中1 9月⑦
私は呆然としたまま歩いていましたが、木漏れ日に着く頃には少し落ち着きを取り戻したようで、心の色も爽やかな緑色になり、心臓のリズムもテンポが揃い始めました。玄関で靴を脱いでいると、館長さんがやって来ました。またここで偶然会うことになって、しかも私はまた学校帰りで制服のままだったので、ちょっとどころじゃない気まずさを隠すために、今日は私から話しかけることにしました。
「館長さんこんにちは!今日はね、今日はもともと部活がオフの日なんだよ!」
「こんにちは、穂乃果さん。そうでしたか、ではお家には一旦帰ったんですか?」
「えっと、ええ〜と、木漏れ日に行きたくて仕方なかったから、家帰ってお母さんに報告だけしてすぐに来たんだ!」
「それは良かったです。今日も元気に過ごして行ってくださいね。」
一瞬バレたかもしれないと思って焦りの灰色を隠しきれませんでしたが、館長さんが深く追求しないおかげで助かりました。だけど、そろそろネタ切れになることは分かっています。どうしたものか……。私は、館長さんと別れると、心の中の悩みの種に水をやりながら、教室に向かいます。
今日も双葉ちゃんは先に来ていて、私が来ると「おお!」と手を振ってくれました。ソラさんもその声で私に気付いたようで、「こんにちは!」と挨拶してくれます。2人を見て少し元気が出た私は、笑顔で挨拶を返します。
「やっほー双葉ちゃん、ソラさん!聞いて!昨日やった宿題、ちゃんと提出できた!」
「良かったね、穂乃果ちゃん。」
「初めて会った時はどうなることかと思ったけど、私が中学生の時より全然ちゃんとしてるじゃん、偉いよ!」
「……なんかソラさんの言い方ムカつく!見下されてるみたい!」
「私もそう思う。素直に良かったねって言われたいよ、こーゆう時。」
「え……ほんとにごめんね穂乃果ちゃん!」
「謝り方ガチすぎるよ〜」
今日も暖かい言い合いをして、ツッコミあって、ふんわり優しい笑いが生まれます。そして、私は明日も胸を張りたくて、今日出た宿題を広げます。勉強タイムの開始です。
「あー、部活のことどうしよう……。あっ。」
休憩中、ほっとして心がふんわり黄色く輝いたせいでしょうか。私は思わず口を滑らせてしまいました。あっと言った時にはもう2人に聞かれていたようです。
「部活……?」
「穂乃果ちゃん部活やってたの?何部?私は美術部だよ。絵のコンクールに向けて頑張ってるんだ。」
「一応バレー部だよ、一応ね。」
「そうなんだ、すごいなあ、運動部かあ……。」
そう言うと双葉ちゃんは勉強に戻るようで、自分のプリントに目を写し、シャーペンを走らせます。「鬼の数学プリント」と書かれた双葉ちゃんのプリントには、難しそうな問題がいくつも並んでいます。手助けが無くても宿題をきちんとやる真面目な双葉ちゃんには、美術部はぴったりな部活だろうなと思います。
「穂乃果ちゃん、バレー部なんだ……!」
私が考えを巡らせていると、ソラさんがびっくりしたような顔で言いました。
「どうしたの?」
「だって私も中学生の時、バレー部だったから。中学生だけじゃない、高校生までバレー漬けだったよ!高校の時はそこそこ強いところにいたんだから!」
「ほんとに!?」
私がその偶然に驚きを隠せず大きな声を出すと、双葉ちゃんはその声にビクッとして「声大きすぎだよ」と少し困ったような顔をしましたが、双葉ちゃんもソラさんのことには驚いたようで、すぐに元通りになって言いました。
「ソラさんがバレー部だったなんて、今日初めて知ったよ。」
「あれ、言ってなかったっけ?そっか〜体育館で遊ぶ時もバレーをしたことはなかったもんね。」
ソラさんはなぜか照れくさそうに頭をかきながら答えました。
「え、ソラさん元バレ?俺も俺も!今度パスしよ!」
龍騎くん――初日に一番に話しかけてくれた背の高い中2の男の子――も、話を聞いていたようで、嬉しそうに言いました。木漏れ日、人数は少ないのに、思った以上にバレー経験者が多いようです。私は少し嬉しくなると同時に、さっきの学校での出来事や明日のことを考えて、少し気が重くなりました。心の中は、オレンジと紫色が混ざったような空模様をしていました。
話の盛り上がりがひと段落した頃、ソラさんは言いました。
「それで、部活がどうしたの?」
ぎくり、とまた音が聞こえましたが、今度はさっきより緩やかです。なぜなら、私は、ソラさんになら、ソラさんと双葉ちゃんになら本当の気持ちを言っても大丈夫かもしれないと思ったからです。ソラさんはバレー経験者だしズバッと言いつつ私の気持ちに寄り添ってくれるから、分かってくれるかもしれない。双葉ちゃんはまだどんな子か不安だけど、学校じゃない繋がりだからこそ、打ち明ける抵抗が少ない気がするのです。
