第11話 まな板のコイ
私にとって、現実の恋はまな板の鯉と並行に存在する。つまるところ、見ることも触れることも匂いをかぐこともできるが、中を覗き見ようとすると、それはもう死んでいるか、殺すしかない。生きたまま包丁を入れて内臓をまさぐるのは、料理人でもない私にかろうじて残っている動物愛護精神に反する。既に冷たくなったそれを、指先でツンツン突くか、裏表ひっくり返してつぶさに観察するか、許されているのはそういうものだ。
私の好きな言葉にヴィトゲンシュタインの「語り得ないものには沈黙する他無い」がある。言葉はいつも、表層をなぞるだけ。あるいは表層すら滑り落ちて行く。美味しいという言葉に、一体どれだけの美味しさがあるだろうか? 美味しいと言って、口の中に美味しさが広がることがどれだけあるだろうか? 甘いという言葉に、辛いという言葉に、正当性はあるのだろうか。
私たちは言葉を繰り、言葉に繰られ、言葉のあるところに思考を有する。あるいはカントの言語による思考の違い、色眼鏡理論を思い出す。私たちはあまりにも言葉に縛られ過ぎている。そのくせ、私のように言葉に懐疑的だ。科学技術が悪いのか、科学技術を使用する側に問題があるのか、それと同じ。
冗長になってしまった。本当につまるところ、私が言いたいのは単純だ。
愛とは、一体なんだ?
俯いたまま大人になると言う歌詞を思い出した。学生の頃馬鹿みたいに流行った歌である。最近の若者は悲しい歌が好きだとネット評論家が言っているのを思い出した。確かにそうかもしれない。だが、修ももう大人だ。
マッチングアプリ、一昔前は出会い系などと若干の揶揄や軽蔑と共に語られた代物だけれど、なかなかどうして、昨今は文字通りカジュアルな出会いの場となりつつあるらしい。修の周りでも、マッチングアプリで恋人を作った実例は何件かあった。修自身はそれを、他人事に思っていたけれど。
何故だか知らないが、マッチングアプリは男性側だけ会員料金を取られる場合がある。単純に、女性の登録者が少ないからかもしれない。全員から金を取ろうとすると、アプリ事態の人気の低迷にも繋がるだろうし、取れるところから取ろうという魂胆だろうか。別にいいけど。
あらかたのプロフィールを書き込み、残るは顔写真となる。顔は……正直重要なパーツだ。いい写真が無いものか写真フォルダを開こうとして……手が寸前で止まる。思い出は時として刃物となり、心を傷つけるものだ。
十数秒以上スマホを見つめた末、修は友人たちに尋ねてみることにした。こういうのは案外、他人が撮ったものの方が魅力的であったりする。いかにもな自撮りより、控えめで好印象でもあるだろう。
数時間以上は待ったが、過去にサークル仲間だった一人から、旅行に出かけた時の一枚を入手した。有名な観光地の登山前に、麓で記念として撮ったものだ。確か二年生の時だったか。ぎこちないピースサインと陰に入った地味顔が恥ずかしい。だが、それが逆に誠実さを表していなくもないと、自分のことながら思った。これで行こう。
意外なほどトントン拍子に話は進む。とりあえず趣味が同じ人でも見つけようと思っていた矢先、一人の女性からコメントがついたのだ。一瞬ドキッとするも、穏やかそうな笑みの顔写真と真理子という名で、何故だか無性に安堵する。今週の日曜日に早速会ってみようと駅で待ち合わせる運びとなった。
そして現れた真理子は、アイコンと寸分違わないぬるい雰囲気で、修を待っていた。普通過ぎて、むしろ気後れするくらいだ。
うさぎのように穏やかな瞳に、やや低めの鼻、雀のようにちゅんとした小さな唇。
