第28話 私はそうは思わない
言われている意味が分からずに、お母さんのことを二度見した。
「これは?」
お母さんが目の前のパソコンを指さす。十五万円という値段に思わず声をあげてしまった。
「か、買ってくれるの?」
「今回だけよ」
本当に、そうだろうか。
ピアノ教室をやめたあと、水泳に興味を持って、お母さんに「あれがやりたい」と私は言った。そしてすぐにやめて、また別のことをしての繰り返し。
そんなとき、お母さんはよく、口癖のように言ってていたような気がする。
今回だけ。そうやって、何度も、何度も私は、道を用意された。
そしてそのすべてに通ずる道を引き返して、逃げ道を探した。
「げ、ゲームを、配信したいだけだから」
「そう。なら聞いたほうがいいわね。すみません、よろしいでしょうか」
お母さんが近くにいた店員さんを呼ぶ。
「ほら、あなたが言いなさい、
「あっ、えっと、配信、とかしたいんですけど」
「ああ! ゲーム配信とかですか?」
「は、はい……」
「それでしたらこちらのコーナーに揃っていますよ! 今、特集をしているんです。流行っていますよねー! 配信」
「そうなんですか?」
朗らかな笑顔で接客する店員さんに、お母さんが聞き返す。
「はい! やっぱり、いろんな繋がりを持てるのがいいんだと思います! インターネット時代ですねー、あ、こちらになります!」
配信を始めるならこれ! というPOPの下に並べられたパソコンをそれぞれ紹介してくれる。店員さんの説明を、お母さんは真剣な眼差しで聞いて、時々頷いている。
「佐凪、どれにするの」
「え、えっと」
本当に、買ってくれるの?
パソコンを? でも、高い。やっぱり、私のお小遣いじゃ何年経っても買えないくらいの、高価なものだ。
もし、こんな高い物を買ったのに配信をやめてしまったら、私は今度こそお母さんから見放されるかもしれない。これまでとは、ワケが違うのだ。
「これはどう?」
お母さんが、右端のパソコンを指さす。値段は……二十万円。
「た、高いよ」
罪悪感とは違う。
その値段に見合う活動を、私ができるのか、怯えてしまったのだ。
「こちら、モニターやその他周辺機器もすべてセットで売らせていただいているもので、本体のみの値段は十五万円ですね。パソコンを買ってもモニターなどで悩まれる方も多いので初心者の方にオススメですよ!」
でも、良い物にすればするだけ、寿命は延びるはずだ。
私は決してやめないとみかんさんに誓った。安いパソコンを買って、壊れて買っての繰り返しじゃ、活動もままならないだろう。
それに、お母さんが買ってくれると言っているのだから、遠慮することはない。
でも。
「なら、ほ、本体だけ」
「どうして? 全部セットで付いてくるんだから、これにすればいいじゃない」
「全部は、嫌だ」
甘えというには傲慢すぎるかもしれないけれど、この施しは、きっと毒だ。
私はずっと、お母さんのことを、厳しい親だと思っていた。説教はするし、細かいし、そのくせ、俗事に疎い。でも、私の言うことは、なんだかんだ聞いてくれた。
「残りは、私が、買う。お金、貯まったらだけど」
自分の置かれた環境が過酷なもので、自分の境遇は呪われているのだとばかり思って、悲劇の主人公のふりをしていた。
「やっぱり、自分のことだから、できる限り、自分でやるべき、なのかなって。バイトも、するよ、ちゃんと。今回のお金も、ぜ、絶対返すから」
でも、こうやって寄り添い、頼る存在に依存していたからこそ、私はずっと、足踏みを続けていたのだ。
「そう。分かったわ」
結局、お母さんに新品のパソコンを買ってもらった。
会計を終えて、渡された大きな箱は、私の施してもらった物の重さを物語るかのようだった。
車に乗って帰る途中、お母さんが「晩ご飯はお寿司にしましょう」なんて言い出したものだから驚いた。
「く、
「でも、あの子は今日も友達の家でしょう?」
「寿司って言えばくるよ。メッセージ送ってみる」
『晩ご飯寿司』という文章にスタンプを付けて胡桃に送ると、三秒後には既読になって『帰ります姉上置いていかないでください』と返事が来た。
