第13話 小説の無い人生

 この心を覆っている皮膚を抜け出して、どこか遠くに行きたい。この脳髄全てを投げ出して、何か別のもので満たしたい。そういう祈りが、いつからか消えない。

 美味しいものを食べる、酒を飲む、誰かと話す、買い物をする、そういう欠乏を埋めるだけの短絡的な快楽で満足できない。したくない。許せない。

 私は我が儘なのかもしれないし、きっとずっとそうだ。

 自分の正しさを出来るだけ多くの人に押し付けたい。私が文章を書く理由が、きっとこれに尽きるだろうから。

 けれど小説は、皆が思っている以上に割に合わない。捨ててしまうにはあまりにも私を占める比重が大きすぎる。骨と肉、血液を取り除いた体は自立どころか存在すらままならない。

 例えば知り合いが、小説家の生活について話を振ってきた時、私はよくこう答える「日々、頭痛とプレッシャーに苛まれながら夢の狭間でもプロットや台詞を練りたい?」もちろん冗談半分だ! 多分。

 もっと気楽に書いている人も居るだろう。小説を捨てるには脳みそを地面にぶちまける必要がある人は稀有なのかもしれない。そこまで行くと、もはや職業というよりは生物学的な話になってしまう。脳の電気信号がどうとか、神経回路がどうとか。綿密なまでに構築されたものを、分解して再構築するのは、錬金術師でもない限り難しい。そして、錬金術師はフィクションにしか存在しない。

 だから私は、ずっと考えざるを得なかった。

 今でも、この頭で考えている。




 国際詐欺電話が横行している昨今、知らない人からの着信なんて普通は出ない。修がそれに出て、尚且つ話を聞く気になったのは、偏にタイミングゆえだ。

 電話の相手は女性だ。知らない女性。

 だが修には、その人がどんな関係性を有しているのか容易に察しがついた。それもまた、タイミングだ。

 その女性により、修はとあるカフェに呼び出される。有名コーヒー店は平日の真昼間でも混んでいるが、雑音がかえって匿名性を作り出すから良いものだ。目の前に座っている眼鏡の女性の名前すら修は知らないというのに、傍から見れば二人は知り合いか何かに見えるだろう。ひょっとすると、マッチングアプリで出会った男女が待ち合わせたようにも映るかもしれない。世の中にはどんな事でも起こり得るくせに、人の予測能力は平均的に高くない。

 それにしても、修の予想では、眼前の女性はきっと、レノの知り合いである。歳は二十代後半、レノや自分と同じくらいだろうか。だが、女性はレノとは似ても似つかぬ風体、出で立ちだ。グレーのレディーススーツに、細い金属製フレームのメガネ、化粧気も無く少しキツイ顔立ち。レノの浮世離れした雰囲気は言わずもがな、どこか世間とズレた空気感の、その片鱗さえも見受けられない。その佇まいは修と同じで、社会に馴染み切った世俗凡人の生ぬるさを纏っている。

「こんにちは」

 穏やかな声色の中に、確かな緊張が隠れている。修は些かも表情を変えず、堅く「こんにちは」とだけ返した。

 それから数秒、あるいは一分以上は、女性は緊張気味に口を閉ざしていた。まるでこれから話す事柄が、何か重大な意味合いでも持つみたいに。ややあって、女性はようやっと恐る恐る口を開けた。

「初めまして、木村と申します。レノ先生の編集者だったものです」

「そうですか」

 修の返答に動揺は一切ない。それが、木村を驚かせたようだった。木村は僅かに目を見張ると、じっと修を見つめる。

「もしかして、先生から?」

「いいえ。ただ予想通りだっただけです」

 そう、修は電話がかかってきた時点で、女性の素性に見当がついていた。恐らくはレノの関係者……それも、小説に関すること。出版社か何かではないだろうか。更に言ってしまえばレノと密接な関係にあれば、自分に連絡してくることもあるかもしれない。

 とは言え、修にはそれがどんな要件であるのかは、全くわかっていなかった。レノがまさか修の悪口を上げ連ねていたことは無いだろう。さすがにそんなことをする人ではない……そこまでの興味関心――執着を、生身の人に抱かないのだ。

