上司と部下

こむぎこ

第1話


「幸せな家庭というのは、背後に不倫を隠しているものだ」

 上司はパソコンをたたく手をとめてつぶやいた。

「……どうしたんです?」

 聞かなくてもいいのだけれど、聞かないとどうにもおさまりがわるい。聞かせるための声色だったのだから、聞き返すというのが必要な工程になるのだ。

「畢竟、そうでもなくてはうまくいかないのだろう、ということさ」

「また別れた方の話ですか?」

 目の前の女性は、ずいぶんと前に別れた恋人を引きずり続けている。

「定期的に思い返すようになっているのは脳のバグなのかもしれないな、いや、次はミスをすることのないように。という戒めなのかもしれんが」

「戒めでそれほどのダメージを負っていちゃやってられないじゃないですか」

 自分にも刺さる、と思いつつ、話には乗る。

「それはそうだな。痛すぎる……

恋愛、愛とはなあ……」

「恋愛って何でしょうね?」

「その答えだけは、ちゃあんと学んださ。

愛とは自己愛だとも。そうでなくて、どうしてマッチングアプリなんてものが生まれるんだ?」

「……人と出会うためでは?」

「そうだ。人と出会うために、だ。

どうして人と出会いたがる?」

「なんだか、いやな誘導尋問ですね」

「誘導尋問が心地よいはずもないさ」

「小学生の頃の設問は従っているだけで解法のほうから近づいてきたので嫌いじゃありませんでしたよ」

「私はあれが嫌いだったね、こう考えるべきだ、という筋の押しつけにも見えて仕方なかった。本来、世界はもっと広く広く、私たちは私たちの足で、各々の荒野を歩いていけるはずなんだよ」

「なら、いまやってることはどうなんです?」

「なに、簡単なことだよ」

 口紅が付いたコーヒーカップを置いて、上司は続ける。

「押し付けられるのは気持ち悪いが、押し付けるのは気分がいい。」

「最悪じゃないですか」

「何をいまさら。この世は最悪の組み合わせだよ、どの最悪を選ぶかだけだ」

「最も、の意味を知っています?」

「もちろん、英語の最上級と同様、もっともの中には複数が指定されてもかまわんのだろう?」

「ああ、そういわれるとそうですね」

「そうさ。

 それで、どうして人は人に出会いたがる?」

「人と話すことで得られる活力があるからでしょう。いま僕から搾り取っているように。」

「これはウィンウィンだろう、私は一時嫌な仕事から解放される、君はおしゃべりをして残業代が発生する」

 自虐的な笑みですらあったが、今はその笑みすら、人を惹きつけて仕方ないと思えた。

 決してプラスの方向ではないけれど、排水溝に水が集まっていくように、その自傷に、目線が集っていく。部下の喉から出たのは、少しつっかえた言葉だった。

「残業、したいだなんていいましたっけ」

「彼女へのプレゼントにお金がいるんじゃないかい、たしか誕生日、この時期だっただろう」

 上司はにやにやとしている。

 人の恋路に口を出すのは好きなのだ。本人は口を出されるのが嫌いなのに。これだって最悪なのだけれど

「……彼女なら別れましたよ」

「おやまあ、なら残業を妨げる理由もないな。一緒に仕事に明け暮れて生活を忘れようじゃないか」

「本気ですか? こういう時こそゆっくり羽を伸ばしたらどうです。お食事でもどうです?」

「? ワークライフバランスというが、ライフの部分が軽くなったんだ、ワークに重さを置いてもかまわんだろう。

それに傷は人と話して癒すものだ。なに、バツイチの私が言うのだから間違いないさ」

「ライフは決して恋愛や家庭に限定されたものじゃないと思いますけど……

なにより、そのバツイチの方から、切り出されるには重い話題ですけどね、不倫」

「浮気とでもいった方が気が楽かい? だがあいにく、浮気という言葉が嫌いなんだ。

 その事象を説明するのに、気が浮ついている程度の言葉でいいのかい? 

