第27話 再生

 お母さんはまだご飯の準備をしていなかった。


 全力で家まで走った私の膝は震えていたが、疲労だけのせいではない。けれど、恐怖とも違う、前向きな震えのせいで、靴を脱ぐのに手間取った。


 廊下で掃除機をかけるお母さんと目が合う。お母さんは口を開いて何かを言ったが、掃除機の音でよく聞こえなかった。


「お母さん!」


 そんな雑音に負けないように、声を張る。上ずった私の声は、掃除機の音を飛び越えてお母さんの耳に着地した。


 お母さんは掃除機の電源を切ると、動かない表情のまま私を見つめた。


「帰ったらただいま、でしょう? あと、靴紐が解けてる。まさかそのまま帰ってきたの? 転んだらどうするの」

「ご、ごめんなさい……って、そうじゃなくて」


 説教はあとで聞き入れよう。今はそんなことよりも。


「ゲーム、売りたくって」

「ゲーム? どうしたの突然」


 お母さんの眉がピクッと動く。小さく息を吐くと、掃除機を壁に立てかけて腕を組んだ。


 私の話を聞くとき、お母さんは今みたいに正面から対峙する。私にとって、それはとても威圧的で、萎縮して、声を出すことすら難しくなる。


 お母さんの瞳は私の一挙手一投足を見逃さない。変なことをすれば、間違ったことをすれば、すぐに注意される。


 今だって、どこか変なんじゃないか、叱られるんじゃないかと、気になって仕方がない。背中に冷や汗が滲んで、シャツが肌にくっつく不快感に苛まれる。


 けど、この背中は、みかんさんが押してくれた背中だ。


 余韻が消えないうちに、伝えてしまいたい。


「き、昨日話したこと、私なりに考えたの。あの、たしかに、わ、ワガママだったかもって思って、バイトもしようと思ったんだけど、でも、ね。私の持ってるゲームが結構高い値で売れるんだけど、それ、売っちゃえば、パソコンも買えるかなって」

「……配信の話?」


 パソコンの話にシフトしようと思ったけど、やっぱりダメだった。逃げられない、ということなのだろう。


「言ったはずよ。そんなものはやめなさい」

「お、お母さんの言ってることはわかるよ。ネットでの配信って、まだあんまり世間に普及してないし、不特定多数の視線に晒されるっていうのは、危険が及ぶっていうのも、お母さんに言われて初めて気付いた」

「そう、なら手を引きなさい。そんなことよりも来年は受験でしょう? 勉強はどうするの」

「そんなことじゃないの!」


 初めて、お母さんの表情が変わった。


「そんなことじゃないの、配信って。私にとって配信っていうのは、えっと、すごく、特別なもので。普段、話せないこととか、自分じゃない自分っていうか、を、曝け出せる気がして」


 人とうまく話せない私でも、配信でなら上手に話せる。相手の顔色を窺うこともない。時間に追われることもない。数秒遅れで流れてくるコメントに返事をするのは、言葉が追いついてからでいい。


 そんな余裕が、私を私でいさせてくれる。そうすると、まだ人と話すのが苦手じゃなかった小さい頃を思い出せる。まだ、何かを盲信的に好きでいられた、あの頃の私に。


 そうだ、伝えるべきは、こんなことじゃない。


 どれだけ、配信というものに魅了されたかだ。


「好きなの! 配信!」


 きっと、恋をしている人に告白をするときですら、こんなに怖くなることはないだろう。 クラスメイトや、みかんさん、もしくはその他の人に言うんだったら、こんなに恐怖は感じない。


 だけど、相手はお母さんだ。


 あの日、私の大好きな毛虫を殺した、私の好きを殺したお母さんに、もう一度この気持ちを伝えるのは、自分から崖っぷちに立ちに行くものだ。


 二度と見たくない景色を、もう一度見に行く。


 だけど、それはどこかで、この先もずっと続いていく人生のどこかで、いつかはしなくちゃいけないことだった。


「お母さんはずっと、私に習い事させてくれたよね。ピアノも、テニスも、水泳も、英会話も、他にも数え切れないくらい。でも、全部続かなかった。弱音を吐いて、泣きわめいて、私は逃げた。お母さんから見たら、すごく不出来な娘だったかもしれない」