「そうですか、では私がどうしてあなたを訪ねたのかも、あなたにはわからないでしょうね」

 木村の声音には、感情が含まれていないように思える。だがそれは、彼女が隠そうとしているからに他ならないだろう。修は予想もつかない緊張感に苛まれながら、修自身もまた、それを相手に隠すことに注力し始めた。木村がレノの味方であるならば、修と仲良くしてくれるとは思えない。

 二人を挟んだカフェの机の上に、木村が携えたバッグから何かを取り出し、スッと差し出す。

 それはUSBだった。それを見た瞬間から、修の体中で何かが叫び出しそうになった。修には、それがなんなのか察しがついてしまいそうだったのだ。

「先生の最後の小説です」

 修の予想がまたしても当たる。

 木村が更に、何かを取り出す。それは小さなメモ用紙であり、見覚えのある数字が羅列している。修の最もなじみ深い数字の並び――電話番号だ。

「先生のデスクの上に、このUSBと、誰かも分からない電話番号のメモが残されていた。私はその番号にかけ、あなたに繋がったということです」

「……へえ」

「あなたには、この意味が分かりますか?」

「いいえ」

 修の頭には実際、レノの意図が一切にして理解できなかった。レノの言葉が鮮明に思い出される――君は小説なんて読まないよね。

「では、単刀直入に申し上げましょう」

 眼鏡の奥の瞳が、修を見据える――どこか睨むように。

「この小説の主人公は、あなたです。修さん」

「……そう、ですか」

「知らなかったんですね……そりゃあそうか」

 後半はほとんど独り言だった。木村が力なく膝を見つめている。修は安堵と共に、それを感じていた――木村が自分の世界に入ってくれれば、修の表情は見られずに済むのだから。周囲の喧騒――学校をサボっている高校生、ねずみ講の詐欺師、暇を持て余した主婦――いずれとも異なる隔絶した世界に、二人は沈んでいる。深海に沈んだクジラの死骸が、新しい生態系を築くように。

 しばらくは、何の声も音も聞こえなかった。レノが死ぬ前に残した小説。その主人公が事もあろうに自分だなんて。一体何を、彼女は考えていたんだろうか? あれだけ彼女の小説を忌避した修を、彼女の小説の中心に添えるなんて。

「突然ことで、混乱されることかと思います。私もそうです。先生はプライベートの……特に交友関係などは、私にもお話されませんでしたから。当然私は、あなたのことを存じ上げません」

「その小説を除いて?」

 修が突然口を挟んだからだろうか? 木村が一瞬、怯えたような表情をした気がした。

 それも束の間、木村がとある提案をしてくる。

「一つ、私の話をしてもかまいませんでしょうか?」

 最善策など分かるはずも無い。修はただ頷くだけだ。

「私は、元は小説家になりたかったんです。高校の頃から書き始めて、大学時代なんかは文学部所属で部長もしていました。編集者になるつもりなんかなかったですよ。あくまで書く側でありたかった。表現って楽しいですからね。私の世界を、私とは全然関係ない人が知る……すごいことじゃないですか。出来るなら、ずっと書き続けていたかった」

「……なぜ、そうしなかったんですか?」

「簡単なことです。心が折れたんですよ」

 木村が小さく声を上げて笑う。自嘲的な笑みは、他人である修にさえ痛ましく聞こえた。

「楽しいけど、それ以上に辛いんですよね。小説って、生活を捧げなきゃ書けないんですよ。ありとあらゆる本を読んで、知識を収集して、それ以外の時間は全て、ひたすら考え続ける。プロットを練るのも台詞を考えるのも……自動的に思い浮かんでくるなんて、そんなわけないじゃないですか。考えなきゃ、何も無いんですよ。考えなきゃ、紙は真っ白なままです」

「……でも、あなた方は好きで考えてるわけでしょ? 小説が好きなんだから」

 木村がまた笑う。

「好きだからって、簡単に何もかも投げ打てるとお思いですか? きちんと形になってくれるかも、あるいは大衆に受けるかもわからないのに?」

「けどレノは……」

「そうです。私の心を折ったのは、レノ先生だったんです」

 懐かしむように、思い出すように、木村は遠くを見て微笑む。

「先生は天才でした。それ以上に小説に全てを捧げていました。私は先生のファンで、先生の書籍はもちろん全て読んでいました。あとがきや、雑誌の取材までね。先生は取材とかほとんど受けない人でしたから、当時は謎多き憂愁孤独のレノの中身が知れると思って、本当に楽しみにしていたんですよ。ですが、それによって私は思い知ったんです、己の身の程を……私なんか全然、小説が好きじゃないんだって」

