中1 9月⑧

 今日は放課後職員室に行って、由紀先生に会うんだ。そして、自分の気持ちをちゃんと伝えるんだ。昨日木漏れ日でソラさんに諭されて、双葉ちゃんに励まされて、そう決心して、私は学校に来ました。

 来たはずだったのに。


 給食が終わるチャイムが鳴ります。給食当番の私は、みんなの牛乳瓶が入ったケースを持って、給食準備室に片付けに行きました。自分のクラスの場所に置いて、さあ教室に帰ろうと思った、その時。

「あれ、穂乃果じゃん。」

 聞き覚えのある声に、そして、今日後で聞くはずのその声に、私はギクっとして飛び上がりそうになります。……なんとその声の主は、由紀先生でした。特別支援級の担任をしている由紀先生は、自分のクラスの子の給食当番に付き添って来ていたようでした。なんて運が悪い、タイミングが悪いんだろう。心が一気に灰色になって、ぞわぞわざわざわ音を立てます。

「久しぶりだね、元気にしてた?」

 怒られるかと身構えていましたが、由紀先生は拍子抜けするほどに優しく、穏やかでした。まだ大学を出て数年しか経っていないらしい由紀先生は、いつも元気はつらつとした様子です。その勢いで部活の指導をしているので、私がよく知っているのは、こんなに優しい姿ではなくて、少し厳しい言葉をかける姿です。だから余計に驚いてしまいます。

「愛菜から、最近部活に来てない理由を聞いたよ。夏休みの宿題がまだ終わってないんだって?宿題はちゃんとやらなきゃダメだし、もう中学生なんだから計画的にしないとね。……でも、本当にそうだったの?他に何か、部活を休んでた理由があるんじゃないの?」

 ぎくり、と心の中で響いた音が、外に漏れていないか不安になります。不意に図星を突かれた質問をされてしまった私は、一気に心がぞわぞわ、乱されます。それでも、本当のことを言わないといけない。それは分かっていたはずなのに。

「…………理由は、それだけです。」

 喉まで本音が出かかったのに、そこに石が詰まっているかのように、言葉はせき止められて消えてしまいました。そして代わりに出てきたのは、また苦しい言い逃れ、嘘、誤魔化し。とてもじゃないけど言えない、勇気なんてないよ。なんで言えないんだろう。私は泣き出したくなる気持ちを、首を横に振りながら払いのけようとしました。

「ふーん……。それで、いつから来れるの?」

 またしてもぎくりとしてしまう突然の質問に、焦りと驚きと悲しみと情けなさでぐちゃぐちゃな色になった心は、さらにぐわんぐわんと揺れ動きます。そして私は、空回りする頭を抑えられず、言ってしまうのです。

「きょっ、今日から行けます!昨日宿題終わったんで!」

 ああ、言ってしまった。やってしまった。

「了解〜。じゃあまた放課後にね。」

 由紀先生はぐちゃぐちゃな心の大嵐に振り回されて固まっている私を置いて、行ってしまいました。

 いつもこうなんです。焦ったり、追い詰められたり、突然のことにどうしたら良いか分からない時、よく考えもせず答えてしまうのです。……自分で自分の中のハードルを上げていること、後で自分が対応に追われることを知っているのに。今日はまだ、部活に参加する心の準備は整っていません。この気持ちのまま、一体どうやって乗り切れば良いのでしょうか。そして私はもう一つ後悔して、その場で頭を抱えます。お母さんに部活を休んでることがバレないように、いえ、それ以上に部活に戻るきっかけがあってほしいと願いを込めるように、部活に行きづらくて逃げながらも、毎日部活の用意を持ってきていたことを思い出したのです。もちろん今日も持っています。……気まずい部活に、今日20日ぶりくらいに行かなければいけないことは、もう逃れられないようでした。


 行きたくない、行きたくない、バレーしたいのに、戻らなきゃいけないのに、せっかくのきっかけなのに行きたくない。そんな気持ちでいっぱいだったので、午後の授業は上の空で、全然集中できませんでした。だけど。

「ちょっとの勇気があれば、あなたはできる子なんだから。」

 昨日ソラさんに言われた言葉を思い出します。行きたくない、だけど、逃げる方が絶対、この先気まずいって知っている。ちょっとの勇気を出さなければいけません。ソラさん、双葉ちゃん、お願い!力を貸して!私はすっかり紫色に染まり切った心をどうにかなだめながら、テレパシーを送るように祈ります。

