第二部 あれから八年・下


 「次は、匿名希望さん」と、怪しい呼び方で黒田が見たのは、作業着の中年男性だった。俺らの視線を一身に浴びて、「いや、大した理由はないんだけれど」と言い訳するように切り出した。


「まさか、殆どが脛に傷あるやつとは思わなかったからさ。一応、『匿名希望』ってことにしていたんだよ。八年前まで、スリで食ってたからね。

 あの日も、八百屋の前で買い物中のおばさんの財布を狙っていたんだ。そしたら、スライディングしてきた女の子が、八百屋のリンゴの箱を倒してね、零れたリンゴを、思わず俺たちで拾い集めた。店主に渡そうとしたら、『そのままもらっていいよ。拾ってくれてありがとう』って……その、人を疑うことを知らないような瞳を見ていたら、こっちが恥ずかしくなってね。あれからスリを辞めて、工事現場で働いているよ」


 あっさりとした口調だったが、中々信じがたい話だった。あと、ここまで来ると、女の子のことよりも、元スリを見つけ出した黒田の情報網の方が気になってくる。

 俺の疑う目など気にせず、黒田は、「今度は、ケンくん」と、俺よりも若い青年を指した。彼は、腹を括った様子で、口を開く。


「当時、十六歳だった俺は、レース用のマウンテンバイクが欲しかったが、全然金が無かった。だから、あちこちの駐車場から、自転車を盗んで、乗り捨てていた。長く使っていたら、バレるかもしれないから。

 そうやって、バイクをこっそり練習していたが、やっぱり自分のだけのバイクが欲しい。そんな時に、この商店街で、ATMで金を下ろしたての人を見かけた。彼は、楽器屋の前で足を止めて、店前のキーボードを弾いている少女の曲に聞き惚れている。不用心だと思ったが、これをとれば……と広場に自転車を止めて、近付いた直後、女の子が飛び入りしてきて、タップダンスを始めた。途端にギャラリーが集まってきて、置き引きはできなくなった。諦めて、女の子のタップダンスが終わったタイミングで、帰ろうとしたら……」


 ケンは、一度言葉を途切れさせて、喉が渇いたのか、俺が出したアイスコーヒーをがぶ飲みした。まさか、続きがあるとはと、俺たちは彼の言葉を待つ。


「そしたら、タップダンスの子が、俺よりも先に自転車に飛び乗って、広場をグルグル回るように曲芸を始めた。俺が練習しても全然できなかったウィリーとかを、軽くこなす彼女を見ていたら、肩の力が抜けてきて……。バイトして、自分の金でバイクを買ってから、真面目に練習しようと決めたんだ」


 話を終えてから、また自分のアイスコーヒーを飲むケン。そんな彼に、OLらしき人が「バイクは買えたの?」と聞くと、「もちろん。アマチュアだけど、レースにも出てるぜ」と、満面の笑みでピースを送った。

 俺は、空になったケンのアイスコーヒーを注ごうと席を立つ。背中の方で、「その後は、海老沢さん」という黒田の声が聞こえて振り返ると、先程のOLが頷いていた。


「私は、すぐ近くの不動産屋が職場です。八年前は高卒で入社したてで、一生懸命働いていました。そんな時に、私は初めて自分一人で物件を売ることになったんです。そこは、当時空いていた商店街のテナントで、買いたがっていたのは私と変わらないくらいの若い女性でした。それも、彼女は結構な値段のするその物件を、一括で支払うと言ってきました。

 信じられなくて、なんだか不平等感を抱いて。彼女、常識的なことが全然分からないので、きっと、お金持ちのお嬢さんだったのでしょう。それだったら、こちらが、余計な金額を上乗せしても、気付かないんじゃないか。そんな魔がさして、彼女に見せる書類と会社に提出する書類とを偽造したんです。

 それでも彼女は疑わなくて、最後の内見でもとんとん拍子に話が進みました。あとは、テナントの前で書類にサインをしてもらうだけ、という瞬間に、女の子が、バインダーを蹴り割ってしまいました。それで、我に返って、後日の書類提出では、正規なものにサインをいただきました。彼女、前と値段が違うのは、割引セールなんですって言ったら、それも信じてしいましたね」


