虫と閑寂

たくあん魔王

虫と閑寂

 あれはクリスマスが過ぎた頃だった。ありえないことだと、私は全身に怖気おぞけを感じて洗濯かごを落とした。ぺちゃっと水を多分に含んだ布たちが、徐々にベランダに染みを広げていく。

 そんな私の状況など知って知らずか、興味が無いのか、はたまたそこまでの知能は持ち合わせていないのか──土色のバッタは物干し竿にしがみついたまま、微動だにしなかった。

 五階建てのマンションの最上階。積もるほどではない雪が降る中、私は洗濯物を掻き集めて部屋へと戻る。布団叩きを持ち出して追いやることも考えたが、布団叩きにバッタが触れたという事実を残すことの方を嫌ってできなかった。

 こんな初冬の、雪が降るような寒さの中、このバッタが生き残ることはないだろう。明日になれば、ひっくり返っているかどこかへ姿を消すに違いない。そう願いながら、私は部屋の中で洗濯物を干すことにした。


 翌日。私はバッタのことなどすっかり忘れて、ビタミンᎠの生成のために、朝日を浴びようとカーテンを開けた。が、一気に不快感が押し寄せる。物干し竿にしがみつく、六つの細長い足の虫がいたからだった。

 虫はどうして皆、おぞましい造形をしているのだろうと、調べる気もない疑問を抱いた。すぐさまカーテンを締め、今後の洗濯物は部屋干しにすると心に誓う。そのためには、たとえ財布の中が軽くても、部屋干し専用の洗剤を購入することをいとわない。視界に虫が入ることの方が許せなかった。

 虫という存在は、子供の頃から嫌悪している。小学生の頃、やんちゃな同級生がカマキリの入った虫かごのふたを開けたときがあった。カマキリは予想外にも、素早い身のこなしで虫かごから飛び出して、茶色を帯びた薄っすらとした羽根を羽ばたかせた。カマキリが飛んだ先は、図書室から借りてきた伝記を読んでいた私の脹脛ふくらはぎまった。絶叫した私は、伝記でカマキリを叩き落とし、教室から離れた。本屋でライト兄弟の伝記を見かけるたびに、私は飛行機でもオットー・リリエンタールでもなく、この嫌な記憶が脳裏をよぎるのだ。

 かつて、まだ虫が平気だった頃。コオロギを素手で捕まえていた事実は、今や改竄かいざんした記憶ということにしている。そうしなければ、虫が手の上で暴れるあの感覚を忘れることはできないだろう。あのようなグロテスクな生物を喜んで捕まえていた日々を、大人になった今は後悔している。

 どこかへ行ってくれと言わんばかりに睨みつけるが、触角すら動かすこともなく、奴は物干し竿を抱き締めていた。今日も部屋干しなのかと、湿度の高い部屋で私は溜め息をこぼした。


 冬だというのに、やけに雨が続いた。正月も過ぎ、子供たちの冬休みが終わっても、洗濯物を干したいタイミング──出勤直前に限って雨が降っている。

 ふと、ベランダのカーテンを見やる。さすがにバッタも息絶えているだろうと思うが、確認しようとは思わなかった。仮にバッタが死しているとしても、その亡骸を私はどうすることもできないのだ。強風に煽られて、そのまま近くの空き地まで飛んでいくのを待つしかない。なら、わざわざ気持ちがしぼむような真似をしてまで、生死の確認をする必要はない。

 しかし、そろそろ洗濯物を日光に当てたいのも事実だった。冬の部屋干しは、一日かけても乾かないものだ。雨が降れば尚更だった。

 近いうちにベランダの様子を見なければならない。気が重いが、腹を決めるしかない。次に曇天が去った日、私はカーテンを開けることにした。


 今度はビタミンDの生成ではなく、別の目的──そう、バッタの存在の有無を確認するためにカーテンを開けた。そして、私は肩を落とした。バッタはやはり、物干し竿にしがみついていた。最初に目撃したとき、奴は左側に顔を向けていたが、今は反対側になっている。相変わらず足は動かないが、凍りついて動けないわけではない。きちんと、わずかだが触角が動き、生命活動を維持していた。

 ふと、私は恐ろしいことに気づいた。ここはマンションの五階で、物干し竿とエアコンの室外機しか置かれていない場所だ。そんな状況で、このバッタはどうやって生きているのだろうと、疑念を抱かざるを得なかった。理由が思いつかず、たった数センチの虫に恐怖して滑稽な妄想を繰り広げてしまう。

