3.懐古
二時間かけて帰宅して、寝間着に着替えて、メイクも落とさないままベッドに横になってから、一体何時間が経過したのだろう。北斗からの着信もメッセージもない。今更私から何を送っていいのかも、メッセージを送る距離感でいられているのかも分からない。
寝ようとして目を閉じたら、整理しきれていない出来事や感情が目蓋の裏に貼り付いて、目元が熱くなった。溢れ出した、胸を痛めつける感情は次から次へと連鎖して現れる。気を紛らわそうと読み始めた文庫本は、一章ごとに現実世界に引っ張られてしまって、そのたびに枕が濡れた。アイシャドウなのかファンデーションなのか何なのかが混ざって、真っ白な枕が薄肌色やオレンジがかった色のシミに浸食されていく。
目を閉じても寝られなくて、本を読んでも心の自傷行為は止まなくて、なす術もなかった。明日の仕事が休みなことが唯一の救いかもしれない。遂には本を読み切って読後感に浸ろうとすると、幸せになった主人公を攻撃したい気持ちが湧き上がってどうにもできない。体の内側に自分では到底制御できない魔物を飼っている。
普段は私の精神を養分にして生きていて、その分私は生命力を奪われている。その魔物がひとたび牙を剝けば思ってもいないことで相手も私もを傷つけて、自分で自分の心を痛めつけるしか回復方法がなくなってしまう、厄介な奴。
さすがにこのままでは完全に覚醒してしまっていて寝られない。夜行性の魔物は太陽には弱い。寝て日光を浴びれば幾分かは楽になれるはずだ。
寝るために一度電気を消した部屋は真っ暗だった。その暗闇の中で一筋差す光。カーテンの隙間から差し込む月明かりに呼ばれている気がして立ち上がり、窓際に移動する。そういえば、この家に引っ越してから、洗濯物を干す以外、一人でベランダに出たことがなかった。
昔からの癖で、盗人さながら音を立てないように窓を開ける。ベランダ用のサンダルに足を入れて手すりのそばへ。空には星が瞬いているけれど、ここよりもうんと田舎の実家ほど星は良く見えない。街の明かりが夜空を邪魔して、ここがただの家のベランダでしかないことを自覚してしまった。
子どもの頃、寝る前にベランダに出る時間は特別だった。お母さんとお父さんと一緒の寝室に向かうと、大抵お父さんは先に寝ていて、お母さんは私よりも後に入って来た。お母さんが入って来る前に寝てしまっている日もあれば、お父さんのいびきが煩すぎて寝られない日もあった。
お母さんは寝室に入ると、お気に入りの赤い携帯電話を充電器に繋いだ後、ベランダに出ることがあった。お母さんが半分だけカーテンを開けると、月明かりや星明りが薄らと白く部屋に差す。
がらがら、と網戸も掴んで動かす音がして窓が開いた瞬間、ひやりと頬を優しく撫でる風が寝室に入り込む。もう半分のカーテンが風に当てられて僅かに揺れる。後ろ手で窓を閉めてベランダにもたれかかるお母さんの姿は白く微かに光っていて、窓が別の世界の入り口になったように思えていた。
眠たさの入り口に立っていた私がもぞもぞと重たくなりかけた体を動かして窓に近づく。取っ手に手をかけると、言い表せない高揚感が胸の中を巡った。元の世界に帰ってこられるように用心しながら、自分の体の分だけ、音を立てないように窓を開ける。その頃の私は、窓を開けるときに音を立てれば別の世界の住人に連れ去られて帰ってこられないかもしれないと、本気で思っていた。お母さんはどの日も決まって空を眺めていた。
「風が気持ちいなぁ」
蒸し暑い夏の日も、寒くなりかけた秋口も、風の温度は心地良かった。お母さんの前世はきっと動物か気象予報士で、たぶん外気が体にフィットする日を本能的に理解していたのではないかと思う。私がその機会に巡り合うのは一ヶ月に一度の頻度もない、年に五回ほどのことだったけれど。
「あの星綺麗」
「どれどれ、あー、北極星やな。道に迷ったときに、昔から目印に使われてるやつやな。みんなが頼りにしてる星」
「一番きらきらしてる!」
お母さんは昔、星を眺めるサークルだか部活だかに入っていたらしく、たまに私が質問すると大抵のことは教えてくれた。高校の理科の範囲に収まるくらいの知識は持っていたと思う。そんな風にお母さんの隣で二言三言会話を交わしては、あとは二人とも空を眺めて静寂に身を委ねていた。