「あのね、夏休みの途中から部活、行けてなくて。4月に入部して、周りはどんどん仲良くなっていくのに、私はあんまり馴染めなくて……。仲間外れにされてるとかでは全然なくて、みんな優しい。……余ってたらペアに入れてくれたりとかね。だけど、友達になった子同士が、さらに別の子たちとも喋れるようになってて、どんどん輪が広がってくのを、遠くから見てるのは辛すぎた。小バレ……小学校バレーの時の知り合いもいるから大丈夫かなって思ってたんだけどなあ。それに、先輩たちとも私だけうまく関われなくて。なんとなく怖くて避けてたのがダメだったのかな。1学期までは頑張ってたんだけど、ほら、夏休みの練習って長くて、ただでさえきついから、もっと居づらくなっちゃってさ。それで、1日おきに休むようになって、それが2日になって3日になって……行けなく、なっちゃった。」
悲しくて、情けなくて、辛くなった私は、だんだん俯き気味になっていました。途中から2人の顔ではなく、机の上の筆箱が視界に映っていました。
「そうだったんだ……部活、中学生から始まる新しい文化でただでさえ慣れないのに、そこでの人間関係って学校生活の中ですごく大きいから、うまくいかないと辛いよね。私の中学にいる人はほぼ全員、お互いに顔見知りだから、その点は心配いらなかったけど。……新しい環境で、新しいメンバーで、きっと運動部で上下関係とかもあるだろうし。その中で急に適応するなんて、無茶な話だよね。」
双葉ちゃんが、そんな私に優しく声をかけてくれます。
「そうなの!本当にそう!なんか小バレみたいなクラブチームとは違う空気感で、戸惑ってる間にみんなはどんどん先に進んじゃってる感じ。」
「その話、親にはしたことあるの?」
ソラさんの質問で、私はびくっと体を震わせます。心もそれに合わせて悲しさと不安の混ざった、夕焼けみたいな青紫色になりました。
「……できるわけないじゃん!ソラさんだって知ってるはずだ、ここに初めて来た日に、人前だろうと構わず私に大声で説教できちゃうようなお母さんだ。こんなこと言ったら、何を言われるか不安で、考えるだけで怖い。できるわけないよ。お父さんは単身赴任で家にいないんだ。」
「あ……そうだよねごめん。ごめんね。」
ここ最近、お母さんをはじめ色んな人に嘘をついたり、誤魔化したりして苦しい思いをしたことを思い出して、ついムキになって言うと、ソラさんは焦った様子で頭を下げます。
「じゃあ頼れる場所、木漏れ日くらいしかないんじゃないかな?部活行かないで家に帰るとかもしづらいよね、それだと。」
「ここしか頼れない、てか、この話、ここでしか言ってない。」
双葉ちゃんがため息をつきながら言いました。私はいつの間にか顔を上げて、身を乗り出すように話をしていました。
「だからずっと制服で木漏れ日来てたのか。家に帰らずそのまま来て、部活が終わるくらいの時間に戻ってたっていうことだよね?」
「……怒らないで。」
「怒らないよ。3人の秘密だ。誰にも言わない。」
ソラさんの図星な指摘が怖くて泣きそうになりましたが、誰にも言わないこと、怒らないことを約束してくれたことがとても嬉しくて、優しくて、心が風に吹かれて小さく揺れました。
「それでね、明日顧問の先生に呼び出されてるんだ。一体何の話をされるのかいくら考えても分からないし、怖くて正直行きたくないよ。考えるだけで心がぐわんぐわんする……。」
私が一番不安なことを口に出すと、双葉ちゃんは、はっとした様子を見せて言いました。
「っ、部活を辞めるんじゃないかと思われているんじゃないかな?穂乃果ちゃんが今どんな気持ちでいるのか、先生も知りたいんだと思う。……穂乃果ちゃんは、部活辞めたいの?」
「辞めたくない!こんな風だけど、続けたい気持ちは強いんだ。だって、バレーは大好きだから。」
そうです。私はバレーという競技が好きだから、大好きだから、部活を続けたい気持ちはあるのです。小学5年生の時に出会ってからずっと、点を決めた時の感覚が忘れられなくて、病みつきで。……スパイクはまだ打てたことがないけれど、いつかこなせるようになりたい。だから、部活に戻らなきゃいけないことも分かっているのです。
「その気持ちを明日伝えれば良いんじゃないかな?」
双葉が続けて言いました。
「だけど、本当に嫌すぎる。職員室に……呼び出された場所に行ける気がしないよ。」
