魔の川は渡れないだなんて言わせない

さとの

プロローグ

第1話 もやもやとした日々

「うーん、思ったほど上がってないな……」


 奏多かなたはパソコンの画面に表示されたエクセルの数字データとにらめっこして、うなり声をあげた。

 それは、とある中堅の化学メーカーで、奏多が担当している研究の実験データだ。

 排ガス処理用の触媒のコストを下げるために、レアメタルの量を減らそうとしているのだが、なかなかうまくいかないのだ。


 奏多は大きなため息をついた。

 成分を微妙に変えてはサンプルを作り、実験して分析して……の無限ループ。なかなか、よい条件が見つからない。

 こんなことなら、この間ジムのプールで落としたコンタクトレンズを探す方が、まだ簡単な気がしてくる。


「いや、さすがにコンタクトを探す方がムリか」

 

 奏多は五分ほどの間、プールの中から透明なレンズを探す方法を本気で考えて、そう結論付けた。


 要するに、疲れていた。

 結果が出ないことにも、よい打開策を見つけられない自分にも、正直うんざりする。

 奏多は眼鏡をはずして、眉間を指先でもんだ。ちなみに、普段は眼鏡で、泳ぐときだけコンタクトをしている。

 

「しょうがない、もう一度実験計画を立て直すか……」


 奏多は冷めたコーヒーを飲み干して、パソコンに向き直った。

 しばらく作業に集中し、週報と実験計画書を上司にメールで提出したときには、とっくに定時を過ぎていた。


「あともう少しやるか……よし、がんばれ自分」

 

 奏多は自分で自分を激励して、読もうと思っていた論文を開く。これは業務のためというより、勉強のためだった。それに、自分の研究に限らず、いろんな研究のことを知るのはおもしろい。


 そのとき、後ろから誰かに話しかけられた。


「永瀬、相変わらず独り言が多いな」

「えっ、声に出てたか?」


 振り返ると、すでに帰り支度をした同僚が、にやにやしてこちらを見ていた。 


「何読んでんの? 金曜日だぞ。まだ帰らないのか?」

 

 同僚は、後ろから奏多のパソコンをのぞきこんできた。


「論文だよ。二酸化炭素を回収する画期的な材料が見つかったらしい」

「ふーん。どこの? 大学?」

「T大学だな。さすが、おもしろい研究をしている」

「へー。うちでは二酸化炭素の回収技術はやってないだろ? 永瀬も勉強熱心だよな」

 

 どれだけ勉強しても、給料には反映されないんだぞ? と同僚はからかうように奏多の肩を叩いた。


「論文ばかり読んでないで、ちょっとは遊んだらどうだ?」

「それが、遊び方がわからないんだよ」


 奏多は半ば冗談、半ば本気で答えた。同僚は呆れたように笑う。


「今度教えてやろうか?」

「遠慮しとく」

「週末は何やってるんだ」

「作り置きの料理をしてるかな。あと、ジムに行ったり」

「健康的なことで。一人暮らしなのに料理か?」

「一人暮らしだからこそだよ。外食ばかりじゃ、栄養が偏る。それに料理はおもしろいぞ。化学の実験と同じだ」


 奏多は大まじめな顔で言った。

 素材と調味料と調理方法の組み合わせと手順には、ちゃんとロジックがある。


「おお、プライベートでも実験か。勤勉なことで」


 同僚は呆れたように肩をすくめて「お疲れさん」と帰っていった。


「……研究者なら、論文くらい読んで当たり前じゃないか」


 まわりの同僚は、忙しいことを言い訳に、専門分野からちょっと外れた論文や特許には、ほとんど目を通すこともない。

 それなのに、効率よく結果を出して製品化へと結びつけているのは、なぜなのか。一方の自分は、努力しても一向に成果が見えない。そんな現状に、焦りと苛立ちが募るばかりだった。


「勉強せずして成長なし、だ」

 

 奏多は自分に言い聞かせて、英語の論文に視線を戻した。

 三十分ほどかけて論文に目を通し、要点をエクセルファイルにまとめる。


「よし、帰るか」


 最後にメールボックスをチェックして、重要な連絡がないことを確認してパソコンの電源を落とした。デスクの上を片付け、明日必要な文献や書類はきちんと角をそろえて所定の場所にしまう。


「お先に失礼します」


 まだ残っているメンバーに声をかけて、奏多は職場を後にする。



 家に帰り着くと、ソファに沈み込む。どっと疲れが出て、夕食の用意をする気力も湧かない。

 奏多はスマートフォンを開いて、SNSを流し読みした。

 いくつもフォローしている科学ニュースやら、他の研究者の投稿が、画面を流れていく。


 大学の研究成果。企業で行われている新技術への取り組み。

 日々新しい技術が生まれては、いつの間にか消えていく。

 

「おもしろい投稿もないな……」


 画面をスクロールしていくも、すぐに興味を失って画面を消そうとしたそのとき。

 奏多の親指がぴたりと止まった。


『高校生が挑む未来のエネルギー、国際科学コンテストで優秀賞』


 そんな見出しが目をひいた。科学コンテストの名前を見て、どきりとする。

 なぜならそれは、かつて高校生だった自分も憧れていた大会だったから。


 リンクをタップすると、ニュース記事のトップ写真に、高校の制服を着た若い少女が、賞状を手に晴れやかな笑顔で写っていた。

 明るい茶髪に大きな目がくっきりとしていて、なにより眼差しの強さが印象的だった。


 奏多は思わず、まじまじと写真の中の少女を眺めた。


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次の更新予定

2024年12月18日 19:00
2024年12月19日 19:00

魔の川は渡れないだなんて言わせない さとの @csatono

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