たかが、されど、
@Worried10Fire
プロローグ
郊外の住宅地にある一軒家。まだ世界が寝ぼけているような柔らかい湿度の朝方。素朴で愛おしい日常の気品を体現するかのように落ち着いた安定感で朝ごはんの支度をするお母さんがいる。彼女は見やすい向きに傾けたタブレットを台所の邪魔にならないスペースに設置して、ニュースチャンネルを再生していた。
「昨日未明、タレントのフェリスさんが事務所の一室で倒れているのが発見され、病院に搬送されましたが、まもなく死亡が確認されました。」
白い光に包まれた淑やかな雰囲気の女性キャスターの一報が、朝の世界の平穏に対する邪悪な負の相関を生み出し、瞬く間に現実に不穏を浸透させる。
「一人で悩まないで。相談窓口・電話番号・・・」
同じ国の同じ人間が自死せざるを得ないまで追い込まれることが平然と起こる恐ろしさをごまかすかのように、同時にそのような悲劇が確かにあったことを滑稽なまでに包み隠さず教えてくれるテロップが、聖なる優美を施してくれる天国の朝も、実は全てが偽造されたシミュレーションなのだと思わせるように、拭うことのできない巨大な影が宇宙の背後から伸し掛かる。
「交通状況・〇〇線遅延・人身事故による影響・・・」
「続いてのニュースです。物価の高騰が・・・」
「出生率が過去最低を記録し・・・」
「政府は増税を・・・」
まるでこの国に幸せはどこにも存在しないのだとでも言うように、生きる実感を奪う一つ一つの真実がタブレットの画面上から次々と溢れ出していく。運が悪いなどといった都合のいい理由など一つもなく、毎日がそうだ。お母さんは、そんな絶望が粒になった雑音を聞いているのか聞こえていないのか分からない様子で、何か考えているのかいないのか分からない様子で、手をぬきすぎず手をこみすぎない、簡潔でこれ以上の不足は考えられない、オリジナルの目玉焼きとトーストとサラダの朝ごはんを二人分完成させた。食卓のテーブルに完成した朝ごはんを置き、大半の人なら気にしないくらいの微妙な不安が映る表情で、娘が部屋から出てこないか、リビングから二階に続く階段の方を眺めた。
その日、娘が通う月ノ海高校は文化祭の前日だった。校内の廊下には、これから大規模な教室の改造が始まることを予感させる、風船、お花紙、スズランテープ、パーティーモールなど、段ボールからはみ出ながら、中身が見えているバレバレのびっくり箱のように並べられていた。校舎の外には、立て看板上に下絵された動物やアニメのキャラクターたちが、料理を作り、イベントを告知し、笑い、驚き、多種に亘る出し物のそれが命を吹き込まれる前で準備されており、屋台のテントもそれぞれ変形前の形状で、今か今かと出番を待ち構えていた。しかし、校舎のどの教室にも人影はなく、学校の建物そのものが孤独であるかのように、まるで文化祭は中止になったか、もしくは既に終わったかのように、学校全体が物悲しい気配で静まり返っていた。そしてその不吉な予感を象徴するように、学校の入り口に構える由緒ある歴代の校長先生の銅像が、顔面の右半分を欠けるようにして粉砕されていた。
「本日は文化祭前日の準備日ですが、朝皆さんに集まっていただきました。」
表情筋も無く元気のない猫背の姿勢の教頭先生は、全校生徒を急遽体育館に集め、予定にない全校集会を唐突に強行していた。
「先日、我が校入り口の前校長の銅像が何者かによって破壊されました。学校に悪意を持って意図的に壊したのか、またはお遊びでふざけて壊したのかは分かりません。まだ君たちは若くてフレッシュですから、元気がありすぎたあまり、正気を失うまではしゃいで暴れてしまったのかもしれませんね。」
教頭は、死神が憑依したかのようにグルーミーなオーラを纏って気味悪く微笑みながら、若者への軽視が見え隠れする、生徒にとって気分の悪い皮肉を、下劣さを高めるようにして遠まわしに伝える。そして突如、その微笑みがいかに演技であったことかを分からせる、信じられないほど瞬間的にして降りやむ雨のようにして、教頭は緩んだ表情を地獄の悪魔のような表相に変えた。