「明日無理そうなら、明後日でも良い。行ける時、行けそうな時に行けば大丈夫だから。」
「いや、行かなきゃダメだ!明日、絶対に!」
突然の大声にびっくりして、私はボールのように跳ね上がってしまうんじゃないかと思いました。心もその反動で白くなって、不規則に動き回っています。私たちの話を黙って聞いていたソラさんが、少し怖い顔をして叫んだのです。よく見ると、怖い顔というよりは、仏頂面の中に真剣さが混ざっている、といった具合でしょうか。それでも大きな声だったので、他のグループの子たちも一斉にこちらを見て、それに気がついたソラさんは「ごめんごめん」と謝ります。
「ごめんうるさくして。だけど、明日行かなきゃダメだよ。だって、明日行かなかったら、明後日はもっと行きづらくなる。先延ばしにすればするほど、取り掛かるのにも解決するのにもエネルギーがいるんだと思う。部活だってそれで行けなくなってるし、宿題溜めちゃうのだって、やりづらくなる気持ちはよく似てるでしょ?」
ソラさんは珍しく、私の目をまっすぐ見て言いました。ソラさんは普段、人と積極的に目を合わせようとはしません。だから、そんなソラさんが目を合わせる時は、とっても真剣な時だって。それが伝わってきます。
「……分かった。明日行ってくる、行ってくるから。だから2人とも応援してて!」
私はソラさんの本気の訴えに負けて、どうにか、本当にどうにかやってみようと渋々ですが決心します。ソラさんの言うことは本当に図星なのです。何より、ここ最近またバレーがしたい気持ちでうずうずして、でも戻るきっかけもなく逃げて落ち込んでいるのは、本当のことです。このきっかけを逃したら、これからもこの憂鬱な気持ちを抱えることになるでしょう。だけど、勇気を出して行けば、何か変わるかもしれない。気まずいことは、どちらも変わらないけれど。……双葉ちゃんの言うとおり、私の気持ちを聞くために先生は呼び出したんだとしたら、の話だけれど。
「応援してるからね。」
「穂乃果ちゃんなら行ける!ちょっとの勇気があれば、あなたはできる子なんだから。」
2人は、にっこり笑ってエールを送ってくれました。
私たちは、またお互いの勉強に戻ります。そしてひと段落ついて、私の帰る時間が近づいた頃、双葉ちゃんがふと言いました。
「穂乃果ちゃんがどうにか部活に馴染める方法、ないかな。部活を続けたい気持ちはあっても、人間関係の問題を抱えたままなのはしんどいよね。……小学校バレーの友達はいるって言ってたじゃん。その子たちとくっつくことはできないの?」
「友達じゃなくて知り合いだよ。」
私は答えます。
「私が小バレに入ったのは5年生の時。その子たちは、ずーっと前、低学年くらいからチームにいて、もうグループみたいなのができてて、入る余地が無かった。それが今も続いてるから、厳しいんだよね。」
あの時も、小バレに入ったばかりの時も今と同じような気持ちになったことがあります。すでに形成されたグループに入っていけず孤立したり、覚えが悪くて下手くそでずっとベンチで気まずい思いをしたり。だけど、その後に入ってきた子と仲良くできたし、得意なサーブは誰にも負けなかったから、今のように悩むことはなかったのです。ひとりじゃなかったから。
「そうなんだ……。」
双葉ちゃんは腕を組んで黙ってしまいます。どうすれば良いか考えあぐねているという感じです。それは私も同じで、私たちのグループには重い沈黙が流れます。心模様も、水色と紫と灰色が混ざったような、ぐちゃぐちゃな色をしています。
「バレーって大変だよね。」
その時、ソラさんがふと呟きました。
「え?」
少し驚いて、そして意味深で、私が疑問を口に出すと、ソラさんは続けました。
「3本以内に相手コートに返球しなきゃいけない。1人が2回続けて触ってはいけない。ボールを持ってもいけない。だから、バレーはコミュニケーションが欠かせないスポーツだよね。もちろんそれはプレー中に形だけでどうにかなるものじゃなくて、普段の仲の良さももろに影響する。信頼できていない仲間とは、ボールは繋がらない。……だから、チームで上手くやれないと、一気に詰んでしまうんだよね。大変なスポーツだよ。」
「……。」
夕焼け色に戻り、だんだんと深い紫色に染まっていく心を抱えた私は、何も返すことができません。
そして、そのまま帰る時間になってしまいました。
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