第2話
「だから、付き合うということの意味がわからないんだよ」
上司は、残業片手にそう吐いた。
吐いた、のだろうか。こぼした、と形容するのがふさわしい勢いではあったけれど、なんだか吐いたように聞こえた。
「なにより、付き合うということを承認する必要がどこにだってない。付き合っていなかったら、なんだって言うんだ。
一緒に出掛けることも、一緒にいることも、できるだろう。
なんだって、望ましい距離感で望ましくあるべきじゃないか。わざわざ、固定化する必要がない……というよりも意味がない。
仮にその、付き合うという契約を結んだとして、破ってどれだけのリスクを負う? 社会的信頼の失墜? ちゃんと振ればいい話で済みはしない? 本当に? いつまで有効な契約なんだろうね? いつでも終わりうるものを、真に信用などできはしないでしょう?
それに、固定化したい理由なんて、独占欲の暴走くらいしか結論付けられないよ。努力を怠って、関係性だけを惰性で維持しようとする心の働きを、私は知っている。」
上司が元夫との間に何があったのか、知らない。
不倫の話を持ち出したこともあったし、まあ、円満ではなかったのだろう。円満でいられる関係がこの世にどれほどあるかは知らないけれど、きっとそう多くもないのだろう。
それでも、その言葉にうなずけやしなかった。
「違いますよ、きっと。
そういうのは、私は貴方が好きですよ、貴方を遊びに誘いますし、貴方と一緒にいたいですよ、のアピールであって、契約にはなんらの意味がなくて当然なんです。おおよそ、言いたいだけですから。言っている本人が言って楽しい、ついでに相手も楽しいならなおのこと。
むしろ、これによって何かが生じると考える方が危険じゃあないですか。なにより、その細部の制約を決めていないのに、「付き合う」とかいう漠然とした規約で何かが発生してしまうのは、恐れるべきでしょう?」
「そうだな、そうだとも、契約を結ぶ際には必ず内容を確認するべきなんだが、実際のところどうだい? 利用規約みたいなものは、ちゃんと読んでいるかい、君」
「残念ながらあまり。読んだ方がいいことは確かなんですがね、読まなくてもある程度……つまるところ問題が発覚するまではスルー出来てしまうから」
「おんなじことだなあ。
問題が発覚するまでは「付き合う」という契約に内容が存在しないことにスルーできてしまっていたんだ。付き合う、どころか結婚でもあったが……
本当に、私の今まではなんだったんだろうな」
「結婚はまた少し違うでしょう、破る相手には、法的な措置があるのでは?」
よく知りはしないけれど、一応縛りと制裁と、といった形での取り決めはあると聞く。
「あるからといって、使う気力があるかというのはまた話が別なものさ。仮にも愛していた、愛すべきはずのやつだ、そこから何かを取る気も、ない。私に非があったからな」
「愛していたんです?」
「……あまりにずけずけ踏み込むなあ、君は。人間関係って、もう少し警戒心と隣り合わせに構築するものだろうに」
「失うものが特にないうちは攻めるが吉、との教育を受けてきたもので」
「一体どこのどいつがそんなことを」
「目の前の貴方みたいな人でしたよ」
ちょうど、夫とうまくいっていた時期だったとは言わなかった。
「そいつは教育者としては失格だな」
「さあ、それはこれから次第じゃあないですかね、その教えが功を奏して、素敵な家庭を築くかもしれませんし」
「ふうん? なんだか楽しそうじゃないかい」
「好きな人と話すのはたのしいですよ?」
「……おいおい、いい加減その冗談はよしたらどうだ」
「さっきからずっと言ってるじゃないですか、貴方が好きですよ、と」
「言っていたか?
それならそうと、私だって、この前からずっと言ってるじゃないか、私は、愛に値しない人間だと」
「貴方が貴方をどう思っていようと、私が貴方を想うことに変化があると?」
「変化ぐらいあれよ、私にちょっとは寄り添え」
「いやですよ、僕は今、貴方を好きな僕が好ましいとも思っているんですから」
「とんだ自己中だね」
「そのくらいが、ちょうどいいでしょう?」
「馬鹿言え、仕事片付けてとっとと帰れ」
上司はそれきり、ブラックコーヒーを飲んで黙り込んでしまった。
上司と部下 こむぎこ @komugikomugira
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