第29話 羽化

 日差しはまぁ、それなりによかった。


 二週間遅れでやってきた梅雨は、ひっそりと息を潜めて、これから夏を呼びに行くのだろう。いったい誰が頼んだのだか、梅雨がもし、良かれと思ってやってることなら、可哀想だから教えてあげてほしい。


 夏は呼ばないで、と。


 湿度だけが主張の激しい朝、通学路はいつにも増して憂鬱だ。


 景色がぐにゃんぐにゃんと湾曲しているのはきっと幻で、セミの鳴き声もおそらく気のせい。まだもらってもない夏休みの宿題に嫌気が差しながら、校門をくぐり蒸れた靴から解放される。


 教室に入ると、クラスメイトから挨拶をされた。


「お、は」


 この教室で声を出すのは、本当に久しぶりだ。喉が錆び付いて、言葉が突っかかる。


 私の会釈を返事と捉えたのか、クラスメイトは談笑に戻る。


 生暖かい空気が窓から流れてきて、隣の席の人が下敷きをうちわ代わりに扇ぎ始めた。爽快とはほど遠い空気を拡散させているだけの気もするけど、あんまり一生懸命扇ぐものだから、私はカバンを机にかけて、隣の席の人に言った。


「ぷるるんって、言うよね」

「え? 何? ていうか、おはよう」


 キョトンとするみかんさんは、今日も朝が早い。私が登校する頃にはすでに教室にいて、あの湿気だらけの道を歩いてきたにも関わらず汗が滲んでいない。


 いつもより強めの、グレープフルーツの香りがするのは、きっと制汗剤を使ったばかりだからだろう。


「小学校のとき、やってた。し、下敷き、ぷるるんって。おはよう」

「あ、これ?」


 みかんさんが下敷きの両端を掴んで、宙に投げる。ぷるぷるする下敷きを互いに見つめて、笑った。


「ねぇ、みかんさん、昨日お寿司食べにいった?」

「へ」


 文字と同じ形の口。右の頬を噛むと、そうなるのだろうか。


「なんか、胡桃くるみ……妹が、みかんさんっぽい人見たって言ってた」

「あー、うん。言った」

「そ、そうなんだ」


 みかんさんの反応も当然で、だからどうしたという話である。


「スタイル、いいかなぁ」

「え?」

「初めて言われた」


 誰に、と聞くと傷口が広がって、そこから恥という感情が、宇宙空間に投げ出される空気みたいに噴出するので寸でのところで塞き止める。


「背筋が、伸びてるから。まっすぐ、見えるんだと思う」


 私みたいに猫背じゃない。自分に自信があって、人と目が合うことを恐れていない人の立ち姿は、純粋に格好いい。


 ホームルームが始まったので、会話を断ち切る。それでもみかんさんは何かを言いたそうに、先生の話中もこちらを盗み見ていた。


「う、うわっ!」


 そんなみかんさんが、急に飛び上がったので、私も驚いて椅子を引いた。


「け、毛虫だ!」


 見るとみかんさんの机の上で、毛虫がそわそわと動いていた。窓のちょうどすぐ近くに桜の木が立っているので、おそらく風に飛ばされて辿り着いたのだろう。一生懸命首を動かして、捕まる場所を探している。


 細長い円柱状の身体。頭部は黒色、腹部は淡黄色で、身体は白い毛に覆われている。


 梅雨が終わり、七月中旬あたりから活動を始めるその毛虫は間違いない、アメリカシロヒトリの幼虫だ。


 繁殖力は高く、発生すればたちまち葉を食い荒らす害虫とされている。見つけ次第すぐに駆除され、淘汰されていく、そんな存在が、教室の真ん中に迷い込んでいる。


 本当はこんな場所に来ちゃいけない。だって自分は害虫でしかなく、見つかれば駆除されるだけの邪魔な存在。そんなの分かってる。だから少しでも、害虫だと認識されないように、自らの体毛を毟り取ったのだ。


 そうすればきっと、みんなの輪に入れてもらえると思った。だけど結局、毛虫は毛虫でしかなく、蛾は蛾だ。決して蝶になることはない。


 じゃあどうすればいいのだろう。間違っている、異端だ、変、おかしい。レッテルなんて背負いきれないくらい人からもらった。


 もう、居場所なんてないんじゃないかって、きっと、この毛虫もそう思っている。


「ぷるるん、だね」


 ふと、みかんさんが下敷きを取り出して私の方を見た。


「毒って、あるのかなぁ」

「ない、ないよ。葉っぱは食べちゃうけど、人を傷つけるようなことは、しない」

「そうなんだ。じゃあ運んであげよう。乗るかな?」


 みかんさんがそっと、毛虫の前に下敷きを置く。


 毛虫は警戒しているのか、下敷きから身体を逸らして私を見た。同じ弱さと脆さを持っている者同士、惹かれ合うものがあったのなら、それは嬉しいことだ。


 私は未だに強いわけじゃないし、強固な殻を持っているわけでもない。だけど、太陽を直視できるくらい、顔はあげられるようになった。影を見ると安堵した、あの頃とはもう違う。