 私とは違って勉強ができる胡桃。運動もできて、言うことも聞く胡桃は、お母さんの唯一の希望だった。そして私は、お母さんとお父さんの仲を引き裂いた、疫病神だ。


「私、できない自分が嫌で、何かを頑張るのを避けてた。もうちょっと頑張ろうなんて思ってもなくて、誰かと競い合ったり、自分を高めたりするのが苦手だった。でも、配信は違うの! 配信は、自分と向き合うことができて、私を見つけてくれる人もいて。こんな私でも、いていいんだって思える場所なの」


 半年も続けば良い方だった習い事。だけど、配信は、配信だけは、一年以上も続けた。それも毎日、途絶えることもなく。


「それにね、配信ってお喋りがメインだから、会話も上手になるんだよ。わ、私、これでも前より人と話せるようになった。あ、あと、友達も出来たよ! 配信のおかげで繋がりを持てて、今では、親友……になった」

「そうなの」


 お母さんなりの相槌なのだろう。変わらず、腕を組んだまま私をジッと見ている。


「他にも、リスナーさん……っていって、配信を見てくれる人も、私を応援してくれてる。配信を始めてから、いろんな繋がりが出来た。それって多分、ずっと部屋に引き籠もってるだけじゃ出会えなかった人たちばっかりなの。配信は、私を変えてくれた。応援や期待を受けて、変わろうって思えた。そんな配信が、私は……好き」


 頭がくらくらする。耳鳴りのようなものが、鼓膜を覆っていて周囲の音が一切聞こえない。


 私、呼吸してる?


 それすらも定かではない。五感ごと、言葉と共に放り投げたかのようだった。


 お母さんは立てかけていた掃除機を持つと、背を向けた。


 こ、これでもダメなの?


 鼻の奥にジンとしたものが集まる。


 ダメだ、泣いちゃダメ。それじゃあいつまで経っても子供のままだ。私が一番輝いていたのは、子供の頃なのかもしれないけど、私は逆行したいわけじゃないのだ。


 あの日の輝きを、今この手で、取り戻したい。


「お、お母さん!」

「支度をしなさい」


 お母さんは、それだけ言うと、リビングに戻っていく。


 私は頷く暇もなく、いそいで部屋まで走って、ゲーム機とギアテニと腕に抱えた。


「袋に入れなさい」


 一階に降りると、お母さんを鉢合わせた。紙袋を渡されて、ゲーム機とギアテニをそこに入れる。


 まだ、理解が追いつかない。でも、このまま行けば、目的は果たせる。


 今はお母さんの機嫌を損ねないように、素直に従おう。


 お母さんの車に乗り込むと、懐かしい香りがした。


 埃が日差しに焼かれて焦げたようなこの香りは、いつかの誕生日。ギアテニを買いに行ったときのことを思い出させる。


「どこがいいの?」

「あ、じゃあ……」


 一番買い取り価格の高いところを言うと、お母さんは慣れた手つきで車を発進させる。


「お、お母さん」

「なに?」


 助手席から、お母さんの顔を覗き込む。


「こ、このゲーム、覚えてる? ギアテニ、っていう」

「ええ」


 短い返事だった。


 それ以上、会話が続かない。私も私で、どんな返事を期待してこんなことを聞いたのか分からなかった。


 中古ショップに着くと、私は一目散に買い取りカウンターに向かった。


 手続きはお母さんにやってもらって、保護者の印鑑も押してもらう。


 査定には時間がかかるということだったので、私は中古のパソコンを見ることにした。お母さんは何してるんだろうと気になって探すと、UFOキャッチャーコーナーにいた。もちろんプレイをしているわけではないけれど、意外だった。たまたま通りかかっただけかもしれないけど。


