第2章 それからの

第5話

「運転手さん、前の車を追って!」

 少女は焦っていた。

 決めるなら、今日しかないと思っていた。まさか自分がこんなことを言う日が来るとは。少しだけ高揚した気持ちでシートベルトに手を伸ばした。

「えっと…前の車っていうのは…。」

 うだつの上がらなそうな運転手はおずおずとそう言った。

 その態度に少女は苛立った。いや、何度引っ張ってもガチっと音を立てて止まって、なかなか伸びてこないシートベルトに対しての八つ当たりでもあったかもしれない。

「わかるでしょ!あのタクシー!」

「あっ、はい。」

 彼女の勢いに、運転手は少しだけ首をすぼめて、そう言った。

「あ、ではメーターをつけさせていただきますね。トケマキ交通の…。」

「良いから!車出して!」

「あっ、はい…。安全のためシートベルトの…。」

「もう、着けてる!出して!」

 かろうじてシートベルトを閉めた彼女は、そのあまりの話の通じなさに小さく舌打ちをした後、運転席後方についている乗務員証に視線をやった。


トケマキ交通 木地孝宏きじたかひろ


 作成年月日は十年ほど前のものだった。ベテランのくせに、と彼女は思いながら、手元のスマホに視線をやる。

 その画面は二つの位置情報を示していた。赤い丸で示す位置情報は、ほとんどぴったり、青い丸で示された彼女と重なっていた。

 ズームしていくと、青色の丸と赤色の丸は次第に距離が開いていき、最大まで広げたとき、その丸はまさに目の前にいるタクシーと彼女が乗るタクシーの位置関係を示していた。

 前方を走る車がいつ止まるか、どこで止まるか、彼女は落ち着かない気持ちで何度も画面と前方の車とに視線をやった。

 その時、車が停車した。彼女は後部座席のドアに目を凝らしたが、どうやら降りてくる気配はなさそうだった。少し視線を上げると、信号が赤になっていた。そんなことにも気がつかないほどに自分が興奮しているのだと彼女は気付いて、その事実にまた、彼女は興奮した。

「運転手さん、この道、何方面に向かってるんですか?」

「んーそうですねー」

 運転手は少しだけ前に乗り出して、体を左右に揺らしながらそう言った。

「まだなんとも。左折はするみたいですけどね。」

「なんともって、何方面とか、ないの」

「いやあ、ここを左折しても、南にも、北にも行けますし…。」

 彼女は期待した答えが返ってこないことに苛立った。こんなにうまくいっている日に、この運転手のタクシーに乗ってしまった自分のことを、腹立たしく感じていた。

 車はそのまま、二十分ほど道なりに進んで行った。十分ほど経った頃、運転手が「K市方面ですね。」と言ってきていたが、虫の居所の悪い彼女はその言葉が聞こえなかったふりをした。

 市街に出てしばらくした時、車が停まった。彼女はついにこの時が来た、と高揚した。

「前のタクシー、停まりましたけどここで良いんですか?」

「うん、大丈夫!あっ、まだ開けないで。」

 彼女は前のタクシーから男が降りてくるのを確認した。そしてそのまま、彼が少しだけ歩道を歩き、建物へ続く階段を登っていくのを見送った。

「オッケー!今、今!開けて!」

 彼女は半ば叫ぶようにしてそう言うと、握りしめていた一万円札をトレーに乗せ、歩道側の座席へ身を詰めた。そして扉が開くやいなや、彼女は文字通りタクシーから飛び出した。

 運転手は突然のその行動に驚き、後部座席に体を向けた。

「あっ、お客様…。」

「お釣りいらない!取っといて!」

 彼女はそう残し、春の風と共に駆け出していった。



 

 

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