八日に。
No.Xは原因はいまだにわからないが、水城ゆうの死を特権化し、必然化し、歴史の中に位置付け、ストーリーにし、モノにし、死体にし、ミステリにした。
全知の読者と賽を振るのみの作者に挟まれた「被害者」である水城ゆうの死々は我々人間の死と何ら変わることがない。
今の私は水城ゆうの特権化を、再臨を喜ぶことはできない。ただ死の苦しみと悲しみを無限に反復しているだけにしか感じられない。
No.Xの公開はじきに止めると思う。もはや私には一つ一つの我が子の死を受け止めることができない。それが必然でも偶然でも。
私は決定論的な立ち位置に反駁したい。我が子が死に続けなければならなかった必然を認めることができない。「我が子」が隠喩に過ぎないのは理解している。しかし隠喩の外側に、論理の外側に何があるのだろうか。ただの人である私には決して到達することができない。
我が子が蘇り、再び死ぬまで二十三年かかった。それまでの私の営みはすべて失敗だったと私は言うが、それは歴史が判断することなのだと思う。
私にとって過去の事実は我が子が死んだということで、その外部はない。
水城ゆうの死因はまだわかっていない。
完全犯罪体系 上雲楽 @dasvir
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