若干の印象の薄さはあるが、充分整っていて美人の部類に入るだろう。髪は肩口より下あたりで、右側だけ耳にかけているのか癖がつき、前にくるんと跳ねている。身長は平均程度で、修よりやや下だ。
マッチングアプリをしている女性と言えば少しガツガツした印象があったのだけれど、それすらない。慎ましい雰囲気で、どうしてマッチングアプリなんてやっているのだろうと不思議に思うほどだ。
「こんにちは」
手持ち無沙汰にスマホをいじっていた真理子に、先に声をかける。真理子はサッと顔を上げると、安心したような笑みを浮かべた。
「こんにちは……修さん、ですか?」
「はい。そちらは真理子さんでよろしいですか」
「ええ。真理子です」
軽く自己紹介を済ませ、互いに見つめ合う。やはり、どちらかというと物静かで誠実そうな人だ。そう思っているのかばれたのか、真理子がくすりと笑って顔を逸らす。修はキツネにつままれたような、居心地の悪さを感じた。
「えっと、あの……」
「ふふ、すみません」
真理子が顔を上げ、口元を手で隠したまま弁解し始める。
「皆さん、私を見ると同じ顔をされるんです。あ、皆さんって言って乎、全部で三人ぽっちですけど」
「三人って言うのは」
「修さんを入れて三人です。初めて一年くらいなので」
一年で三人目なのは、果たして多いのか少ないのか。これで一人目の修には分かりそうもない。
「見た目が大人しそうだからですかね。マッチングアプリをするのは派手な人だって、誰が決めたんでしょう」
「すみません。どうしても先入観があって……」
「いいんです」
それに、と真理子が微笑んで続ける。
「それに修さんがいい人そうなので安心しました。どうも、これまでは気が合わなくて」
「いい人に見えます?」
「あ、よくある『優しそうな人』って意味じゃないですから。本当にいい人そうだと思って。人柄って外見に現れる分もあるじゃないですか。身だしなみがきっちりしている人が中身まできっちりしているかは分かりませんけど、身だしなみが整っていない人の部屋は大抵ぐちゃぐちゃじゃないですか。少なくとも修さんは、一定ラインは超えてる感じがします」
「……だといいんですが」
ファーストインプレッションが好感寄りなのは、修にとっても良いことだ。こう言っては何だが、彼は一刻も早く恋人を作りたかった。誰でもいいとまでは言えないから、こうしてマッチングアプリで手順を踏まされている。
一つ気になって、修は真理子に尋ねる。一刻も早くとは言っても、修は遊びたいわけじゃない。
「あの、どうしてマッチングアプリなんかしてるんですか? そんなに恋人が欲しいとか?」
真理子はまた、朗らかに笑って答えた。
「親が結婚しろってうるさいんですよ。私も別に本気なわけじゃないですけど……まあ、否定する理由も特に無いので」
親孝行だな、と思った。それで、修はとりあえず交際を続けることを決めた。
真理子は穏やかな女性で、裏表も無いように思えた。都内で受付嬢をしているらしく、見た目には気を遣っているが、拘っているわけでは無いらしい。特に趣味と言えるものは無く、強いて言うならぼんやりするのが好きらしい。デートを重ねるうちに親しくなり、三ヶ月で同棲もし始めた。
「前から思ってたんだけどさ、修」
二人で新たに契約したアパートで、真理子がふと不思議そうに口を開いた。
「どしたん?」
「いや、修って、身の回りのこときっちりしてるよなあって。お皿も溜めないし、服も毎日アイロンかけるし。珍しくない?」
「……そうかな。今は男女平等なんちゃら社会じゃん。自分のことは自分でやらないと」
「あー、まあね」
