『譲ります』

胡麻桜 薫

『譲ります』

 私が、大学一年生だった時の話だ。


 学園祭の前夜。

 とある文化系サークルに所属していた私と友人のK君は、学園祭の準備を終わらせるため、サークルの仲間達と共に大学に泊まり込むことになった。


 学園祭で披露するのはちょっとした展示だけだったのだが、我々のサークルにはのんびり屋がそろっていたため、前日になっても準備が終わっていなかったのである。


 大学に入ってから初めての学園祭。

 キャンパス内で夜を明かすという行為も、一年生である私とK君にとっては初めてのことだった。


 そのせいだろう。

 私とK君は非日常感に酔い、浮かれていた。


 あれは確か、深夜二時頃。

 喉の渇きを覚えた私とK君は、我々のサークルが根城ねじろとしていた3号館の中にも自販機があるというのに、わざわざ外に出て、建物の裏手にある自販機まで行くことにした。


 理由は単純、深夜のキャンパスを闊歩かっぽしてみたかったのである。



 外灯の明かりがあるとはいえ、外は非常に暗かった。

 泊まり込みをしている学生は我々以外にもいるはずだが、みんな教室に引きこもっているのだろう。

 辺りはシンと静まり返っている。


 期待通りの雰囲気に、私とK君の気分はますます高揚した。


 暗い道の先で、目当ての自販機がぼんやりとした光を放っている。

 私達はそちらに向かってぶらぶらと歩き出した。


────────


「ん?」


 先におかしいと気づいたのは、K君だった。


「なんか変じゃないか? 自販機に近づけないぞ」


 K君の言う通りだった。

 いくら歩いても、自販機までの距離が縮まらない。すぐそこにあるのが見えるのに、辿り着けないのだ。


「ほんとだ。こんなに遠くないはずだよな?」


「いや……暗いせいで、僕らの距離感がおかしくなってるのかもしれない」


 そうだ、そうに違いない。私達は自分自身を無理矢理納得させ、自販機へと歩き続けた。



 タッタッタッタッ──。



 その時、誰かが走ってくる足音が聞こえた。

 私とK君は同時に、足音のする方を振り向いた。


 一心不乱に走って近づいてくるのは、学生と思しき男だった。


「君達、ここの学生だよな!?」


 その男子学生は私達の前で立ち止まると、出し抜けにそう尋ねてきた。


「は、はい、そうですけど……」


 K君がそう答えると、男子学生はホッとした様子で息を吐いた。


「ふう、よかったあ〜」


 走り疲れたらしい。彼は左手をひざにつき、肩で息をした。

 なぜか、右手は隠すように背中に回していた。


「あの……どうかしたんですか?」


 見知らぬ学生だが、おそらく彼も学園祭の準備で泊まり込んでいるのだろう。何かトラブルがあって、助けを求めているのかもしれない。

 そう考えた私は、おずおずと男子学生に声をかけた。


 すると、彼は顔を上げて私の方を見た。


 外灯に照らされた彼の風貌はおおむね平凡なものだったが、両目は異様に血走っており、その下の深いくぼみには、真っ黒いクマができていた。



「これ、譲ります」



 男子学生はそう言うと、右手を私の方に差し出してきた。


「えっ?」


 常日頃から不注意で呑気なところがある私は、反射的に受け取ろうと、つい手を伸ばしてしまった。

 だが、ギリギリのところでK君が私の手を掴み、止めてくれた。


「おい! よく見ろ!」


 そう叱責され、私は差し出された男子学生の右手を見た。



「! ひえっ……」


 彼の右手の上には、脈打つ赤黒い肉塊が乗っていた。

 ドクンドクンと拍動する様子と、いびつな卵にも似た形状は、まるで──。



「い、いりませんよ! そんな物!」


 私は手を引っ込め、慌てて後ずさりした。


「なんだよ! ケチだなあっ!」


 男子学生は吐き捨てるようにそう言うと、血走った両目で私をにらみつけた。

 そして赤黒い肉塊を右手に持ったまま、どこかへ走り去っていった。

 

 譲ってくれと言われて断るのが『ケチ』だと言われるのはまだ理解できるが、譲りますと言われて断るのは『ケチ』ではないだろう。


 私は漠然ばくぜんとそんなことを思いながら、男子学生の後ろ姿が夜の闇に溶け込んでいくのを見送った。


 彼の姿はあっという間に見えなくなり、その場には呆然と立ち尽くす私とK君が残された。


「な、なんだったんだ……?」


 そう呟いたのは私だったかもしれないし、K君だったかもしれない。

 顔を見合わせた私達は、お互いの真っ青な顔にギョッとした。


 そして無言のうちに、今起こったことに言及するのはやめようと合意したのだった。



 再び歩き出すと、さっきまでのことが嘘だったように、あっけなく自販機に辿り着くことができた。

 


 飲み物を買って教室に帰るまで、私達は黙りこくっていた。

 教室に入ると、サークルの仲間達が不思議そうに首を傾げた。どうやら私とK君は、相当ひどい顔をしていたらしい。


 ちなみに、喉はまだ渇いていたが何かを口に入れる気になれず、結局朝が来るまで、私もK君も買った飲み物には手をつけなかった。


────────

 

 学園祭が始まるまでには、無事に展示を完成させることができた。


 私とK君は準備に没頭し、学園祭が始まった後も、あの不可解な出来事については一言も口にしなかった。


 だが、私はあの出来事を忘れたくても忘れられなかったし、K君もそうだったと思う。


 あの男子学生は、あれからどうなったのだろう。


 案外、彼は学園祭でお化け屋敷か何かをやるサークルのメンバーで、小道具を使って私達にイタズラを仕掛けただけなのかもしれない。

 そうやって納得しようとしても、想像するのをやめられなかった。



 あの時、を受け取っていたら私はどうなっていたのだろう──と。



 そして想像する度に、私は恐怖で身をすくめるのだった。


 嫌な考えに取り憑かれていたせいか、学園祭が終わってからしばらくの間、私はあの男子学生が出てくる悪夢を繰り返し見た。



 夢の中で、私は彼に追いかけられている。

 どんなに走っても、彼から逃げ切ることができない。

 足がもつれ、その拍子に振り向くと、真後ろにあの血走った両目が浮かんでいる。

 私が思わず叫び声を上げると、彼は私の口の中に赤黒い肉塊をぐいぐいと押し込んでくるのだ。

 窒息しそうになったところで、私はようやく目を覚ます。


 そんなことを繰り返した。

 夜更けに飛び起きては洗面台に向かい、目覚めても口の中に残る不快感を消し去るため、何度も何度も何度もうがいをするのだ。


 あの頃のことは今思い出しても、ゾッとする。



 やがて、二年生になった私とK君は再び学園祭の季節を迎えた。

 その頃にはもう、悪夢を見ることもなくなっていた。


 サークルの仲間達は相変わらずのんびりとしていたが、私とK君だけは、さっさと準備を終わらせようとやる気満々だった。

 お互いに確かめはしなかったが、その理由は明白である。


 大学での泊まり込みを、なんとしても回避したかったのだ。




〜おしまい〜


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『譲ります』 胡麻桜 薫 @goma-zaku-12

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