State I 期待

 それはまだ校長の銅像が破壊される一週間少し前のこと。爆轟殿涼花(バクゴウデン スズカ)は朝起きると化粧台に直行し、頬のニキビの現状をいち早くチェックした。治まってる?大きくなってる?顔の輪郭をべっとり塗るように太枠で覆ったボリューミーなボブカットのヘアスタイルは、絵に描いたような引っ込み事案の少女の代表格であり、実際彼女は周りからどう思われるかを過剰に意識する、とりわけ強い繊細性の持ち主であった。しかし当人の人格とは対極的に、主張の目立つインパクト絶大な苗字(爆轟殿)を持っているがために、彼女はクラス内の初年度の自己紹介などで一躍注目をかき集める(特に男子から)格好の餌食であり、毎年事あるごとに彼女は自身の意に反してその繊細さを激化させるのであった。

 着替えまで済ませて一階に降りると、食卓にはお母さんが作ってくれたいつもの目玉焼きとトーストとサラダの朝ごはんが用意されている。お母さんは毎日タブレットで動画アプリの情報チャンネルを流しているが、彼女はそれとは別に、大勢のタレントが日替わりで出演するシリアス感の浅い朝番組を居間の大きいテレビで観るのが日課だった。

 「本日ご紹介した原宿エクセレントのアクセサリーは番組公式サイト、各種SNSにて公開中です。よろしければ是非チェックしてみてください!さて香原さん、人気の品々で現場の女子高校生もアゲアゲな様子でしたが、いかがでしたか?」

 「そうですねー、やっぱり何かに夢中でいたり、一生懸命努力してる女性って本当に素敵ですよねー。」

 テレビには国内のあらゆる少女漫画の理想的な男性像をAIが計算して算出したかのような、高身長で爽やかな色気を放つ日本中で大人気の俳優が映っていたが、涼花は精一杯の想像力を働かせ、脳内で映像をフィルタリングして再投影するかのように、俳優の姿をこの世界で一番好きなクラスの片思いの男子に置換する。

“一生懸命努力してる女性って本当に素敵ですよね”

 自分に自信が持てたらどれだけいいだろうか。明るくて笑顔がいっぱいの美人になれたらどれだけ愛されるだろうか。私が一生懸命努力もできるポジティブな人間なら、瑞泉君は私に振り向いてくれるだろうか。涼花は憧れのときめきと手が届かない切なさで、胸を痛いほど締め付けた。

 「すず、そのタレント好きなの?」

 身支度を済ませて家を出る寸前のお母さんは、テレビを凝視する娘の趣味嗜好や高校生の流行を確認する目的で、朝ごはんの食べる手がぴたりと止まってフリーズしている娘を再起動させる。

 「いや、別に・・・」

 涼花は親が自分の世界に不意に介入してくることの嫌悪感は見せず、それでも秘密が明らかになるのは困るからと、恥ずかしがりながら否定した。お母さんは娘の本心を確定できずとも、誰かに惚れているみたいな甘酸っぱさを見せる娘のことを可愛く思い、ほのかに頬を緩めながら、玄関の戸に直接内蔵されているポストから雑誌の郵便物を取り出し、出発前に振り返って言った。

 「今日も夜遅いから、お腹空いたら冷蔵庫のシチュー食べていいからね」


 涼花は顔を伏せ気味にトボトボといった具合で、学校前の住宅街の路地を登校していた。涼花が通う月ノ海高校は彼女の家から徒歩圏内にあり、電車もバスも自転車も使用せずに時間に余裕を持って定刻に到着できる。今日も慌てることなく難なく通学しているが、何か嫌なことがあったわけでもなく、寂しいわけでもなく、彼女は毎日一人のときは決まって、思い悩んで考え事をするかのように静かな集中力で存在感を潜めていた。

 「おはよっ!」

 後ろから掛けられた挨拶に、まるで背中から化け物が出現したかのごとく、涼花は驚きで心臓を止めかける。実際涼花はお化けの実在を割と信じている。

 「なんだ・・・麻衣か・・・」

 電車で通学している大親友の黒川麻衣とは学校到着寸前のところでたまに一緒になる。二人は高校一年で同じクラスになってから大の仲良しになり、幸運なことに高校二年の現在でも同じクラスに当たり、お互い学校生活における伴侶的存在になっていた。

 「もーすず、軽く肩叩いただけじゃん、びっくりしすぎだって。」

 低身長で小柄な、生徒会らしい眼鏡女子である麻衣は、普段の鉄壁の硬度を誇る隙のない真面目モードをオフにして、これからテーマパークに行くのってくらいのルンルンとした調子でほほ笑む。麻衣は些細なことでも命がけみたいに反応する涼花のことが何よりも面白いと思っていたし、涼花の丁寧で温かい人柄と、それに伴う少し抜けた天然なキャラクターのことが本当に大好きだった。二人はそのままホームルームが始まる直前まで、昨日新規エピソードが更新されたアニメ「わちょわちょアニマルズ(通称:わちょアニ)」に関する談笑や、先日発表された二人の大好きな作家の新作小説に関する展望、その他返却される定期テストの点数予想など、何てことはない他愛ない会話をした。

 変哲のない繰り返されるいつもの一日。午後ラストの現代文の授業で、二年一組の教室には涼花、麻衣、ウィダー、マーティン、ペッパ、ゼンチ、その他数十名の生徒たちがいる。テストに出題された小説における作者の意図について、重量級の食いしん坊なゆるキャラみたいな愛嬌がある桜井先生が、テスト返却前に生徒を突き放す温度差の熱量で改めて解説を講じていた。

  「このようにー!主人公が汗をかくシーンは現実的にはありえない様相で記述されているところから・・・って塩見!聞いてる!?起きてる?!」

  「すみません・・・」

 窓から二列目のやや後方にいる野球部の男子が、坊主頭をゴリゴリ掻きながら、開ききっていない瞼と闘うみたいにして意識と姿勢を持ち直す。実は二年一組には塩見が二人おり、窓際の列の真ん中にいたもう一人の塩見は、最初自分のことを指摘されたのかと衝撃的な精神的打撃の不意打ちを喰らった。彼女、塩見由衣は、ツインテールの髪型に大きい丸眼鏡をかけた大人しい文学少女のような成りで、先生に反抗する態度を何一つ見せず冷静に黒板の内容をノートに取っている風だった。しかし、普段の彼女は現在の授業時とは圧倒的に全くの別人であり、エネルギーが過大すぎてもはや鬱陶しい五歳児の男の子みたいに、本来はピュアでハッピーな特段弾けた性格の人物だった。ツインテールはやたら頭の上方に構えられており、動物の耳というよりも電波を送受信するエイリアンのアンテナというような趣だ。塩見という名前であるが、小学生のころから塩、塩コショウ、コショウとかの調味料の名前で散々遊ばれており、どこかの全く分からないタイミングでいつの間にかペッパという愛称が根付いていた。実際彼女は、馬鹿でシンプルな精神的幼稚さの擬人化みたいに、元気溌剌とした刺激が剝き出しになって炸裂する生物で、親から友達まで誰にとってもペッパという名と概念が親しみを持って彼女に馴染んでいた。その明るい人格に沿うように、彼女はポップアートやファッション、音楽にダンス、その他の現代カルチャーをよく嗜んでおり、保育園児の頃から特訓しているダンスに関しては、県の中でもトップクラスにハイレベルなものだ。進路は美大志望。しかし、彼女は学校が稼働中の間は、先生やその他大人たちの前では必ず真面目そうなフリをする。眼鏡をかけるのも授業のときだけだ。彼女は大人に怒られることを極端に嫌っており、友人以外の前では自身のボロが現れないよう、普段から注意深く慎重に過ごして予防しているのだった。桜井先生のハイテンションな授業でも、そのつもりだった。

 「部活忙しくても小さなことサボってたら受験失敗するでなー!もう一人の塩見を見てみろ!ちゃんとノート取ってっぞきょらなぁ?」

 ちゃんとノート取ってるぞ、ほら、なあ?をあまりにも短く高速に言い過ぎたため、桜井先生の言語は日本語として聞き取りできないものになっていたが、野球部の塩見を鼓舞するための参考体に採用されたペッパは、誇らしげに、先生の破綻した語句も全て正確に聞き取れましたよと言わんばかりに桜井先生へ済まし顔も決め、止まっていたシャープペンを持つ手の作業を再開させる。ノートに落書きしていた桜井先生のお茶目な似顔絵に、「きょらなぁ?」の吹き出しを添えた。