真理子が「文句をつけたいわけじゃない」と前置きしてから言う。
「でもさ、しっかりしてる人に会うと、ちょっと委縮するじゃない? もっと頑張らなきゃって思わせられるって言うか。私はぶっちゃけ緩めに生きていられたらそれでいいかなって感じの人間だからさ。たまにめちゃくちゃ怒られるんだよ。待ち合わせに五分遅れたくらいでキレる人とは、ちょっとそりが合わない」
真理子が不安そうに目を細めて修を見た。修は肩をすくめる。五分くらいでという意識がまず問題な気はするが、修は別に遅れられても構わなかった。実際、デートの待ち合わせで待つのは、修の方が圧倒的に多かった。今は一緒に家から出るから問題ないけれど。
「俺も根っこはそうだよ。今はちょっと頑張りたかっただけ。たまにあるだろ、やる気に満ち溢れて色々できる時」
「あー、燃えてる時ね」
真理子が確かにと呟いた。
真理子といると、燃え上がるような楽しさには襲われないが、とにかく一緒に居て気が楽だった。緩い人間同士だからかと思ったが、多分そうじゃない。
真理子は、修と同じだ。いわゆる普通の人間。普通の感性を持って、社会に巻かれて生きていく。
そもそも、普通の人間は得体のしれない使命感を帯びていたりしない。小説を書かないと死ぬなんて、その思考回路が心底おかしい。
おかしかったのに、当時はおかしいと思っていなかった。まるで洗脳だ。価値観がずれたまま、修は奇妙な空気に当てられて、危うくそのまま終生まで歩いて行くところだった――いや違う。
彼女は最初から、修を捨てるつもりだった。時限付きの恋愛だったのだ。最初から。
そう思うと、今こうして修が真理子と居るのも、彼女の描いた既定路線に思えてきて、気味が悪い。一体どこまで、彼女のシナリオ通りだったのだろう……いや、考えるのはやめよう。一体何のために、こうして新しい恋人を作ったと言うのか。
真理子はほどほどに修に優しく、ほどほどに自分を優先した。一番最初にデートを断られた時、修は死ぬほどショックだったけれど、埋め合わせとして招かれたレストランのコースが美味しくて、この人とは長くやっていけそうだと思った。
トントン拍子に信頼は積み重なる。両親を黙らせるためにと、真理子によって実家に連れていかれたこともあった。さすがに真理子の両親から、結婚の単語を聞いた時はドキリとしたが、隣に居た真理子が照れくさそうなので悪くないと思った。人生は長い。面白さよりも穏やかさを求めるべきだ。賢人は快楽ではなく苦痛無きを求める、と言うではないか。
だが一点、どうしても無視できないことがあった。いや、無視するしか無かった。
それは真理子の趣味だった。
ある日、真理子がダイニングテーブルに大量の積読を置いていたので驚いた。いや、真理子が小説を読むことを、修は全く知らなかったのだ。
小説に親を殺された人みたいに、修は酷く動揺する。それを鉄仮面で覆い隠すように、至って冷静を装って、修は真理子に尋ねる。
「ねえ、この本は? いっぱいあるけど」
「ああこれねえ。久々に本屋に行ったらつい買いすぎちゃった」
「……本、好きなんだ」
「今時珍しい?」
「ああ、まあ……」
「確かに修が本読んでいるの見たこと無いなあ」
真理子がからからと笑う。なんと答えようか数瞬迷って、修は当たり障りの無いことを口にした。
「字がたくさんあるの苦手だからさ。頭爆発する」
「もったいないなあ。面白いのに……ああ、これらは全く読んでませんけどね!」
