逃避行

下東 良雄

北へ

 上野駅。北へ向かう旅人たちの玄関口だ。

 帰宅ラッシュで混雑するプラットホームから階段を降り、人波に流されていく。中央改札へ向かうひと、常磐線のホームへ向かうひと。そんな大きなひとの流れから逃れ、僕の足はいつもの13番ホームへと向かう。先程までの喧騒から離れ、妙な緊張感が支配しているプラットホーム。電光掲示板には『札幌』の文字。僕の視界のいっぱいまで、白いラインをまとった青い車体が連なっていた。


 僕は、夜行列車「北斗星」で北の地を目指す。

 時折こうしてひとり旅に出るのが、僕のストレス解消法だ。

 北海道へ行くなら飛行機で行けばいいのにと、同僚たちは皆言うけれど、北海道までの距離を楽しむのも旅のひとつだと僕は思っている。

 誰にも邪魔されず、僕だけの時間を贅沢に過ごしたい。


 車内に入ると独特の匂いが出迎えてくれる。いつもと変わらぬ匂いにホッとした。そして、独房を連想させる狭い個室に入り、カバンを下ろす。とても狭い部屋だけど、札幌までは僕が独占している空間だ。ふぅ、と笑顔でため息ひとつ。

 やがて、列車は電気機関車に引かれ、ゆっくりと上野駅から滑り出していく。車窓の景色はまるで廻り舞台のように次々と移り変わり、きらびやかなビル群をバックに、通過駅のホームで電車を待つひとの列や、ラッシュで混雑している電車に乗っているひとたちを眺めては、優越感に浸っていた。


 そうこうしている間に夕食の時間だ。列車の中でのフルコース。僕の楽しみのひとつ。足を取られる列車の揺れにもどかしさを感じながら、食堂車へと向かった。

 列車の中とは思えない豪華な装飾に否が応でも期待が高まる。テーブルに案内されて、車窓を楽しみながら料理を待った。


「ご相席よろしいでしょうか?」


 給仕の方から声をかけられ、もちろん了承した。


「すみません、失礼いたします」


 驚いたのは、相席の相手が女性だったことだ。

 少しだけ茶色がかった髪色のウルフセミロング。

 大人な雰囲気をまとった美人系で、もうすぐ三十の僕より年上な感じがする。

 笑顔で会釈した女性に、僕も微笑み返した。


「ご旅行ですか?」


 料理を待つ間に、女性から話しかけられた。

 意外な展開に一瞬困惑しつつも、笑顔で受け答えた。


「はい、ようやく休みが取れたので、ひとり旅で北海道まで」

「札幌観光ですか?」

「あー……いえ、稚内わっかないまで出ようかと」

「日本最北の地ですね」

「はい、宗谷岬まで行こうかと思っています」

「素敵ですね!」


 次々に目の前に運ばれる料理の数々に舌鼓を打ちながら会話が続くが、女性は少し心配そうな表情を浮かべている。


「あの……私、黙ってますね……」

「あっ! いえ、おしゃべり、すごく楽しいです! ただ……」


 僕は正直に言った。


「あまり女性と食事をするような機会がないので、正直緊張しています……」


 多分僕の顔を真っ赤だ。もうすぐ三十路なのに情けない……。


「ふふふっ、実は私も勇気を振り絞って話しかけました。普段でしたらひとりで黙々と食べますが、なぜかアナタを見ていたら、すごく話しかけたくなったんです。だから、私も緊張しています」


 女性の優しい微笑みに安堵する僕。


「じゃあ、お互いにその緊張を少し和らげましょうか」


 僕は赤ワインを頼んで、女性と乾杯した。

 グラスを近づけるだけにするつもりだったが、揺れる食堂車で軽くグラス同士がぶつかり、チンッと澄み切った音が小さく響いた。


「私は苫小牧とまこまいで途中下車です」

「苫小牧ですか。次はフェリーで船旅ですか?」


 驚きの表情を浮かべる女性。


「よく分かりましたね!」

「吉田拓郎さんの歌で『落陽』ってありますよね。あれで歌われていたかと……」

「あぁ、そうですね。ただ、私は仙台行きではなく、仙台経由で名古屋まで行きます」

「長距離フェリーの旅も素敵ですね」

「ぜひ今度お試しあれ」


 楽しい時間は過ぎていくのも早い。

 列車に揺られていたせいか、お酒も良い具合に回り、お互いにほろ酔いのところでお開きとなった。

 その後、予約しておいたシャワールームで汗を流す。列車の中でシャワーとは不思議な感覚だが、酔っていたせいか列車の揺れで壁に身体をぶつけながらだったので、それどころではなかった。

