車内ではもうお手上げです

渡貫とゐち

回避と新たな手口


 冤罪はもうこりごりだ――男女関係なく、片手が空いていただけで痴漢を疑われてしまう。あまりにも冤罪が多過ぎるために、以前よりも倍の吊革が車内に導入されることになった。

 吊革と言えば電車の揺れで転ばないように体を支えるものであったが、今では痴漢冤罪を防ぐ、無実を証明するための「手のアリバイ作り」が目的である。


 満員電車になれば吊革が足りなくなるので、全員の手が真上に伸びている……、片手はスマホで塞がっているのが大多数なので、伸びる手の数は減って見えるが……それでも多いだろう。

 片手はスマホ、片手は吊革もしくは頭の上……。

 今の時代に車内で片手が空いている者はいないだろう。……もしもいるのなら、痴漢の犯人か冤罪に真っ向から勝負を挑むもの好きくらいなものである――。



「――ちょっと、痴漢ですよ!?」


 と、女性の高い声が車内に響いた。

 全員が手を真上に挙げているため、痴漢なんてできるわけがない……。加えて、スマホを見ているために俯いてしまう者が多く、意識も画面内……であれば、痴漢が起こったであろう瞬間を見ていた者はいないだろう。

 痴漢をされたと感じた本人でさえ、その瞬間は見ていないようだ。


「あなた、次の駅で降りて――」


「痴漢なんてしていないが? 片手はスマホ、片手は真上にある……この状況でどうやって痴漢をするのかね?」


 中年男性が若い女性に呆れていた。被害に遭った彼女のすぐ傍に伸ばした手があったからと言って、その男性が痴漢の現行犯とは言えないだろう。

 そもそも彼が言った通りに両手が塞がっているので痴漢なんてできるわけがない。


「……私の手首から指先まで、いやらしく撫でたじゃないですか……気持ち悪い……ッッ」


 全員の手が上に伸びていれば、頭の上から先は手しかなく、手と手が触れることは簡単だ。電車の揺れで間違って触れてしまうことは当然あるし、彼女が被害を訴えたように、いやらしい手つきで女性の手を撫でることもできる。

 ……痴漢とは、なにもお尻や胸を触るだけではないのだ。性癖が千差万別であるように、手に性的興奮を覚える特殊な人もいる。


 不快感を得てすぐに女性が傍の手を掴んだ――それが中年男性の手だったのであれば、痴漢の現行犯は十中八九、彼である…………だが。


 男性は当然、認めない。


「痴漢などしていないが……? たまたま触れてしまっただけとかではないかね? 先に騒ぎ立てればあなたが正義側に立てると思っているなら、こっちは徹底して戦ってもいいんだがね――事実無根を捻じ曲げるつもりなら、こっちも手段を選べなくなってくるわけだが?」


 痴漢が出た、と騒ぎ立てれば、冤罪であっても周りの同調圧力でひとりの男性(女性)を追い込むことができる。

 だが、冤罪を失くすために徹底した回避のシステムを作り上げた車内で起きた痴漢は、発言側の勘違い、もしくは冤罪を作り出したい悪意の虚言がまず疑われる……。

 被害を訴えた女性側の方が白い目で見られるのは珍しいことではない。男性へ向けられる同情的な視線、女性へ向けられる非難の目……、流れが変わってきている。


 今の時代、痴漢はまず起こらないのが常識だ。


「そもそもなんだが、私は中年のおっさんだ……見て分かるだろう?」


 脂ぎった顔、できれば近づきたくない汗の臭いが女性にとっては嫌悪だろう。これを不快だと言われてしまえば傍にいるだけで痴漢にもなってしまうし、それは存在の否定とも言える。

 遠回しに死ねと言っているようなものであれば、今度は言った女性側が問題になるだろう。不快を盾にしても、なんでもできるわけではない。


「おっさんの手は汗でべちゃべちゃだ……あなたが触られたと言うのであれば、特徴的な手の感触をはっきりと覚えているのではないかな?」

「それは……」


 女性は返す言葉がなくなってしまったようだ。彼女の手には汗ひとつない。それは彼女の手に触れたもうひとつの手は、同じように汗がなく綺麗な手だったということになる――

 彼女の周りには男性ばかり。人によるだろうが、歳を重ねた男が集まっている中で、手が汗で湿っていない男性はいないだろう…………なら、犯人は……。


「え、じゃあ、あなた……?」


 傍にいた女性の手を掴む。すべすべで、さらさらで……気を遣ってお手入れをしている、綺麗で見惚れる手だった。

 ……触れて分かった。

 この手の感触こそ、ついさっき感じた痴漢の手で――


「やっぱりあなたなんですか!?」


「違います!! わたしは触ってなんかいません!!」


「でも、この手はさっきの――」


 痴漢を疑われ、泣いてしまった女性……。疑ってしまったことをついつい謝ってしまいそうになったが、証拠はすぐそこにある……泣いて誤魔化そうとしているだけなら、ここで訴えを取り下げるわけにはいかなかった。


「……ここは心を鬼にします。触られた感触では、あなたが一番近いんです!!」


「じゃあ全員の感触を確かめてくださいよ! それくらいしないと――わたしだって認められませんからっ!!」


 それもそうだと思い、女性が傍にいた男性と女性に断って、手を触らせてもらっていた。女性は比較的すべすべで、やはり触られた感触に近い……。中年男性は当然ながら汗でべたべたで、びちゃびちゃで……こうして確かめていることが不快だった。

 痴漢よりも今が痴漢なのでは? ……これは痴漢を証明するために必要なことである。

 被害に遭った女性はがまんしてひとりずつ手を触って確かめ――――「あ」


 最終的に、痴漢をされた当時の手に最も近いのは――――


 彼女がまず最初に疑った、あの中年男性だった。


 彼の手は――すべすべで。まるで気を遣ってお手入れしている女性のような手だった。

 思ったよりも細いし、周りのおっさんとは違って清潔だ。比べてみれば自分よりも綺麗なのではないか……? さすがに指摘はしなかったが……。

 さっき分からなかったのは、掴んだところが手首だったから。……しかも袖の上からであれば、彼の男性離れしたすべすべの肌は分からない。


「……痴漢は、あなたですね?」

「おや、ばれてしまったようだね」

「ッ、やっぱりあなたが――っっ」


「中年男性の手は汗でびちゃびちゃで不快感が先行するという発言に納得されたのは少し……というかかなり気になるところではあるが。……惜しかったねえ。手を清潔にし手入れを怠らなければ、女性に罪を擦り付けることもできる……最大の防御は美容と言うべきか……。まあ、こうしてばれてしまっているなら意味はないのだが」


「いえ――」


 こうしてモデルケースが誕生した以上、これが新たな手口として広まってしまうだろう……。

 どれだけ注意喚起をしても知らない層は一定数いるわけで……。

 知らない側からすれば未知の戦術である。こんなの、どう回避すればいいのか……。


「女性の地位が上がり、男性が女性のように綺麗になれば、性別の差も先入観による偏見もなくなるのかね? ――平等に、全員が疑われるのであれば、これからは犯人を特定するのがより難しくなりそうだ」


「性別以外にも犯罪当時の『時と場』も、重要な情報ですけどね」


「それは時と場合によるのではないかね?」




 …了

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車内ではもうお手上げです 渡貫とゐち @josho

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