それから数週間以上、その本たちは机の上に山積みのまま放置された。買ったはいいものの、買って満足したらしい。いわゆる積読とやらになり果てた小説は普通に邪魔だ。いつの日か修は、勝手に真理子の部屋まで運んでしまった。ベッド脇の床に容赦なく本のタワーを積み上げる。よく見ると、背表紙に担々麵の汁が飛んでいる。昨日食べた。
読まないうちに汚れてしまった本を、何となく手に取る。SFだ。凝っていて読みづらい作家の名前に舌打ちして、それを積読の頂点に戻す。これが読まれる日は来るんだろうか。
その後、真理子と話していて発覚したのだが、彼女はどうも結構な本好きである。積読は作るし読まないといけないなんてことも思っちゃいないが、最低でも月に三冊くらいは読むとのことだ。特に何らかのランキングとか賞を受賞したものは欠かさず読んでいるらしい。好きなジャンルは恋愛小説だけれど、最近はミステリーも読み始めた。「ミステリーって考えながら読む?」と尋ねられたので、修は一言「まず読まない」と答える。真理子はお勧めだと言って、分厚いハードカバーのそれを手渡してきた。困るからやめて欲しいのだが、真理子は生粋のオタク気質である。自分の好きなものを布教したくて堪らないらしいし、語り始めると止まらない時がある。
それと推し作家がいるらしく、SNSでフォローしている。読書日記等を確認して、これから読む本の選定にも利用している他しい。後は単純に、面白いからだそうだ。「小説家はやっぱり呟きまで面白い。変人だし」と言っていたのが興味深かった。まあ変人だ。
ジャンルを固定というよりは、好きな作家の書いたものを追いかけているという読書スタイルである。そのせいで小説好きではあるが、世界観とも言うべきものが固定化されがちで、若干悩んでいるらしい。選り好みは良くないということだ。
それから驚いたことに、これまでデートを断られたのも、そのうちの何回かは好きな小説家の新作だったりサイン会を優先していたせいらしかった。たかだか小説ごときより彼氏を優先して欲しかったところだが、それは口に出さない……いや本なんていつでも読めるし買えるのだから、やっぱり彼氏を優先するべきでは?
修はあの一件以来、興味の無かった小説を、意図的に避けるようになっていた。だから、真理子が小説好きであることも、最初は戸惑った。その上、奇妙な偶然が心底憎らしく、馬鹿みたいな妄想さえ頭に浮かんだ。
もしこれが、レノの呪いだったら。彼女の未練がかけた修への最後の呪い。
そして、そんなわけ無いだろと、苦笑がこみ上げてくる。そんなわけ無いだろ。
幸い、小説というものはその性質上、趣味としては自己完結している。本を読むのにパートナーは要らないし、ただ本と自分が居れば、それで良いのだ。なんて閉じた世界だろう。人見知りの人間が本を読むのも分かると言うものだ。教室の隅っこで本を読む人間なんて、本当は小説が好きなんじゃなくて、一人で居るのが暇すぎるだけなんじゃないのか。それは偏見か。だが本を読む時間があるなら、外に出て街を歩けばいいと思う。小説よりもリアルな世界が広がっている。
真理子との交際はそれからも順調に進んだし、修の本嫌いが真理子を困らせることは無かった。
言葉の上滑りに過ぎなかった結婚が、本当に実現するまでに。
そもそも両親への挨拶まで、とっくの昔に済んでしまっていた。花婿というステージを通り越して、もはや家族みたいに可愛がられている修は、真理子の実家でよく酒を飲まされる。義父と飲む日本酒は辛くていい。
それでも夜景をバックにしたプロポーズくらいはしたほうが良かったのかもしれない。そう後悔している修を、真理子は笑って肩を叩いて来た。
「いいよいいよ。そういうの面倒だし。高い店とか、綺麗なダイヤモンドとか、私たちには似合わないって」