 個室に戻って、少しだけうたた寝。先程まで僕をシャワールームで痛めつけた列車の揺れは、ここではゆりかごのようだ。


 ふと目が覚め、列車が停車していることに気付く。車窓を覗くとちょうど仙台駅だった。もうこんなところまで来たのかと、狭いベッドでもう一度横になって天井を眺める。やがて列車は出発し、カタンコトンと小気味良いリズムを刻み始めた。そんな列車の揺れに身体を任せながら、僕はこれまでのことを思い出していた。本当の自分のことを――



『ようやく休みが取れたので』


 嘘だ。


『ひとり旅で』


 嘘だ。


『時折こうしてひとり旅に出るのが、僕のストレス解消法だ』


 嘘だ。


『距離を楽しむのも旅のひとつ』


 全部、全部嘘だ。

 僕はずっとこんな風に自分を欺きながら生きてきた。


 仕事ができるわけでもない。趣味を持っているわけでもない。一緒に遊びに行くような友人もいないし、彼女もいない。このままきっと結婚もできない。おそらく一生ひとりぼっちだろう。


 僕はこの世に生を受け、何も成し得ていないのだ。


 何もない僕の人生。

 空っぽの人生。

 三十年近く生きてきて、僕には何も無い。

 僕はそんな自分の人生から逃げ出したいのだ。

 北海道に行きたいんじゃない。とにかく遠くに逃げたかった。

 飛行機を利用しないのは、逃げた実感が欲しかったから。

 これは旅なんかじゃない。ただ自分から逃げたいだけ。

 これは永遠に逃げ切ることのできない逃避行なのだ。


 疾走する列車の音と揺れに不安を感じ、時折通過する踏切のカンカンカンという警告音に恐怖する。ベッドの上で毛布を被り、身体を丸めた。もう吐きそうだ。

 僕はガバッと身体を起こし、個室の車窓に手をつき、かぶりつくように顔を寄せた。目の前を勢い良く流れていく夜の景色。暗闇の中をただひたすらに走り続ける夜行列車は、自分の人生そのものだった。


 ピーッという闇夜を切り裂く汽笛の音で、僕の感情が溢れ出る。


(止めてくれ! お願いだから止めてくれ!)


 声にならない叫びを上げた。

 白く曇る車窓と、涙で滲みながら流れる暗闇に沈んだ景色に心は破裂しそうだった。


(もういやだ! 誰か、誰か止めてくれ!)


 とめどなく流れる涙。

 地上の鉄路で輝く北斗星は、ただ無情に東北の地を北へと疾走していった。



 結局、あの後一睡もできず、僕はソファが置かれているロビーカーで車窓から流れる景色を眺めていた。流れるのをただ見ているだけ。あぁ、僕の人生そのものだ。


 空もうっすらと白み始めた頃だった。


「おはようございます」


 顔を向けると、昨夜の女性が微笑みを浮かべて立っていた。


「ロビーカー、珍しくガラガラ……どうされたんですか?」


 僕の顔を見て驚く女性。よっぽど僕は酷い顔をしていたのだろう。

 隣に座った女性に、僕はうなだれて何も答えられなかった。


 車窓がいきなり真っ暗になった。

 どうやら青函トンネルに入ったようだ。

 ゴーッとトンネルの反響音が車内に響き渡る中、女性はそっと僕の頭を胸に抱き寄せた。僕はなぜか驚きもなく、その状況を受け入れる。

 耳元でささやいた女性。


「……私もずっと逃げてる……」


 その言葉に身体がビクリと反応する。


「……騙されて、傷付けられて、何もかも嫌になって……現実から目をそらすために旅へ出て、目的地もなく、ただ移動を続けてる……」


 声を震わせる女性。きっと僕以上に苦しい思いを抱えてきたのだろう。抱き締めてほしいのは自分のはずなのに、こんな僕を抱き締めてくれている。


「……でもね、私分かったの……旅と同じように乗り換えができるって……人生に行き詰まった時、終着駅まで行かなくても、思い切ってその列車を降りて、別の目的地へ向かう列車に乗り換えることができるって……」


 瞳から涙が滲み出てくる。


「……それが逃げることであっても……他人が何と言おうと、私は逃げ続ける……いつか……いつか新しい未来に続く路線に出会えると信じて……」


 僕は彼女の胸から離れ、顔を上げた。

 女性は泣いていた。


「だから……逃げることを恐れないで」


 僕は女性と抱き締めあった。

 そこに劣情はなく、ただ人間同士がお互いのぬくもりを求めていた。

 そして――


 トンネルの反響音が消え、車内に静寂の空気が流れる。

 五十キロ以上におよぶ青函トンネルを抜けたのだ。


 その車窓には、一面の銀世界が広がっていた。


 北海道まで来たことを実感するその景色。

 どこまでも広がる純白の雪景色は、疲弊していた僕の心を清めてくれるようだった。


「ありがとう」

「私こそ、ありがとう。本当は、私も自分を見失いそうだったの。アナタがいてくれて良かった」


 僕と女性は肩を寄せ合い、その景色を微笑み合いながら見つめていた。



 函館駅を出発し、食堂車で女性と一緒に朝食をいただく。車窓に視界いっぱいに広がるのは噴火湾。美しい海に心惹かれるが、押し寄せる白波は、雪景色とともに北海道の自然の厳しさを感じさせた。


 やがて、女性と別れの時が来る。


「僕、今回旅に出て良かったです」

「こんな美人に会えたからよね?」

「はい、そうですね」

「何よ、その冷めた言い方は!」


 笑い合う僕たち。

 僕の個室でお別れまでの時を楽しく過ごした。

 もうすぐ苫小牧駅だ。


「あの……僕の名前はケンゴと言います」

「そういえば、自己紹介もしていなかったわね。私はショウコです」

「ショウコさん、この先もお気をつけて」

「ケンゴくん、アナタの旅に幸多からんことを」


 最後に強く強く抱き締め合い、連絡先を交換した。

 やがて列車が停まる。個室でお別れしたショウコさんは、キャリーバッグを転がしながら苫小牧駅に降り立った。

 車窓にショウコさんが映る。笑顔で手を振っている。

 列車がゆっくりと動き始めた。


『ケンゴくん! 元気でね!』


 ショウコさんがホームで追い掛けてきた。


『私、応援してるからね!』

「ショウコさん!」

『私も頑張るから!』

「僕も、僕も頑張るよ!」


 僕の言葉が届いたのだろうか。ショウコさんは最後に笑顔で大きく頷いてくれた。もうショウコさんは見えない。でも、あの笑顔は僕の胸に焼き付いている。

 ありがとう、ショウコさん。


 北斗星は、札幌までラストスパートをかけるように、銀世界の中を駆け抜けていった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 『日本最北端の地』


 札幌から列車とバスを乗り継いで、ようやく宗谷岬までやってきた。

 僕の目の前には、北極星の輝きをモチーフにしたモニュメント「日本最北端の地の碑」がある。

 その向こうは海だ。もうこれ以上は逃げられない。


 そう、逃げられないのだ。

 だから、ここへ来るまでずっと考えていた。

 逃げられないなら、未来に続く線路を自分で敷いてみようって。

 それは夢幻ゆめまぼろしに終わるかもしれない。

 でも、自分に嘘をつき続けた僕も、この想いには嘘をつけない。


 手が震える。寒いからじゃない。

 僕はこれまでの人生で一番の勇気を振り絞って「送信」をタップした。



『ケンゴ: 僕と一緒に旅へ出ませんか?』



 断られたっていい。送信できた自分を褒めてあげたい。

 清々しい気持ちで眼前に広がる宗谷海峡を眺めた。


 ポコン


 チャットのメッセージの着信音。

 ショウコさんからの返信だった。



『ショウコ: ぜひご一緒させてください』

『ショウコ: 今夜また連絡しますね』



 未来への新しい路線を見出だせた瞬間だった。


「やったー!」


 碑の前でひとり叫ぶ僕。

 何事かと旅のライダーたちが集まってきた。

 この後、僕のスマホを覗いた皆さんにものすごく祝福されることになり、何とも恥ずかしい思いをすることになるのであった。


 もうこれ以上逃げることのできない最北の地・宗谷岬。

 でも、僕の旅は終わらない。ショウコさんと未来への路線に乗り換えて、自ら線路を敷きながら旅を続けていく。それはもしかすると傷の舐め合いなのかもしれない。それでもショウコさんとふたりなら、また新しい路線を見出すことができるかもしれない。彼女の手を携えて、未来への旅を続けていくんだ。


 帰りのバスがやってきた。


(ショウコさんにも、この美しい空と海を見せてあげたいな)


 宗谷海峡を染める美しい夕暮れ空の下、僕を乗せた帰りのバスは稚内駅に向けて走り出した。



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