「……好き、じゃない?」

「ええ。だって、『好きなら全てを投げ打てる、捧げられる』そのはずじゃないですか。でも私にはそれが出来なかった。小説を書くためには時間もお金も必要なのに、その全てを小説に賭けることが出来なかった。知っていますか? 先生は小説を読む時間や書く時間が惜しいがために、食事すらパン一切れで済ませていたんですよ。白米は片手間に食べられないからダメなんだそうです。ならおにぎりはって私は言ったんですけど、零さないように注意しなくちゃならなくなるし、本を汚すかもしれないから、やっぱりダメだって」

 そうだったかもしれない。修の記憶の中のレノと木村の言葉が重なる。レノはまともな食事なんか採らなかった。

「『夢の狭間で小説を考えている。台詞、構成、伏線……頭にこびりついている。私が小説を考えずにいられるのは、きっと死んだ後だけだろう』――こんなのと、どうやって同じ土俵に立てると思いますか? 私には文才も無かったのに、努力まで負けていた」

 芸術というシビアな世界では孤軍奮闘を余儀なくされる。負けたと思えば、それまでだ。

「私は小説家を諦めました……でも小説そのものは諦められなかった。小説に関する知識は、部員に褒められるくらいにはありましたしね。これまでの努力が惜しかったんです。そして紆余曲折あって、私はレノ先生に辿り着きました。本当に、色々あって」

 まるで美談を語るように、木村の口調にぬるいスープみたいなのが混じる。それだけで、修にも木村が大成しなかった所以を察することが出来た。これがレノなら、きっと――。

「……レノのことは、憎く思わなかったんですか?」

 素朴な疑問が口から洩れた。木村は難なく答える。

「思いませんでしたね。私が自分勝手に折れただけのことで、先生は悪くありませんから。先生は天才だっただけ」

「でも……」

 修の頭に、とある概念が思い浮かぶ。

「でも、例えばこの世に死ぬほどつまんない小説しか存在していなくて、その中であなたがちょっと面白い小説を書いたとしたら、そうすればあなたは、きっと売れるじゃないですか」

 この世の全ては相対的だ。流行だって目まぐるしく変わる。面白い小説なんて、決められるものじゃない。

「うーん、そんな世界は嫌ですね。白黒の世界で、自分一人だけが鮮やかに輝いていたとしても、それはつまらないんじゃないですか? 星は自らの輝きを見ることが出来ないと言いますし」

「……なるほど」

「まあ、先生はよく面白い小説が出る度に苦い顔をしていましたけどね。先生にとっては商売敵でライバルなわけですから。結局、私の言っていることは他人事の理想論に過ぎないのかも」

「……そう、ですよね」

「そうって」

 木村が苦笑する。否定するべきだったのかもしれない。

「小説好きと小説嫌いって、永遠に埋まらない断絶がありますよね」

 ふと、木村が言った。何の脈絡もなかったはずなのに、まるで用意されていた言葉みたいに聴こえた。

「そうですかね」

「そうですよ。何しろあなたは、自分がどれだけ恵まれているか、理解していらっしゃらないんでしょう?」

「……恵まれている、ですか」

「ええ」

 木村がいよいよ、修への――敵愾心を隠さなくなる。あるいは嫉妬だろうか? 修は冷静にそれを受け止めつつ、自分が恵まれているという意見にまるで納得出来ない心づもりでいた。だって、レノのせいで苦しんだのは、他ならぬ自分のはずだ。自分以上にレノに掻き乱された人間が居るはずが無い。レノのせいで、自分は……。

「自分が主人公の小説が、傑作として世に出る。それも、努力も惜しまぬ天才が最期に手掛けたものです。ファンなら恐れ多いほどの栄誉ですよ。あなた以外には誰も手に入らない」