「そうかもだけど……節目だしさ」
「節目なんて気にしたら、逆に壊れそうで私は嫌だけどな。結婚はゴールじゃないってよく言うじゃん。変に盛り上がらせると、その後が怖い」
確かにそうである気がした。それにこういうのを気にするのはどちらかというと女性の方だ。真理子が気にしないなら、それでいいのだろう。修が拘る必要なんてない。
だがふと、真理子がおかしそうに口元を隠して笑った。
「修ってさ、たまに女子っぽいこと言うよね。なんかロマンチストって言うか」
「そうかな」
「そうだよ。なんか私らあれだよね。男女逆みたいな。私、仲良くなると男っぽいって言われるんだよね」
「確かにお転婆気味かも」
真理子が「おい」と肩をひっぱたいて来た。自称サバサバ女は世間で嫌われがちだが、真理子は本当にサバサバしているので、友人も実のところ多い。結婚式の招待客が多くなりそうで、修は頭を抱える。さすがに結婚式はやる。
その結婚式の招待状を、真理子とああだこうだ言っている時、真理子が飽きたからとスマホを眺め始めた。彼女はインスタグラムを開くと、ただ何となく画面をスクロールし始める。気持ちは分かるが、もう少し集中して欲しいものだ。
「真理子……」
「あ、待って。来月の新刊情報もう出てるから」
真理子が慌てたように、修を手で制した。そこまでされずとも、修だって止める気は無い。
「新刊ね。推し作家のやつはある?」
「やー……あ」
真理子が何かに気付いたように、その画面をタップした。何かを拡大して、目をスマホにこれでもかと近づける。近視なのだ。その口元が、オタク特有のニヤケを呈する。
「あー! うわマジ嘘! 信じらんないっ!」
テンション爆上げである。一体何が、そんなに嬉しいのだろう? 追っている作家でも、ここまで喜んでいるのは今まで見たことが無い。
「どしたん?」
「え~、だってレノ先生の新刊出るって! ちょーっラッキー」
「……え?」
「レノ先生だよ。知らない? ほら、最近、映画化で話題になってたじゃん。その前から有名だったらしいけど、私は映画で知ってさ。もうめっちゃ良かった!」
真理子が友人と見に行ったとか言う奴だ。最近忙しかった修は、内容も聞いていなかった。ジャンルは多分、恋愛とかだったとは思う。
だが問題はそれじゃない。
「……映画、小説」
「なんか天才小説家とかめっちゃもてはやされてるよね。そのせいで逆に読みたくなかったんだけどさ。我ながら逆張り馬鹿だから。でもまあ、流行り物にはさっさと乗っかったほうがいいって言う、普遍的事実ね」
真理子がやれやれと肩をすくめた。
だが修の目には、それも届かない。
「……そのレノって、顔写真とかあるっけ?」
「無いけど、なんで?」
「……いや、聞き覚えのある名前だなって」
「そりゃあそうでしょ。今話題の作家なんだから。修、ほんとに知らないの? まあ最近忙しかったけど」
その通りかもしれないが、修の言いたいのはそうじゃない。
「ほとんど個人情報の出てない作家なんだ。覆面作家ってやつだね。男か女かも分かってない……あ、でもファンの考察によると女性なんじゃないかって」
「……なんで分かるの?」
「ん-、確か『この繊細でいてウザったくない人間描写は女性じゃないと無理だ』って、バズったツイートがあって。フェミからの批判リプすごかったけど」
まあ小説の文体で性別が分かるなんて、そんなのは眉唾だなと思う。けれど、二者択一ならば半分の確率で当たってしまう。
まさか結婚前に、よりもよってこのタイミングでかの名前を思い出されるなんて。やっぱり呪いなんじゃないか?
