第14話 選り好むことを愛と呼ぶ
ラ・ロシュフコーは、ある人をたいそう尊敬すると同時に激しく恋するのは難しいと述べている。従って、恋愛か尊敬か、人はどちらかしか選ぶことは出来ない。ただ、恋愛とは利己的なものである。常に、利己的である。私は哲学者ではないし、その思想に追随することしか出来ない愚かな人間の一人だが、これは正しいと思う。
私は、あなたに利己的だった。分かって欲しいと思うことは、利己的だ。
静かな部屋に一人、暗くなり始めた空に白月がぽっかり浮かぶ。昼の間は雲に紛れるように、あるいは雲の断片のようなのに、今に輝き始めるんだろう。レノを思い出してしまう。
修はダイニングテーブルの一席に着き、机上のそれを虚ろな目で見つめた。レノの小説が入っているUSBメモリー。レノが最後に手掛けた作品。レノが血反吐を吐きながらようやっと完成させ……自殺した代物。
木村から手渡された時のことを朧気に思い出す。木村は一度、机上からそれを手に取り、わざわざ修の掌へと押し付けた。まるで軽い、たった数十グラムの重みを、修はどう解釈すれば良いのかもわからない。なぜだか無性に泣きたくなった。逃げるようにポケットに突っ込み、底の底まで押しやる。落としたくはなかったが、持っているとまるで火傷でもする気がして怖かった。掌に押し付けられる焼き印が、まさかキリストの聖痕みたいになってくれるわけもあるまい。
ポケットから取り出して、またその重みを味わわされた時、今度は「これが俺の人生か」と思った。奇妙な感覚だ。小説はもちろん映画や漫画、昨今ではYouTubeのゲーム実況動画でさえ、つまらない部分はカットされ、面白い部分だけが繋ぎ合わされていく。何かの評論か哲学書で、そういう趣旨のことが書いてあった。人生の面白い部分だけを凝縮すれば、誰しもこうなる運命にあるのだろうか? たとえレノ越しじゃなくても?
机に置いた瞬間、USBはこつりと小気味の良い音を出したが、修は反射的に「痛い」と口に出してしまうところだった。遅れて、そんな自分に苦笑が零れる。まさかUSBと自分自身を重ね合わせ、あまつさえ混同する日が来るなんて。あまりにもバカバカしい……バカバカしいじゃないか。
鼓膜を貫く沈黙に、誰かの声が木霊する。同じ音楽が頭の中で繰り返し流れる現象をイヤーワームと言うらしい。レノが死して小さな虫に転生し、修の頭の中に住み込み始め、修の頭蓋や脳みその皴をのそのそと這いずり回っている――そんな妄想が頭を過る。また苦笑が零れる。苦笑……変に上ずった声だ。喉が掠れて、視界が滲む。
だって、もし本当にそうなら、どれだけ良かっただろうか。
もはやレノという人間がどこにも存在していなくて、この頭一つで考えるだけなんて信じられない。レノを象徴するものが、たった数十グラムのプラスチックと金属でできているなんて信じられない。それも、手のひらですっぽり覆い隠され、たとえ捨ててしまっても誰にも気づかれない代物であるなんて、信じられない。こんなのはレノじゃない。レノであっていいはずが無い。
当然だが、USBメモリはデータを保存しておくデバイスに過ぎず、それ単体では何らの利用方法も存在しない。せいぜいポケットを圧迫したり、机のスペースをほんの少し邪魔するだけだ。これをきちんと活用するには、パソコンとかスマホとか、何か挿せるものが無ければ。
ああ、どうしてレノは、パソコンを用意してくれていなかったんだろう! 例えばパソコンを電源を着けたままの状態で放置してくれていたなら、それも修の目の前にでかでかと鎮座させていたなら、嫌でも目に入ってしまうくらいに! ――そうすれば、自分で決断しなくてもいいのに。
結局、修はいつまで経っても決断できなかった。USBメモリは相変わらず机上で冷たくなっているし、修もまた、椅子から身じろぎもしない。
ややあって、修は先ほどの自身の思索を思い出した。馬鹿げた妄想だが……あるいは、真理だったのかもしれない。
修は着信履歴から木村のそれをタップする。そして、彼女に、とあるお願いをした。
これでいい……これで、きっと。
明くる日、木村に再会した時、修はカフェ等の店は選ばなかった。一か所に腰を落ち着けるのが嫌だったのだ。人気の無い道端で話すくらいでいい。
「これでよろしいでしょうか」
そう言って、木村が懐から本を取り出す。修はそれを受け取る。
「同人誌とか、素人でも本を作れる時代ですから。先生の本であれば尚更ですよ。問題は情報漏洩なんですよね。漫画の早バレとかあるじゃないですか。印刷所を敵に回すつもりは無いんですけど」
木村が解説するのも聞かず、修は受け取った本――レノの小説を本として印刷したものを指でなぞっていた。ザラザラとした質感、体温みたいな生ぬるさ、柔らかさ。
昨今は電子書籍が流行っているようだ。確かに手軽だし、修自身も読破した小説のほとんどは電子書籍だったりする。小説というのは読み合わったらほとんど何の役にも立たないくせに、一丁前に場所を取る。
だが、特別な小説はやっぱり紙で欲しい。なんか良い。好いのだ。
「ありがとうございます」
礼を言って、修はポケットからUSBメモリを取り出した。木村が少し驚いた顔をするが、構わず修は、木村に差し出した。
「これは木村さんに返します。俺にはこれがあれば充分ですから」
「……分かるんですけど……私が貰っても……」
言うなればレノの遺品だからか、木村は戸惑いを覚えている。本当に、レノに対して誠実な人だ。ともすれば、小説よりもレノのことが好きなのかもしれない。
「俺、そういうちまっこいの失くしちゃうタイプなんで。木村さんが管理した方が安全だと思いますよ」
「……分かりました。では、私が大切に保管しておきましょう」
「ええ……それと」
修の頭には、一つの仮説が思い浮かんでいた。少し乾いた口を湿らせてから、修は言う。
「出版に関してですが、決意が固まったら合図します」
「合図?」
「はい……時が来れば分かりますよ、きっと」
尤も、それをどう解釈するかは木村次第になってしまう。だが現在編集者で元は小説家志望だった木村ならば、人間心理とか外連味だとか、伏線回収だとか、そういうのは分かるはずだ。修が見た最後の木村は、手の中にUSBメモリを握りしめている。後生大事に。
家には帰らなかった。時々、小説を読みに入り浸っていた最寄りのネットカフェの一室で、修はレノの小説を読んだ。
それから、修はホームセンターで必要なものを買い揃えた。こういうのは出来るだけセンセーショナルな方が良い。派手に行こう。物語が佳境に入るなら、それにふさわしい演出が必要だ。終わり方が大事なのは何も小説だけじゃない。いい終わりが思い浮かばないなら――せめて。
焚書とは、一般に書物を燃やすことである。
𝙘𝙖𝙡𝙡 𝙢𝙚 𝙗𝙮 𝙣𝙤 𝙣𝙤𝙫𝙚𝙡 ささまる/齋藤あたる @sasamar
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