第6話 水槽の脳

「なら何であの液に、俺達はグッドリック《あれ》を浸けてるんだ?」




何故―――道化の様な彼の疑問クイズに、グレアムは珍しく先の読めなさを感じた。


ではあの溶液はホルマリンか。だが硬直以前にホルマリンは人体に有害だ。

それにホルマリンは架橋反応の進行に伴い、最大で十数%収縮する。保存には向くが硬直は防げない。


「・・・・・・わからない」


混乱の言葉を述べるグレアム。まず壊死した身体を蘇らせる完璧な理論がわからない。そんな、神にも代れる業というものが在るのか。



「死後の反応は全て抑えた。これは手術だ。あんたに断る権利は無い」



死後変化を抑える。そんな事が可能なのか。トーマス=ウィリスが分厚い冊子となったレポートをグレアムに投げる。

J=イーブリンがアンドレアスにピストルを突きつけた。



「その本の記述通りにあいつを復活させろ。断るならこいつを殺す!」



「・・・・・・」


グレアムは床に落ちたレポート冊子を拾い上げ、ぱらぱらと頁を捲る。

アンドレアスが動き出そうとするのを、ペティーがぐっと曳きつけて阻害した。イーブリンがこめかみにピストルを押しつける。

(く・・・・・・)

「・・・・・・読めませんね・・・・・・」

グレアムがレポートに視点を宛てたまま頭を捻って言う。イーブリンが怒ってグレアムにピストルを向けた。

「読めないだと!?言い訳も程々にしろ!殺されたいのか!!」

グレアムの背後で、もう一丁ピストルを構える時の「チャキ」という音が聞える。先程自分にピストルを突きつけたジョン=ウォリス。イーブリンがアンドレアスにピストルを向け直す。

グレアムはその様子を一通り眺めて言葉を続けた。

「之は・・・エスカランテ語ですか?其とも、ラテン語の様に話し言葉と乖離された書き言葉の記述ですか?・・・いずれにしろ、マウンダーの片田舎出身の私には読めない文字です」

「ふざけるな!!」

イーブリンの声の元に、グレアムは丁度心臓の裏にピストルを押しつけられる。グレアムは押しつけるウォリスを流し眼で視た。

「まさにその通りだ。之は、エスカランテの伝統的な文語であるエトルリア語。遠い地面の裏側の者には読めないだろう」

クレーンコートが笑顔を崩さずに言う。優しい笑顔をグレアムに向けるが、グレアムはもうその笑顔に合わせなかった。彼の真意が、グレアムには見え隠れしてくる様だった。


「どうだ、通訳をアンドレアス君にらせてみては。之を機に、彼にもこの理論についてもっと深く解って貰おう」


・・・非常に物言いはいい。通訳をつけるとはグレアムに対して親切で、解って貰おうという動きはアンドレアスを歓迎している様にさえ見える。だが、真意はそこに無い。

理論の完全性と逆らえない組織力のもとに、己の無力さを痛感する為の見せしめである事をかれは見透かしていた。

「・・・そうですね」

あれほど屈強にアンドレアスを封じていたペティーが、いとも簡単に彼を放す。イーブリンもうるさい口にようやくチャックをした。

「・・・・・・」

「グレアム先生・・・・・・っ」

アンドレアスがグレアムの許へ駆け寄る。クレーンコートとイーブリン、そしてペティーを黙って視ていたグレアムが此方を向いた。

「アンドレアス先生・・・・・・痛々しい」

グレアムが縄の喰い込んで血の出ているアンドレアスを辛そうな顔で見た。他にも顔やはだけた白衣から垣間見える鎖骨に傷がある。

「私の事は気にしないで・・・・・・すみません、この様な事になってしまって」


カプセルの中で、身体中にチューブを取り付けられて眠っている教え子。死に顔には見えない程、安らかな寝顔だった。


未だ乾き切っていない、アンドレアスの頬を伝った涙の痕。グレアムには其で充分だった。


「・・・どういった経緯でこういう状況になったのかは、大体解りました。大変だったのですね」


中枢での力関係・唆した者の存在・傍観者・・・・・アランデル=フックが誰であるかは判る筈も無いが、彼は何れにせよ裏切られたのだ。


「見殺しにしてくれてよかったのです!私は教え子を見殺しにした。苦しい時に、何もして遣れなかったのです!」



「・・・・・其は、当り前ではないのですか?」



グレアムはアンドレアスの眼を、貫通するほどにじっと視た。



「・・・死など、人間には止められないものです。我々の生命を脅かす様なウィルスを壊滅させる薬を開発しても、結局はまた別のウィルスが現れて、我々の生命を奪う。


人間は、死ぬ様に出来ているのです」



グレアムは、間に合ったらという一筋の希望で持って来た医療道具の入ったスーツ‐ケースの留具を外す。


「逆にいますと、死ぬべき身体に手を加えるという行為は、人間としての尊厳を損うという事でもある訳です」


グレアムがスーツ‐ケースをひっくり返し、手術道具を一式テーブルへ広げ出す。一気に広げたのに、メスの一本も重なる事無く綺麗に道具は輪を描いた。


「・・・・・・しかし、今回ばかりはそう言っている場合でも無さそうですね」


グレアムが最後に、とても愛おしげな、哀しい表情で、教え子の顔を真っ直ぐに見つめた。いつも何かを観察している様な眼が計算無くものを見る姿を、アンドレアスは初めて見る。