 教室後方の二席にいるウィダーとマーティンは、そこだけさりげなくさらに一段の行を作るみたいに椅子を後ろに下げ、二人で密かにキャッチボールの文通を行っていた。ウィダーは既に前授業で不要になった地理のプリントの裏に何かの記号を書き溜め、桜井先生が生徒たちに背を向ける一瞬の隙に、くしゃくしゃに丸めたそれをマーティンに投げ捨てる。マーティンはハンドボール選手のように慣れた手つきで器用に片手でキャッチし、ニヤニヤしながら中を開封した。そこに記載されていたのは、数直線上に丸やひし形の記号が並べられた、近未来の言語のような、または古代人が記録した未知の暗号のような内容のものだった。マーティンはウィダーが作るこの数直線と記号の一連が、ドラムの楽譜を表していることを前々から知っている。マーティンはウィダーが高校一年のときに知り合った高校始まって以来初の友達であり、さらにはマイナーかつコアな外国の音楽の趣味がぴったり共通でいる同士で、一年前から激しい勢いで面白いくらい意気投合していた。実際マーティンは現代の欧米の音楽が大好きなのが傍から見ても至極納得できる、情味のあるノリのいい快活なキャラクターの人柄であった。背も高く体格にも恵まれている上、身なりにもこだわるお洒落な感性も持ち合わせている。ロングヘアーを後頭部で結った中性的な印象のヘアスタイルは、アニメや漫画以外の実世界、ないし高校生の界隈ではなかなかお目にかかれないものだ。かなり垢抜けているためハーフのような気配も放っているが、本名は岩田将生と一般的な純日本人であり、マー坊とかマーちゃんとかマー君とか呼ばれる過程でそれっぽくなってしまった。他の学校の違う学生であれば彼のことをモテる男子として位置付けしそうであるが、彼は当校では不思議なことに全くモテない。あまりにも他の人と壁を作らずに打ち解けてしまうため、誰かを魅了する謎めいた奥行きや、その他クラスから一目おかれるような特別感などが本人から生まれず、女子の誰しもが彼を恋愛対象としてイメージすることが困難でいるようだった。それくらい人と近距離で接する飼い犬のようなその特性には、物心が付く前からこれまでずっと結託している、隣家の幼馴染のペッパから譲り受けた性質も含まれているのだった。

 これなんだ?十拍子?マーティンが手に取った楽譜に綴られていた長尺のフレーズは、まとまり単位で察するに十拍の曲ということになるが、マーティンは数分の間考えても答えが何か分からずにいた。俺とウィダーの好きなバンドの中で、こんな曲あったっけ?

 マーティンが楽曲の正解を思いつかないまま、桜井先生の解説が一通り完了し、できの悪さを見せつけられる罰ゲームのようなテスト返却が始まった。

 「じゃあ返していきます。百点は、一人だけです。」

 先生が生徒の得点の情報について触れた瞬間、コンピューターで自動制御された工場のマシーンのように、もしくは至高の指揮者が率いる最高級のプロオーケストラのように、一寸の狂いもない奇跡的なシンクロ具合で、クラス中の全生徒が一斉に、廊下側最後尾の男子を振り返った。

 「いや、まだ分からないから・・・」

 クラスの影になるように地味に目立たないよう努めている天然パーマのゼンチは、毎度毎度テストの返却の度に100%の確率で注目を浴びるその異常事態に戸惑いながら、クラス中の生徒たちに向けて自身が満点を取れていない可能性を補足する。ゼンチは自宅内でのコミュニケーションがとりわけ盛んな拡大家族の家庭に生まれ、教育関係者や行政機関に勤める両親や祖父母から、世の中の全ての出来事を学問と結びつけるような教育をされてきた。そしてそれらの観念が大人として生存する際に必ず役立つものであると、子供ながらにして堅実に心得ていた。中学生の頃から一人暮らしの将来を見据えて自炊もこなしてきたし、もしもの大事故で自分以外の家族を全員亡くしてしまっても一人で乗り越えられるよう、子供ながら社会的自立にも向き合ったし、科学的見解の基礎や数学的思考能力のロジカルシンキング、世の中のシステムや傾向と自分の存在との関係性やマップ、その他心と体の健康の重要性まで、他の学生より何倍も大人的な経験を養い、他の学生より何倍も濃厚な人生を歩むことを実現していた。実際彼にとって現代文の小説の授業一つにしても、物語がもたらす現実世界への影響、作者の動機や意図、その共感、作品が総合的にもたらす価値まで、基本的な言語表現に関する学習の範疇を超えた全ての内容が、過去に両親と共に取り組んで覚えた生き方や考え方とよく重なるものであり、現代文の授業の一つ一つが、彼にとっては初めてのものではないのであった。飛び級してるかのように勉強に対して絶対的な余裕を持っているため、彼は学校のテストを「この先生ならどういう問題を出題するか」という一種の戦略ゲームのようにして楽しむことができていた。あだ名のゼンチは、中学の頃から親友でいるウィダーが中学時代に付けてくれたもので、「全知全能」が略されたものである。そんな優秀なゼンチが、ウィダーたちと同じ平均より少し上くらいの偏差値の月ノ海高校に進学した理由は、月ノ海高校が彼の自宅から一番近いから。彼は世の中に利益を出せるのであれば高学歴のステータスを得ることも大企業の重役になることも比較的重要視しておらず、人生で幸福を叶えるためには富や名声とはもっと別のことに本質を見つけ出せるだろうと考えていたのだった。それでも彼は、何かの攻略的要素が詰まっている勉強やテストを娯楽として楽しんでおり、自身もクイズやゲームの開発などに熱心な興味を抱いている。ちなみにこの五年間、ゼンチがテストで満点以外の点数を取ったことは、片手で数えられるくらいしかない。

 「はい塩見~。・・・はい塩見~。・・・はい瑞泉君~」

 桜井先生に呼ばれて起立するクラス中央にいる瑞泉の姿を、涼花はその左後ろの席から体中の神経を覚醒させつつこっそり目で追いかける。人間離れした真っ白な肌、光を一つ残らず吸収するような高密度の黒髪、天使のような宝石の瞳、それでいて男らしさを損なわない、細身ながら頼りになる筋肉と体・・・。瑞泉は今朝涼花がテレビで観た俳優とは異なる、まるで神の使いのような別格の神聖さを司る、美術品や彫刻のようなタイプのイケメンだった。涼花は貧血を起こしそうにメロメロになって溶けだしそうになるのを懸命に堪える。本当にカッコイイ。お近づきになれなくても、こうやって生で目に納められるだけでいい。それだけでいい。でも、もし少しでも話ができたら、もし私のこと少しでも思ってくれたら、私はどれだけ天に昇る心地になるだろう。瑞泉君とは一回、「爆轟殿ってすごい苗字だね」と名前について一瞬だけ会話した程度だ。それ以外は何も話したことがない。こんなにも毎日近くにいるのに、こんなにも手を伸ばせば触れられるくらいの距離なのに。涼花はこの世で最も尊敬している人が同じ教室にいる恵みと呪いを、日々延々に味わっていた。

 桜井先生からテストを受け取った瑞泉は、涼花が想定した行動とは異なる挙動を見せる。瑞泉は、彼と同じ水泳部のクラスメイトの永井に自分のテストの点数を見せに行こうと、彼の本席地点であるクラス中央の座席とは違う、涼花の真後ろの席に移動の進路を変更したのだった。涼花は瑞泉君が自分のもとに近寄り、自分の隣を通過するその瞬間、ガチンゴチンに硬直しながら、それでも絶対に外すことが許されないサッカーワールドカップの決勝戦のPKみたいに、全身全霊をかけて必死に、瑞泉君が持っている、瑞泉君にしかない空気を、自分のものにしようとした。

 「ねぇ、俺死んだんだけど。」

 「おいマジかよ!」

 涼花は自分の一つ後ろで盛り上がっている瑞泉君たちの存在を背中で感じながら、周りに気づかれないよう細心の注意を払った小型の深呼吸を実行し、瑞泉君が自分の隣を通過したときに生じた甘くてエレガントな香りをうんと堪能した。実は瑞泉は普段から香水を使用している。教師たちにばれるどころか、クラスメイトの女子でさえ香水を使用していることは周知されていない。もともと美麗で清潔感抜群な人間であったため、香水を使用していなくても本人から綺麗な香りが漂うのは違和感のない当然のことであった。しかし、涼花とその親友の麻衣だけは、瑞泉君が毎日欠かさず香水を使用している可能性を勘ぐっており、どこのブランドのどの種類をどれくらい付けているのか、二人で内密に議論することがしばしばあった。涼花は麻衣にだけ瑞泉君に関する情報を事細かく共有している。涼花の好きな人が瑞泉君であるということ、涼花史上最大のトップシークレットを知っているのは、この地球上でただ一人、麻衣だけであった。

 緊張で身動き一つ取れない涼花、そんなこと知らない瑞泉、多様なリアクションでバラバラになっている教室を統制する形で、桜井先生が生徒たちの人生にとって最大の邪魔になるイベントを決行する。

「今回のテストはいつもより出来が悪い!ということで課題を出します!一人一つなんでもいいから小説を選んで、今日解説したような『現実的にはありえない表現』と、その意図についてまとめるように!文化祭終わった後の一発目で提出してもらうからなー」

 

 現代文の授業からホームルームまで一日の日課が終了した後、スマートフォンを操作しながら軟体動物のように脱力しきって座るウィダーのもとに、マーティンはくしゃくしゃになったプリントを持ってきて訊いた。

