4.名前星

 ブー、ブー、と絶え間ない振動音が耳音で聞こえる。スマホの振動は床も微睡も揺らして、覚醒して画面を見ると「お母さん」の文字が真っ暗な部屋の中にぽつんと浮かんでいた。


「……もしもし」

「もしもし、お盆いつ帰って来る?」


 通話ボタンをタップしたら、お母さんの声を聞くだけで目が覚めた。スピーカーにしたスマホから放たれる光は砂漠のオアシスのように、暗闇の中の拠り所になる。夜中眠れなかったせいで、今日は一日中寝ては起きてを繰り返していた。昨日泣きすぎて掠れた声に気づかれないように雑談を交わして、しばらくはお母さんが嬉しそうに語る、スマホを最新機種にしたという話を聞いていた。


 話し終えたら、「夏バテしてない?」「誕生日近いけど風邪ひいてない?」と私を案ずる質問を投げかけて、毎年のように「誕生日に運気が下がるなんて私は信じてないからね」と返す。そんなことないとまた話が続いた後、そういえば、とお母さんが思い出したように口にした。


「今日スーパーで渚くんのお母さんにばったり会ってんけど、渚くん、結婚したんやって」


 懐かしい響きに、心が少しノスタルジックな世界に引っ張られる。二つ年上の渚くんは三十一歳。私が中学校から高校一年生にかけて好きだった、中学校のときの放送部の先輩。


「そうなんや」


 自分が二つ上に片想いしていたときは埋まらない二年の差がもどかしくて遠くて、目一杯背伸びをしていたのに、二個下の北斗はどうだろう。出会ったときから女慣れしていて、精神年齢は私よりも大人で、結局は私がずっと気を張って背伸びをしている。追いかけ続けて、必死に隣に立って歩けるように努力して、ずっと片想いしている頃から構図は変わらない。


 二年分の大人の余裕が欲しかった。私が好きなことを知っていながらあしらわれ続けて躱され続けて、でも一番仲良い後輩ポジションに置かれていた渚くんのように。


「もし次会ったらおめでとうって言うといて」


 全部のSNSはとっくの昔にブロックしていた。未練はないけれど、また周りで結婚したという話を新たに聞くには、昨日の今日では重すぎた。


「分かった、言うとくわ。あ、そうそうそれより今日は満月やで」

「そうなん、ベランダ出てみよかな」

「見とき、そんで元気出し。お父さん帰って来たから切るで」

「ありがとう」


 言うが早いかすぐに切られた。頻繁に電話をかけてくるくせに、切るねと言ってから切るスピードは日本一早い。時刻は午後八時。寝すぎて鈍い頭の痛みにリセットをかけたくて、今日もベランダに出ることにした。もちろん、財布を片手で握りしめて。




 満月の日は、お母さんが外に出る確率が上がった。そして、満月の日のお母さんは決まって財布を持ってベランダに出た。確かその日は、お父さんとお母さんの結婚記念日と満月が被っていた。家族で焼き肉に行って、お腹がいっぱいすぎてなかなか眠れないうちにお母さんが寝室にやってきて、その日もベランダに出ていくのを見ていた。


 一分ほどタイムラグを置いて、私もベランダに出る。秋も深まり、ほんの少しだけ肌寒い風は、食べ過ぎて興奮して熱くなっていた私の体温を下げるのにちょうど良かった。音を立てないように近づけば、お母さんは右手で掴んだ財布を空に向かって振っていた。


「何願ったん」

「んー、言うたら叶わんやろ」

「満月に財布振っただけではどっちみち願い叶わへんけどな」


 お母さんの左手が降ってきて、頭に手のひらが乗る。そのまま何も言わずに、ようやくロングになった髪の毛をぐちゃぐちゃにかき回された。


 お母さんの手が頭に乗ったまま、二人で夜空を見上げた。お母さんに教えてもらった星座の一つ一つを見つけていくうちに、お母さんが戻りそうな気配をいち早く察知した。気温が低いせいで、夏よりも滞在時間が短くなったのだ。知らぬ間に表面の熱はずいぶんと奪われていたけれど、まだ寝室に戻りたくはなくて、首を動かせないまま前を向いてお母さんに問いかけた。


「お母さんは、なんでお父さんと結婚したん」


 当時、小学四年生だった私は初めて好きな人ができた。友達には両想いで付き合っている子もいるような、男女を意識し始めた年齢だった。深夜のベランダは、普段なら絶対に聞けないことを聞いてしまえる特別な力が働いていた。


