第12話 沈黙せよ
私のくだらない問いに、一定の回答を提示してくれたのは、かの大文豪レフ・トルストイであった。彼は敬虔なキリスト教的な人生論で以て、私の暗雲をほんの少しだけだが切り払いしてくれたのである。曰く、「愛について議論してはならないし、愛についてのあらゆる議論は愛を滅ぼす。だが愛について議論せずに居られるのは愛を理解している者だけで、ほとんどの人間は議論することにより愛を示す」
要するに、ほとんどの人間にとって、愛とは選り好みである。そして選り好みは差別無くては実行出来ない。彼らはこう言うのだろう……「差別ではない。区別だ」だが差別と区別の違いとは一体どこにあるのだろう。
私は啓蒙したいわけじゃない。差別を是正しろとも言っていない。
私は不思議でならないだけだ。
お前たちは本当に正しいのか?
結婚式なんて夢物語でしか見たことが無い。修は特段強い結婚願望など持っていなかった。その上、昨今は結婚しない若者が増えているという統計を見たことがあった。子どもを産まない夫婦も多い。
色々な人間がいる。小説を読む人読まない人、二人になる人ならない人。
真理子は結婚して苗字が変わり、修の妻となっても変わり映えしなかった。分かっていたことだし、それで良かった。強いて言うなら、少しの責任感を覚えたのか、前より真面目になった。別にいいのにな、と思いながら、修はさっさと皿を洗っている。今度食洗器を買おうかと、さっき話し合ったところだった。日常的に使う家電は、たとえ高くてもあったほうが人生の得なんじゃないかと思ったのだ。毎日三回も皿を洗わせられる日々の時間を考えると、猶更だ。
マイホームとかは買わない。そこまでのロマンチストではないので、二人してまだ、最初にとりあえずで選んだだけのマンションに住んでいる。住めば都というのだから、別にいいのだ。
積読も相変わらずだし、なんならまた増えている。タワーが部屋に五本も建っているのはどうなんだろうか? 掃除機もかけられない。さすがの修も気になって、買うのを控えるか読むかしろと言いくなった。言いたくなったところで睨まれたので黙った。
本を買うばかりであまり読まない真理子は、惰性でスマホをいじっている。またSNSで新刊や読書日記をチェックしていた。要らないのになと思った。
そう言えば――レノの本はどうなったんだろうか。修は真理子に尋ねる。
「ねえ、レノの本って買った?」
「ああ、それ?」
真理子が悔しそうに眉根を寄せる。
「レノ先生の本、なんか延期になったらしくてさ。知らないの?」
「……知らないけど。それより延期って……」
「なんか問題でも起きたんじゃない? よくわかんないけど」
真理子が思いの外、呑気に言った。真理子の中での小説家は、日々SNSで観る連中なのだ。けれど修の頭には、大学時代のアパートの一室が甦っていた。
レノがあのレノなら、何があって本を出せなくなるのだろう? 他人の人生よりも自分の人生よりも、小説を優先する人間が、小説を延期する理由って何だろう?
それに時期が気になる。これは希望的観測だけれど、修は結婚式を思い出していた。祝福してくれた友人たちの中に、レノの姿は無かったはずだ。記念動画も確認したから間違いない。あの場にレノはいなかった。
それが分かる自分に、心底嫌気が差しそうだ。無いことの証明は難しいと言うのに、修にはその証明が出来てしまう。顕微鏡の隅々まで探して無いなら、無いに決まっているのだ。
レノが修の言いつけを守ったことは、特段驚きではなかった。修はレノに裏切られたと思っているけれど、レノが積極的な悪人だったとまでは思っていない。レノには優先事項があって、それが修や拓弥よりも上だったから、結果的に自分が蔑ろにされただけだ。レノはそれを悪だと思っていないだろうし、修も悪だとは思わない。ただ今後も同じように迷惑をかけられたら堪ったものじゃないから、縁を切ったまでだ。
レノの美徳を一点あげるとするなら、それは彼女の真面目さにあった。だからこそ、やはり解せない。
何が起きているんだろうか?
