第5話
戻れるわけがなかったんだ。いちど、踏み外したらもう二度とそこに立てない。
ここ数日、幾度と繰り返した考えが頭の中で発生した。大抵、私の思い上がりのせい。きっと彼女も傷つけてしまった。
私は今日も一人ギターを弾きながら彼女の事を待っていた。時刻は十八時三十分をすこし過ぎたか、というところ。
その日、彼女はやってきた。ギターを持たず、手ぶらで。その姿は少し寂しさと物足りなさを孕んでいて、触れれば消えてしまいそうな気がした。それでいて周りを攻撃するみたいな、刺々しい雰囲気を醸し出していた。
「日辻さん」
無意識のうちに声が出ていた。彼女を待っていたからだとか、そういうさっきまで思っていたことが一瞬にしてどうでも良くなって、ただ来てくれたんだと、そういった安心が私を襲った。ギターを弾いていればきっと彼女と会える。馬鹿みたいに信じていた迷信が本当に思えたからなのか、自分を救う、一つの自衛本能だったのか、測りかねる。きっと、誤差だろうけど。
彼女は地面を踏みしめながら近づいてきた。足はしっかりと地面を掴んでいた。
「ねえ」
彼女は私にそっと声をかけた。
「ずっと、考えていたの。おんがくって楽しまなきゃ、駄目なのかしらって。もし、それが本当なのなら、私は一度もおんがくを、していないことになってしまうのよ。ねえ。それって、私の今までが、ただでさえ終わっている人生が、もう、取り返しのつかないほど終わってしまっていることの証明となってしまうのではないのかしら。ねえ、どうかしら。どう、どうすれば、良かったのかしら。好きなことを楽しめないのは、きっとだめなのよね。それは好きじゃないのよね。きっと、そうなのよね」
ねえ……。
彼女の言葉は返事を待っていなかった。彼女の独白の始まりだった。
「……高校生なのだから、しにたい欲もこの不安定な時期も、生理的周期みたいにみんな通るのだから、私の感情を無視しても良いということなのかしらね。あと少しすれば、ラクになれるとよくいわれているけども、それは証明されているのかしら。高校を卒業してその先、いきたいという欲が生まれるのかしら。ねえ。この、漠然とした感情を、どうすればいいの? 無視して、あとすこし、あと少しって慰めにもならない行為を繰り返すの? ごまかすためにギターを弾いていたら、だめなの? 音楽でなくてはならないの? 音を楽しむことが義務なの? 音は救済してくれないの? ねえ、あなた。私は音楽が大嫌い。楽しいが大嫌い。なんで、なんで。……私は」
きっともう、だめなのよ。
空っぽな言葉が地面に染みこんだ。浮いてしまいそうになってしまった足を引き留めるように、私は大きく息を吐いた。
なんと返答すればいいのか、よくわからなかった。
そんなつもりで、言ったわけではなかったのは確かだった。彼女が弾いている理由はきっと私とは違うと思いたかった。唯一性のため、なんてものじゃない。彼女は、特別だと思いたかった。彼女は私なんかとは違って、きっと楽しんでいる。そう、思い込みたかった。だから、あの日、ずっと感じていたはずなのに、楽しいなんて押しつけをした。あのとき、私自身は楽しかったのか、よくわかっていないのに。ただ、あのときのスキップするみたいに弾けた訳は、私がすっきりするために弾いたからだ。ストレスを吐くために弾いたからだ。そこに、楽しいという感情は入っていなかった。介在していなかったのだと思う。ただ、一つ言えることとすれば。私が言い放ったキレイゴトが彼女の感情を傷つけたという所だけなのだろうと思う。
一瞬、過去の自分が頭の中で弾けた。彼女と同じように、訴えた。忘れていたわけではない。彼女と会っている間は、そんな過去を思い出したくなかっただけ。綺麗な、彼女のように綺麗な空間を汚したくなかったという、自己中心的な考えのせい。意味の無い、特別性を、神格性を守りたかっただけ。
私はすっと息を吸う。彼女の吐いた二酸化炭素を吸うように、深く。
音楽なんて。
「大嫌いだ。どうでもいい。ただの雑音。」
口から飛び出した言葉は過去に吐き出したときよりもざらついていて、脆かった。そして苦かった。
彼女が私を見つめている。睨めつけている。彼女から発される、静かな圧に負けそうになった。けれどもう、止まりそうもなかった。荒々しい言葉に削られた声帯は、削られた唇は、心臓からの言葉をそのままフィルターもなしに吐かれていく。
「音楽なんて、雑音で、あなたにしか意味が無いの」
ねえ、知っていたでしょう?
そうやって、誰かが頭の中でささやく。知っていたよ、なんて口が裂けても言えない。だって、少なくとも私はあのとき楽しかったはずだった。あの感情を否定してしまったら私は何になってしまうのだろう。
わずかに感じる感情のずれ。感覚のずれ。無視できるほどの差異。きっと無視してしまう方が良い。その方が生きやすいよ。
私は過去に思いを馳せる。だって、わかったんじゃないか。音楽なんて、意味が無いって。わかったんじゃないか。自分すら救えなくなったんじゃないか。自分さえ、救えなくなったら私は終わりだった。私は、もう、だめだったじゃないか。大きなきっかけはなかった。ただ、なし崩し的に、終わっていった。いつの間にかストレスを忘れるために楽しむことから、楽しむためにストレスを発散するに変わって、目的が手段になって、手段が目的になって、楽器を楽しめなくなった。少しずつ疲れもごまかせなくなって、疲れが疲れをかき消して……何も考えず、思った事を行動に起こして。ギターを、ストレスの発散の方法を知らなければ生きてけるなんて馬鹿みたいな事を思って。
それで、なにがあった。
「日辻さんが音楽を嫌いで良かった」
物事に、正解はないのだろう。
物事を楽しみながらするのもいいだろう。苦しみながら、嫌いながらするのも良いだろう。きっと、それが良い。それに正解も、不正解も無い。あるのは盲目的な行動のみ。自分だけが正解の、孤独な地獄。
「二人とも、音楽を嫌いで、よかった!」
ねえ、そうでしょう? きっと私たち同じだった。
きっとそうでしょう。ねえ、日辻さん。
だって、そうじゃなきゃ私たち出会っていない。私たちこうしてつながっていない。
彼女は口を開く。発する言葉は一体何を紡ぐのか。もし彼女が音楽を本当に嫌っているのなら一緒に落ちていこう。終わっていこう。わたしたちにはその権利があって、認められている。
音楽が嫌いだなんて、きっと間違っているかもしれない。けれど、ほんとうに。
「音楽が嫌いだなんて気が付きたくなかった」
彼女はそう、声を震わせた。もしかしたら私の喉だったかもしれない。
「すきでいたかった」
また、どちらかの喉が震えた。
そうだね、日辻さん。
そうだね、わたし。
私達、音楽が大嫌いだから、もう楽しめないね。
もう、幸せになれないね。
私達出会わないほうがよかった。出会ってよかった。全部否定できない。行動に納得できる理由を用意できるほど成長もしていない。おとなになっていない。
私達、どこで間違ったんだろうね。音楽を始めたときかな。おんがくになったときかな。二人出会ったときかな。
よくわかんないけど、一つ言えることがある。
二人とも、おんがくが好きで、よかったって。
〈了〉
染まる黄昏 宵町いつか @itsuka6012
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます