甘い露を啜る
奈良ひさぎ
甘い露を啜る
私たちを縛るルールが、ある日突然猛烈に煩わしくなる――
そんな嘘のような話が、私の身にも起こることになろうとは思わなかった。
「休日ですのに、こうして部屋に引きこもるなんて」
「慎重になっているんですよ。私と分からないように変装して、街を歩くほどの自信はないもので」
「……奇遇ですね、わたしもです。強い日差しが苦手なこともあるんですけれど」
日曜の朝、私は一人の女性と一緒に2LDKの一室にいた。妻ではない。私自身は妻と息子が一人いるが、名前を
「……ええ。年を食ったら、どうにも日差しが身体に堪えてしまっていけない」
「
「こう見えても、体には着実にガタが来てるんです」
若いカップルであればあっという間に退屈するであろう、間の空いた会話の応酬が、私たちにとっては非常に心地良い。十何年ぶりかに独り身になったことで突然空いてしまった隙間を、佐那子さんは確実に埋めてくれる。
可憐でもなく、妖艶でもなく。不思議な雰囲気をまとった佐那子さんに、私はあっという間に虜になった。妻との関係に、どこかで退屈していたのかもしれない。妻と結婚し一人息子をもうけた後は、二人目をどうするか考えるくらいで、妻との会話はみるみるうちに減っていった。それは家族関係が安定していることの証左でもあり、いずれそうなるだろうと思っていた私は特に気に留めなかった。同じ屋根の下で暮らす者どうしとして、支障をきたすレベルにならなければいいだけで、多少の沈黙は普通であるとすら思っていた。
『いけませんよ。世に言う熟年離婚は、そうしたところから始まるのですから』
同僚や上司と家庭の話をしても、年がいけばどんな夫婦もそうなるとの異口同音であったから、特に疑問にも思わなかった。はっきりとダメ出しをしてきたのは、佐那子さんが初めてと言っていい。
休日の朝、ゴミ捨て場でばったりと出会った私と佐那子さんは、立ち話の中で互いの身の上を知った。私は息子がこれからという時期に単身赴任を命じられた、不憫な中年。佐那子さんは五年前に夫を亡くした未亡人。部屋が隣どうしだということに気づかなかったのも、高層マンションで近所付き合いが希薄になった現代ならではだろう。
「わたしも、たまには外に出て運動でもしなければと、思うんですけれど」
「よければ一緒にどうです? 他に何人か、お誘いして」
「でも、憲一さんと何をしているわけでもない、この時間がすごく心地よく感じてしまって。もう、赤の他人とはごまかしきれないほど親密になってしまった気もして」
「……困ったものですよ」
妻と息子には悪いと思っている。常に罪悪感を頭の片隅に抱えながら、佐那子さんと会話を交わしているのだ。これが世に言う不倫であって、刑事罰こそないものの民法の上では咎められることも理解している。理解したうえでなお、佐那子さんとの関係に踏み出してしまった。言い訳をするつもりはないが、しかし言い訳をしたくなるほどのどうしようもない衝動が私の中で起こってしまった。
「憲一さんと一緒にいると……なんだか、心がじんわりと温かくなってくる、そんな気がするんです。こんなこと、初めてで」
「自分も、同じ気持ちです。同じ気持ちなんですが」
「……?」
問題は、佐那子さんの側にはそれほど罪悪感が感じられないということだ。元から佐那子さんにしか持ちえない雰囲気があって、捉えどころのないというか、何を考えているのか読み取れないところがあるのだが、私との関係をあまり真剣に捉えていないような感じがあった。本気にされては無論困るし、佐那子さんが物事を斜に構えているわけではないのだが。
「……いえ、なんでもありません」
「外に出たいという気持ちは、あるんですけれど……」
窓に向かってクッションをあてがった椅子にちょこんと腰かけ、まぶしさに目を細める。そんな姿が様になっていて、私はやはりこの女性を好きなんだな、と再認識してしまう。燃え上がるような恋ではない、静かに想うこの心。言うなれば、この人となら私の理想の老後が過ごせそうだという予感。妻と過ごす忙しない日々と並べて、私ならばこちらを選ぶという確信があった。
「他に何か、ためらう理由が?」
「その……お恥ずかしい限りですが、今のわたしには収入がなく。手に職をつけたいところではあるのですが、そのためにどの程度貯金を崩してよいものか分からず……」
「援助はしますよ。佐那子さんが一つのことに向かって取り組む姿は、きっと美しいでしょうし」
「そんな……畏れ多いです」
何か一つ、佐那子さんとの関係が深まることをするたびに、ちくりと心臓が痛くなる。本当にこんなことをしていていいのかと、自問してしまう。今さらためらってどうするとささやいてくる自分と、ここで踏みとどまればまだ大事に至らずに済むとお告げをする自分がいる。佐那子さんの引力に負けて、堕落していっていると感じる。
「ちなみに、何をされたいとか、プランはあるんですか?」
「えっと、料理を振る舞う仕事を、したくて。夫がいなくなってもう何年も経ちますけれど、思い出すのはやっぱり、わたしの手料理を嬉しそうに食べてくれる夫の顔で……。憲一さんにもよければ、喜んでもらえる料理を、お作りしたいですし」
「いいんですよ、私のことをそこまで考えなくとも」
「憲一さんがよくても、わたしは考えてしまうんです。わたしができること、誰かに喜んでもらえることが何なのか……」
佐那子さんと初めて会ってから何回か立ち話をし、ある程度互いの身の上を知った時、佐那子さんが野菜炒めの残りをお裾分けしに私のもとを訪れたことがあった。旦那さんが亡くなって長く、一人分のおかずの量などとっくに理解しているはずなのに、ちょうど一人前の量を佐那子さんが持ってきた時、私はもうこの人から離れられないんだなと痛感した。旦那さんの好きだった濃い味付けだと佐那子さんは言ったが、それは私の口にもよく合うもので、すぐに平らげてしまった。
「……ああ、いえ。佐那子さんのやりたいことを止めるつもりは、ないんですが」
「ふふっ、そんなに慌てなくても。分かっていますよ、憲一さんは優しいですから」
ここぞという時に、一番聞きたくなかった言葉を佐那子さんの口から聞いてしまう。それを言われたら、ますます私の気持ちが佐那子さんに寄ってしまうことを、彼女は理解しているのだろうか。分かっていてやっているのであればそれは魔性の女だが、しかし佐那子さんの雰囲気はそんなことを微塵も感じさせない。心から慈愛とは何たるかを理解していて、本心から自分の気持ちを言葉にしているのだろう。
堕落。それは顔をしかめるほど苦いものだと思っていたが、これほど甘いものなのかと感じる。はっきり罠であると分かるほどに。今日もまた、その甘い露に少しずつ溺れてゆく。
甘い露を啜る 奈良ひさぎ @RyotoNara
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