 アイスコーヒーを淹れ直して、ケンのテーブルに置いた時に、海老沢さんの話は終わった。「ちなみに、そこは今もミニシアターとして開いています」と海老沢さんが付け加える。話を聞く限り、浮世離れしたオーナーの店だが、今も続いているのはここらしい気がする。

 「では、次は里崎君ね」と、黒田に言われたのは男子大学生だった。彼は恥ずかしそうに、茶色に染めた髪を撫でて、語り始める。


「十二歳だった僕は、中学受験でかなり追い詰められていました。学校と塾以外に、外出も許されていない。でも、中々成績が伸びなくて……。両親からのプレッシャーも大きくて、何とかできないかと思っていた時に、この商店街に魔法の道具が売っているお店があるって聞いて、塾帰り、こっそり立ち寄ってみました。

 『どんな質問にも答えてくれるペン』——そんな、嘘みたいなペンを見つけたけれど、僕に支払える金額じゃない。店内は暗くて狭くて、カウンターの四角にペンがあったから、ポケットに突っ込んで、帰ろうとしました。でも、店から出た瞬間に、目の前に現れた女の子に手を掴まれて、ワルツを踊らされて……。目が回ったところを、店主さんに抱き留められたんです。罪悪感から、店主さんに万引きのことを話しました。彼は、『君はもうやらないよ』と万引きを許してくれました」


 終始、俯き気味に里崎は話していた。今までの人と違って、自分のその後も話さない。何かあったなと、元詐欺師の勘が働いたが、もちろん黙っていた。

 「もうそろそろ、おわりが近付いてきたねー」と伸びをした黒田は、「由比浜さん」と、アラフォーの女性に視線を向けた。ずっと静かに話を聞いていた女性が、「はい」と頷く。


「社会人一年目の私は、買い物中毒になってしまいました。契約できる限りのクレジットカードの限界まで使って、それでも足りなくて、とうとうヤミ金にも手を出してしまいました。ヤミ金の利子はとんでもなくて、取り立て激しく、集めたブランド品も全部売ったのですが、それでも足りなくて……私、とうとう逃げ出してしまったんです。保証人として、親友の名前だけを残して。

 三十歳まで、この近くでひっそり暮らしていましたが、この商店街で買い物中に、保証人にしていた親友が現れました。ずっと私を探してたようです。ベンチに座って、膨れ上がった借金をちゃんと返してほしい、でも、私だってお金がない、と押し問答していたら、猫が、猫カフェから逃げてきた猫が、私たちのベンチに乗ってきたんです。カフェの人に返してあげたら、中でお茶を勧められて……。そのまま、中でお茶したり、猫を構っている内に、お互い冷静になって、どうも、これは違法じゃないかって、やっと気付けたんです。

 それから弁護士に相談するとかして、借金は解消しました。親友との仲も回復したんですが、あの時、猫が割り込まなかったら、私、親友の首を絞めていたかもしれません」

「猫がキャットファイトを止めてくれたって訳か」


 恐ろしい告白に、場が凍り付いたけれど、匿名希望の親父ギャグに、すぐに柔らかくなった。出てきたのは苦笑だったが。

 由比浜さんも困った顔をしていたが、「あ、あと」と付け加える。


「黒田さんの話によると、猫カフェからの猫の脱走はただの偶然じゃなくて、女の子がドアを開けたのがきっかけだそうです」


 ここでも、また女の子が登場する。先程とは違う静けさの中、朋華さんが「最後は私ね」と手を挙げた。


「私、あの日に自殺しようとしてたの」


 がたっと、飯田橋さんが腰を浮かせる。朋華さんが「昔の話よ」と言ったので座ったが、まだ心配そうな顔をしていた。


「結婚を約束して、一緒に暮らしていた彼に裏切られて、私はボロボロの心で実家に戻った。家族も商店街のみんなも優しくしてくれたけれど、もしも、私の隣に彼がいたらって、いつも考えていた。体全体を押さえつけられているような苦しみの中、もういっそのことって、死のうと思った。でも、家の中だと迷惑かも、どこか山の方で首を吊ろうと、ロープをいくつか持って、外に出たの。最後に、街の景色を見たくて、遠くの南口を目指しながら歩いていた。