スマホの画面をお母さんに見せる。少しだけ、吐息のようなものが、お母さんの口から漏れた。
「なら、一度帰りましょうか」
家に着くと、早速パソコンを取り出した。部屋に持って行って、説明書を読む。だけどさっぱり、ちんぷんかんぷんで、胡桃と一緒にセッティングしたほうが良さそうだ。
リビングに降りると、もう胡桃が帰宅していた。
「お姉ちゃん、あの袋なに?」
「パソコン、買って貰ったんだ。その、やつ」
「え、誰に?」
「お母さんに……」
着替えたお母さんが、洗面所から出てくる。少しだけ、頬に朱が乗っている。私も私服に着替えて、本日二度目のお母さんの車に乗り込んだ。
今度は助手席には座らずに、胡桃と一緒に後ろに座った。
なんだか、昔を思い出す。よくこうやって、三人でどこかへ出かけていた。ずっと、ずっと昔の思い出だけど。
「お姉ちゃん、配信のこと、言わないほうがいいからね」
胡桃が小さな声で耳打ちしてくる。
「聞いたわよ」
だけどお母さんには聞こえていたみたいだ。ビクッ! と胡桃が跳ねる。
「佐凪の方からね」
「……うん」
胡桃はまだ状況が飲み込めていないようで、私とお母さんを交互に見て目をパチクリさせていた。
お寿司屋さんに着くと、空いているテーブル席に座った。お母さんが向かいで、隣に胡桃が座るといった形だ。
お茶を飲んでから、好きだったツナサラダを頼む。
「お姉ちゃんって、邪道だよね」
「だ、だって、お刺身とか食べられないんだもん」
「どうせこのあとは、えび天とウインナー頼んだあとに、枝豆でしょ?」
「な、なんで分かったの!?」
「寿司来た意味なーい。お母さんも言ってあげてよ-」
私の頼むメニューが、何故か胡桃に不評だった。とはいっても、私と比べると胡桃には常識があって、感性も正常なので、間違っているのはきっと私なのだろう。
お母さんになんて言われるだろうと、届いたツナサラダの皿を取る。
「好きなら、いいんじゃない」
お母さんは上品に箸を割って、なんだかよく分からない白身のネタを口に入れた。
それがどういう味なのか、美味しいのか。お母さんは表情に出さないから、分からない。
「お姉ちゃん、みかんさんとデートするときは、気をつけなよ……ダサイよそんなのばっかり食べてると」
「え、そ、そうなの?」
「うん。そんなおこちゃまみたいなネタばっかり食べる人ともうこれ以上付き合えないってフラれるよ」
「付き合ってないんだけど……」
「みかんさん?」
胡桃と話をしていると、お母さんが反応した。
私は皿の上でひっくり返ったエビ天と格闘しながら、頷いた。
「と、友達」
「最近できたんだってー。配信してるお姉ちゃんのことが好きで好きでしょうがないなんか金髪のギャル」
「そうなの。けど、髪は染めない方がいいわね」
「は、はは……」
それは、そうかもしれない。ときどき、生徒指導の先生から注意されてるみたいだし。でも、あれはきっとみかんさんの未練なのかもしれない。
あの髪も、ファッションも、前に推していたライバーさんの真似なんだって言ってたし。
「でも、良い子だよ。すごく、真っ直ぐで、カッコよくて、でも、純粋で、いつも輝いてる」
金髪ということで悪い印象を与えてしまったかもしれないと思い、弁解する。
「し、しかもね、こーんな、顔、ちっちゃくて、髪サラサラで、スタイルもよくって、か、かわいいんだよ」
「まぁたしかに、あれはモテるね。明らかに別格だもん」
「こ、今度お母さんにも紹介する。たぶん、想像してるような悪い子じゃ、ないよ。その人のおかげで、私も、変われた、みたいなところあるから」
「推し推されだもんねー」
「う、うん。人から応援されて、期待されるのって、ずっと苦痛で、重苦しいものだと思ってたけど、こんなに、あったかいんだって、思えて」
ハッとして、顔をあげる。喋りすぎたかもしれない。エビ天が、すっかり冷めてしまっていた。
誤魔化すみたいに咳払いをして、お茶を淹れる。
「棚にしまっておいた紅茶は、その子にあげたの?」
「へ?」
「お客様に出すようの紅茶が一つなくなってたわ。あれ、佐凪でしょう」
こ、紅茶?