寝る前の静けさに溶け合うように、風はそよそよと優しい。お父さんやお母さんが帰ってきて、外までおかえりをしに出たときよりも、空に浮かぶ星は増殖して輝きも増していた。遠く遠く、触れも届きそうもない星が、ぐんと近くなるような感覚がした。
やっぱり、窓がゲートに変わっていて、すでに別の世界に来てしまっていたのだと思う。お母さんが「そろそろ戻ろうか」と言うまでの時間にすれば十分弱の空間は、私にとっては十分に大冒険だった。
夜になっても外は蒸し暑いままで、風の一つも吹きはしない。星は、私をどこか別の場所へいざなってくれる存在なのだとどこかで信じ込んでいた。けれど、それは子供の頃に抱いた幻想に過ぎなかった。
私と北斗の共通の推しはあるアーティストで、名前に星と月が入るその人は、夜空や天体や星に関わる曲ばかり書いて歌っていた。お母さんの影響で天体が好きになった私はその人がバズった曲で一気に好きになり、MVを全部観て、ライブにも行くようになった。界隈用に作ったSNSアカウントで知り合って、ライブに一緒に参戦したのをきっかけに仲良くなったのが北斗だった。
その人のファン層の多くは十代や二十代の女性だったから、メッセージ上でのやり取りをしていたときは北斗のことを女性だと思っていて、初めて会ったときには腰を抜かしそうになった。当時女子高に通っていて男の人に面識がなかったせいで緊張しすぎて、何を喋っていいのかもどう動けばいいのかも分からなくて、呼吸をするのでさえ変なところに力が入ってしまうほどだった。
一方北斗は古参で、ライブにも女性にも慣れていて、私が居心地の良いように適度な距離間で接してくれた。ライブの熱気の中で段々と緊張はほぐれていったものの、途中からは別の感情が見え隠れし始めたことを自分で自覚し始めた。
合いの手を入れる声も、小さくダンスをする身なりも、気を遣えるところも、時折肩と肩が触れそうになる熱さも。その日、ステージの上よりも、プラネタリウムを模した天井の星空よりも、鮮烈に記憶に残っている思い出の全てが物語っていた。
思えば、私がそのアーティストの曲を一番聞きこんでいたのは、高校三年生と大学一年生の二年間だった。北斗に片想いをしていた二年間。北斗が受験生になる年に抑えられなくなってこぼれた思いを通話越しに伝えて、了承してもらえるまでの期間。
北斗が受験生をしていた二年間は、ほとんど恋人らしいこともしないでただ待っていて、北斗が東京の大学に進学して、そのまま東京で就職してからはずっと遠距離恋愛。周りの友達から次々と幸せな報告を聞いて、私一人だけが取り残されていく。
北斗の一番は私ではない。仕事が安定するまでは、結婚の二文字が相手の口から出ることはない。下手をすれば、今まで待った倍の時間をまた待つことになるかもしれない。別の人を、と思ったことがないわけではない。それでも、別の選択肢を選びたくないのは知っているからだ。たとえ不幸になったとしても、これ以上好きな人に出会えることはないと知ってしまっている。
北斗が浪人した一年、一度別れを告げられて他の人と恋仲になろうとしたこともあった。けれど、色々な人を紹介されたり、知り合ううちに、北斗以上に話が合う人も、他の人を気遣える人も、夢を持って真っ直ぐに進む人もいないということだけが分かってしまった。
誰かほかの人で埋められるくらいの小さな好きの気持ちなら、どれだけ良かっただろう。会うたびに、言葉を交わすたびに、好きだと全身が叫んでしまうのは、ストッパーが存在しないほど感情が揺れ動くのは、北斗しかいない。
一番最初に見つけてしまう星。空で最も存在感を放つのは間違いなく北極星だ。
数年前までは、よく二人で夜空を見上げては、でたらめに星と星を繋いで星座を爆誕させていた。私に合わせて、二人で作ったのはスイーツや果物の星座ばかり。
胸の奥にある宝箱から取り出した思い出に対して、知らぬ間に自分の口角が上がっていることに気づく。少し温度の下がった風が心地よくほほを撫でて、耳にかけていた髪の毛が落ちる。涙の跡に優しく絆創膏を貼ってもらったように思えて気持ちが救われる。
今ならようやく眠れそうだと感じて、部屋に戻る。布団に潜り込めば、眠気が静かに私に忍び寄って、夢の世界に誘われた。
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