 そしたら、その南口のゲートに、由々菜ちゃんが刺さっていたのよね。目を疑うったわ。下にいるみんなは、助けたいけれどどうしようもない様子だったから、私がロープを貸したの。商店街のみんなが由々菜ちゃんを助けようとしていたのを見ていたら、みんなは私が死んだら自分のことのように悲しむのかもって考えて、踏み止まれた。それからも色々あったけれど、今の旦那と出会て、今はすごく幸せよ」


 にこにこしながら、おなかをさする朋華さんを見ていると、本当に良かったと思える。だが、先程の話に気になる点があった。

 同じ疑問点を抱いていた海老沢さんが、「由々菜ちゃんって?」と尋ねる。


「ああ、北口近くにある常深つねみ靴屋の娘さんよ。今は十八歳ね」

「え、あの子、この商店街の子だったの?」

「あれ。みっちゃん、知らなかった?」


 飯田橋さんと朋華さんが、別々の理由で目を瞬かせる。俺も、驚きは飯田橋さんと同じだった。


「俺と飯田橋さんは、あの子の背中しか見ていなかったから、気付かなかったです」

「いや、それより、その子が実在していたことに俺は驚いているよ」


 口を挟んだのは、匿名希望だった。里崎も、大きく頷いている。


「僕も、あの子は天使か精霊的なものだと思っていました」

「いや、悪戯好きな妖精か、妖怪だと」


 ケンも、里崎と同じような、正反対のようなことを言ってくる。ともかく、ここにいる大半は、あの子の存在自体を怪しんでいた。

 ざわざわし始める店内で、黒田が咳払いをして、注目を集めさせる。


「由々菜ちゃん、僕も何度か見かけたし、少し話したこともある。でも、印象としては、普通の女の子だったよ」

「そんな子が、こんな騒動を巻き起こしていたの?」

「彼女の幼馴染の話によると、あの時は靴が勝手に動いて、ステップを踏んでいたから、らしい」


 雲を掴むような話に、みんな首を捻っているが、唯一由比浜さんが、「でも」と全員を見回して言った。


「それ、本当だと思います。ただの女の子が、カポエラのキックをしたり、タップダンスをしたり、自転車の曲芸をしたりを一気に行えるなんて、現実離れしている気がします」

「そうですね。悪いことを未然に防いでいますし、タイミングとか、一瞬で計算しないと不可能なことをやっちゃっていますし。靴に、何かが乗り移って、神がかり的なことが起こせたのでしょう」


 海老沢さんも納得している。全員が、そうなのかなと思い始めた時に、開店当時からある古時計が、十二時の鐘を鳴らした。

 思いがけず長丁場になったので、俺は、「昼食作りますよ」と立ち上がった。有難いことに、飯田橋さんも「手伝います」と言ってくれたので、言葉に甘えることにする。


 彼女を厨房に案内しようとしていたら、喫茶店の外、北口の方面から、犬が激しく吠える声が聞こえた。驚いて振り返ると、喫茶店の大きな窓の外、左端から、ふわりと舞い降りるかのように、一人の少女が、ぴかぴか光るエナメルの靴を履いた足から着地する瞬間だった。


「由々菜ちゃん」


 風のように走り去る彼女を見て、朋華さんが呟く。真後ろで、彼女と同い年らしい少年が、慌てて追いかけて行ったのを、その余韻で見ていた。


「ま、まま、また、靴が勝手に、ステップしたのかも」


 これまで、聞いたことのない言葉が響いた。見ると、枝野さんが真っ赤になっている。今のが彼の声だと気付き、今まで喋らなかった理由を察したが、誰もそれを追求しなかった。

 俺は、いてもたってもいられずに、喫茶店のドアへ駆けこんだ。ドアを開けて、前を見ると、まるでバレリーナのような爪先立ちで、進んでいる少女の姿が見えた。


「グッドラック」


 俺は、今日人生を変えられる人々へ、小声でそう贈った。



















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真新しい靴がステップ 夢月七海 @yumetuki-773

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