2.喧嘩
「今日は何があったの?」
北斗が置いた銀ナイフが、切った光を鋭く反射する。空手二段の北斗に思い切り突き飛ばされたみたいな気分になる声。寄った眉が視界に入ればさらに身体が縮こまって、食べ切った皿に視線を落とす。残るはメインディッシュのスイーツだけ。前菜盛り合わせが運ばれてきたときからブルーベリーのレアチーズケーキを一番の楽しみにして食べ進めていたはずが、気分は重い。
「……なんもないで」
「なんて?」
大学に進学してからの七年間ですっかり東京に染まった北斗が、「な」のアクセントが強く、「ん」に落ちる関西弁に戻った。しかし、感じられるのは近さよりも遠さだ。怒気とため息の混ざったその聞き返しの言葉に、心臓が無理に圧縮されていく。
「特になんもないで」
こういうときは、はっきりと言うに限る。とはいえ思ったよりも大きな声が出て、パーテーションで一机分の区画に区切られただけの小さなフランス料理店では、隣の家族の雰囲気を壊していないか気になってしまう。
「ここ食べれるんない」と周りを気にすることを知らない幼い子どもさんに、「今日はママの誕生日やから」となだめたその子のパパさんに「そんなこと言わんで」と焦った様子のママさん。時折隣に意識を向けたときに微かに聞こえるやり取りには幸せが混ざっていて、微笑ましく、心が重くなった。
「嘘やん、さっきから口数少ないし、また声小さーて聞こえにくい」
少しずつ心に降り積もったすれ違いや、言えない気持ちや、誰かの幸せは私の自信を奪っていく。どうしてだろう、標準語の方が変化と距離を感じるはずだったのに、今は関西弁の方がよほど強くて威圧感を感じて遠い。先程よりも多いため息の分量で、私に対する億劫さを感じ取らざるを得なかった。
「ごめん、そんなつもりなかったんやけど」
「久々に会ったんやから、楽しくおろうや」
ふぅ、と唇を尖らせて、ゆっくりと息を吐き出す。普通に呼吸をすれば、心は押し潰されて割けてしまいそうで、涙だけは流すまいと思っての行動だった。北斗と出会ってすぐの大学時代は会うたびに泣いていたけれど、社会に出てからは多少メンタルが鍛えられて、六年も経った今は人前で泣くこともなくなった。
自分の感情を上手に逃がす術を手に入れていたはずなのに、北斗の前になると上限も下限もなく感情が揺れる。大学時代から変わらない、私が泣き出す前のやり取りをまた今日も繰り返していれば、今にも見捨てられそうな不安に掻き立てられる。
「ちょっと仕事で失敗してん、上手くできんくて、引きずってるかも、ごめん」
「そんなん忘れとけって、誰かのせいにしとけばええやん」
「……うん」
必要以上に失敗を引きずる性格も、昔から変わらないまま。何も成長できていないまま、七年が経ってしまった。片想い歴を合わせれば、もう九年。八歳上のいとこが結婚した歳を超して、まだ何も持ち合わせていない私。大学時代に何か月かの記念日に来てから都度都度訪れている、北斗の地元のフランス料理店。未だに、会いに行くのは私の方だ。
一足先にデザートが運ばれた隣から、ハッピーバースデーの合唱が聞こえる。発音の良いパパさんと、ひらがなを追って明るい声で歌う子供さん、二人の声はハモるみたいに重なって、私たちの背景を通り過ぎていく。
「お待たせいたしました」
店員さんの声で、意識が目の前のテーブルに戻った。食べ終えたお皿はいつの間にか下げてくれていて、俯いていた視線の先にレアチーズケーキとレモンティーが現れる。
「めっちゃおいしそう、写真撮って投稿してええ?」
失礼いたします、と下がったのを見届けてから北斗に問いかける。
「ダメやろ、なんかあったら困る」
言葉の裏の、「今更何言うてんねん」が私に当たる。
「よな」
一口貰おうと思っていたフォンダンショコラさえも全てが輝きを失っている。平坦で、口の中へ入れる瞬間までのわくわくをそぎ落としたスイーツは、全く美味しそうではない。甘いものと推しが全部解決してくれると思っていたあの頃の気の持ちようだけ失って変化してしまった。
