【不定期】蒼穹の魔導師

なごみ游

第1話

 正気の沙汰でないと彼自身も重々承知していた。

 腕の中に抱えた水晶のような玉は早くも濁り始め、もがれるべきではない者の手で、もがれるべきではない時に奪われたことを示している。どす黒い靄のような影が内に走るのを、だが男は悠長に眺めている余裕など無かった。

 この行いを咎めるように先刻から振り始めた雨は雨脚を強め、水を含んだ衣(きぬ)が重く手足に纏わり付いた。

「あっ」

 絡んだ木の根に足を取られたのだろう。

 どさりと地面に体を投げ出すように男は倒れた。打ち付けた膝だけでなく脇腹も酷く痛む。倒れた拍子に腕から零れ落ちた玉は、見た時のような美しい燐光に包まれた透明さを失い、細かな罅(ひび)の入った安物の屑石のように曇っている。

 ぜえぜえと息を切らして、やっとの思いで仰向けになった。小石をまとめて飲み込んだように胸が痛み、呼吸の度にガラガラと喉が酷い音を出す。

 もう走れないのだと悟った。

 脇腹の痛みは無茶をして駆けてきたからだけではない。灼熱感の為に麻痺しているが、手を伸ばせばそこには深く何かの枝が刺さっているとわかった。ぬるりとした感触は雨ではあるまい。

「どうぞ、この恐ろしい所業を……お赦しください。決して御子様を弑し奉らんとした訳ではないのです」

 誰に対してなのか、男は譫言のように呟いていた。その声すらも打ち付ける雨が掻き消して行く。

 そうして呆気ない程に、彼は息絶えた。

 ザアザアと雨が降り頻っていた。

 まるで全てを洗い流すように。

 そうして、深い山の奥に玉(ぎょく)だけが残された。

 誰に顧みられることもなく。

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【不定期】蒼穹の魔導師 なごみ游 @nagomi-YU

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