 そんな気持ちの中、迎えた放課後。私は体育館に向かって、重い足取りで歩き始めました。


 体育館に続く渡り廊下を歩きます。一歩踏み出すごとにその振動が心に響いてるんじゃないかと思うくらい、憂鬱です。もう来ている人がいるのか、渡り廊下まで聞こえてきていた誰かの話し声は、体育館に近づくほど大きくなり、私の心を緊張と不安の紫色の嵐で揺さぶります。やばい、先輩だ。何か言われたらどうしよう。体育館の入り口までやっとの思いで来ましたが、私の足は恐怖心で固まり、その場で立ち尽くしてしまいました。動かなきゃいけないのに、足が地面にくっついたかのように言うことを聞かず、ぞわぞわした気持ちに覆われたまま、ただ立つことしかできません。

「あれ、穂乃果じゃん!」

 不意に声がして、驚いて振り向くと、渡り廊下に愛菜の姿がありました。呆然としすぎて、声をかけられるまで近くにいることに気付かなかったのです。愛菜は、私のそばに駆け寄ると言いました。

「どうしてそんなとこに立ってるの?ん、もしかして今日から部活行けるの?え〜ウケる宿題終わったんだ、良かったねマジで。……ほら、何してるの?早く行くよ、先輩に準備させるわけにいかないじゃん!」

 愛菜は早く早くといった様子で私を急かします。その勢いにぞわぞわした心模様も押されて、私の足も動いてくれました。不安な気持ちは変わりませんが、紫色から水色が少し混ざるようになった心のリズムが整ってほしいと願いながら、私は愛菜について中に入ります。


 愛菜と一緒に体育館に入ると、一斉にみんなが私を見ました。一瞬収まっていたぞわぞわがまた外に出てきて、私は足がすくみそうになります。……注目、浴びるのはとても苦手なのです。

「あれ、穂乃果じゃん!」

「久しぶり、あれ、なんでずっと休んでたんだっけ?」

 準備をしていた多くの先輩や同期がこちらを見てヒソヒソ話していたり、一瞬見たものの、知らないですよ、気にしないですよといった様子で元の作業に戻ったりする中、同期の彩音と美空が声をかけてきます。興味本位でしょうか。バツの悪い顔をしながら、今日何度目かの誤魔化しを私が答えようとすると、それよりも前に愛菜が言いました。

「夏休みの宿題が終わってなかったらしいよ。」

 本当の理由はそうじゃないとはいえ、私はもっと気まずい気持ちになります。自分の悪いところをみんなの前で言われるのは、あんまり気持ちの良いものではありません。思わず言い返したくなる気持ちもありますが、今日はそんな元気がなく、私は黙ってままでいます。……それに、あながち嘘ではないのですから。

「え〜、終わってなかったの?」

「そうらしいよ、理由聞いて笑っちゃった〜。」

「ほら2人とも、そーゆうこと言わない!終わって良かったね、穂乃果。」

 彩音と愛菜が“誤魔化し”にツッコミを入れていると、それを美空が注意します。美空はバレー部1年の中で一番優しいです。この春出会ったばかりだけど良い子だなと思います。もっと仲良くなれたらな。

 私がぼんやりと考えている間に、彩音と美空は準備に戻り、愛菜は更衣室に行ってしまいました。私も急いで着替えに行くことにしました。


 練習が始まるまでの間、それ以上私に話しかけてくる子はいませんでした。なんだ、案外緊張することなかったじゃないか、と思いました。誰も私のことなんか、よく分からない、関わりのない人が長いこと部活に来なかったことなんか、気にしていないのです。ほっとしたけれど、なんだかすごく切なくて、私の心は青と灰色が混ざった空模様になります。もう少し何か言ってくれても良いじゃないか、話しかけてくれても良いじゃないか、そんな人はいないんだ。そう思ってしまう自分の心を、認めたくありませんでした。


 練習が始まりました。ランニングの後、キャプテンの優里先輩が「次、パス!」と叫びます。みんなはその声を聞いて、一斉にペアを組み始めます。私はどうすれば良いか分からず、誰とも組むことができず、ぼんやりすることしかできません。見た感じ、どうやら1年生と2年生のペアになるように組んでいるみたいです。積極的な彩音なんかは、「先輩、今日一緒にやりましょうよ!」と自分から誘いに行っています。素直に強いなあと思って尊敬すると同時に、私は焦りと不安を隠しきれず、できたペアの間をウロウロと歩き回ります。どうしよう、今日奇数だ。私、余っちゃった。みんなは、ネットのあっち側とこっち側に分かれて並び、すでにパスを始めています。私だけが取り残されているこの状況に、心のぞわぞわは加速していきます。どうしたら良いんだろう。

「ねえ穂乃果、ペアいないならうちらのとこ来る?」

 ふと声がして、名前を呼ばれて、振り向くと柚乃と千尋先輩のペアでした。ボールを片手に持って、少しぶっきらぼうな言い方をする柚乃に、私は少しだけ怯みます。柚乃は、小バレの時に一緒だった子の1人で、当時はキャプテンをやっていたくらいのしっかりした子です。背は小さいものの、スパイクも打てるし、レシーブやサーブもこなせるすごい子。今の1年生の中では一番上手で、先生からも期待されている様子です。だけど……常に真面目気質な柚乃のことが、私は少し苦手な気がします。そうは言っても、今は入れてもらうほかありません。私は頷いて、柚乃の隣に立ちます。

 

「12!」

「13!」

「14!っ、痛い」

 30回続けるアンダーパスです。久しぶりにやったアンダーは痛くて、ただのパスなのに私は顔をしかめてしまいます。手を組んで腕を出した面の中心は、早くも赤くなってしまっています。この調子だと、今日練習が終わる頃には小さなあざが腕に点々と出来上がるでしょう。私は小さくため息をつきます。その様子を見て、柚乃は「サボってたからだよ!」と涼しげにパスを返しながら言いました。図星です、図星だけど、もう分かってることを言わなくても良いじゃん。私は少し落ち込んで、数を数える声が小さくなります。

「17……。」

「ほら、穂乃果!声もっと出して!」

 すぐに千尋先輩から喝が入ります。千尋先輩も柚乃に似て、とても真面目でまっすぐな人です。きっと私のような、練習に来ない、何を考えているか分からない、サボっている奴なんか、気に障ってしょうがないだろうなと自分でも思います。他のペアが笑顔を見せながらパスをしているのを見て、私はとても気まずい気持ちになります。今、異質な私がいることで、このペアは変な空気になっている気がする。行きづらくても練習に行っておくべきだったと後悔します。

 だけど、もっと後悔したのは、次のオーバーパス30回です。私は、おでこの上に手を構えて、三角形を作って、ボールの下に入り、狙いを定めて腕を伸ばしてパスしようとします。だけど、うまくボールを捉えることができず、回転がかかってしまったり、届かなかったり、ドリブルしてしまったり。なかなか千尋先輩のところまで届くようにパスができません。ずっとサボっていたせいで、今までできていたこともできなくなっていました。

「膝をもっと使って!」

「ボールよく見て、ちゃんと落下点に入って!」

 2人は大きな声でアドバイスをします。言われた通りに直そうとしてもうまくいかず、悔しくて、悲しくて、余計に手がブレます。私のせいで千尋先輩はカバーに回らなくてはならず、なかなかパスは安定しません。周りを見ると、1年生たちは夏休み中よりずっと上達していて、スイスイとパスをしています。基礎が安定せず、1学期は苦戦した様子を見せていた彩音や、正直絶対負けることはないだろうと思っていた栞も、きちんと手を揃えて、体全体を使ってオーバーをしています。前は私、小バレの経験もあって上手な方だったけど、もしかして今は下手くその方に入るのかな。みんなの方がずっと上手に見える。私は急に恥ずかしくなって、顔を覆いたくなりました。心の風船も小さくしぼんで、キュルキュルと音を立てていました。


 時計が4時半を指した時、ガラガラっと体育館のドアが開く音がして、由紀先生が入ってきました。さっき給食準備室で会った時とは違って、優しさや笑顔はなく、腕を組んで、少しピリッとした顔をしているように見えました。私が普段よく見ているのは、この顔をした由紀先生です。先生はそのまま、全体の様子が見えるステージの上に腰を下ろします。

「集合!」

 優里先輩が、それを見て大きな声でみんなに指示を出します。私たちは、駆け足で先生の前に集まりました。

「こんにちは、お願いします。」

「お願いします。」

 優里先輩に続いて先生に挨拶をすると、先生は言いました。

「今日もこの後はスパイクやって、Aチームはシート練。Bは基礎のレシーブ練習ね。11月の大会に向けて、基礎の時間を多めに取るから、1つ1つ丁寧にやっていこう!1年生も、Aに出る実力があると判断したらどんどん出します。学年は関係ないからね!じゃあ以上です。」

「ありがとうございました!」

「ありがとうございました〜」

 先生の話が終わって、私たちは練習に戻ろうとしました。11月に大会があるなんて知らなかった。もうAに出ている1年生はいるのかな。柚乃や真央は小バレの時から上手だったから、出ていたりするのかな。私もまた真面目にやり続ければいつかは出れるかな。……今日は流れで来れたけど、気まずくなってまた行けなくならないかな、大丈夫かな。

 私が考え事をしながら、スパイクの列に並ぼうとしたその時です。

「ねえ、そう、穂乃果!」

 突然大きな声が聞こえました。私の名前を呼ばれたことにビクッとして見ると、由紀先生でした。

「練習に来てなかったのはなんでか、ちゃんとみんなに言ったの?」

「え……。」

 私は思わず声を出してしまいます。そんなこと、なんで言う必要があるのでしょうか。だって、誰も私が来ていなかったことなんか気にしていません。気にしていないから、今日最初に入ってきた時、練習が始まるまでの間、そして練習中、このことについてほとんど誰も、何も聞かなかったのだと思います。それなのに、何を言う必要があるのでしょうか。

「言ってないです。」

 私は素直にそう答えます。疑問を含めて、首を傾げながら。

「いや、言ってないですはないでしょ!言わなきゃダメだよ!きちんと、どうして来てなかったのか説明して、みんなに謝らなきゃダメだ。」

「ごっ、ごめんなさい!夏の宿題が終わらず、部活に来れませんでした!」

 由紀先生は強い口調で、怒鳴りはしませんが圧をかけるように言うと、私をじっと見ました。意味が分からないながら、先生の言葉に恐怖心を抱いた私は、咄嗟に謝ります。嘘じゃないけど、真実じゃないことを言う心のゾワゾワと、先生の言っている意味のわからなさに対する疑問が合わさって、私の心は灰色と紫色の混ざった、不気味な淡い色になりました。どうして、どうして私は謝る必要があるのでしょうか。どうして先生はさっき給食準備室で会った時とは違って、こんなに怖いんでしょうか。どうして私は言いたくもない誤魔化しを、今日何度も言ったり、言われたりしなきゃいけないのでしょうか。……みんなは練習の手を止めて私のことをじっと見ています。逃げ出したくなる気持ちでいっぱいで、泣けと言われたらすぐに泣けるような最悪な気持ちです。どうしてこんなに注目されなければいけないのでしょうか。先生がこんなことを言わなければ、注目されずに済んだのに。

「穂乃果はそんなつもりないって言うかもしれないけど、穂乃果がしたことは、みんなからの信頼を失う行動なんだよ。休む時は、たとえ自分に都合が悪いことであっても、きちんと申し出て、説明をする責任がある。それをしないで、穂乃果は黙って休み始めた。先生はそれでも別に良いんだよ、だけど一緒にプレーする仲間はどうだろう。私たちは一生懸命練習しているのに、あいつはサボってる。なんなんだ。そんな気持ちを持っている人もいると思う。その気持ちのままプレーしてたら、勝ちは目指せないんだよ。小さな歪みでも、それが積み重なれば大きな食い違いになる。一瞬をという時を争うバレーボールで、その食い違いは致命傷になる。だから、謝らなきゃいけないんだ。みんなからの信頼を取り戻すために。今からでも信頼してもらうために。」

 先生は私の目を見て淡々と説明をします。その話を聞いて、私は昨日の木漏れ日で、ソラさんがしていた話を思い出しました。

「信頼できていない仲間とは、ボールは繋がらない。」

 私は、やっと先生の話を理解できた気がしました。心模様はぐちゃぐちゃなままですが、私は精一杯思いを込めて、もう一度みんなに頭を下げました。

「ごめんなさい。」

 信頼できていないっていうのは、一方通行じゃない、双方向なんだって。そう思ったからです。

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