ささやかな音楽会

犀川 よう

ささやかな音楽会

 高校時時代のわたしにとって、一番の青春であり胸が苦しくなった出来事は、同い年の彼と彼女が執り行っていたささやかな音楽会であった。わたしたちが学び生活をしている孤児院で、ひどく沸き立つような雑音の中、施設のピアノが使えない就寝前のひとときのイベントだった。彼は貼りつないだ紙に描いた鍵盤で演奏をして、言葉を上手く出すことの出来ない彼女は、掠れた声を出してほんの僅かなフレーズを途切れ途切れに歌っていた。周囲の子供たちの遊んでいる声や、就寝前の歯磨きをさせようと年長組が小さい子どもたちを大声で注意している慌ただしい時間の中、二人は部屋の隅で自分たちにしかわからない世界を表現していた。

 彼は無理に彼女の声を導き出そうとはせずに、彼女の静かに動く口に合わせるかのようにピアノを弾いていく。タイルの床に直に置いた紙の鍵盤に指があたると、タタタと小さな音が立つ。わたしが異常なまでに意識をして聞き耳を立てないとわからない、とても静謐で慎ましい音だった。彼女も彼女で、彼の優しさをもって動く指を見つめては、懸命に声を出そうとした。時折、小鳥の囀りのような美しい声が漏れた。歌にはならないどころか、言葉ですらない、ただただ儚くて穏やかな音が部屋の隅で生まれていく。わたしはそんな二人の前にいる唯一の観客として、控えめで頼りないくらいの演奏者と歌手を見ていた。

 二人は二人だけのささやかな音楽を作り出していた。何の曲かも歌かもわかならい。「彼と彼女」というタイトルしか考えられないような演奏だ。この日も彼の指は穏やかな旋律をトテトテと音を立てながら奏でていて、彼女はそれに合わせるかのように身体を揺らしながら、「あ」や「う」などの声なのか音なのかわからないキレイなもの出して、薄汚く古い孤児院の一角に花を咲かしていた。

 わたしは二人の楽しそうな顔を見て胸が苦しくなった。昼の高校では、彼はわたしのものであるのに、一日の最後の最後でこうして彼女に彼を奪われてしまう。こんな目の前で、彼女しか引き出すことのできない彼を見せつけらてしまうのだ。

 

 彼女の声が正常に出なくなったのは、わたしが彼に告白をした日の数日後だった。もともと物静かな人であったから、わたしも彼も、彼女の異変に気づくのに遅れてしまった。彼女は歌うのが好きな人で、優しい心の持ち主だった。わたしは彼女がわたしよりも先に彼に好意を持っていたことを知りながら、告白をしてしまった。せめて、彼女に一言、相談なり宣言なりしておけばよかったのかもしれない。だけど、わたしは彼も彼女に惹かれつつあったことを感じていたから、彼女を出し抜かなければならなかった。

 彼と彼女と三人で孤児院で生活をしている中で、彼に好意を持ってしまったわたしは、彼が我流で始めたピアノを弾いている姿を見て、それまで胸の中にあった気持ちが抑えきれず、告白をした。彼は驚きながらも頷いてくれた。どうして彼はわたしを選んだのか。別れて数年経った今でも聞くことはできない。だけど、当時のわたしには、彼にノーを言わせないだけの切迫した気持ちがあったのだろう。彼は優しい人であった。きっとわたしを傷つけるのが嫌だったのだろう。それまでのわたしたちは、恋とは無縁の明日をも知れぬ人生を歩いていた。希望というもの貴重さを知らずに、その日その日をうまく生きていく事を現実という教師から学ばされていた。いかなる無理があろうとも、平穏を保つことはとても大切なことであった。夜に奏でる紙のピアノのように、何かを我慢すれば平和が訪れるのであれば、親に、すべてに、捨てられたわたしたちにとっては、それが正義なのであった。

 わたしはそんな薄汚い大人の真似をして彼を脅迫したのかもしれない。だけど、彼を好きになった気持ちだけは真実であったのだ。きっと彼女もそのことを痛いくらいに理解をしていたから、声を失う代償を払ってでも、わたしたちを認めてくれたのではないだろうか。


 それがわかっていながら、わたしは三十分にも満たない二人だけの時間を心の底から許すことができなかった。孤児院には自分だけのものという存在があまりにも少なかった。人と物は平等であり、占有は美徳に反していたのだ。わたしたちはそんな世界で、ささやかな独立と独占を望んでいた。彼はピアノを。わたしは彼を。彼女は歌を――あるいは彼を。自分だけが大事にしているものを胸に抱いて生きていくことに憧れていたのだ。高校に行けば、みんな自分のものを持っていた。わたしたちが望むことすらできない私物を内緒で持ち込んでは、休み時間に見せあっていた。わたしたちは常に平等を教えられながら、平等であることから外されていた。せめてでいい。何か自分だけのものを持っていたかったのだ。

 それが痛いほど理解できていたから、わたしはこのささやかな世界を壊したくなくて、彼がピアノを弾き、彼女が囀る集いを邪魔することができなかった。一秒でも早く終わる事を願いながらも、どこかで彼と彼女が楽しそうに過ごす時間に憧れていた。彼の指が彼女のためだけに動くことを許せる自分と、許せない自分を抱えながら、演奏を聴いていた。恋という曲は孤児院の中にいるわたしにとって、最後の青春であった。高校を卒業すれば学校からも孤児院からも出ることになる。わたしたちを不幸に仕立て上げた社会という荒波に飛び込んでいかなければならない。願わくば、彼と手を繋いで歩んで行きたいが、現実は孤児院を出た瞬間、恋人であることを解消されてしまうだろうことは理解していた。だからこそ、わたしは彼女から彼を完璧に奪いたかったし、彼女にキチンと返してあげたい気持ちにもなっていた。

 思春期に振り回されたわたしには正解などわからなかった。ただ、二人が部屋の隅で催していたささやかな音楽会を、黙って見ていることが贖罪なのだと思うしか、自らを正当化することができなかったのであった。

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