蜜は滴りて

おくとりょう

彼と僕の部屋

 ブンッと風を切る音。

 勢いよく振り下ろされた包丁は、彼の左前腕を綺麗に切り落とす。斜めに切られた白い腕。彼が自分で切った彼自身の腕。


「おっとっと」

 まるでお猪口のお酒を飲むみたいに、彼は切り口をすする。あふれる赤い血。彼がキュッとあおると、とくとくとくと軽い音を立てて流れ込む。波打つように上下する喉仏。口からしたたる赤い血が緩やかな線を描く――。


「痛くないの?」

 つい僕の口から漏れた、もう何度目になるか分からない言葉。彼はいつもと変わらない様子で笑い声を返す。

「痛いで」

 低くよく透った声。それが部屋に響くと、なんだか暖かい土管の中にいるような気がして、いつも心が落ち着いた。

「普通に痛い。まぁ、また生えてくるだけで痛覚が無くなったわけじゃないしな」


 彼の身体はたまに取れる。ストレスを感じたときに取れるらしい。初めて見たときはびっくりした。ただ、取れてもそこから血は出ない。ポロッと取れる。植物の葉や花が散るように。


 ――それなのに。

 視界の端の彼の腕。切り落とされ、虚しく転がる左腕。まだ、その切り口は濡れていて、シーツに赤い水たまりをつくる。

 ゆるく開いた指先は虚空を指して動かない。せっかく、昨日爪を切ってあげたのに。


 彼はたまにこうして、自分の腕を切る。別に切らなくても、いいはずなのに。傷からあふれる血をすする。そのためだけに包丁まで買って。


「どうしたん?」

 ふと僕のことを覗き込む彼。口元が赤く汚れて、元々色白な肌がより透き通って見えた。自然と彼へと手が伸びて、汚れた頬を拭っていた。

「いたいいたい。急にどうしたん?」

 ネコみたいに身をよじらせる彼。言いたい気持ちがまとまらなくて、彼をぐっと引き寄せ、黙らせる。いつも穏やかな黒い瞳が戸惑うように小さく揺れた。

 口の中が彼で満ちて、彼で濡れる。でも、味も香りもわからなくて、僕はギュッと目を閉じた。


 ――彼の左手と包丁が床に落ちた気がした。彼の血で壁紙も汚れてしまったかもしれない。あとで、ちゃんと掃除しなくちゃ。

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蜜は滴りて おくとりょう @n8osoeuta

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