「んー、あの人も星が結構好きでな、何かの漫画の影響らしいねんけど」


 お母さんがお父さんを「あの人」と呼んだのは、後にも先にもその一度きりだった。普段はパパとか、お父さんとか、私と同じ呼び名で呼んでいたから。


「昔から寝る前にベランダに出るのが好きやったねんけど、ある日あの人と一緒に夜空見ててんか。それでそん時に思ったねん、ああ今私あの人と同じものを見てんねやって。そしたら何か不思議でな、ずっと一緒におりたくなってん」


 お母さんは私の頭をゆっくりと撫でながら、一言ずつ、まるで恥じらう乙女のように言葉を紡いだ。思えば、これがお母さんとベランダに出た最後の日だった。成長して、一人部屋を切望した私の願いがようやく叶って、物置だった部屋を私の寝室にしてもらえたのが、この年の冬のことだった。




 静かに窓を開けてベランダに出る。昨日よりも気温は低く、湿度も低い。そして度々吹く風が暑さを和らげてくれて心地良い。いざ財布を手にしても、何を願っていいか分からない。数分逡巡した後、一つの答えにたどり着いた。私が願いたいことは、ずっと一つだった。


 月に向けて、財布を握った右手を高く上げる。他の人よりも気づいてもらえるように背伸びをしながら、指先で財布を持って左右に振る。


「北斗の夢が叶いますように」


 もし、隣にいるのが変わらず私だったらもっと良い。だけどそれは願わない。自分で努力して隣の席に居座り続けなければ意味がない。北斗の夢に関しては、私は何の役にも立たないから、こうして月に願うことくらいしかできない。だけど、嬉しい時に見せてくれる無邪気な笑顔を見られたら、もう何でもいい。


 何度も何度も、財布を落としそうになるくらい夢中になって振っていると、ふいにポケットの中が震えた。


 スマホの画面を思わず二度見した。あれから一つの連絡もよこさなかった北斗から来た着信だった。


「もし、もし」

「もしもし」


 電話越しに聞く声は生で聞くよりも少し低くて、ほんの少し滑舌が悪くなったみたいに聞き取りづらい。


「昨日ごめん」


 北斗は、私とは違って「ごめん」を滅多に言わない人だ。北斗の「ごめん」には他の人の五倍くらいの真剣さが乗っている。北斗に謝らせてしまったという事実が、また私の胸を締め付けた。


「私の方がごめん」


 昨日が会うの自体、声を聞くの自体が久々だった。謝るためだけにこうして電話をかけてきてくれたことが、両腕で抱えきれないくらい嬉しい。


「今日満月で綺麗だなって思って、そしたら声聞きたくなった」

「私も今ベランダ出て見ててん」


 ぎこちない空気が、すぐ隣にいるときのような居心地の良い空気に変わっていく。肩と肩を寄せ合って、夏なのにくっつきすぎやでと言いながら、私の誕生日の計画を立てているときのような気安さが二人の間に流れていく。


「二人で作った星座覚えてる?」

「んー、実はあんまり。私ら適当に作りすぎやん」

「はぁ? 俺は全部覚えてるけど」

「嘘や」


 北斗が空に指を差したのが分かった。電話をしながら未だに財布を天に掲げていた私は手を下ろして、北斗が口で説明する指の先を見つめた。


「こと座、見てるよ。夜の散歩行くとき、俺は毎回」


 ――知ってる? あの星、見つけた人が奥さんの名前を付けたんだって。

 ――そうなん? ロマンチックやなぁ。

 ――やろ。俺星見つけるのはたぶん無理だけど、作ることならできるよ。


 あの日の言葉と繋がって、私の中で明確に輪郭を持って輝く。矯正されていく関西訛りに覚えていた寂しさも遠さも、全部吹き飛んだことを覚えている。それは今日も同じだった。


 ――こと座はもうあるやん。

 ――字が違う。俺らだけの星座、発見者は俺。


「忘れたから、教えてーな」

「胡音」


 耳元に唇が近づいて、私の鼓膜を震わせた。ささやくときの、吐息が多めなその音は熱の塊になって、私の中で声になる。その声は頬に熱を与えて、背中で微炭酸を弾けさせて、指先で輝く。繋がっている。大好きな声で、大好きな身なりで、大好きな笑顔を向ける人と、今私は確かに繋がって、隣で指の先を見つめている。


「北極星を指差してください」


 カーテンが揺らめいて、夜空の光が私を白く照らす。知らぬ間に別世界にやってきたことを自覚しながら、真っ直ぐに人差し指を北の空に向けた。私の目にはどんな一等星よりも輝いて見える北極星は、指先に触れそうなほど近くにあった。


「差したよ」

「おっけ、じゃあ始めるよ」


 指先が、星々同士を線を繋いでいく。私たちは、同じものを見ていた。

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就寝前は、ベランダで。 朝田さやか @asada-sayaka

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