 受付のときに貰った番号札の番号が呼ばれたので、私は買い取りカウンターに向かう。気付いたお母さんも、遅れてやってきた。


「こちら、四万二千八十円になります」

「え?」


 淡々と読み上げる店員さんの声に驚く。


 そ、そんな、買い取り表だと合わせて六万円のはずじゃ。


「あ、あの……あの表だと、六万円って書いてあるんですけど」

「申し訳ございません、こちらのゲーム機とソフトなんですけど、どちらも傷と日焼けが見られましたのでこの値段とさせていただいております。キャンセルされますか?」


 四万円……決して安くはない。でも、これじゃあパソコンの値段には届かない。


 でも、どうしよう。今、キャンセルしたら、せっかく査定してくれた店員さんの労力が無駄になる。影で、なんだよキャンセルすんなら最初から売るなよ、とか言われててもやだし……。


「だ、大丈夫です」

「そうですか。それでしたらこちらにサインをお願いいたします。こちらにサインをしたら、返品などは一切できないのでご了承ください」


 ペンとレシートを渡される。レシートには記入欄。そして、値段と、ギアテニの文字。 私をずっと支えてくれたゲームが、ただの、お金に替わってしまう。


 本当に、これでよかったのだろうか。


 こんな形で、私の好きを手放して。


 新しいことに挑戦するために、自分を変えるために、それまでの自分を捨てる。本当に、それでいいの?


「あ、そちらの太枠の方です」


 書くところが分からないと思われたのか、店員さんが気を遣ってくれる。


 は、早く書かなきゃ。


 もしかしたら次のお客さんも待ってるかもしれないし……。


 ペンを握ると、視界が滲んだ。


 だ、ダメだ。やっぱり私、こんなことで、ギアテニを、人生の宝物を失いたくない。


 だってこれは、私の『好き』が初めて許されたもので。


 私とみかんさんを繋いでくれたもので。


 初めて、お母さんに買ってもらった、ゲームなんだから。


「すみません、キャンセルでお願いします」


 すると、それまで後ろで待機していたお母さんが、私の隣に歩み出た。


「かしこまりました。こちらお品物です」

「お手数おかけしてごめんなさい。ほら、佐凪、行くわよ」


 手を掴まれて、店の外まで連行される。


 私はそのまま車に乗り込んだ。


「なんでも大丈夫って言う癖を治しなさい」

「だ、だって」

「そのせいで、今着てる制服だってブカブカじゃない。丈が合わないなら、採寸のときに直してもらえばよかったのよ」


痛いところを突かれる。この制服も、大丈夫ですと言ったばっかりに、ブカブカの状態で納品されてしまったのだ。


「自分の意見を持たないと、いつか付け込まれるわよ」


 車は真っ直ぐ帰り道を辿っている。


 遠くなっていく中古ショップ。


 トントン拍子に事が進むわけがないとは思っていたけど、やっぱり、ダメだった……。


 返してもらった、ギアテニとゲーム機の入った紙袋を抱きしめる。でも、これでよかったのかもしれない。


 やっぱり私は、この宝物を手放したくない。


「傷、確認したんだけど」

「楽観的に考えないの。そうなるだろう、じゃなくて、できなかったときどうしよう、を考えなさい」


 結局、私はいつものように、説教される。


 そして毎回、正しいのはお母さんで、私に反論の余地はない。


 そういえば、まだ、昨日のことを謝っていない。離婚したのを、お母さんのせいにしたこと。あのとき、お母さんはひどくショックを受けていたように見えた。


 お母さんはあんまり感情を表に出さないから、分からないけど。


「何してるの、早く出なさい」


 気付くと、車が停まっていた。


 もう、家に着いたのだろうか。


 しかし、車から出ると、そこは電気屋さんだった。


「え? ここ」


 お母さんは何も答えずに、店の中に入っていく。


 どこへ行くんだろうと付いて行くと、そのままパソコン売り場に辿り着く。


 お母さんは振り返ると、腕を組んで、私を見下ろした。


「どれがいいの」

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