 どう違うのかと言うと、自分でもハッキリと分からないけれど、自分の中で停滞していた『好き』という感情を外に排出することで、身軽になったのだと思う。


 もちろん、その感情は無害ではないし、時に人を傷つけ、傷つけられることもある。だけど、言ったほうが絶対に良いというのは、自信を持って言える。


「乗るよ、大丈夫」


 最初は足踏みする。それは誰でもそうだ。現状が変化するのは怖いし、何かをするために自分を変えるのはひどく億劫だ。それでもその先にはきっと何かがあるはずだから頑張って、なんて綺麗事は、できる人だけに向けられた言葉だから、私たちには関係ない。


 私たちは結局、地べたを這いずって、誰にも見つからないように隠れて生きているしかないのかもしれない。


 だけど、その道中のどこかで、誰かが手を差し伸べてくれるときがある。


 そういうときは、思い切って頼ってみる方がいい。


 ――目が、合った気がする。


 毛虫はもそもそと短い足を動かすと、みかんさんの下敷きに乗った。


「先生! あたし、この子逃がしてきます!」

「わ、私も行く!」


 先生の小言が聞こえた気がしたけど、止められはしなかった。


 まるで食器の載ったトレイを運ぶみたいに、慎重に運ぶみかんさんは見ていて面白かった。毛虫も居心地がいいのか、その場で丸まっている。


 中庭の木陰に下敷きを置くと、毛虫は木に向かって登っていった。


佐凪さなぎさんと隣の席になってなかったら、この毛虫も、ここにはいなかったかもしれない」


 みかんさんは、木の枝にしがみついている毛虫を眺めながら、穏やかな声色で言った。


「そういうことって、多いと思う」

「そういうこと?」

「なんていうか、知らず知らずのうちに、というか」


 歯切れ悪く、言葉を探すみかんさん。


「意図せずして誰かを救うこと、みたいな」

「……教室戻らないの?」

「えー、いいじゃん、喋ろうよ」


 みかんさんが石段に腰かけたので、私も隣に座った。校舎を見ると、窓から顔を出した生徒と目が合った。さ、サボりじゃないんです本当なんです。


「色々あったけど、佐凪さんは、佐凪さんのままでいてほしい」

「私の、ままで?」

「一生、死ぬまで、好きなことをしていてほしい。好きなものを語っていてほしい。佐凪さんの、そういう純粋で、真っ直ぐなところが好きだから。そんな佐凪さんのこと、あたしはずっと見てたいかな、って」


 最後はちょっとだけ歯切れ悪く、みかんさんは誤魔化すように笑った。


 たぶん、心の中で謝っているのだと思う。重すぎる思いを、投下してしまったから。


 そんなみかんさんの思いを、私はこれから受け止め続けなければならない。どんなときでも、期待や応援を力に変えて、前に進まなきゃいけない。


 考えただけで億劫だ。でも、やめないと誓ったのだから、今更悩むことなんかない。


 やめないことって、どんなものよりも自分の誇りになる。登録者数とか、コメント数とか、そういのも大事かもしれないけど結局、やめてしまえばそれもただの飾りでしかなくなる。


 死ぬまでやめないことって、きっと一番難しい。でも、死ぬまでやめなかったら、それはすごいことだ。


 そんな未来の自分を想像して、ちょっとだけ自信が付く。


 ああ、そうか。


 私、教室に飛んできた毛虫をずっと、可哀想とか、ドジだなって思ってた。他の毛虫はきちんと木の枝にしがみついているのに、こんな高い所に迷い込んでって、思ってた。


 でも違うんだ。


「私も、みかんさんのことずっと見てたい」


 空を見上げると、広大な蒼に、太陽が照っていた。


 いつか私も、羽を生やして飛べるだろうか。そう考えて、夢を見て、希望を抱えて、上へ上へと登り続ける。


 あの毛虫も、同じだったのだ。


「眩しいから」

「それって」


 みかんさんを見ると、ちょうど目が合った。長いまつ毛が精密に交差したあと、水晶のような瞳の中に私の姿が映る。


「好きってことだ」

「うん」


 そして、しっかりと頷いたのが見えた。


 みかんさんに映る、私。


 明日も、明後日も、好きなものを好きでいられるように


 声に出していこう。


 私はもう、一人じゃないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

隣の席のギャルが私を推してた 野水はた @hata_hata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