咲くや、此の花。
五色ひいらぎ
「桜の樹の下には屍体が埋まっている」
添付ファイルを開いた瞬間、ひどい落胆に襲われた。一方で、落胆する自分を奇妙に冷静に見つめる自分もいた。毎年のいわば恒例行事だ、珍しくもないことだ――冷静な方の自分は、他方を宥めているのか突き放しているのか。自分なのに判然としない。
『桜の木の下には死体が埋まっている。そう書いた作家がいたそうだ』
北都立志大学人文学部文芸創作学科・小説初級講座、慣例の初回提出課題「『桜』をテーマにした短編小説」。生徒は毎年入れ替わるはずなのに、必ず一人はこのフレーズを使ってくる輩がいる。年年歳歳花相似たり、歳歳年年人も相似たり。
当該部分をマウスで選択し、校閲コメントを入れる。
『著名な引用や常套句に頼らないこと。拙くとも自分の表現を模索しなさい』
少し考え、苛立ち混じりの一文を付け足す。
『原典の表現は、桜の「樹」の下には、です。出典元への最低限の敬意として、引用は正確に行うこと』
あえてこの学科を選んでおきながら、借り物の、しかも不正確な言葉で冒頭を飾ろうとするなど。この生徒は、高い学費を払っていったい何をしに来たのか。自分が学生の頃は、己が作品を、言葉を、生きた証として残すのだと息巻いていた気がするが。いまどきの学生はこんなものなのか。
読み進める気が起きず、自室の窓の外を眺める。五月の連休を前に、北の地の桜は半分ほどが花開き、残る半分も弾けんばかりに蕾を膨らませている。
午後は講師同士の花見に誘われている。綺麗な景色でも浴びて、いちど気分を切り替えたい。
決めれば指は軽くなる。ファイルを閉じてPCを終了すれば、軽快なメロディが一つ鳴った後、画面は静かな黒に包まれた。
◆
北都公園で午後一時。集合までには余裕を見た時間で、自宅を出た。
住宅地のそこかしこで、電器メーカー工場の敷地内で、七分咲きの桜が微風に揺れている。街中がこれだけ花にあふれているなら、あえて花見に集まる意味もないかもしれない。
眺めつつ、思考は遊ぶ。家々の庭に立つ樹が、工場の入口に居並ぶ樹が、それぞれ醜い屍体を抱えていたなら――先の文章に引きずられているとはいえ、平穏な春の景色に、残忍な想像を重ねるのは愉快だ。それ以上に、美しい言葉を反芻すれば満腹感がある。物質ならざるもので胃が満ちる感覚は、誰に話しても理解されたことはない。だが、確かにそれは美味く――
思考に沈みながら歩いていると、不意に何かに当たった。跳ね飛ばされて尻もちをつく。上体を起こしつつ前方を確かめれば、薄汚れた老人がひとり、同じ姿勢でアスファルトから身を起こしていた。べったりと絡まった灰色の髪、黄ばんだシャツ、ダメージと呼ぶには粗雑に過ぎる破れ方のジーンズ。横に転がる半透明のポリ袋は、土に汚れた空き缶やペットボトルで三分の一ほどが埋まっていた。
反射的に声が出た。
「気をつけろ」
言いがかりだとは解っていた。考えごとに耽っていたのは自分の側だ。だが哀れな老人は反抗の色も見せず、背を丸めて縮こまった。そして卑屈な目を泳がせつつ、くぐもった小声で無実の罪を謝った。
「……すみ、ま、せん」
老人はポリ袋を拾うと、路面を向いてうつむいたまま、私の横を緩慢に歩き過ぎていった。右足を、わずかに引きずっていた。
◆
立ち寄ったコンビニエンスストアで、缶の酎ハイを数本買った。少し遠回りをすれば、まったく同じものをディスカウントストアで幾分安く買える。だが今は、数十円のために歩む路を変える行為が、ひどく卑俗に感じられた。
薄紅色の缶――意匠が「桜」であるとは、認識したくなかった――を無言でレジに置けば、浅黒い肌の店員が、たどたどしい日本語で訊ねてくる。
「フクロ、オツケシマスカ」
エコバッグを持ってこなかったことに、この場でようやく気がついた。憂鬱に頷けば、液晶画面に映った合計金額が三円増えた。
「アリガトー、ゴザイマシタ」
終始一言も発しないまま店を出ると、どこかから拡声器の声が響いてくる。そういえば選挙が近かった。ひび割れた大音量で連呼される候補者名を、私は意識して耳の外へ締め出した。
片言の挨拶、拡声器で撒き散らされる名前。何の意味も成さぬまま、虚空で死んでいく言葉。悔やみのひとつも捧げてやりたいと、そのとき私はたしかに思った。
◆
公園入口でスマートフォンを確かめれば、時刻は十二時五十分だった。
百本ほどの桜を擁する公園は、この時期にだけ人が増える。今日も各々の木の下に、シートの上で飲み食いしている集団がいくつか見えた。