 「これ結局分かんなかったわー。何の曲?」

 「レディオヘッドの5 step。」

 「は?」

 「ドッカッカッカ、ドッカドッカドッカ。」

 ウィダーはマーティンが開いた紙に記されている数直線を指でなぞりながら、デスクトップミュージックの楽曲編集ソフトを起動する具合で、ドラムの流れを独自に再現した。

 「うわマジじゃん!気付かなかったー」

 「ドラムの曲当てクイズでドラムが平凡な曲出題するわけねぇだろ。」

 「でもこれIn Rainbowsでしょ?2000年代とか古すぎて聴かねぇから。」

 「シッ!お前それ洋楽ファンに聞かれたらぶち殺されるぞ。」

 教室後方でウィダーとマーティンは、周りから独立した二人だけの趣味のオアシスを繰り広げる。また教室窓際では、女子三人が返却された現代文のテストの見せ合いっこをしていた。

 「こんな問題分かるわけないと?」

 「私もここは好きな動物選んでた。ってかペッパ、なんでそんな高得点なの?」

 「へっへっへ。私にかかればこんなものよう」

 二年一組にはペッパの他にダンス部の女子が二人おり、一人はド田舎から越してきた方言のクセがすごい金髪セミロングのフォカッチャ、もう一人は常に背中にドクロを背負っていそうな黒髪ストレートのヘヴィメタ系女子のサーセンだ。こう見えてペッパ含む彼女たち三人は、中身のないルッキズムの点でも校内におけるカースト上位の層に属しており、他クラスの調子に乗っているイケメングループともそれなりに通じていた。三人とも他の女子たちに対して何かのマウントを取ることに快感を覚えたりするということは全くなく、単純に積極性のある陽気な自信家で、パーティーしたりイケイケになったりすることが得意かつ好きであった。ペッパはフォカッチャとサーセンとテストの正誤一つ一つに一喜一憂している中、スマートフォンの通知に気づいて、腰かけていた窓から離れた。

 「マーティン、今日マミー来るけど乗ってく?」

 「お、マジで?ゼンチ、今日部活って俺ら片付けの当番じゃないよね?」

 教室後方のウィダーとマーティンのもとに来たペッパは、部活終わりの時間に車で迎えに来てくれる母親と帰りに同行するかマーティンに問い、マーティンは自身と同じテニス部に所属しているゼンチへ、今日の部活が平常通り遅れずに終了するかチェックした。

 「そうだね」

 現代文の課題の小説を何にしようかと頭の中でマイライブラリーを広げていたゼンチは、マーティンの問いかけで我に返り、教室廊下側最後尾の席からウィダーたちの塊の方へ移動して、一体になった。

 「マーティンもゼンチも普通に部活か。ゼンチ、後で家行っていい?」

 「いいよ。俺がウィダーの家行ってもいいけど。そういえばペッパ、桜井先生の似顔絵描けた?」

 「描けたよー!ちょっと待ってね・・・ほら!ジャジャーン!」

 ペッパ画伯は、現代文の授業中ずっと精巧に製作していた、桜井先生の落書きの一遍を鞄の中から取って持ってきて、ウィダーとマーティンとゼンチの三人に披露した。少年ジャンプの漫画のタッチ風に大きな目と躍動感のある意気揚々とした表情、アンパンとか中華饅頭とかの美味しそうな、それでいて超絶的な高精度を誇るピッカピカに綺麗な真ん丸の輪郭。実在する人間をコミカルにネタにした、いじり要素満々の創作だ。さっきまで授業をしていた桜井先生は、ペッパの落書きの漫画から実写版の映画としてキャスティングされたのかと想像すると非常におもしろい。ペッパは、そんな生き生きとしたユニークで飛び切り可愛いイラストを完成させていた。

 「きょらなぁってなんだよ。」

 「いや先生がそう言ってたんだって!」

 落書き中の吹き出しに引っ掛かり、マーティンとペッパは兄弟みたいに同じ笑いのツボを共通させながらゲラゲラ面白がる。

 「おい、俺も描いたぞ。」

 ウィダーは学ランのポケットに手を突っ込んだまま、現代文のノートに二ページに亘って描かれた、一回の授業の間に作成したとは思えないような大迫力の鉛筆画を見せた。それはディストピア映画のような混沌とした世界観の廃都市が舞台。ボロボロになって朽ちた建物が周りを囲う荒廃した土地の真ん中で、味方を全員失ってもたった一人で敵に立ち向かう戦士のような、どれほどの闇の中でも最期の最期まで諦めず力を振り絞って万進する勇者のような、悲壮感たっぷりの圧巻されるほどドラマチックな様子で、真ん丸顔の桜井先生が突っ立っていた。マーティンとペッパとゼンチは意味が分からないと騒いで爆笑する。真面目な話、実はこの絵にはウィダーのアイデンティティや信念のようなものが十二分に表れていた。それは何かに力強く反抗しながら思い切りふざけるということ。ウィダーの基本的なものの考え方は、「誰になんと言われようとも、俺たちはこの世界を楽しんでいい」というものだった。というか彼にとっては、美味い食い物を食って美味いと感じないことがどうしても不可能なように、美味い食い物を食って「美味いと感じるな!」と誰かに咎められるようなことが理解できなかった。思ったことを思わないということ、感じたことを感じなかったことにすること、そういう心と理性の直接的な働きを封じ込めるような圧力の意義が、彼にはどうしても分からなかった。走ってる車の窓から顔を出すなとか、他人のお金を盗むなとか、影響が自分を含むコミュニティや自分の履歴などに及ぶもので、やってはいけないある特定の行為だけを限定して注意されるのならまだ全然分かる。しかし、お前は何をやってもダメだとか、とにかく私の言う通りにしなさいとか、明確な基準もない漠然とした抽象的な非難の、特に個人の幸福の追求や哀しみの克服の根本的な部分にまで達する禁止の概念には、彼は絶えず内臓がちぎれそうになるまで憤怒していたし、それらをもたらす言動を実践する大人たち全員を心から軽蔑していた。だからウィダーは、遊びが許されると独断で判断した場では、自身のリミットを取り外すまで存分に嗜むし、遊びが許されるはずなのに納得できない理由で大人たちに止められたときは、納得できるまで全身全霊でエモーショナルに逆らうのだった。ウィダーはそんな風に、自身の欲望に正直に、心の働きをコントロールできないことをある種の正義として、人間は生まれたら最終的には楽しむ以外に何をすることもないのだという理念を信仰していた。だからこそ、ウィダーは自身の歓びを解放するロックの音楽や、感情的な影響力を持つ美術などのアートをこよなく愛しており、彼自身も、SFやファンタジーなど、非現実的で心理的に爆発的な引力を発揮する絵の創作に関して才能を持っていた。事実桜井先生の大作の絵で決定づけられているように、ウィダーはアーティストを名乗ることに疑念を持てないほど誰からも認められるハイセンスな画家だ。進路は美大志望。髪が長く目つきも鋭いため、近づいたら噛いてくる獣のような敵対感を醸し出しているが、実際は仲良くなって味方になれば有難いほど心地いい。ウィダーは芸術の鑑賞で孤独を断ち切る感覚までも大好きでいるように、自己中心的な性格でありながら、自分のもとに集まってくる友達を突き放すような真似は天地がひっくり返っても決してしなかった。ウィダーにとっては、いたずらをしても、冗談を言っても、それを指摘してユーモラスな悦びを確定してくれる友達が必要不可欠なのだ。学業に関しては案の定かなり疎く、本校への進学もゼンチから手取り足取り丹念に指導を受けてなんとか合格に届いたものだった。ちなみにウィダーというあだ名は中学一年の時に普及したもので、彼が昼食時間にお弁当で飲料ゼリーしか口にしなかったため、学校中の生徒から「昼ごはんにウィダーしか飲まないやつ」という噂でその名が定着した。彼が昼食で飲料ゼリーしか口にしなかった理由は、毎日一秒でも速攻で昼食を済ませ、毎日一秒でも長く休み時間を満喫したかったから。

 「ゼンチ、俺のこの傑作を前にしてもペッパのに票入れるか?」

 「いやいやゼンチ、私の方がいいよね?」

 ウィダーとペッパは自慢の力作をゼンチの前に並べてアピールする。ゼンチは以前からウィダーとペッパが完成させたアートに言及するコメンテーターの役割を担っており、二人の作家性や表現力の鑑賞的価値について、作品の持つ固有の魅力や、エネルギーやリアリティやストーリー、それらの素晴らしいと思うポイントを独自の評論でウィダーたちに展開していた。今回は特別、桜井先生という同じテーマでウィダーとペッパがコンペティションを開催し、ゼンチはその審査員を務めているのだった。