「はぁ~、レノの新刊楽しみだな~」
これから度々、横でそう言われることも鑑みて。
修はもともと、行動の遅い人間だった。夏休みの課題は計画性も無くだらだらやって、最終日の三日くらい前から死ぬほど焦るのが常だった。だが卒論に取り組んでいた一年で、教授とのメールのやり取りや締め切り厳守の書類により、体質から生まれ変わった。
考えるより先に体が動くと言うよりは、考えるより先に体を動かす、という方が正しい。修は無鉄砲な人間ではないから無鉄砲な人間を演じなければやっていけない時がある。
放っておくという選択肢が、何故だか選べなかった――いや、訳は分かっている。どうしても、心の中でさえ認めたくない。それだけだ。
自分勝手な足が、すたすたと進んでいく。辿り着いたのは高級賃貸マンションの一室だ。デザイナーズ物件なのか、ほとんどガラス張りで中が見えている。少し意外に思うような、彼女らしいような、複雑な心修に陥ってしまう。ぼうっと、何秒も眺めてしまう。
時間さえ忘れられたなら、きっと何時間だってそこに居た。けれどここに居て、突っ立っているのはリスクが高い。敵前で無防備を晒すようなものだ。
目を閉じて、昔を思い出す。あの頃の……やりきれない気持ちを。
どうか、強く居させてくれ。神様。
彼女の性格を考えるならば妥当ではあるのだが、昼間から玄関が開いている。鍵がかかっていない。
インターホンを押せばいいのに、押すべきなのに、修はどうしてかそうしない。どうしてか? 理由なんてわかっている。わかっているけれど。
修は黙って足を進める。相変わらず、綺麗に家を整えているらしい。昔はよく、勝手に部屋を掃除されたものだ。思い出すと口元が勝手に上がりそうになって困る。緊張感が削げてしまう。鏡みたいなフローリングに、修の冴えない顔が薄く反射している。不法侵入者を咎めもしないこの家は彼女に相応しい。主がそうだから、家がそうなのだ。
ややあって、人の気配がした。聞き覚えのあるタイピング音。雨音のように絶え間なく、流れるように叩く音。彼女の思考と、生存の証だ。
とっくにわかっていたことなのに、少なからず絶望が顔をもたげる……絶望? 自分は何を望んでいたんだろうか……望んでいたのか。
溜息を吐いて、首を静かに横に振った。こんな感傷は遠くへ投げ捨てたい。
こんなのはただの執着だ。ゴミみたいに、投げ捨てて消されるべき産物なのだ。
今日はこれを捨てに来た。捨てに来たのだ。
修は静かに足を進める。何歩か進んで日の下に晒され、全身が彼女の世界に入る。
脳裏で思い描いていたのと寸分変わらないレノが、窓際のデスクに居る。椅子に腰かけて、視線はパソコンを一心に見ていて。外から降り注いだ日光で、天使みたいな神々しさすらある。うっかり目を焼かれてしまいそうな、変わらない……変わらない。
また黙って眺めてしまう。眺めるとは間違った表現だ。修はいつも、彼女に対しては見惚れてしまうのだから。
果たして、何がそうさせたのか。なんらの起因も無いのに。
レノが顔を上げた。
「うわぁあっ!」
レノはらしくもなく大きな声で驚いた。勢いあまって椅子から落ちて、書斎机に隠れて見えなくなる。さすがの修も慌てざるを得ない。
「ちょ――、レノ!」
すぐさま駆け寄ると、レノは机と窓の間で頭を抱えて蹲っていた。痛みからか「ううっ……」と小さく唸っており、修が顔を覗き込むと、目尻に雫が滲んでいる。泣いている。
「……えっと、大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ……!」
若干の怒りが滲んだ声でレノは言った。潤んだ瞳がぎょろりと修を捉える。
レノとまともに目が合う。
あの時、彼女から逃げた時、それからずっと逃げ続けてきた目だ。
心臓が止まりそうになる。布に縫い留められたように離せなくなったのは目だけだろうか。心さえ、今にも奪われそうで。
ここに来たのは間違いだったのだと、一瞬にして悟った。だって彼女は、一切にして変化していないのだ。あの頃と変わらない――化け物のまま。
修をいともたやすく絡めとってしまう、神性を宿したまま。
自分は蜘蛛の巣に飛び込んできたのだ。修はどうしようもなくそれを確信しながら、逃れられない。
「どうして君が居るの」