同僚たちはすぐに見つかった。約束の顔ぶれは、既に半分ほどがビニールシートに座っている。傍らには個々人の持ち込んだ、統一感のない飲物が並ぶ。「とりあえずビール」を嗜好に踏み込ませることを、この場の誰も望んではいない。
私も腰を下ろし、残りのメンバーを待つ。他愛ない世間話の隙間に、背後のグループの声が聞こえた。
「桜の木の下には、死体が埋まってるんだぜ」
「えー、なにそれ」
「これは信じていいことなんだぞ。桜の根の下に――」
酔い混じりの声を思考の外へ締め出そうとすれば、今度は同僚が話しかけてきた。
「そういえば、今年もいました? 『桜の樹の下には』を引いてくる学生」
「一人目からそれでしたよ」
同僚は乾いた笑い声をあげた。
「それだけ広まるような言葉、俺も遺したいもんですよ。そうしたら、生まれた甲斐もあったってもんです」
なぜだろうか。
彼の言葉に混じった、わずかな死の匂いのためか。今朝からずっと、あの文章が頭にあったためか。
確かに私は、彼が桜の根に囚われるところを見た。枯枝のごとく年経た根が、十重二十重に胴に巻き付き、体液を啜っているところを見た。
祓うための言葉を探し、口にした。
「桜の下にあるのは、本当には土ばかりですがね。借り物のイメージで満足できる、学生たちの気が知れません」
「でもある意味、土も屍体ですよね」
ぎょっとする私をよそに、同僚は屈託なく笑う。
「だってそうじゃないですか。葉っぱが落ちて死んで腐葉土になる……そう考えれば真実をついてますよね。ちょっとニュアンス変わっちゃいますけど」
根の檻の中で笑う顔。いたたまれず上へと目を逸らせば、七分咲きの桜が花弁を揺らしている。薄紅の霞が風に撫でられ、波を打ってさざめき合う様が、私は急に恐ろしくなった。
地に落ち腐った無数の葉を喰らい、この花々は生まれてくる。
根の先に、醜悪な屍体はないのかもしれない。だが確かに、無数の何かが死んでいる。枯れ落ちた葉、斃れた虫、獣。おびただしい小さな死は、ただ花の養分となり――
「どうしました?」
絡みつく根の中、同僚はなおも笑う。ああ、なぜ見えている檻に気付かない。
いや、自分も、既に囚われているのかもしれない。
私も同じなのだから。花の養分でしかない身なのだから。
――桜の樹の下には屍体が埋まっている。
はじめて世に出てから、その短い言葉は幾年月咲き続けてきたのか。
その数十年間、どれほどの言葉が桜のために捧げられてきたのか。
ほぼすべての言葉は死に、腐り、存在さえも認識されず、不朽の花数輪だけがただ咲き続ける。
「あ、電話です。ちょっと出ますね」
同僚が、スマートフォンを耳に当てる。なにごとかを口にしている。相手の声はよく聞こえない。片側しか届いてこない会話が、おそろしく虚しいものに感じられる。
生まれた端から死んでいく言葉。相手の耳に届いた瞬間、役目を終えて無に還る音。
それが言葉なのだ、と、悟った口振りで語る者がいる。奇妙に冷徹な、もうひとりの自分。
空疎な謝罪も。型通りの片言の挨拶も。ところかまわず撒き散らされる拡声器の音も。生み出され続けるおびただしい言葉は、生まれた端から蒸発し消えていく。
焦る己が、抗弁を試みる。けれど組み上がらない。持っているはずのピースが、互いに合わさらない。
――それが言葉の本質であれば、私はなにをやっている?
生まれた瞬間に消える言葉と、不朽の言葉。後者を求めていたはずだ。だがどうやって。隔たりはあまりに大きく、何が両者を弁別するのか見当もつかない。
「だから、この公園には百人分の死体が埋まってるんだぜー!」
「うっそー、それすっごい殺人事件ー!」
げらげらと響く、野卑な笑い。
不意に、可笑しくなった。
不朽の言葉でさえ、時が経てば鮮烈な輝きは卑俗に曇っていく。死なぬものはあるのかもしれない。けれど、腐らぬものなど、ない。
ひとり笑っていると、同僚が肩を叩いてきた。
「ふたり遅れるって連絡あったんで、始めちゃいましょう。乾杯、これでいいですか」
軽い空気音と共に、彼が缶酎ハイを開けた。紙コップを差し出せば、見る間に薄赤の液体で満たされた。
「……乾杯!」
ほのかに着色料で染まった酒を、高く掲げる。他の紙コップの端と、次々触れ合わせる。
周りでは相変わらず、酔客の騒ぎ声が響く。陽気な歓声は春の青空へ消え、百本の桜は陽に白く輝く。騒がしい言葉は生まれた端から虚空に散り、微風はただ温かかった。
【了】
咲くや、此の花。 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki
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