その答えは、数日後に真理子の口から聞かされた。日課のSNS漁りだ。
「ウソ……!」
真理子が悲鳴に近い声で、そう叫んだ。夕食前の出来事だ。修がテーブルに皿を並べる中真理子がスマホを弄っていたので、手伝ってほしいと声を掛けるところだった。さすがに最近は、自分ばかりが努力させられている気がして、苛立っていた。
「真理子、声が大きすぎるよ。苦情言われたら――」
「だってレノ先生が!」
さっきよりも大きな声で、真理子が叫んだ。真理子の目が、若干血走っているようにさえ見えて、修の心臓がドキリとする。
だがそれよりも、今、レノと言ったか。
「レノが、どうしたんだ」
「レノ先生が……」
真理子が、確認するようにスマホに目を戻し、また修を見た。
その口が、やけにゆっくりと動いた気がする。何度後に思い出しても、修にはその瞬間、世界がスローモーションを刻んだように思えるのだ。レノが世界の中心になったみたいに。
果たして、真理子は言った。
「レノ先生が……亡くなったって」
真理子は信じられない様子で続ける。
「……自殺だって」
仮にも映画化がされていた小説の作家であり、天才小説家と嘯かれていた人間の死だ。センセーショナルじゃないわけが無かった。
数か月はつけていなかったテレビをつける。朝の報道ニュースで、レノと言う名が囁かれている。嘘みたいだ……いや、嘘じゃないのか。
「……信じられないよね」
真理子が、テレビの前のソファに座り込んで言う。
「どうしてなんだろう。だって、誰よりも成功した人だったのに。私、特集で読んだことあるよ。レノがインタビュー受けてた奴。『小説家になれて本当に良かった。夢が叶った』って……それどころか、天才って言われるぐらいだったのに」
何が辛かったのかな、と真理子は辛そうに呟く。
修は何も答えない。涙の流れない目を魚のように開いたまま、真理子の言葉に心を刺されている。
何が、辛かったんだろうか? その答えを持っているはずなんて、無い。
自分は何も知らない。
「……夢が叶っても、死にたくなることってあるんだね。小説家だから、普通の人とは感性が違うのかな」
修が相槌も打たないことに気付いているのかいないのか、真理子は一人で喋り続けていた。
「最後の小説、一体何を書いていたんだろう……そんなに辛いものだったのかな……」
修は目的も無くSNSを見ることはあまりしない。だが今日は、意味も無く見ているわけじゃない。
レノはツイッターもインスタグラムも、個人アカウントは作っていなかった。大学生の頃も、彼女は見た目に反して硬派なことで、多くの人からギャップに思われていた。だって、あの優雅なレノだ。見た目に気を遣って、誰にも馬鹿にされない容姿と佇まいで、おまけに口を開くと、優しいのに不思議なオーラを感じさせる。浮世離れしているのに、それが厭味じゃない。広い世界に発信すれば、それだけファンだとか獲得できそうなものだ。
修は、今になって不思議に思うことがあった。
レノがどうして、修を選んだのか、である。
単純に、一番近かったからかもしれない。あるいは、普通にチョロそうだったからかもしれない。修が先にレノを好きになった。それを敏感にレノが察したのは想像に難くない。レノは他人の心の機微を怖いくらいに理解する。心を読まれているんじゃないかと思うくらい、レノは人の気持ちによく気が付いた。だから、修に好かれていると勘づいた時点で、「こいつに告白させれば面白そう:とか思ったんじゃないかと修は考えている。理由なんていくらでも考えられる。
だが一方で、「修じゃなくていい」理由だってたくさんあるのだ。何しろ、レノは可愛かったし、人当たりも良かった。レノなら、もっと選り好みが出来たんじゃないだろうか?
それに、どうして修と長いこと付き合い続けたのだろう? たかがハツカネズミ相手の実験なら、律儀さなんて必要無い。付き合ってみてつまらないなら捨てて、また別の人間を選び直せば良かった。どうしてレノは、修の自宅にいつも居て、修のいる部屋で小説を書いていたのだろう。結局最後まで教えてくれなかったレノ自身の自宅で書けば良かったではないか。人が居ると落ち着かなくて書けないと、わざわざ修の前で言っていたことだってある。居なくなれってことかよと修がふざけながら言った時、彼女は……抱きしめて来た。
拙い思い出が駆け巡る。修がレノを選んだあと、レノが修を捨てなかった……。
まさか一緒に居たかったとか、そんな理由なわけは無いだろう。
天才小説家の苦悩、裏側、鬼才の挫折。つまらない言葉が、世界を踊っている。あれから数日が経ったが、修はまだ、何かのドッキリかもしれないと疑っている。何冊も買った週刊誌には、レノに関する眉唾な記事が、手を変え品を変え、中身が心底馬鹿らしいのは変わらないまま毎日掲載されている。あまりにも馬鹿馬鹿しくて信用するに値しない。
だが一方で、なかなかに的を射た意見も見受けられた。それは小説の内容や、文体、インタビュー記事などから、レノのパーソナリティを予測したという、動画配信サイトで活躍する自称心理学者による見解だった。
その心理学者によれば、レノは几帳面で、頑固で、自分の意見を曲げないところがある。自分が絶対正しいと思っているからこそ、間違っている事実を突きつけられると、酷く落ち込む。エベレストのように高い理想の持ち主で、理想のためには懸命に努力するが、時折ぽっきりと折れてしまう。
その時折というものが来たのが今だったんだろうか。修は考えながら読む。
それから、レノの文体には孤独が付きまとっていると指摘している。文体は小説家の個性の部分だ。レノの文体は、どこか斜に構えていて、世間を馬鹿にしながらも、何かを切望している。余裕ぶっていながら、どこか切実なところが、孤高を気取った小説家の、心の空虚を表していると言うのだ。難しい言葉を使っても、レノという人間の中身は空っぽで、虎の威を借る狐とも言うべき有様。それがバレるのが嫌だから、天才と称賛され始めた今、プレッシャーに負けたのではないかと。
死人に口なし。この心理学者と該当の記事は、名誉棄損に当たるとしてファンや出版社から講義を受け、瞬く間に無かったことになった。さすがは天才小説家さまで、死した後も、守ってくれる騎士となる人間が多い。修は傍観者として、相変わらず眺めたままでいる。修は騎士にはならない。
そんな修を、舞台に引きずり込んだのは、一本の電話だった。
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