なんのことやら。い、いや? なんか、覚えがあるような。
「あ」
そうだ、そういえば。みかんさんを家に呼んだとき、棚から勝手に出した紅茶があった。
「ご、ごめんなさい」
「謝る必要はないわ。言ったでしょう? お客様用だって」
お母さんは目を伏せると、指をすりあわせながら、静かに言った。
「大切にするのよ」
もしかしたら、そんなつもりないのかもしれないし、私の勘違いかもしれない。だけど、今のお母さんの声は、今までもらったどんな言葉よりも、優しく聞こえて、鼻の奥がジンと染みた。
私の行動、選択、そのどれもが、ここで初めて、許された気がして、抑えきれなかった。だってそれは、どんなものよりも私が、欲しかったものだから。
「冷めないうちに食べちゃいなさい」
「うん」
胡桃いわく、邪道のお寿司を口に運ぶ。
そのあとも、私はたこ焼きと、パフェを頼んだ。絶対お母さんにダメって言われると思ったし、そう言われた記憶もあるのだけど、何故か今日は、許してくれた。
満腹になって皿を片付けると、タブレットでゲームができるみたいだったのでプレイしてみた。ルーレット式で、当たれば景品がもらえるらしい。
ボタンをタップするとルーレットが回り、赤い、おそらくマグロの寿司であろうマークのところで止まった。すると、座席の上に設置されていたガシャガシャから、カプセルがぽろっと出てきた。
開けてみると、傘のお化けのキーホルダーだった。なんだこれ。
「そういうの、昔欲しがってたわね」
「え?」
キーホルダーを見ると、お母さんがそんなことを呟いた。
「UFOキャッチャーで見つけて、取るまで帰らないって喚いていたじゃない。覚えていない?」
「お、覚えてない……」
「結局、取れずに帰ったのだけど。覚えていないのなら、いいわ」
お母さんはいつも、私と話すとき目を合わせるのに、今だけは、何故か遠くを見ている。そこに何があって、何を思うのか、やっぱり私には、知りようがない。
三人とも満腹になって、会計をすることにした。レジで知り合いの子がバイトしてたということで、お母さんの財布を握りしめて胡桃が走って行った。
残された私とお母さんは、席を立って会計が終わるのを待った。
「ずっと、育て方を間違えたのかと思った」
「え?」
ふと、お母さんが言う。独り言のような、儚い声色だった。
「部屋で毛虫を飼い始めたとき、自分の娘は普通じゃないって思った。親からもずっと言われてた。あなたには感情がない。子育てなんかできるわけがないって」
親、というのは、お母さんの親ということだろう。私のおじいちゃん、おばあちゃんに当たる。しかし、そんなことを言われていたなんて知らなかった。確かにおじいちゃんもおばあちゃんも、お母さんに似て厳しい人ではあるけど。
「でも、私はそうは思わない」
お母さんはギュッと自分の手を握る。やはり、目は合わない。
「頑張りなさいね」
「……うん」
けど、それでいいのだと思った。
視線を合わせたら、きっと言いたいことも言えなくなるから。
「私も、ご、ごめんなさい。お母さんだって、好きで離婚したわけじゃないのに」
昨晩のことを、もう一度謝りたかった。あのときのお母さんはやっぱり、傷ついていただろうから。
返事はなかった。
代わりに、頭を撫でられた。
胡桃が戻って来て、三人で車に乗り込む。
向かう先は、あの頃の私。追い越すべきも、あの頃の私。
自分の『好き』を抱きしめて、もう二度と離さない。
「んー?」
隣で胡桃が唸っていた。
せっかくカッコいい決心が、心の中で輪郭を形作っていたのに、台無しだ。
「ど、どうしたの」
「いや、んー。さっきのお寿司屋さん……みかんさんいなかった?」
「え?」
「さっき会計終わったときチラッと、見えた気がしたんだけど……違うかな」
「ど、どうだろう。全然気付かなかった」
「ふーん。じゃあわたしの勘違いかな」
だとしたら、いいんだけど。
でも、みかんさんが家の前にいたときも、それを教えてくれたのは胡桃だ。信憑性は高い。
あの場に、みかんさんがいたとして、それはそれで、全然いいんだけど。
もし、私たちが座っていたテーブル席の前か、後ろか、どっちかに座っていた場合、少し困る。
だいぶ、恥ずかしいことを言った気がするし……。
あ、明日、聞いてみよう。
き、聞けるかなぁ……。
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