「……あなたたちの価値観と、俺の価値観は違いますよ。押し付けられても」

「分かっています」

 木村が遮るように言った。隣の席の客が、チラリとこちらを見る。

「……分かっています。だから言ったんです。小説好きと小説嫌いには、埋まらない断絶があると」

 木村が、薄い瞳を閉じて、溜息を吐く。この人は、たとえレノに夢を潰されたとしても、レノのことが好きだったのだろう。小説よりもずっとレノを愛していたのかもしれない。

「……あなたは、先生がどれだけ苦労されていたか、御存じ無いのでしょうね」

「苦労?」

「先生は天才です。……ですが、先生はそれを信じていらっしゃらなかった。世の中のどんな文壇よりも、先生をこき下ろしたのは先生ご自身だったのです」

 だから自殺なんかしたのか、とは、修は言えなかった。

 口の奥、喉の真下の方、言葉が詰まって出てこない。とあるゴシップ雑誌の馬鹿な言葉が、修の脳裏にチラついた。レノの死因に関する出鱈目な記事だ。

「先生にまつわるニュース等はお耳にされていますか?」

「……さあ」

「さあ? どういうことですか?」

 軽く流そうとしたのに、木村はしつこく追及する。

 悩んだ末、修は白状することにした。

「……雑誌とか少し……眉唾でしたけど」

「眉唾……ならばあなたは、もはや真実に触れていらっしゃるのかもしれませんね」

 木村が一息つき、話し始める。

「先生の御遺体から、常習的な自傷行為の痕跡が発見されました。腕、足等に無数の切り傷が残っていたのです。恐らくは剃刀を使用していたのでしょう。先生の部屋に残っていました」

 木村の口調が、また感情を押し殺したものに変わる。

「それだけではありません。先生は日常的に許容範囲を大幅に超える大量のカフェイン錠剤を摂取していました。エナジードリンクであれば、まだあそこまでにはならなかったでしょうに。先生は、たった一粒でエナジードリンク一本分を超えるカフェイン含有量のそれを……一度に何粒も飲みこんでいたんです。先生は時々、『手足がしびれる』『吐き気が止まらない』と私に言いました。あれはカフェインの過剰摂取による中毒症状だったのでしょう……どうして気づけなかったのか」

 レノは肉体的な自傷行為に加え、薬物の過剰摂取まで常習的にしていたということだろうか。修の知る麗しの彼女と、話に聞く彼女が一直線につながらない。まるで、全く違う誰かの話を取り違えてしまっているみたいだ。

 だが、それでもレノが死んだことは事実なのだ。その事実こそが木村の話に信憑性を持たせてしまっている。レノが自殺したと言うなら、それに至る過程が絶対に在るはずなのだ――人は突然自殺したりしない。

「先生が、ほんの少しでも自分の才能を信じてくれていたなら……あそこまで追い込んで小説を書いたりしなかったのに――」

 けれど、と木村が続ける。

「けれど、こうも思うのです――あれだけ追い込んでいたから、先生の作品は傑作だったのかもしれない。文字通り、命を削っていたのですから」

 レノは、ある意味で殉教者だったのだ。最後まで神に祈り続け、磔刑に処された丘の上の罪人。

「先生が最後に残した作品……遺作は、あなたを書いたものでした。先生が想うあなたと、あなたを通して見た先生自身のお話です。あくまで先生が考え、書いたものですから、全てが正しいとは思いません――あるいは、これが本当に小説と呼べるものなのかも。成り立ちで言えば、あなたに関する伝記と言ったほうが正しいのかもしれませんから――だからこそ、先生は、あなたの電話番号を記したのだと思います」

 木村の頭に、とある仮説がフッと思い浮かぶ。

「まさか、俺に中身を確認しろと」

「もちろんです。その上で、先生の最期の作品として、出版したいと私は考えております」

「そんな――!」

 冗談じゃないと思った。勝手に小説にされた挙句、見知らぬ他人に読まれるなんて。

 それこそ、最も修が恐れていたことなのに。

「……俺は、俺の人生は芸術作品なんかじゃありません。誰かのくだらない……お涙頂戴のカタルシスのために搾取されるなんて御免ですよ」

 何が伏線回収だ、何が大どんでん返しだ、そんなのは――死ぬほどどうでもいい。くだらない虚構に、どうして人の人生すら踏み台にする?

 何故命を懸けた? 死んだ?