「なんか悪いことしてるんかな」
「なんて?」
北斗のその言い方は、私から発言する勇気を奪う。大したことがないように、発話したことさえ曖昧にするように、私は「んーん」と首を振る。目の前のデザートに夢中になっている振りをして無駄に画角を変えて写真を撮りまくる。写真に収められるたび、何かが減っていって、どんどん美味しさが損なわれていくようだ。
「言うて」
私が何かを言えるように背中を押すというよりは、上から無理に押さえつけて押し出そうとする言い方。
隠したくないという素直な気持ちは、道を歩くときも、仕事をするときも、料理を作るときも、MVを見るときも、近頃は常に胸の中でくすぶっていた。
スマホの画面の表示が二十時に変わり、その十秒後に通知がやってくる。北斗の呟きが予約投稿で全世界に発信された。通知をタップすると、発信から一分も経たないにもかかわらず既に何十ものハートをもらっている。昨日の夜の東京駅の写真に実家に帰る文面が添えられていた。私もハートをタップして、その数多の一つに埋もれた。
北斗は学生時代に起業して成功し、今や若い実業家としてテレビに出たり、インフルエンサー的な立場にある。
交際していることは秘密するという二人の取り決めで、表立ってデートすることはできない。私が高校三年生、北斗が高校一年生のときに推しのライブを通じて出会ったときは、お互いに大きな夢を語っていた。
北斗は学生のうちに起業して日本一の大富豪になりたいと言っていたし、私も有名局のアナウンサーになってたくさんの人に色々なことを届けたいと言っていた。
寝る前の通話中、普段よりもお互い低くなって溶けそうな声で、密やかに人生の設計図を描いていく作業をする時間が一番好きだった。いつか有名になったら、週刊誌にすっぱ抜かれよーぜ、と言って笑うあの時間が。
「言いな」
頑張り屋さんなところが好き、と言っていた北斗は、夢を叶えられずにただの公務員になった今の私のどこが好きなのだろう。
「今日も実家に泊まるん」
気づいたら口からこぼれていたのは期待のうちの一つ。回りくどくてめんどくさい言い方は、私の性格そのもの。口が音を発していることを自覚した瞬間に動きが重くなって、尻すぼみになった。それが余計に粘着しているような言い方に思えて、自己嫌悪に陥る。もっと長く一緒にいたいという気持ちを可愛く真っ直ぐ伝えられない自分を直視したら、また胸が苦しくなった。
「せやな」
離れたくないという気持ちを持ち合わせているのは、私だけなのだろうか。えらくさっぱりとした同意の中に含まれた意図を読み過ぎてしまって、その三音を躱すことができなくて、真正面から私の心にぶつかる。思ったよりもダメージは大きく、会心の一撃は私のライフを零にする。
「大して私とおりたないなら、わざわざ会わんでええやん」
駄目だと反射的に理解するのに、口は止まってくれなかった。嘘ばかり、本音と逆のことばかり言うこの自我を持った私の口は上手く飼いならせなくて、終わりだと悟る。
「そんなこと言ってないやん」
「だって今日も泊まって行かんやん、もうええわ」
私ばっかり、という言葉をすんでのところで飲み込んで立ち上がる。今日一番の大声で、結局壊してしまった。北斗は「ちょっと」とか何とか言うけれど、その言葉に含まれるのは焦りではなく呆れの感情だ。顔は見れずにカバンを掴んで歩き出す。お店を出て、外に出たら反射的に駆け出していた。
本格的な夏の入り口に突入した夜は湿気が多く、全身で拒絶したくなる空気が肌に纏わりつく。走れば、ものの数分で汗が噴き出して念入りに時間をかけたメイクが崩れていく。それでも足を止めることはできなかった。止まったら、ぎりぎり崖っぷちで耐えている私が、私でいられなくなる。
後ろから靴音は聞こえない。やっぱり、追いかけてきてはもらえないのだ。
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