障子の向こうに

@ninomaehajime

障子の向こうに

 夜の障子の向こうには金魚が泳いでいた。

 病弱で寝たきりだったその家の子は、外に出たことがなかった。日中に障子が開け放たれることはあっても、そこには見飽きた枯山水かれさんすいの庭園があるだけだった。

 月明かりに照らされ、障子紙を一枚隔ててそこにあるはずのない影が浮かび出したのはいつからだろうか。やや丸みを帯びた輪郭をしており、優雅に尾びれを翻している。あれは、金魚だろうか。

 以前、祭りがあった。もちろん自分の足で向かうことは叶わず、代わりに父が金魚を買ってきてくれた。鮮紅せんこう色の鱗が大半を占め、腹の部分が白い。上質な薄絹に似たひれをはためかせ、丸い金魚鉢の中でその子の目を楽しませた。餌をやると、小さな口をしきりに上下させた。

 可愛がっていただけに、ある朝に腹を上に向けて死んでいたときは大いに悲しんだ。欲しがるだけ餌を与え、肥え太った金魚に金魚鉢の中は狭すぎた。逆さまになった金魚は、白濁した目を恨めしげに向けていた。

 閉じられた障子の向こう側に映る金魚らしい影は、本来の金魚とは比較にならないほど大きかった。子供ぐらいの大きさだろうか。しかも何匹もおり、何物にも束縛されることなく自由に宙を舞っていた。

 毎夜、金魚の乱舞を眺めた。これは夢だろうか。日中は寝たきりで、夜は目が冴えることが多かった。あるいは後悔と未練が生み出す幻かもしれない。

 自分は金魚鉢の金魚と同じだ。狭い寝室から出られず、新鮮な空気を求めて喘いでいる。いずれ死が迎えに来るまで、きっとこのままなのだろう。

 月の光に金魚が舞い踊る。向こう側の情景がどうなっているのか、好奇心を刺激された。空を飛ぶ魚などいるわけがない。ならば、障子の向こうは水で満たされているのだろうか。

 布団を這い出て障子の前まで来た。その引き戸を開けることは、その子にとってある種の禁忌となっていた。この幻想的な光景が消えてしまう予感がしたからだ。だから、障子紙に指で穴を空けることにした。

 少しだけ、少しだけなら構わないだろう。障子の向こう側を見せておくれ。

 恐る恐る人差し指を張られた紙に差しこんだ。弾力があり、破裂に近い感触とともに破れた。緊張とともに、丸く穿たれた穴を覗きこんだ。

 ところが、穴の中は白く濁っていた。宙を舞う金魚は愚か、枯山水の庭園さえ見えない。その子はいぶかしんだ。

 白濁した穴がまばたきをした。

 後ろに下がって尻餅をついた。穴を凝視すると、虚ろな瞳がこちらを覗き返していた。その目の色には覚えがあった。

 ああ、これは金魚鉢の中で死んでいた金魚の目だ。

 その一穴いっけつから大量の水が流れこんできた。水の流れの中に色とりどりの金魚の群れがいて、なす術なく水中に没したその子を取り巻く。眼前を、透き通ったひれが優雅に横切った。

 翌朝、自分で出歩くことができないはずのその子が寝室からいなくなっていた。障子紙は一切濡れていないにも関わらず、畳から天井まで水浸しだった。もぬけの殻となった寝間着だけが残されており、その内側には鮮紅色の薄い鱗がこびりついていたそうだ。

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