「ならば、あなたは先生の決死の努力を無駄にすると言うのですか? 出版されれば、まず間違いなく歴史に残る著作となるのに?」

「名誉なんて、死んだ後には何の役にも立たないでしょう!」

「ええ、役になんか立ちません。先生は今、小説すら考えられない。無になってしまっているから。けれど、それがなんだって言うんですか?」

「何って……」

「先生の名が、レノの名がかのダンテやシェイクスピア、ルイス・キャロル、紫式部らと並ぶのですよ。人の死が誰からも忘れ去られた時だと言うのなら、先生は永遠に死なない」

 ともすれば狂気とも言える光を宿して、木村は熱心に嘯いた。

「死なない……死なないって?」

 逆だ。

「レノは死んだんですよ」

「はい。あなたが殺した」

「は、」

「書いてありましたよ。結婚したんでしょう。私には、当てつけにしか見えない。先生への嫌がらせのつもりだったんじゃないですか? その気が少しも無かったと、果たして言えますか」

 迫るように木村が言う。反射的に仰け反りつつ、修は言葉を探した。――見つからない。喉が詰まる。言葉が隠れている。

「これはお願いです。先生の最期の祈りを、……あなたへの愛を、無駄にしないでください」

「愛だなんて、あいつは……」

「愛ですよ。先生はあなたのことを愛してた。小説以外に表現方法を知らなかっただけです。小説を愛し、愛されたレノ先生は、それ以外の愛を禁じられた。唯一の例外があなただったんです。もしもあなたが……あなたも、小説を愛してくれていたなら、きっと……」

 木村が力なく膝を見つめる。俯いたその顔から、何かがぽたぽた落ちて行った。

 木村が修を呼び出したのは、レノの小説を読ませるためだ。木村は更に、レノのそれを出版したいと願っている。その確認を修に頼んでいる。

 だが、修に確認を取らずとも、出版は出来たはずだ。修は小説の存在自体を知らなかったのだし、修が小説嫌いであると木村やレノが考えている以上、修にレノの小説の中身を知られずにやり過ごせる可能性だってある。少なくとも、こんな馬鹿正直に、修に会いに来なくたって良かった。

 ならば、本当にこれは愛なんだろうか? レノから修への、最期の愛情表現だった? 修さえ受け入れられれば、全ては円満に収まり……彼女と一緒に居られた? 好きな小説の話でもしながら。

 修は差し出されたUSBを見据える。この小さなプラスチック片に、レノを死ぬまで思い詰めさせたものが詰まっている。

 ややあって、修は言った。

「――藍桜」

 木村が「え?」と顔を上げた。修は続ける。

「ふしあわせの犬、月光と海月、晩夏の殺人――」

 思いつく限り、修は上げ連ねた。木村の顔がどんどん驚愕に染まっていくのも構わず――小説の名を。ミステリでも恋愛でもSFでも、ジャンルは問わない。レノが問わなかったからだ。

「……どうしてですか」

 木村がぽつりと言う。責めているようにも、嘆いているようにも聞こえる。

「どうしてって、」

「どうして、……あなたは、小説に詳しいのですか?」

 三日月のような瞳が、限界まで見開かれている。信じられないものを見る目で。

「あなたが言ったのは、先生の読書日記の掲載書籍ですよね? 先月、先生が読んだ本を、先生が読書日記として、SNSで公開していた――」

 果たして、修はうなずく。

「はい。レノが読んだ本は、俺も読んでますから。少なくとも、彼女が読んだと公言していたものは、チェック済みだと思います」

「……でも、あなたは」

「誰がいつ、小説を嫌いだと言ったんですか? レノが勝手にそう思っていただけです」

「そんな、でも、じゃあ」

「証拠でも見せれば信じてくれますか? 何でも良いので、あなたが言った小説の内容を当ててみせるとか」

 レノが熱心な読書家だった分、修もまた道行く人のほとんどに引けを取らない程度には、本を読んでいる。ざっと月に三十冊以上は読んでいるだろうか? 流行はもちろん、本屋大賞、先月末発売の海外ミステリまで、レノが読んだ本は網羅している。