 「うーん・・・どっちも流石だけど・・・今回はペッパのかな。」

 「ィヤッター!」

 「おい賄賂だろ。」

 ゼンチは顎に手を当て真剣そうに吟味しながらペッパの作品に軍配を上げ、ウィダーはすかさずペッパが裏で手引きして反則したことにする。

 「ウィダーのはちょっと面白すぎるかな。桜井先生がもはや別人になってる。」

 「俺はウィダーの絵の方が好きだけどなー」

 ゼンチはウィダーの絵もペッパの作品と同率で優秀であったことをさりげなく伝え、マーティンも椅子を前後に揺らしながら、少年のように無垢な表情を浮かべ、ゼンチのウィダーに対する評価に乗っかった。四人は幼馴染、幼友達、趣味、部活、志望大学と、独立したコアが幾つも重なり合うような異色のネットワークで繋がっており、えぐいほど奇抜で個性的な色が衝突しながら、それでもそれぞれが共鳴して調和する巧みな彩りの構造系を築いていた。しかし四人にとっては、彼らが特別な結びつきで特殊な集合になっていることなど、銀河系のスケールで観測するミジンコの細胞くらい、死ぬほどどうでもいいことだった。


 雨が降り出しそうな曇り空の暮方、車窓に映る外の世界は、暗黒に染まる前の吸い込まれそうな青紫色をしていた。

 「えーっと明日は・・・数学に・・・音楽か!」

 後部座席にローファーを脱いであぐらをかいて座っていたペッパは、遥か遠くの空の向こうと交信するみたいに明日の授業の予定を思い出す。

 「え、高二でも音楽の授業ってあるの?」

 エキゾチックで派手にカラフルな髪飾りがトレードマークのペッパの母親は、運転と娘たちの学校生活に意識を分割する。

 「俺たちの高校、一年の時は副教科が技術と家庭だけで、二年から前期で美術、後期で音楽って芸術科目を分けてやるんすよ。今年は美術の割合が長めでしたけど。」

 「はえーそうなんだ」

 部活終わりに車に乗せてもらったマーティンは、ぬいぐるみのおもちゃぐらい雑に扱うペッパとは違い、それよりもう二つ三つ高いグレードの丁寧さで、ペッパの母に簡潔に応答する。マーティンにとってペッパが妹なら、ペッパの母は大分年の離れたお姉ちゃんという感じだった。

 「何すんのかな、やっぱ歌うのかな」

 「そうじゃね?ペッパ、歌付きで踊れば?」

 「やだわ!歌いながら踊るの結構しんどいからねマジで」

 「想像したらウケるな、合唱中みんな歌ってるのにペッパだけ踊ってるの」

 マーティンもペッパも音楽の授業自体はどちらかと言えば断然好きな方の部類であり、新鮮味のない五教科の飽き足りた時間より比べ物にならないほど趣味の領域と近接したそれに、表向きには顕著に出さずとも、二人とも内心期待を膨らませて乗る気満々でいた。後にその授業が、クラスのある生徒にとって深刻で耐えきれないほどの苦しみを与える大事件(大事故)に発展するとも知らず。

「マーちゃんは歌得意なんだっけ?」

 「いやいや別に。音楽はギターちょっとかじってるくらいっすね。」

 「あぁーこの前ビデオに由衣と出てたよね!あれ楽しそうでよかった。」

 「あれ俺たちエアプですけどね。」

 「エアプって?」

 「エアープレイ、つまり弾いてないって意味っす。」

 マーティンはペッパの母親から振られた音楽の特技の話から、高校一年のときにペッパととある国内のシンガーソングライターのMV(ミュージックビデオ)に出演した出来事を思い出して苦笑いする。その日は今日の比じゃないほど悪天候な土砂降りの一日で、テニスの部活が休みだったマーティンとゼンチは、ウィダーとゼンチが帰りのバスを待つ間、居合わせたペッパも含めた計四人で、放課後の空っぽになった月ノ海高校の教室で暇を持て余していた。バスが来るまでまだまだの時間があったそのとき、兵器みたいにいかつい機材を持ち歩くプロのカメラマンと、物腰柔らかな低姿勢の映像ディレクターのお兄さんが、街中で出くわす狸みたいにひょっこりと教室に現れたのだった。撮影スタッフたちは非日常的な緊張感が一気に走る四人に対し、そんなことお構いなしに易々と声を掛けた。

 「突然すみません~。あの、MVの出演とかって興味あります?いや、いきなり困りますよねこんなこと聞かれても・・・でも四人ともとってもいいキャラクターをしていらして・・・!」

 ディレクターたちはご苦労なことに豪雨の中ロケハンで月ノ海高校に訪問しており、偶然にも運よくディレクターが脳内でイメージしているキャストにぴったりの人間をぴったりの人数で見つけ、面倒くさいからもうその日中に映像を撮ってしまおうと思いついたのだった。内容は極貧に低予算なもので、学生のメンバーがほうきをエレキギターやエレキベースの代わりにして、ただひたすらに口パクとエアープレイで演奏真似をするというもの。四人は最初、まだ高校生の自分たちに大の大人が仕事の話を振ってきたことに面食らったが、バスが来るまで本当にやることがなかったし、報酬もそれなりに貰えるということだったので、その場で保護者に電話し、怪しい詐欺の疑いなどがないと判断した上で、ビデオの出演に契約書にサインまでして同意した。ボーカルはウィダー、ギターはマーティン、ベースがペッパ、ドラムがゼンチといった具合でディレクターが役回りを適当に采配し、タブレットのボリュームを最大にして流す音源に対して、メンバーがほうきを持ってただただ動きを合わせていった。ゼンチについては椅子に座って実体のないスティックをそれっぽく振り回すだけだった。撮影時、教室の机と椅子は掃除の時間と同じ要領で部屋の前方にまとめられたため、ペッパは実際のライブステージのアクトのように殻を破り、演奏の形式を維持しつつ、くるくる体を回転させて、腰を左右に揺らして、頭部のツインテールが暴走するみたいなエネルギーで、満面の笑みを零しながら思い切りダンスすることができた。ペッパは映像作品の出演で物怖じしないどころか、自分が飛び回っていっぱいダンスをした方が、映像が断然魅力的な作品になると信じて疑わなかったのだ。実際ディレクターは、ペッパのダンスがMVの存在感に見事なまでにハマったことを感激して気に入ってくれた。ボーカルを担当することになったウィダーについては、知りもしない曲の口パクを突然やらされることになったため、事前に曲を試聴する時間は数分用意されたものの、本番は記憶した歌詞とディレクターの用意した即席のカンペに食らいつくことしか意識が回らず、MVで歌い手に求められるあろう身振り手振りのアクションや、その他視線を動かすパフォーマンスなど、口パクの最低限の完成レベルには到達したものの、それ以上のMVらしいことは何一つできなかった。マーティンはというと、身体を音に乗せてカッコつけることも、余裕のある風にしてクールに決めることも、どっちにも振り切れない至る点で微妙な結果となり、見る人にとっては何だかよく分からないエキセントリックな仕上がりとなってしまった。映像は視点を変えて三回分撮影されたが、回を重ねるごとに何かしら上達した他のメンバーに対し、マーティンだけ三回とも不自然に浮き続けて終わるだけだった。幸い四人で撮影されたMVが不採用になって駄目になることはなかったのだが。

 「あのビデオのやつ、今度の文化祭でやったりしないの?」

 「なんでですか!やらないっすよ!」

 マーティンはペッパの母親が引き出して開封しようとする黒歴史の蓋を慌てて閉じるみたいに否定する。マーティンとペッパとゼンチとウィダーの四人は、MVに出演したことを誰かに言い触らすことも自慢することもしなかった。それは出来が悪くて隠したかったからとか、副業のような活動が学校で問題視されることを恐れたからとかではなく、四人はただMVの出演の報酬を自分たちの娯楽費に充てること、例えば四人で卒業旅行の費用に使うこと、であれば旅行の行き先をどこにするかなど、日頃の戯れよりももっとずっと特別なイベントに夢中になって、四人は四人以外の誰かに、自分たちが出演したMVについて口外するに至らなかった。四人はいついかなるときも、ただ四人が揃っていることだけで、これ以上ないほど満足していた。

 「まぁ文化祭で出し物枠は一応ありますけどね、もう募集も締め切ってますし。そもそも俺らのクラスはスムージー作るのでまぁまぁ忙しいっすから。」

 「あー由衣から聞いた!スムージーってすごいわよね!誰が考えたの?」

 ペッパの母は文化祭の事情を説明してくれたマーティンに対し、二年一組のナイスな催し物の提案者について訊いたが、マーティンもペッパもその瞬間、時を止める超能力者の攻撃を受けたかのように、突如魂を抜き取られた死体になったように、脳のメモリーの機能を完全に失って呆然としてしまった。思い出せない。二人とも自分たちでも驚愕するほど、文化祭で二年一組がスムージーを作ることになった経緯を思い出せない。マーティンもペッパも文化祭に対する意欲がないわけではなかったが、出し物の会議のときに主体となってクラスの皆をリードしていた、会議における中心人物の存在だけピンポイントで情報を喪失してしまった。ペッパの母は、後部座席の人間が姿を消したかのような無音の変異に、俊敏な動きをぴたりと止めたリスみたいにして質問の返答を伺っていたが、長い長い沈黙を経て、やっとのことで二人の声を聞けた。