死ぬべき身体を加工する事が、人間としての尊厳を損う事であるのなら、死んでしまった身体を生き返らせる事は、人間で無くしてしまうという事なのだろう。



かえす“ばしょ”を奪うという事なのだろう。



―――グレアムは、薄々にだが、自分が教え子に何を施すのかを気づき始めていた。




「―――始めましょう」




グレアムが医療用手袋を準備する。アンドレアスが彼の前に飛び出して、胸に軽く頭をぶつけて、止めた。

イーブリンがいい加減に怒鳴ろうとする。だが其を、クレーンコートが笑顔で制した。


「・・・・・・私は、以前も教え子を亡くし、あの時何故あの理論で復活させなかったのだろうと、グッドリックが亡くなった時も思いました。そして、今回はあなたの力を借りて、グッドリックを復活させようと、試みました」


アンドレアスの声が震える。グレアムは手袋を嵌めた両手を上げたまま、静止していた。レポートの頁が、重みで元へ戻ってゆく。


「・・・・・・でも、其も出来ませんでした。最後の・・・最後で・・・・・・怖くなったのです。人間が・・・人間を、操作してよいものかと」


グレアムは、ひとりでに頁を繰るレポートを見ていた。と、或る頁でピタッと規律よく止る。




「―――あなた、でしたか・・・・・・」




グレアムは眼を細めた。もう、何処を視るでも無い。レポートの文字を読めるでも、無かった。でも、理解して、しまった。




【或る科学者が脳を取り出し、脳が死なない様な特殊な成分の培養液で満たした水槽に入れる。

神経細胞を電極を通して脳波を操作できる非常に高性能なコンピュータに繋ぐ。意識は脳の活動によって生じるから水槽の脳はコンピュータの操作で通常の人と同じ様な意識が生じよう。実は現実に存在すると思っている世界はこの様な水槽の中の脳が見ている幻覚では無かろうか?


逆に、非常に高性能なコンピュータを脳に設置し、各神経に電極を通して操作させれば、コンピュータを取り換えるだけで人間はいつまでも生き続ける事が出来るのでは無かろうか?



『水槽のBrain in a vat



アンドレアス=ドップラー】




『脳が死なない様な培養液』『非常に高性能なコンピュータ』其をどう創ればよいのかさえ、そのレポートには記録が遺っていた。


コンピュータ各神経でんきょく間を繋ぐ配線の本数。其も計算で求められていた。脳は管だらけになるだろう。


『死んでしまった身体を生き返らせる事は、人間で無くしてしまう』―――結論。死んでしまった人間を生き返らせる事は、出来ない。生き返ったのでは、ない。


テセウスの船の話をしよう。船の壊れた部品を新たな部品に付け替える。この行為を繰り返す内に最初に使っていた部品は全て無くなった。今の船は最初の船と同一だと見做してよいか?




―――之が、ヒューマノイド―――ブレイン・マシン・インタフェースと呼ばれる、未来の『宇宙人』の原型なのかも知れない




コンピュータを、ペース‐メーカーの如く体内に埋め込むのがグレアムの課せられた使命だった。




ペース‐メーカーの配線を繋ぐ過程で、グレアムはどの部分を繋げば体の中のどの機能が働くか、解せる様になってきていた。


彼の聴覚の障害は、彼が5歳の頃に『猩紅熱』という病に罹り、好酸球性中耳炎を引き起し、其を放置した結果に因るものであった。現代の医学では、鼓膜へのチューブ留置術やステロイドの局所投与・全身投与で治す事が出来る。



「・・・・・・私や、アンドレアス先生の声を聞いてみたいと願っていましたね。グッドリック君」



アンドレアスは両手を重石にして繰りに繰るレポートを押えていた。遣り切れなさに顔を埋める。


「―――之は・・・私の罪ですグレアム先生。あなたまで・・・・・付き合わせたくはない・・・・・・」

「アンドレアス先生」


グレアムは金属の皿に等間隔で並べられたメスの一本を取り上げる。刃先がぎらりと光を放った。



「私は・・・人間は死ぬ運命にあると言いましたね」



ステロイドの液体容器の蓋が転がっている。半透明の黄みがかった液体が、高い位置からするするとメスを伝って下りてゆく。

往き着く先は、ペース‐メーカーの配線だった。




「・・・併し、万物が死にゆく中で彼だけが、こう遣って蘇生させられようとしている。其もまた、彼の運命なのですね・・・」




「グレアム先生・・・っ」


アンドレアスが首を大きく横に振る。グレアムを正視する事が出来ず、俯いてまた涙を落した。




「彼が之で蘇れば、人類は死にゆく運命でない事が証明されるでしょう。

死なない事が運命であるのなら、私は納得が出来るのです」




ステロイドの大きくて、柔かいボトルがテーブルに置かれる。蓋を閉める事は、もうしなかった。



「・・・只、願わくば・・・・・・」



レポートの頁が、叉も捲れた。


決して多くは望まなかった。死に際ですら、もう一つ命が欲しいだなんて望まなかっただろう。最期まで“人間”として生きたかっただろう。

そんな彼に、せめて不本意な中でもして遣れる事があるのだとしたら―――

カチッ、と、蓋の填った音が聞えた。ペース‐メーカーが完成したのだ。




「・・・・・・次の人生で、あなたの聞きたがっていました“人間の声”が聞けます様に・・・・・・」




グレアムは、メスをかれの身体に当てた。

そして、かれを、ひらいた。

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一度、死んだ男 ほにゃら @dyeeek

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