 飲まず食わずでバッタが、しかも冬に生存なんてできるはずがない。きっとこの虫はバッタなどではなく、異星人が地球に送った、バッタに擬態した偵察機なのだと、本気で思い込んでしまった。

 しばらくして、そんなはずはないと馬鹿げた想像を振り払う。寝室のベッドに置かれたスマートフォンを手に取り、この虫に関して検索した。

 様々な種類のバッタの画像が最初に現れ、げんなりとしながらもスクロールする。そこで、とある記事が目に入った。

 “ツチイナゴ”と紹介されているバッタの画像を見つけた。それは土色で目の下に縦線の模様があった。今、物干し竿を我が物顔で占領しているバッタと同じ見た目をしていた。

 度々現れる、ツチイナゴという虫の画像を直視しないように努めながら、解説を読む。どうやらこのツチイナゴというバッタ──もとい、イナゴは秋に生まれ、成虫の姿のまま冬を越す特異な虫だった。そんな虫が存在することなど、もとより虫嫌いな私は知らなかった。

 物言わぬ隣人の正体が判明すると、何故か不快感が少しばかり払拭された。そういう生き物なら仕方ないと、私の中で奴の存在をゆるす余裕が生まれた。

 記事によれば、四月以降に本格的に活動するらしい。つまり、春になればツチイナゴは勝手にいなくなるのだ。それまでの付き合いならいいかと、私は洗濯物をハンガーにかけていくのだった。


 手のかからないペット、というにはそこまでの愛着は無く。しかし完全に存在を無視しているわけでもない。毎朝、雨さえ降らなければ窓外そうがいのツチイナゴの姿を見て、ああ、今日もいるなとわざわざ確認してから仕事へ行く。

 バレンタインも終わり、雛祭りも過ぎ、桜が舞う季節がやって来た。カーテンを開けると、マンションや山が屹立きつりつするいつもの景色が広がる。今となっては(決して良い気分ではないが)、ツチイナゴが当たり前にあるものの一つとして存在している。

 道路に目をやると、子供たちが楽しそうに騒ぎながら、彼らが選んだであろう様々な色のランドセルを背負って歩いてく。今の時代は水色や淡い紫、明るい緑とカラフルなものが市場に出回っている。赤と黒くらいしか選べなかった私は、無意識のうちに子供の後ろ姿に羨望せんぼうの眼差しを向けていた。

 一週間が経過した。桜も既に散り、仕事を終えてマンションへ戻った私はリモコンの電源ボタンを押し、ニュース番組を視聴した。よく見るアナウンサーが、明日は例年より気温が高くなると予報を告げる。天気予報を確認し、食事と風呂を済ませ、スマートフォンで好きなアーティストの曲を流しながらその日は過ごした。

 次の日、いつものようにカーテンを開けた。が、思わず目を見張る。物干し竿に、毎日見ていたツチイナゴの姿が無かった。壁にへばり付いているのかと視線を走らせるが、やはり無い。まさかと床に目線を落とすが、引っ越したときからあった汚れがこびり付いているだけだった。死んだわけではないと、ほっとして胸を撫で下ろす。

 暑すぎず、かといって寒すぎもしない、心地よい気温。ツチイナゴが姿を消したことで、今日は外で洗濯物を干せる喜ばしい日のはずだが、胸にぽっかりと穴が空いたような、妙な感覚に見舞われた。

 ベランダに出ると、私は欄干らんかんに手を置いて外の景色を眺める。あのツチイナゴは、近くの空き地にいるのだろうか。それとも、車のタイヤの下敷きになってしまっただろうか。ひょっとしたら、朝早くから元気に虫取りをしている子供たちに、呆気あっけなく捕獲されてしまったかもしれない──どのみち、私には知る由もないことだ。

 当たり前のものが突然に失われるという寂寥感せきりょうかん。それが今、私の身に降りかかるものの正体であると、気づくのにそう時間はかからなかった。つまり、私は生まれて初めて、虫がいなくなったという理由で物寂しさを感じたのだ。

 そろそろ電車に乗らなければ、仕事に間に合わなくなる。私は着替えると、閑寂かんじゃくな部屋を出ていくのだった。

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