睨むような目に、喉が詰まる。
「それ、は……」
言わないと、言わないと。
わかっているのに口が動かない。動いてくれない。体が消えてしまったみたいに、脳だけが宙づりにされているみたいに、心だけが叫ぶ。
でも言わないと。
「……それは――」
「ああ、そう言えば結婚するんだっけ君」
思い出したようにレノが言う。
「もしかして婚約報告? わざわざ来たの?」
どこか胡乱な目でレノは言うが、それはそれとして口ぶりは淡々としていた。
修は気づく。これは、自分の求めていたものでは無い。
こんなの……こんなの。
「それにしてもピンポンくらいして欲しいな。パソコンほっぽり出して壊れたらどうするの? データが飛んだりしたら地獄だよ。まあクラウドに自動保存されてるのもあるけどさ。たまにバグって全部消えたりするじゃない。ああなったら責任とれる?」
修の内心にも気づかないのか、レノは責めるように言う。
「まあいいか。鍵してなかった私も悪いしね。よく怒られるよ」
「……誰に?」
不意に言葉が出てきて、そんな自分に驚く。でも、こんなことを聞きたかったわけじゃない……こんなことを言いたかったわけじゃない。
「編集さんとか。そうだ。誰にここ聞いたの。まあ大体目安はつくけど」
「……拓弥」
「やっぱりか。彼口軽いよね」
「拓弥には教えてたんだな」
咎める口ぶりの修に、レノが眉根を寄せる。
「教えて欲しかったの? まさかだよね。振ったのは君の方なのに」
「……お前が振らせたんだ」
「その理屈が通用するなら、大概のことは自分以外のせいにできちゃうよね」
全くの正論だ。言い返したいのに、何も言葉が見つからない。
だが、その一方で修は本当に、レノのせいだと思っていた。感情的なだけかもしれない。けれど、あの結末はレノが引き起こしたもので、修にとっては不本意極まりないものだった。そうでなければ、修は今ここには居ない。
レノが大仰に溜息を吐いた。
「はぁ。当てつけで来たんなら帰ってくれない? それとも忠告とか?」
「忠告?」
「結婚式に来るなとか言いに来たんじゃないの?」
押し黙った修を、レノが怪訝そうに見つめた。二年ぶりの再会だから、お互いに勝手を忘れている。そうかと思うと思い出しているから、よく分からない。
そう、修は自分のことが分からない。
どうして放っておけなかったのか。放っておくと言う選択肢だけが、頭の中から消されているのか。
「……分かったから、もう帰ってよ」
レノが心なしか沈んだ声で言う。
「忙しいんだよ。今、とっても忙しいんだ」
「映画化のせいで?」
「……観た?」
「観てない」
「だよね」
レノが微かに笑う。小説どころか映画すら嗜まないなんて、とか思っているんだろう。芸術全般を厭う人間を、レノは心の底から価値が無いと思っている。レノにとって修は、もはやその類の人間だ。
「君はさ、いつまでも被害者ヅラだよね。身を切っているのが自分だけだと思ってるんだ」
ややってレノが責めるように言った。
「ならレノは、自分を加害者だと思うべきだ」
「そうかな。私だって結構苦しいんだけど」
まただ。レノが苦しんでいることくらい修は知っている。
「苦しいならしなきゃいいんだ」
「そう出来たらな」
レノの目が、机上にスライドした。そこには、見たことのない表紙の小説があった。多分、まだ書店に並んでいない分の小説だ。献本とかだろう。
「それで、結婚式どうすればいい?」
レノが凪いだ笑みを浮かべて尋ねて来た。さらさらと流れる渓流のように淀みのない物言いだ。それが気に喰わない自分が気に喰わない。ややあって修は言う。
「来なくていい。ネタにされたら困る」
「分かった」
何故だろうか。たったこれだけの会話で、するべきことは終わった感覚があった。本当に不思議だけれど、何も解決せず、嫌な気持ちのままで。
「バイバイ」
レノのそれで、修は弾かれたように現実を見る。帰ったら真理子が待っている。幸福な日常だ。
「ああ……レノも」
「も?」
「……幸せになれよ」
どうしてそんなことを言ったのか、修はよく分からなかった。
ただレノが心底驚いた表情で固まったのが、家に帰っても忘れられなかった。
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