音叉 〜おんさ〜

下東 良雄

音叉 〜おんさ〜

「おはよう」


 みんなに声をかけて、教室に入った。

 そして、窓を大きく開ける。

 夏の朝の爽やかな風が教室の中のこもった空気を清らかにしていった。


 窓際の自分の席に座る。

 夏の日差しを浴びながら、私はカバンから取り出した小説の文庫本をそっと開いた。

 物語に入り込んでいく私。

 主人公は私と同じ女子高生。両片思いのふたり。こんな素敵な恋愛をしてみたい。


 やがて、いつもの音が聞こえてくる。吹奏楽部が音楽室で練習しているのだ。暑いので窓を開けているのだろう。音が漏れ聞こえてくる。

 春頃は色々な曲を演奏していたが、ここ数日は音出しばかり。基本に立ち返るとか、楽器のチューニングとか、そんな理由だろう。

 そんな音楽にもならない音をBGMに、私は紙面に写し出された文字を追いながら、自らの脳裏にその世界を映し出していった。


 ギラギラと教室に差し込む夏の日差し。窓から入り込んでくる緩やかな風が、少しだけ汗ばんだ私の頬を優しく撫でていった。ゆっくりと流れていく時間が心地良い。


(朝からとても暑いけど、今日も良い一日になりそうだな)


 私は微笑みながら、輝く太陽に目を細め、どこまでも青く深い空に顔を向けた。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「おはよう」


 みんなに声をかけて、教室に入った。

 今日も窓を大きく開ける。


 今日はもう吹奏楽部の音出しの音が聞こえていた。私にとっては、もうこれも曲のように聞こえる。耳の中で響き渡る不協和音。昨日は帰るまで一日中ずっと鳴り響いていた。


 私は今日も小説を読もうと、自分の席に向かった。


『死ね』

『学校くんな』

『ヤリマン女』

『ゴミ集積所』

『うんこ』

『一発千円、大セール中!』


 いつもと変わらない机の上を彩る言葉の数々。消してもキリが無いから、随分前にもう諦めた。先生も見て見ぬ振りだもの。どうしようもない。


 席に座った私。

 吹奏楽部の発する不協和音がどんどん大きくなり、私の鼓膜を震わせている。

 私は教室を見渡した。


「夏休みだと中々見つからないものね。もう何日目かしら」


 開いた窓からは、爽やかな夏の朝の風が入り込んでくる。

 そんな風の爽やかさを打ち消す教室の中に満ちた腐臭。

 教室の床には何かが五体ほど、たくさん並んでいる席と席の間に転がっている。腐臭はそれから発せられているようだ。何かの液体が乾いたような赤黒い跡は教室中に大小残っており、天井にまでその飛沫の跡が残っている。


 生ゴミを腐らせたような凄まじい腐臭は、私の鼻孔を激しく犯し続けた。さらに楽団が奏でる気が狂いそうな不協和音に合わせ、たくさんの蝿が教室中を楽しそうに舞い踊っている。まるでファンタジー小説で描かれる宮殿での舞踏会のようだ。

 私は舞踏会の主役のお姫様。そして、この教室の支配者。目の前の光景とその事実は、鼓膜を越えて脳に直接轟く不協和音とともに私の心の音叉おんさに共振。鼻の奥を刺激するように響くその音色に、私はただ恍惚とした。


 私はカバンから小説の文庫本を取り出し、そっと開いた。

 学校に行って、軽やかなBGMをバックに、教室の中で誰にも邪魔されず、大好きな恋愛小説をゆっくりと読む。それが私の理想の高校生活。それが私の理想の青春。

 ようやく得た私の青春。自分の力で得た私の青春。もう誰にも邪魔させない。


 腐臭に包まれ、蝿にまとわりつかれながら、脳に轟く不協和音に共振した私の心の音叉おんさが響き続ける。

 あぁ、この幸福感は何なのだろう。

 理由は分かってる。


 だって、私の青春はまだまだ続くのだから。



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