 「黒川だ!黒川って生徒会のやつの案っす」

 「あー!そうそう!麻衣ちゃん、麻衣ちゃんのアイディアだよー!」

 二人は自分たちの魂を取り戻して歓びながら答える。スムージーの企画は黒川が提案したもので、クラスの多数決によって選ばれたものだった。それ以外の候補として、マーティンはアクセサリーや洋服が好きということで雑貨屋を、ペッパはフードトラックの料理映画で感化されて食べたくなったキューバサンドを、ゼンチは低コストながら高い利益率を実現できそうだからという理由で喫茶店やコンセプトカフェを、各々が文化祭でやりたいことを気ままに挙げていた。ウィダーに関しては、演劇系の企画としてとあるパフォーマンスのネタを発案していたが、内容が「皆で家に帰る」という実質ただの大々的にストレートに行われるサボタージュであったため、「そんなの出し物じゃない」とクラスのメンバーの誰しも彼しもから非難轟々の猛反対を受けた。ウィダーとしてはある程度楽しければどんな出し物でも構わなかったので、反対されたことを特に不満に感じることはなかった。そんなこんなで結局企画はスムージーとキューバサンドが有力案として最後まで候補に残り、クラスメイト一人一人の投票の度に接戦するデッドヒートの白熱した展開となったが、最終的には黒川麻衣のスムージーが勝利したのだった。黒川は持ち前の真面目さをドラスティックに解き放ち、野菜や果物のビタミンがもたらす身体への健康的な影響、老若男女のどの世代のどの層に対してもアプローチできる普遍性、具材の調合率をオリジナルでアレンジできる自由度の面白さ、それらの話題性やブランディングといった人気を獲得するためのマーケティング戦略まで、スムージーがベストな企画である所以を洗いざらいとことん並べ、証拠を武器にして不正を突き止める検察官のごとく、最終決戦の場でクラスメイトたちを説き伏せていた。スムージーに対してそこまでの真剣さを持ち合わせていなかった二年一組の生徒たちは、黒川のかたくな意志の熱い演説に半ば置いてきぼりになりながら、次期生徒会長がそこまで言うのならと、他の案を妥協して皆スムージーに票を譲るのだった。黒川は今まで一度も得点を奪われたことのない伝説のゴールキーパーみたいな感じで、鉄壁の要塞と思われるくらいの高潔さを具現しており、学校中から学生というよりもほぼ教師の立場の人材として認知されていた。生徒会の決議でも企画は無事認可され、二年一組における文化祭の出し物がスムージーで確定したのだった。

 「黒川さん、優秀な人なんだねー。由衣ももうちょっと、頼りになれるようなしっかりした女性に成長してくれたら嬉しんだけどなー?」

 「えー!私バカでいたいよマミー!麻衣ちゃんだってどっか不真面目なところあるよきっと、分からないけど。」

 「まぁ多分ペッパほどではないけどな。お前MVのときもあそこまでかっ飛ばせるのはマジで天性だぜ。」

 「それって褒めてる?」

 「いや・・・」

 「おいどら!」

 マーティンは笑いを堪えながらペッパのヴィヴィットな幼稚さについてコメントを差し控え、その取り繕った様子を改めさせるように、ペッパは丸めた中指をドリルにしてマーティンの首をえぐった。

 「そういえばMVのお金、結局マーティンは卒業旅行どこ行きたいの?」

 「いやー国内でしょ?行きたい場所ありすぎるんだよな。」

 「もっとお金もらえたら海外も考えたよねー。韓国とか台湾なら行けるかもだけど。」

 「それありだよな。ゼンチとウィダー的にもアジアはありなんだろうか?」

 「あぁー早く卒業してー。」

 「”早く卒業してー”だと若干意味変わらない?正確には”早く旅行行きてー”だろ。」

 「うるせーどら!」

 「痛い!」


 低気圧が通過した秋晴れの翌日、午後一番で学校二階の音楽室に集まった二年一組の生徒たちは、木村先生のトリッキーな授業にクタクタに疲れるほど翻弄されていた。生徒たちは、最悪クラシックの名曲にでも触れて、曲想がどうこうだとかいうことを学ぶのだと予想していたのだが、授業の第一弾は、まさかの童謡の合唱であった。

 「おばけなんていないさ、おばけなんてうそさ、ねぼけたひとが、みまちがえたのさ。だけどちょっとだけどちょっと、ぼくだってこわいな、だけどちょっとだけどちょっと、ぼくだってこわいな・・・」

 「はいそこまでーありがとうございますー。」

 近所のスーパーでハキハキと主婦トークを繰り広げていそうな愉快なマダム風の木村先生は、「やっぱりお前たちの実力はその程度か」と言わんばかりに少し冷め気味に悟った様子で、『おばけなんていないさ』の伴奏を止め、生徒たちの歌を切り上げた。木村先生はいわゆる「感情豊か」な人物であったが、一般的に知られているそれより少し病的なまでに感受性が超人的な人間であり、笑ったり、驚いたり、嘆いたり、一挙手一投足がホールで上演される渾身を込めたクライマックスのショーみたいにド派手でいた。教師に努める前は劇団のコーチやトレーナーとして活動もしていたということもあり、木村先生は常に「どうしたら感情的になることができるか」という表現の研究者で、日々それを極めることを生業としていた。周りを明るく照らす太陽のような存在でもあり、彼女に関わって立ち直ったり生き返ったりする人も多かったが、ただあまりにも長く近くにいすぎると、肌が焦げて焼死しそうになるみたいに暑さが厳しすぎた。

 「今のままでは小学生!いいですか~これから皆さん、高校生のレベルまで上がりますよ~。」

 生徒たちの音楽スキルを向上させることに張り切る木村先生は、そんな大きさで書いたら他の文字書けなくなりますよ、と言いたくなるくらいアホみたいにでかいサイズで、教室の壁全面に亘る黒板いっぱいいっぱいに「おばけなんていないさ」と「だけどちょっと」の歌詞を段組みに書き連ねた。

 「音楽とは表現です。皆さんは表現を実践し、表現を感じて、表現のことを学ぶのです。まずはここ、「おばけなんていないさ~」の部分は、フォルティッシモでいきましょう!」

 木村先生はツルツル滑る華麗なサイドウォークを見せながら、黒板の横にフルレングスで書かれた「おばけなんていないさ」の文に下線を引き、赤のチョークを横に倒したベタ塗りの手法で、「より大きく、より強く」を意味する音楽記号の「ff」を、文の末尾に重なるようにインパクティブに書いた。

 「そして!「だけどちょっとだけどちょっと」のここは!ピアニッシモでいきましょう!」

 木村先生は一つ前と同じ操作で歌詞に下線を引き、今度は青のチョークのベタ塗りで、「だけどちょっと」の歌詞の末尾に「より小さく、より弱く」を意味する「pp」を刻んだ。

 「「おばけなんていないさ」のここは、お化けのことを信じていません!なので堂々としましょう!そして、「だけどちょっとだけどちょっと」のここは!お化けのことを信じています。ですので、細心の注意を払い!もはや呼吸の音を立てるのも許されないほど、不安と緊張を表して歌いましょう!」

 授業の目標を一つ設定した木村先生は、その場で黒板に記したダイナミクス通りのおばけの歌に、アカペラで果敢に挑戦し出した。おばけなんていないさー!おばけなんてうそさー!木村先生は肩の中に風船を埋め込むみたいな迫力で胸を張り、酔っぱらってガーガー騒ぐ酒場のおじさんのごとく、テノールの音域で最大の能天気を込めて、楽曲前半のセクションを歌った。そして、だけどちょっと、だけどちょっと、ぼくだってこわいな、木村先生は前半のセクションの生命力が信じられないほど、体格を一回りも二回りも小さくするように身体を縮こめ、遺体を発見するホラー映画のワンシーンのように限界まで目を大きく見開き、肺の浅いところからしか空気を供給できていない命尽きそうな声量で、おばけのことを信じるセクションに移行し、ffとppの差の強烈な揺さぶりを完璧に形にした。一通り歌い終わった木村先生は、心ゆくまでお手本を示すことができたことに満足気にニコニコしながら、今回の授業の核に触れる。

 「これが高校生のレベルです!重要なのはギャップ。おばけを信じていない描写と、おばけを信じている描写、ここのギャップを徹底的に作ります!信じることと信じないことは共存しないので、どちらかが嘘になるんですねー!はぁおもしろい。そのときの安らぎと緊張の現実的なセンスについて、今日皆さんに経験していただきますよー!では実際に誰かに前に立ってやってもらいましょうかね・・・」

 木村先生があまりにもハードルの高いそのダイナミックなおばけの歌を、それもたった一人で人前に立って歌わせるという無茶苦茶の無理難題を生徒に託そうとしたその瞬間、ウィダーとゼンチを除く音楽室中の全員が、そんなバカな、という雰囲気でどよめきだした。ある程度の強弱に従ってそれっぽく真似するのであればできない話ではないかもしれないが、木村先生のようにプロの劇団員のレベルで、肩の筋肉量を増やし、酔っ払い、体格を矮小化し、目玉を取り出し、臓器のシステムまで改造するようなそれを、しかも楽曲の演奏で素早く連続的に切り替えて対応するなど、生徒たちにとっては不可能極まりないことだった。もちろん、生徒の誰しもが楽譜の特徴を最小限に抑えていい加減にやり過ごしたかったが、木村先生の要求している合格ラインはいい加減にやり過ごすのでは到底超えられない、そしてクリアできるまで何度もやらされる、そういった悲痛な未来が言葉にしなくても空間中に伝染して目に見えていた。木村先生は、勘弁してほしい気持ちがドバドバと湧く全生徒に気にすることなく、ピアノの上にあった二年一組の名簿を上から縦にじっくり指で追い、生徒一人の公開処刑を言い渡した。

