テツのこと
尾八原ジュージ
テツのこと
Aくんは高校生の頃、真夜中に自転車で疾走するのが趣味だったという。
周囲に民家と田んぼしかないような田舎に住んでおり、真夜中となれば人通りはほぼ皆無。たまに街灯が立っているだけの無人の道路を、できる限りの全速力でかっ飛ばすのが気持ちよかった。
ある夜、Aくんがいつものように田舎道を爆走していると、物陰からひょいっと何かが出てきたのが見えた。その次の瞬間、Aくんは「誇張でなく吹っ飛んだ」という。気がつくと道路に寝転んで夜空を眺めていた。
体のあちこちが痛かったが、幸い大きな怪我はしていないらしい。どうやら何かにぶつかったようだ。
Aくんは辺りを見回した。
街灯のちょうど真下に、自分の自転車が倒れているのが見える。その近くに投げ出されているものを見て、Aくんは言葉を失った。
中型の雑種犬だった。赤い首輪をつけている。街灯の青白い灯りの下、Aくんにはすぐに、それが近所で飼われている「テツ」という犬だとわかった。そういえば脱走癖のある犬だったということも思い出した。
あわてて駆け寄ったが、ひと目見て「もうだめだ」ということがわかった。ぐったりとしたまま動かず、呼吸もしていない。おまけに首がおかしな方向に曲がっていた。
(どうしよう)
もしもまだテツに息があれば、Aくんは急いで助けようと動いただろう。でも、もう死んでいる。真夜中に家を抜け出していることは、家族には秘密だ。ましてよその犬を轢いたことなど知られたら……。
結局、Aくんはテツを放置したまま、こっそり家に帰った。
自分が轢いたことがばれるだろうか? そのことを考えると心臓が痛いくらいどきどきした。布団に入ったがまるで眠くならず、目を閉じると犬の死体が頭に浮かんだ。結局その夜は一睡もできなかった。
(こんな気持ちで毎日過ごすくらいなら、やっぱりちゃんと名乗り出て、謝った方がいいかもしれない)
熟考の末にそう決めたAくんは、明け方、もう一度外に出た。テツの遺体を回収しようと思ったのだ。
「でも、なかったんですよ。死体」
誰かが片付けたのだろう、とAくんは思った。近所の人が回収したのであれば、きっとすぐに飼い主のところに戻るだろう、とも考えた。
肩を落として帰る道すがら、Aくんはとんでもないものを見た。
テツが歩いていた。飼い主にリードを引かれ、いかにも普段通りの早朝の散歩という様子で、しっぽを振りながらこっちにやってくる。
絶句しているAくんに、飼い主のおじさんが「おはよう」と声をかけてきた。
「あ……おはようございます……」
Aくんはなんとか挨拶を返しながら、足元を歩いていくテツを見た。
昨夜轢いたのは、確かにこの犬だったはずだ。特徴的な模様も、顔立ちも、赤い首輪も同じものにしか見えない。
でも、死んでいたのに。
(死んだ犬が生き返るなんてありえない。やっぱり別の犬だったんだろう)
そう思いながらすれ違い、でもなんとなく気になって後ろを振り向いた。そのとき、こちらにお尻をむけて歩いていくテツの首が、突然飴を捻じるようにぐにゃりと曲がって、Aくんの方を向いた。
牙を剥きだした顔が、笑っているように見えた。
Aくんは自宅に向けて全力疾走した。
「こんなこと誰にも相談できなくて、実は他人に喋ったの初めてなんですよ。あー、スッキリした」
高校卒業後、Aくんは進学のために上京した。多忙を言い訳に滅多に帰郷しないことにしているという。
「もう十年くらい経つんですけど、まだ生きてるらしいんですよね。テツ」
世間はゴールデンウィークだが、今年もAくんに帰省する予定はない。
テツのこと 尾八原ジュージ @zi-yon
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