 きっかけは、真理子だった。真理子が小説家のプライベートまで知りたがるタイプのファンだったから、必然的に修も、小説家の暮らしぶり――少なくともSNSで公開している分は、詳しくなってしまった。レノは覆面作家であり、私生活を明かすタイプでもなかったが、読んでいる本の備忘録や、編集部監修のファン向け日記くらいはブログにしていた。

「俺が読まないのはレノの小説だけです。レノの小説に――自分が書かれていたら、嫌じゃないですか。自分が彼女のネタにすぎないみたいで……嫌でしょ」

 木村の言ったのとは、まるで逆のことを修は言う。ファンなら確かに、小説家のネタにされれば嬉しいのかもしれない。謎多き憂愁孤独の小説家、だったか。ミステリアスな小説家に目をかけられるなんて、きっと一生に一度も無い機会だろう。

 けれど、修にとってのレノは小説家じゃない。小説家の前に、大学の研究室の同期だし、歳の近い友達だし――元恋人だ。たとえレノが、修と知り合うずっと前から小説を書いていたとしても、修にとって、小説家というレッテルは後からついて来た。付随品でしかない。

「……あなたは、」

 木村が、唖然とした口をゆっくりと動かす。彼女が何を言うのか、修には予想がついていた。

「あなたは、小説を愛しているのですか?」

 木村が「いや」と頭を振った。自問自答するみたいに。

「いや、あなたは、……愛している。愛してるじゃないですか……!」

「別に、そこまでじゃないですよ」

「でも……愛してなきゃ、そこまで出来ない……!」

「そうですかね。行為に愛情が伴っているかなんて、誰にも分からないですよ。愛って言うのは目に見えない――哲学的ゾンビがテーマのSF小説が、先月発売されてましたよね。客観的な心の証明なんて不可能だ」

 言いながら、修の頭には愛の証明がテーマのSF小説が思い浮かんでいた。先程のとは別の小説だ。愛の証明を可能とする大樹がどこからともなく突然出現し、人々がそれに縋るお話。あの小説の主人公は、結局恋人と死に別れてしまったんだけれど、それでも――幸福な結末だと思う。ここには……修の世界には、愛の証明が出来るものは存在しない。

「少なくとも俺にとって、小説はレノの付随品でしかないから、好きかと問われても頷きかねます。俺が小説を読むのは、レノの読んでいる本の内容が気になっていたから。それだけなんです」

 あるいは、レノの生活を、ほんの一部分だけでも摂取したかったのかもしれない。少なくともレノの頭に入った情報を、修も遅れて入れている。同じ文章を読み、あるいは同じ感想を抱いたのかもしれない。同じ本を読むことは、同じ時間を過ごしたことにならないだろうか? 修はレノがどんな気持ち、顔で読んだのか小説ごとに想像できる気さえしていた。レノはあれでいて、いちいち登場人物に感情移入するタイプだった。お涙頂戴ものに律儀に泣いてやるなんて、感性が素直だし、心が清すぎる。馬鹿だろ。

「……先生は、きっと知らなかったんですよね」

 ぽつりと木村が言う。その通りだと修も思う。レノは修が小説を浴びるほど読んでいる事実を知らないし、知らないまま死んだ。

「けれど、それでも先生は正しい選択をした。あなたに、最後の小説を託すことを」

「……正しいと思うんですか」

 もし修が拒否すれば、レノの傑作は世に出ない。日の目を見ず、埃を被り、レノが過ごした困苦の時間ごと、無かったことになる。自傷行為も薬物乱用も、小説という大義名分が無ければ、健康を害する愚行だ。犠牲にするには、命は重すぎる。

 その上、修はレノを小説なんて嫌いだ。嫌いなのだ。自分が主人公なんて吐き気がする。

 それらの事実は、レノはおろか木村だって理解しているはずだ。いくらレノのフィルターを通しているとはいえ、レノは人を見る目のある人間だった。いつかの恋愛相談が頭を過る。レノの書いた修は、本物の修と遠からぬ人物であるに違いない。

 ややあって木村は胸を張って言った。

「正しいと思います」

「……そう、ですか」

「ですので、このデータはやはり、あなたが持っていてください……その、捨てるという選択肢も、あなたにはあります」

 出来る限りしないでほしいと、木村は付け足した。

「この小説を生かすも殺すも、俺次第なんですね」

「はい」

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