第4話
そんな彼の予想に反して、彼の彼女への想いは日毎に増していくばかりだった。
彼女は名前を、
彼は彼女の履修する授業に潜り込み、そのたびに彼女に見惚れるようになっていた。目が合った時には、彼女も笑顔で彼の視線を受け入れた。
その度に彼は、胸がざわざわと音を立てているような感覚に陥った。
彼らの間に明確な会話があったわけではないが、それでも彼らの距離が日々少しずつ近づいているのを彼は感じていた。
ある日、彼はいつものように電車に乗って学校に向かっていた。その日、N駅で乗り換えた彼は、電車の中に知った顔を見とめた。
「ジジ、おはよう。」
「おう、おはよ。」
ジジは彼が立っているすぐ横の座席に座っていた。長い足を組んで座るジジの姿は、それがジジでなければきっと彼のことを苛つかせただろう。
「今日は早いんだね。珍しい。」
「いやー、流石にそろそろやばいだろってね。」
「そっか。」
二人の間に沈黙が流れる。彼はある悩みを、ジジに打ち明けようかどうか思案していた。
彼は自分の話を他人にすることが生まれてこの方苦手だった。しかし、自分の話をすることで、他人と距離が近づくのではとも思っていた。
そうしたわけで、彼は一世一代の勇気を出して、ジジにある悩みを打ち明けたのだった。
「ねえジジ、僕、好きな人がいるんだけどさ。」
「ん?…え、ああ、そうなんだ。」
彼の目にはジジは驚いているように見えた。このタイミングではなかったかもしれないと、今になって彼は焦り始めた。
「あっ、えっと、…やっぱ、なんでもない。」
「いや、なんだよ。話し始めたじゃん。」
彼は完全に困ってしまっていた。これは、話し続けるのが正解なのか、それとも空気を読んで引くべきなのか、全くわからなくなってしまっていた。
「あ、ええと、その…。」
彼が言い淀んでいると、電車は大学の最寄り駅に到着した。聞き慣れた音を立てて、電車のドアが開いた。
「…なんなんだよ。お前。」
そう言うと、ジジは彼を置いて電車を降りようとした。彼はジジに、今度こそ、ついに、嫌われてしまったのではないかと思い、大きな不安に襲われた。手が震え、額には汗が滲み出した。
ジジは電車を降りて、改札に向かって歩き始めた。彼も電車を降りて、ホームまでからがら辿り着いた。
彼は、なんとかせねばと思った。もしこの美しい男に、嫌われてしまったら!
そう思うと、彼はいてもたってもいられなかった。
「ジジ!待って。」
階段を登って、改札に向かおうとしているジジに、彼は声をかけた。ジジは、その声を聞き止めて、数歩歩いたのちに、彼の方を振り返った。
「あの…。ごめんジジ。嫌な気持ちにさせて。」
彼は駆け足でジジの元へ向かった。
「いや…。てか、そういうとこもだよ。邪魔だろ、ここ。」
彼はジジに言われて初めて、周囲の人の存在を認識した。通学ラッシュのそのホームには、人が溢れていた。立ち止まる彼らを、訝しげに見て追い越していく人々に、彼らは流動的に囲まれていた。彼の心は、後悔でいっぱいだった。
彼はなんと言おうかと、思案した。そうしているうちに、ジジと彼を残して、人の波は改札に吸い込まれていた。
先に口を開いたのは、ジジだった。
「お前さ、もう、この際だからいうけど、こっちの機嫌ばっか伺ってきて、めんどくせえよ。」
少し彼から視線を逸らしながら、ジジはそう言った。
「気使われると、こっちまでそうしなくちゃいけねえじゃん。俺に責任を押し付けんなよ。お前のまま話さねえんだから、誰にも相手されなくて当然だよ。こっちだって壁に話してんじゃねえんだから。」
彼はジジの言葉ひとつ一つがぐさぐさと音をたてて自分の心に刺さっていくのを感じた。
ずっと信じてきた一つの答えを奪われて、全くどうすればいいかわからなくなってしまっていた。
彼が二十数年をかけて培ってきたものたちが、音を立てて崩れていくのを感じていた。
「いや、でも、僕の思ってることは…。」
彼は俯いたままそういった。相変わらず汗は身体中から吹き出してきていた。
「知らねえよ。少なくとも、いいか悪いかの判断くらいこっちにさせろよ。お前の判断を押し付けんな。」
ジジはそういうと、俯き黙りこくった彼を見て、また一つため息をついた。
その時、次の電車がホームに到着した。また人並みが、ぞろぞろと彼らに押し寄せて行った。そして、ジジはそのまま、その人並みに飲まれて、彼を置いて改札の向こうへと消えていった。
彼はしばらくその場に立ち止まっていた。
川を割く岩のように、彼は人の中に立ち続けた。
そうしてしばらくした後、誰もいなくなったホームで、彼は改札に向けて歩き出した。
その翌日、
致命傷になったような傷はなかったが、犯行中、香原隆子は口をガムテープで塞がれており、発見が遅れたことによって、裂傷多数による失血死に至っていた。
また、犯人は香原隆子をカッターナイフで刺した後、その傷を何度も指でなぞるなどして、香原隆子に対して多大なる苦痛を与えたのちに死に至らせた。現場に残された指紋から、犯人は同学に通う男子学生、
殺害後、高幡は列車に乗って逃走したと見られている。事件の発見が遅れたこともあり、未だ犯人確保には至っていない。
目撃者の証言によると、現場から逃走する高幡は頬を紅潮させながら、大きく笑っていたという。
まるで少年のように、一心不乱に走っていたという。
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