 いじめと一緒だよ、言葉のパワーを意図的に和らげようとする心理みたいなものを、私は見出してしまうね」

「ただ、浮気という言葉を使うだけまだ罪悪感というものがあるような気もしますが」

「そうだな、悪いという自覚はあるんだろうな。だが、それでも自分が可愛くて仕方なくて、ゆるい言い方を模索している気がする。  これだって自己愛だろうな」

「ああ、もともと、自己愛の話でしたっけ」

「そう、自己愛だよ。それだけがマッチングアプリ等を使うきっかけだろう。

 愛したい……愛されたい。

 そういう自分でありたい、だからそれに適した相手を探す。

 欲望と欲望がストレートにつながるシステムみたいなものじゃないか?」

「よく言えば回りくどくない、ということでしょうね。僕は嫌いじゃないですよ、山があるなら最短経路を上るのが」

「悪く言えば、欲望をさらけ出しすぎだ」

「そうですか?」

「まぐわいたい、と言い張っているようなものだ」

「それは過言かと」

「まるで君にはそんな感情がないみたいな振る舞いだね。ええ?」

「そんなこと言ってませんよ、ただ、先輩が過度に悪意を拾っている可能性はあると思いますが」

「じゃあ、君はなんのためにマッチングアプリなんて使ったんだい」

「……さあ」

「人との出会いを求めて、の部分は否定できまい。

そこに愛がほしいという自分がいたのも否定できまい」

「それはそうですね。だから何だという話もありますが」

「まあ、そうなんだな。

だから何だ、という話はある。……いや、愛を、外に委託することはありなんだ、きっと」

「自分の外に?」

「家庭の外に」

「重たいですね」

「人生って重いんだ」

「人生の体重計からは目を背ける主義なので」

「こんど測りに行こうか」

「セクハラですよ」

「おっと失礼、それで、何の話だったかな……そうだ、私は何が欲しくてここにいるのかという話か」

「そんな話でしたっけ」

「私と元夫の出会いもマッチングアプリだったからね」

「それが、どうつながるんです?」

「畢竟、私は文句をいって結婚生活を暮らしたかったんだよ

ある程度社会の型に沿って生きて、生きて、死ぬときに、まあまあ社会的に50点ぐらいはあげられたのでよかっただろう、というものが欲しかっただけの人間なんだ」

「それが結婚」

「なんなら子供も欲しがったのはそれが原因かもな。いや、今になって思えば、子宝に恵まれなくてよかった。

私の身勝手な願望一つで、背負っていいものじゃないだろうに、私はわかってなかったんだ」

「僕も何を言っているのかわかりませんが」

「人の命を、私が安心するために作ろうというのは、傲慢が過ぎるだろう。人の愛を、私が愛されたいがために求めるのは、傲慢が過ぎるだろう。

 愛はもっと自然発生的なものであるべきなんだよ。愛されたいの前に、そんな感情に目を向けるよりも強烈で、圧倒的に、幸福な愛情の波だけがあるべきなんだ。

 その波を欲して、作ろうとして、繕っているから疲れて壊れてなくなってしまうんだよ」

「……言い返せることばはありませんね。取り繕ったゆえにうまくいかない、は経験としてあります」

「彼女ちゃんかい?」

「まあ、そんなとこです。いま生傷なんで触れないでくれません?」

「失敬、触れて治す荒療治もあるからね、適宜触れさせてもらうよ」

「その距離の取り方、何とかならないんですか?」

「なってたら、それは私に似た何か化け物だよ」

「そんなあきらめの良さは元夫に向けたらどうです」

「それはタブーじゃあないかい? 傷ついている淑女の心っていうのは、靴を履いて上がるものじゃあないぞ」

「傷ついているのは僕もなんですが」

「人生の8割はあきらめでできているのさ、諦めろ、少年」

「残りの二割は?」

「憧憬」

「憧憬、ですか」

「敬愛でもいいかもな、いや、それでも憧憬と敬愛は別物だろう。加えて、恋愛もまた別物だ。とはいえ、このすべてが同時に存在しえないわけでもない。これがむずかしいところで、おもしろいところかもしれないな」

 どれだけ脱線をすれば気が済むのか、上司の口は止まるところを知らないし、僕だって止めるすべをしらない。

「あこがれる、それには手が届かない、あきらめる、が人生のすべてだと?」

「時々手が届くものもあるが、それは人生の要素にカウントしちゃいけないさ。それはその憧れの出力がおかしいんだ」

「そうですかね」

「じゃあ、私の夫はわたしにとってなんだったんだろうな」

「なんだったんですか?」

「あいつが殺されたとして、私は悲しみこそすれ、復讐はしないと思うんだ」

「なかなか復讐に走ることも少ないでしょう、人間。」

「いいや、なんだろうな、だから、これは愛じゃないんだ」

「愛が復讐にならないから?」

「代わりがきくんだよ。彼でなくても」

「そんなの、」

「愛じゃない」

「愛でしたよ、じゃなきゃあ、貴方がそれほど苦しむわけないでしょう。」

「違うんだな。私のこれは愛じゃあなかった。

 人生のパートナーがいると生活は楽になるか、みたいな視点ばかりだったし。

 普通、みたいな枠にはまって、普通の中から普通らしい愚痴を吐いて、普通な死にざまを手に入れて、滅びていきたかっただけだよ。

 だから、相手があいつじゃなくてもよかった。

 そのことが、死ぬほどに悔やまれるんだ。

 私は、あいつに何ができたのだろう。」

「……好きには好き以外のアンサーを返すべきじゃない、みたいな持論でしたっけ。前々からおっしゃってた」

「あらゆる障害をまあ、なんとなく悪態をつきながら乗り越えていこうという決意表明が、好きであるべきだろう。決して、私のように、枠組みを欲するのではなくね」

「そんな重さはありませんよ、世の中」

「ないだろうな、だから嫌いなんだ、私を含めて」

「ちょっとの衝撃で投げ出す気持ちなら、最初からないほうがいい?」

「それはいいすぎかもな。自分の強度を知らないことだってある。ただ、それでも、持っていて欲しいな……乗り越える覚悟を」


「覚悟くらい、決まっていますよ」

「決まっていた、だろう、もうお互い相手ナシなんだから」


「いいえ、僕が彼女と別れたのは、他に好きな人がいるでしょう、の問いに、最終的には首肯するほかなかったからですよ」

「おやおや、愛に生きていていいじゃないか」

「ええ、いままで回り道をしていたので、しびれを切らして、最短距離を歩もうとしているところです。先輩? 言っている意味、分かりますよね?」

「……まだ、わからないことにさせてくれ」

「なら、しばらくは雑談でもしておりましょう。僕は、いつでも、まっすぐに踏み込みますので」

 そういって、今宵の雑談は幕を閉じたのだった。

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