 「・・・何これすごい苗字。バクゴウデン・・・?爆轟殿さーん?」

 受刑者が決定しても尚、名前を呼ばれていない生徒ですら地に足が着かずハラハラし続けており、教室内は音を立てずに凍り付いていた。

 「あれ、爆轟殿さん?」

 木村先生が再び名前を呼んでも、誰も何も反応しない。涼花はあまりの衝撃的な事態に、理性を手放して気を失いそうになっていた。まるで、人生が決まる重大な受験の合格発表で自分の受験番号がないことが判ったときのような、この世に一つも代わりのない大切な思い入れの物品が修復できないまで破損したときのような、もしくは余命を宣告された患者のような、そんな感覚で埋め尽くされていた。

 「爆轟殿さんお休み?あれ?」

 木村先生の三回目の呼びかけに、涼花は腹痛が治まらないのを我慢して、冷や汗が止まらないのを堪えて、重い重い腰をゆっくり立てる様子で、なんとかしてやっと皆に認識されるまでになった。

 「あーいたいた!さぁさぁ前に来て!やってみましょう!」

 涼花は五臓六腑が暴れ狂うくらい緊張して倒れそうになりながら、満身創痍の気持ちで黒板の前まで歩き出す。教室中の全員が自分のことを見ているのが分かる。瑞泉君もしっかり見ているのを感じる。涼花は自身が最も苦手としている多くの人間からの注目を過激なまでに受け取りながら、頭の中を真っ白にして、ギリギリの意識の中で、やっとのことでピアノの横に立った。やめて。やめて。消えたい。消えたい。涼花は泣きそうになりながら心の中で何度も何度も叫んでいた。先生に断りを申し出たかったが、他の生徒と代わる形で自分だけ責務を免れることは、言語道断の重罪でありえないことだと、涼花にとってはそれが取り得る行動としてもともと選択肢になかった。涼花の大の味方でいる黒川麻衣は、手に汗握って鬼気迫る形相を浮かべながら、心の中で涼花の無事と成功を嘆願していた。

 「いい?まず、「おばけなんていないさ」の部分は堂々と!「だけどちょっと」の部分は、こわーい!って不安な感じで!」

 感情表現の歓びしか頭にない木村先生は、極度に目立つことが大の苦手である少女もこの世界にいることを遠い宇宙の出来事くらい配慮せず、むしろ歌によるある種の解放が目立つことも平気にさせると信じるみたいに、涼花の身に起きている危険性について感知できていなかった。

 木村先生がピアノの前に座る、おばけの歌の伴奏が始まる。しかし、イントロが終了しても尚、歌声は音楽室に響かなかった。

 「あれ?爆轟殿さん?」

 涼花はもちろん歌えなかった。涼花は映画も音楽も小説もよく鑑賞していたし、自分の世界を築いて自分の時間に没入できるものは何でも愛していた。でも、自分が作ったり演じたりするのは話があまりにも別すぎる。主張すること、押し通すこと、嫌われるリスクを以てして人前に存在すること、涼花にとってはどれも耐えられないほど苦痛だった。器楽の演奏も歌も然り。涼花は黒板の譜面通りに歌うどころか、おばけの歌の基本的な音程を取ることも、リズムを追うことも、教室にいる皆に聞こえる声量を確保することも、音楽基礎のいかなる点においてノルマを達成する自信がなかった。そして失敗して、誰かにとって何かの迷惑になって、自分で自分を守るための頼りを失って、永遠に孤立する、そういう事態を心の底から望んでいなかった。

 「大丈夫!爆轟殿さん、もう一回行きましょう!」

 涼花は、彼女にとっては長時間となる精神的虐待に体力が尽きてフラフラになりながら、木村先生の「大丈夫」の一言の安らぎに一命を取り留めた。潤いが乾いてなくなるコップに一滴の雫が溜まるように、永い永い暗闇のトンネルの中で辛うじて見出せる出口の光のように、涼花はなんとかして心の余裕を取り戻した。

“一生懸命努力してる女性って本当に素敵ですよね”

 そのとき、涼花は昨日朝テレビで観た俳優の、そしてそこに映した瑞泉君の姿を脳裏に思い起こした。どうしても逃げられないこの状況で、それでも一生懸命になることの意味が少しだけ鮮明になった。例えどれだけ下手でも、情けなくても、立ち向かった誠意だけは立派な真実として伝わるのではないか。どれだけ迷惑になろうと、嫌がられることになっても、頑張ろうとしたことだけは認められる結果で残るのではないか。涼花はおばけの歌の伴奏が再スタートする前の一瞬で、今やるべきことの最善に尽くすことを念頭に気持ちを切り替えようとした。ギリギリに参っている精神状態にほんの僅かの意力を宿らせた。最悪な危機だからこそ、これ以上最悪になりたくないと願い、物事を可能な限り肯定的に捉えようとした。そして何より、テレビ上でコメントしていた瑞泉君に応えたくなって、そのイメージを強く抱きしめた。涼花にとって、その脳に焼き付いた瑞泉君のモデルだけが、この場を乗り切るための唯一の武器だった。

 新しい伴奏が始まる。イントロが終わり、涼花の歌のパートの幕が上がる。涼花は弱弱しくありながら、それでも凝固したジャムの瓶の蓋を開けるみたいになんとか力を入れて、音楽室の全生徒が見守る中、顎をガクガクと震わせながら、とうとう口を開いた。

 「おばけなんていないさ・・・おばけなんてうそさ・・・」

 「ちょちょちょ!」

 涼花は息を詰まらせながらも、音楽室の一番後ろまで届く音量で歌うことができた。が、木村先生に中断されてしまった。木村先生が提示した譜面上のストーリーでは、おばけを信じないシーンでは堂々と、おばけを信じるシーンでは不安げに振舞う、という台本であったが、涼花の歌は、その逆だった。涼花は身を縮みこませ、手を小さくして前の方に出し、自身がおばけになるようなポーズで唄ったのだった。

 「おばけなんていないさって言ってるのに、今のじゃおばけのこと信じてることになっちゃうよ!」

 木村先生は涼花が置かれている羞恥の立場を考慮せず、おばけに関する悪気のない純粋な捉え方のコメントを残す。ピアノ椅子からずり落ちそうになって演奏を中断したその様も、まるでコメディー劇のコントのようで、生徒たちは心にもなくその場で一旦和んでしまった。特に瑞泉には余程可笑しさが突き刺さってしまったのか、唇を噛み、目に涙を浮かべ、鼻から細かく刻んだ息を漏らすみたいにして、吹き出しそうになるのを精一杯我慢していた。瑞泉の周りの席にいた男子も、瑞泉に釣られて似たようになってしまった。

 「爆轟殿さんはおばけをどう思う?いる?いない?」

 木村先生は涼花の表現の意図を探りつつ、歌い手におけるパフォーマンスのレベルアップと楽曲への没頭を高める策として、まずはおばけに対して抱いている思考について涼花に問いただした。

 「えっ・・・えっ・・・」

 涼花はオドオドして、木村先生の質問に対する回答を躊躇う。涼花はおばけの実在をそれなりに信じている。しかし、その答えは木村先生が用意している想定解と一致していないということが、涼花には想像ついていた。

 「おばけ、いると思う?」

 「えっ・・・あ・・・」

 「ん?」

 「・・・いません・・・」

 「おばけは、いない?」

 「・・・はい。」

 「じゃあもっと堂々としなきゃ!おばけなんていない!ほらっ!」

 木村先生は涼花のおばけに関する見解を得た上で、前傾姿勢になって俯き気味の涼花に、本課題曲において堂々とすることがどんなものなのか改めて思い知らせるように、お馴染みの異次元的な肉体改革を実践する。木村先生は肩の筋肉をモリモリにしながら涼花の体に触れ、両手で肩と背中をそれぞれ押し込み、涼花の姿勢を理想体に造形した。涼花は木村先生の強制を受けて慌てて木村先生を模倣し、自分ができるギリギリまで肩を広げ、上半身で逆三角形を作るようにお腹を引き締め、全く成っていないボディービルポーズのような恰好に咄嗟に変身した。木村先生と二人並んで、唐突なボディビルショーが始まった。

 この時点で、瑞泉は笑いを堪えるためのリミットをとうとう決壊させてしまった。音楽の授業で、黒板前の女性二人がマッチョになっている。おばけがいないことを全身で表現する、ということがそもそも訳分からなかったし、いつもは大人しいクラスの女の子が厳格な風格で立ち構える様もアブノーマルで型破りだったし、さることながら本人たちが真面目でいる点も、その突拍子もない奇怪さに拍車をかけていた。