「あなた達は社会へ出るんです。就職するんです。他者の信頼を得て組織に所属して、協調性を持ちながら生きるんです。世の中に反抗して暴れるような人間が、他者の信頼を得られると思いますか?組織の中で協調性を持てない人間が、組織に必要とされると、本気で思っているのですか?」
教頭は憎しみを深く込めた、地底から響くような低音の声で、生徒の自己否定感をじわじわ炙り出すように語る。
「今この国は大変です。物価も日々高騰していますし、出生率も年々過去最低を記録し続けている。仮にあなた達の世代の女性が一人子供を産んだとしても、子供の数はあなた達の世代の半分だ。その世代の出生率はさらにその半分だ。そんな風に今、この国は消滅しかけてる危機に陥っているんですよ。未来はあなた達にかかっているんですよ。」
教頭は自分には全く関係のない話であると境界線を決然と作りながら、生徒の誰一人も任されたくないと思う使命を、息苦しいくらい圧迫して押し付ける。
「頼むから、他者の信頼を得るような人間になってください。真面目になって己の責任を自覚してください。あなたのその酷い様を直視してください。恥を知りなさい。身の程をわきまえなさい。頼むから、ふざけるのも大概にしてください。」
全校集会が終了した後、二年一組のクラスでは、教頭先生の残した気持ち悪い暗い気分を少しでも払拭するように、親切で生徒たちの信頼を得ている担任の新山ヒロシ先生が、生徒たちをフォローしていた。
「次期生徒会長の黒川ならもう知ってるかもしれないけど、実は明日の文化祭、教育委員会の人たちが学校に視察にくるんだよ。銅像が壊れた件が変に噂になっちゃって。あの銅像が教育機関にとって何か大事なものでもあるらしいんだけど。ということで、教頭先生の言うように、明日はあまり羽目を外すぎないでね。」
新山先生は教頭のお怒りは仕方がないことだと生徒たちの罪悪感を大きくしないよう配慮しながら、それでも学校の方針について必要最小限に指導する。新山先生が生徒達を簡単に見回すと、ここ数週間ずっと空っぽに不在でいる席が目に留まった。お母さんの娘の席だ。彼女はとある日を境にきっぱり学校に来なくなってしまった。新山先生にはその理由が何なのか分からない。新山先生は不甲斐ない悔しさとやりきれない申し訳なさが絡み合う悲哀を覚えながら、それでも生徒に悟られないように、自然にかつ可能な限り明るい態度に切り替え、ホームルーム終了の号令を促した。
事実上文化祭がほぼ開始になったのにも関わらず、生徒たちは例年よりも明らかに低いテンションの足取りで、文化祭の準備に取り掛かった。
「よし。」
いきなり、狼のように髪をボサボサにした鋭い眼光の、やらなければいけないことの全てに対して無気力でいるみたいな男子が、クラスの暗いムードの影響を全く受けていないかのごとく、そのダルそうな性格に似合わず勢いよく立ち上がった。彼は床にあった自身のエナメルバックを机の上に乱暴に音を立てて置き、チャックを軽快に開いて中身を確認する。バッグの中にあったのは、パンパンになってギリギリ入るか入らないかくらい大きなサイズの、ミラーボール。
ぼさぼさ髪のこの青年はクラスメイトからウィダーと呼ばれている。ウィダーはフレンドリーなお調子者のマーティンと、マーティンの幼馴染でダンス部の部長を務めているペッパと、学校史上最も頭がいいゲームオタクのゼンチと、次期生徒会長の黒川麻衣と、計五人でDJクラブのイベントを文化祭で企画していた。そして学年一異性からモテる水泳部の瑞泉(ズイセン)の協力を煽ぎながら、お母さんの娘をそのDJのイベントに招待していた。
実は娘は、明日学校に来る。不登校で長らくため込んだ授業の遅れや課題を片付けた後、途中からDJのイベントに観客として参加する。すべてはウィダーたち五人が計画した、不登校になった娘を学校に来させるための作戦なのであった。理由はただ一つ。誰かの幸せが平気で拒絶されるこの世界で、運命から理不尽に虐げられて傷ついた彼女に、それでも元気になってほしかったから。
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