 フフ、ムフフ、クックック、クスクスクス。瑞泉は教室の端からでも確かに聞こえる声で、机の上に頭をこすりつけて身体を伏せながら、腹筋を捻じ曲げるようにして悶えながら笑った。瑞泉の周りの男子も、ある生徒は額に指を当てて困るような素振りで、ある生徒は餌を求めるオットセイみたいに口をフルで開口して、木村先生に目を付けられないよう必死で授業の陰に徹しながら、笑うことそのものを阻止しようとした。しかし、笑いとは不思議なもので、我慢しようとすればするほど、いけないと思えば思うほど、笑いそのものは笑いたくなる性質をエスカレートさせ、事態の面白可笑しさも、その愉快な喜びも、心の内に溜め込もうとすればするほど我慢の無理が何倍にも増幅して巨大化になるのだった。涼花は見様見真似の下手くそなボディービルダーの状態で、教室に起きているその異変を察知した。

 「じゃあもう一回行きますよー!」

 涼花には、木村先生の声がもう耳に届かなくなっていた。今音楽室で起きている状況は、もはや地獄以外の何物でもなかった。地獄なんか言う言葉ではあまりにも形容し難いほど、地獄よりも酷かった。涼花は自分の大好きな人との関係をより良いものに発展させるどころか、馬鹿にされて笑いものになって蔑まれてしまった。心のどこかで瑞泉君の恋愛対象になりたいと思っていたが、そもそも恋愛対象の範疇にないことが筒抜けに明らかになってしまった。事実振られてしまったことも同然なのに、汚名返上もその挽回もできないほど、現状の一件で二度と戻れないくらい果てしない差で理想と突き放されてしまった。涼花は自身が胸に思い馳せていた夢が、これ以上ないほど滑稽で、愚かで、惨めなものだったと、あらゆる角度のあらゆる要因から直感した。皆からの注目を浴びて目立つこと、その苦手を克服しようとして立ち向かったこと、瑞泉君がくれた希望のイメージを信じたこと、全てが間違っていたと思った。涼花は内蔵の至る所から出血するように胸の内を痛めつけられて、意識を灰色に染めながら、現実の感覚を失っていた。

 「準備いいー?行くよー!」

 容赦なしに次の伴奏が始まる。イントロが終わりを迎える。歌のパートに入る直前で、木村先生は涼花に喝を入れた。

 「ほら!さんはいっ!」

 涼花は木村先生から大きな声で叱られたと勘違いし、半ばヒステリックな心情に転移しながら、堂々と歌わなければいけないことを思い出して、胴体の筋肉から肺の臓器まで身体のエンジンを急いでかける。

 「おばけなんていないさ!おばけなんてうそさ!」

 涼花は顔を真っ赤にしながら、生まれて初めて怒るみたいに、今にも泣き出しそうになるのを怒りの感情でごまかすように、極度の発汗で前髪をぐちゃぐちゃに崩しながら、音量重視で最低の精度になった音程のメロディーを、息も絶え絶えに唄った。涼花は注目と主張と嘲笑と失恋と、彼女にとって嫌なこと、信じたくないことが束になった恐怖で押し潰されて、演奏の間中治まることなく一層苦しみ続けられることを余儀なくされた。涼花は彼女の意に大きく反して、拷問と全く等価の苦痛と屈辱を終始味わい続けた。

 「はーいありがとう!どう?エキサイティングだったでしょー。最初よりよかったよー。ではもう一人行きましょうかね・・・」

 演奏中、木村先生はいいね、もっと、そして不安に、緊張して、など、譜面の内容を都度涼花にガイドしていたため、涼花は瀕死のコンディションの中でも、木村先生に従っておばけの歌を辛うじて歌い切ることができた。出番が終わっても尚、瑞泉含めたクラス中の男子に笑いものにされた事実が覆ることはなく、涼花は安堵を得られないまま、いまだかつてない心身の負担に過呼吸を起こしそうな様子で、自席に戻っていった。

 黒川麻衣は、公開処刑の間、目を離さずに涼花に食らいついていた。彼女のことを心から溢れるほどの気持ちで、頑張れ、と応援していた。でも、その想いは実ることなく、結局涼花は最悪なシナリオの犠牲になってしまった。麻衣はすぐにでも涼花のもとへ駆け寄り、不安そうにいる彼女のことを抱きしめて励ましたかった。嫌なことを全て押し付けられて、笑われて、無理をして辛そうにしている彼女のことを癒したかった。授業が終わったら、真っ先にそうしよう。いや、絶対に絶対にそうする。麻衣は断固強く心に誓って、怒りの意志の険相を露にした。

 涼花の発表時、涼花の心理的な深刻さは全く留意されることはなく、音楽室の空気は瑞泉を筆頭に朗らかなムードに生まれ変わっていた。木村先生の白羽の矢が立つ二回目の発表では、一回目の前の凍り付いたそれとは対照的なまでに暖かいものになっていた。

 「えーっと・・・このクラスは塩見って二人いるんだね!じゃあ、塩見由衣ちゃん・・・じゃない方!」

 「おーいふざけんなよー!」

 木村先生に指名された野球部の塩見は、酸っぱいものでも食べたかのように眉を細めた顔で指名の拒否を示す。野球部の塩見は、野球の部活以外どの時間のどの授業でも面倒くさがって不貞腐れた態度の奴だったので、ダイナミック版おばけの歌は彼にとって学校的には一つの制裁としてふさわしく、二年一組の皆も、彼がこの場において発表者に最適だと暗黙の了解を通わせていた。

 木村先生の的確なチョイスにクラスが湧く中、涼花はたった一人だけ別の空間に取り残されるようにして、怒涛の余熱が冷めた中で落ち着きを取り戻し、自分の身に起きた醜態を改めて整理していた。

 涼花は誰にも迷惑をかけたくなかった。自分のせいで誰かに嫌な思いをしてほしくなかった。波風を立たせることも、誰かの怒りに触れることも、そういった混沌を誘発することを少しでも止めたかった。涼花自身が傷つきたくなかったからだ。それなのに彼女は、どれだけ罪のない優しい心を持っていても、他者を尊重する真っ当な信条を貫いても、傷つくことを避けられず無理強いさせられて、どれだけ立ち向かっても、どれだけ認められたいと願っても無視され、それどころか最悪の評価となるように下品な見世物として、この世界で最も尊敬している人にまでこき下ろされてしまった。そういう実感が、ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて、濃く、強く、ハッキリと体内で染色していった。

 涼花は自席で、顔が髪で隠れるように首だけを力なく傾けた。重くなった悲しみが持ち堪えられなくなった水滴となり、机の上に一滴の雨粒のようにして零れ落ちた。

 涼花のたった数ナノリットル程度の涙も見逃さなかった麻衣は、ピアノの前でじゃれ合っているみたいな塩見と木村先生のお気楽なムードを退かす勢いで、木村先生に涼花の体調不良を訴え、涼花に駆け寄り、涼花を保護するように身体に手を添えて、二人で共に保健室へ逃げて行った。涼花は、麻衣の救出行動が自身の不幸の強力な現実化として作用し、教室を出て間もなく号泣した。横隔膜の運動が狂って呼吸のリズムが乱れるほど、苦しそうにワンワンとむせび泣いた。音楽室の外から涼花の声が聞こえることはなかったが、木村先生は教室を後にする二人を見て、終に自身の大罪が視野に入るくらいにはなったものの、それでも活気付いてきたポジティブな雰囲気の授業の流れを疎かにすることは譲らず、掠る程度の後ろめたさを無意識に覚えながらも、それでも即座に何事もなかったことにすることを決心して、無慈悲の曲芸を再開させた。生徒たちも唖然とした様子で涼花と麻衣を見送っていたが、その時点では音楽室にいる全員が、麻衣の精神的な痛みの強度を軽々しく舐めていたのだった。ウィダーは、気を取り直して野球部の塩見の発表を継続しようとする木村先生の高速の切り替えっぷりを見て、独り言のように言った。

 「おばけ、お前だろ。」


 黒川麻衣は自宅の寝室で眼鏡を外し、シングルベットの上でぐったり横になっていた。重力に抵抗できないみたいに全身を微動にせず、それでも手首のみクルッと回転させて、握りしめていたスマートフォンの画面を眺めた。チャットアプリにおける涼花との四日前のやり取りに記録された、「私もう学校に行けない」のメッセージが目に映る。

 ここ四日間、音楽の授業の一件から涼花は学校を休み続けていた。涼花は、学校に行けばまた瑞泉君たちに注目されてしまうこと、クラスの全員に自分の醜態を嫌でも思い出させてしまうこと、人の目につく間中、そうやって永遠に害悪な感受を自分と周りに残し続けることを克服できず、学校に登校できなくなってしまっていた。麻衣は涼花に無理してほしくなくて、休むことを大いに賛成したし、授業の進捗や課題のサポート、その他学校行事や進路調査、摸試等の情報の伝達まで、涼花の苦にならないよう加減を調整しながら、それでも執拗に涼花のことに気を配った。麻衣は涼花の早期の回復を祈る一方、内心はとても心配で寂しかった。麻衣は涼花といる時だけ自身が背負っている責任感の荷を降ろすことができたし、アニメの趣味、本の趣味、麻衣にとっては涼花一人だけで何人分もの友達だったし、一緒にいられないことがこれほどまでに退屈だと知らなかった。麻衣は学校外の時間でプライベートの用事で涼花を外に連れ出そうとも試みたが、「瑞泉君たちに遭遇するかもしれないから」という理由の一点張りで、涼花は外出することも断るのだった。麻衣は涼花が受けたダメージを明確に定量化できずとも、それでも涼花と同じくらい苦しかった。というより、涼花の苦しみが分かるまで一緒に苦しみたかった。麻衣は涼花のことが本当に大好きだった。文化祭の企画でスムーズを押し通したのも、肌にいいビタミンB2を比較的多く含んだバナナで、にきびを気にする涼花のために少しでも何かしてあげたいだけだった。麻衣は持ち上げていたスマートフォンを持つ手を再び板にしてパタンと倒し、目を伏せて布団のシートに鼻を擦り付けた。

 晴れていても気分が塞ぎ込んだままの翌朝、麻衣は月ノ海高校の校門前の校長の銅像が、顔の半分を破損してボロボロになっているのを目撃した。昨日まではなんともなかったのに。きっと昨日の夕方のうちに何かあったんだ。麻衣は印象に残る出来事として銅像の件を心に留めたが、いつも一緒にいる大親友の話し相手がいない感覚が蘇って、すぐにどうでもよくなった。その日の放課後、麻衣は二年一組の担任の新山先生から、職員室の隣にある進路指導室の一室に呼び出されたが、そのときは銅像壊しの犯人捜しの件か何かだと推測していたが、全然そうじゃなかった。

「爆轟殿、かれこれもう一週間休んでるだろ。親御さんに電話したんだけど、どうやら風邪とか身体的な病気ということではないらしいんだよね・・・黒川、爆轟殿について何か知らない?」

 薄暗い進路指導室の中、面談のような形で新山先生と向かい合っていた麻衣は、次期生徒会長らしく礼儀正しく背を伸ばしながら、それでも倦怠感のある憂鬱な冷感を身に纏い、涼花に関するこれまでを思い返していた。涼花の繊細な人格を考慮せず、木村先生は涼花を無理やり人前で発表させた。あの後、私の知る範囲では木村先生からの謝罪はなし。恐らく木村先生は涼花の現状について認知しておらず、新山先生と木村先生の間での涼花に関する情報のやり取りもないだろう。涼花は今も尚過酷な重苦でこれほどまでに悲惨な目に合っているのに、この人たちは何にも気にしてないんだ。なんとも思ってないんだ。麻衣は本事象を冷静に整理しながら、それでも自分の大切な大親友が貶められている実状に、噴火寸前の火山のごとく怒りを爆発させる風になった。飲み込もうとしたが、ここ数日間ずっと自分に被った悲痛も相まって、制御できず現在の全ての気持ちを吐き出してしまった。

 「すずはおばけのことを本当に信じてるんです!だから!おばけなんていないさって、あの時歌った歌は!何も間違ってない!すずは何も悪くないんです!」

 麻衣は椅子をロケットのように後ろにぶっ飛ばす猛烈な衝撃で立ち上がり、進路指導室の壁が割れるような覇気を伴う爆音で、思っていることを喉がちぎれるほど怒鳴り散らした。新山先生は、机の上に両肘を立て、組んだ両手に顎をのせる格好で、しばらく考え込んだ。生徒が不登校になるというのは、一人の人間が本来の人生を失い、行き詰って孤独になり、命の価値が踏みにじられる、生死の問題以上に極めて容認できない事態である。小説等の物語で容易に題材することも死ぬほど許されないほど、該当の子どもたちの心理的症状というのに、我々は想定の遥かに高いレベルで慎重に対峙しなければならない。新山先生は本件がそういうものであると重々受け止めていたが、それでもおばけがいるとかどうとかいうのが本当に分からなくて、時間をかけて入念に考えても一つも答えの像が湧かなくて、やっぱり聞いてしまった。

 「どういうこと?」

 麻衣はエネルギー弾を発射して力を使い切ったロボットのように、転がった椅子を戻してストンと腰を下ろし、電源を切るみたいにして小さく呟いた。

 「もういいです。」

 新山先生は、麻衣が涼花の欠席の要因の心当たりを把握していることに少し安心しながら、それでも今後の対処方法が浮かばずに参ってしまった。腕を組んでため息を漏らし、背を反らしながらウエストを基準値の五割り増し膨らませる。先生は生徒の間の問題に関与していいものだろうか。そもそも関与することができるのだろうか。本ケースで先生としてできることは何だろうか。新山先生は、とりあえずメンタルヘルス関係の従事者にお願いでもしようかと考えた。そのとき、現代文の先生の間で物議を醸していた、定期テストのとある問題の記述回答を巡って、桜井先生たちから呼び出されていたウィダーが釈明を済ませ、職員室から進路指導室を過ぎていくのを、新山先生は扉の小さな窓から確認した。新山先生はそこで、涼花の不登校の改善のアプローチとして、もしかしたらありかもしれない方法をひらめいた。

 「ちょっと!上山!」

 新山先生は廊下に駆け出し、ウィダーを呼び止め、進路指導室の中にウィダーを手招きした。ウィダーは薄暗い部屋の中に入り、しょんぼりしてる黒川麻衣と目が合う。

 「なんスか。」

 「まぁまぁ座って。あのーここ一週間さ、爆轟殿のやつ、学校来てないだろ?」

 「そうスね。」

 「風邪とか身体的な病気ではないらしくてな。これはあくまで推測なんだけど、きっと何かの理由で落ち込んでるんだよ。そこでちょっとお願いなんだけど、爆轟殿のこと、元気出させてあげてくれない?」

 「・・・は?」

 ウィダーは、ポケットに手を突っ込んで不良の面構えで座ったまま、進路指導室の真ん中の机で対面している新山先生に対し、ガンを飛ばした。というより、飛ばしてしまった。あまりに意味不明な依頼に、目上の先生でも関係なく、体裁を保つことをできずに強い反応を示してしまった。

 「ほら、上山って楽しいじゃん。この前の摸試も、志望大学の欄に全部女子大を書いてただろ?」

 「あぁ、あれ寺重先生にクソほど怒られましたけどね。」

 今年の夏休み明けに実施された摸試で、ウィダーは志望大学の第一希望から第三希望まで、全ての項目に女子大学の名前を記載していた。もともと美大志望だったが、志望大学を選ぶ対象リストの中に、ウィダーが進学したい大学が含まれていなかったからだ。ウィダーは摸試が終了した時点で、その不良行為が先生たちの間で発覚し、体育の寺重先生に進路指導室で拘束されて、「お前は女子じゃないだろ!」と壮絶に叱られたのだった。

 「まぁあれはやっちゃいけないことだけどな?でも上山、そういうふざけた発想で、人を元気付けるポテンシャルあるよね。」

 「いやいや、ないっすよ。」

 「俺、上山にならできると思うんだよね。爆轟殿に元気出させるの。」

 「いや、俺爆轟殿とマジで関わりないし、なんで俺が・・・」

 ウィダーは爆轟殿の件で、より適切な対処ができる自分以上の適任者がいるだろ、と言おうとしたところで、隣にいた黒川麻衣を横目に見た。黒川は、怒りと疲れが入り混じった変な顔で、上目遣い気味にウィダーのことを睨んでいた。ウィダーはこのとき、爆轟殿が休んでいる期間が一週間にも上ったということ、そして爆轟殿の大の仲良しである黒川が、新山先生と真剣そうに対談しているということ、それらを踏まえ、適切な対処のできる適任者でも、ここ数日何も成果を出せなかったのだということを把握した。だから自分にまで相談が舞い込んで来たのだと、そのときウィダーは理解したのだった。ウィダーは、なんで俺が、のその先を言わず、少しの間静かになって、悩んだ素振りを見せながらも、追い詰められて観念する犯罪者みたいな風に言った。

 「分かりました、なんか、やってみます。」

 「おぉほんとか!ありがとな!」

 新山先生は、とりあえず様子見も込みで、自分の抱えてるタスクの進捗を更新できたということにしてホッとした。黒川麻衣は、変な顔のままだった。

 進路指導室を後にするウィダーと黒川は、二年一組の教室に戻る道中、なんとなく気まずい空気が漂う中、不器用で慣れない感じで会話をした。

 「言っとくけど、すず好きな人いるから。」

 「別に狙ってねーよ。」

 「じゃあ何が目的?」

 「・・・教えない。」

 「何それ・・・」

 「強いて言うなら、お前の顔がオモロかったから。」

 「はぁ?」

 親友でありながら涼花のボディガードでもある黒川は、悪い男の匂いがプンプン漂うウィダーのことを不審がり、敵意を出力した。ウィダーは、鈍感ながらも黒川が自分のことを警戒していることをなんとなく察して、マイナスになっている信頼をゼロに戻すみたいな感じで、黒川にとって予想外の打開策を打ち出した。

 「安心しろよ。俺だけじゃねーよ。」

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たかが、されど、 @Worried10Fire

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