悩み

クロノヒョウ

第1話



「なんかさ、奈月っていつも幸せそうだよね」

「え!? 私?」

「悩みなんてないでしょ」

「あるよ、悩みくらい」

「ウソだぁ……」

 もう何度繰り返してきたかわからないこの会話。

 私にだって悩みの一つや二つはある。

 お金を貯めたいのにごっそり持っていかれる都会の家賃。特に夢もなくただ仕事に行くだけの毎日。どうしても周りの目が気になってしまう私だけが高卒という学歴。ちょっと顔のつくりが派手なだけで、遊んでるでしょ料理も出来ないでしょと決めつける理不尽な人たち。低血圧で朝に弱い、満員電車が苦痛、自転車には乗れない、少し潔癖気味、それから……。

 悩みなんて言い出せばきりがない。

 ただ言葉には出さず胸の奥に閉じ込めていつも笑顔でいるように心がけているだけなのに。

 それで言われるのは「悩みなんてないでしょ」だ。

 悩みがない人なんていない。

 誰もが多かれ少なかれ悩みを持っている。

 そんなこともわからないのかと腹が立つ。

「いやいや、悩みなんて誰にだってあるでしょ。ねえ、奈月ちゃん」

 ビールジョッキを片手にそう言いながら私の隣に来て腰を下ろしたのは営業のエース、増永さんだった。

「え、あぁ、はい」

 居酒屋のお座敷。

 突然の部長の誘いを断わるわけにもいかず集まった七人での飲み会。

「あっ、増永さんも奈月狙いですかぁ?」

「えぇっ? そんなつもりじゃないんだけどなぁ」

「奈月かわいいから結構狙ってる人たくさんいるんですよねぇ」

「ね、奈月」

「あはっ、そんなことないって」

 お酒が回ってきたのかみんな陽気になっているようだ。

 こうなってきたら誰かが二次会に行こうと言い出すのも時間の問題かもしれない。

「あの、すみません、私そろそろ……」

「なによ奈月ぃ、もう帰るの?」

「うん……あ、部長すみません、今日実家から母が泊まりに来ていて」

「おお、そうかそうか。じゃあ仕方ないな」

 なんとか言い訳を作って私は職場の飲み会から逃げ出した。

 この雰囲気は嫌な予感がする。

 そう思いながら駅へ向かっていると後ろから声をかけられた。

「奈月ちゃん!」

 やっぱりだ。

 追いかけて来たのは増永さんだった。

「ごめん、なんか心配になっちゃって。家まで送るよ」

「そんな、私は大丈夫ですから、増永さんは戻ってください」

「もう出てきちゃったし、それに、お母さんが来てるって嘘でしょ?」

 私は深いため息をついた。

「……はい」

「とにかく歩こう」

 並んで歩き出しても増永さんの視線を感じる。

「さっきの話じゃないけどさ、奈月ちゃん、何か悩みでもあるんじゃないかって思って。俺でよければ何でも相談して」

 私はただ前を向いたままで歩いた。

「いや、最近ちょっと奈月ちゃんの様子がおかしいなって思ってさ。何かあった?」

 営業のエースだけあって相手をよく観察する目を持っているのかそれとも、ただ私のことが気になるのか。

 奈月という皮を被っただけの私のことが。

「あ、今日は自転車なのでここで失礼します」

 駅の駐輪場に着くと私は増永さんに頭を下げた。

「自転車? え? 奈月ちゃん、前に自転車乗れないって言ってなかった?」

「そうでした? まあ、今日はお酒飲んじゃったから乗れないですけど」

 私は笑顔でそう言いながら自転車に手をかけた。

 納得いかないという顔をしている増永さんを横目に歩き出す。

 なるほど、奈月が言っていた言葉の意味がわかった気がした。

 営業の増永さんさえ気をつければいいと。

「じゃあこれで、お疲れ様でした」

「あ、奈月ちゃん……」

 一ヶ月前、私は親友の奈月と生活を交換した。

 高校の頃から似ていると言われてきた私たち。

 大学を出て就職しひたすらパソコンと向き合う毎日で人と関わることのなかった私と、高校を出て就職し対人関係が気になってずっと笑顔でいるしかなかった奈月。

 最初にこの話を持ちかけてきたのは奈月だった。

 笑顔でいるのが辛くなったという奈月。

 私の前ではほとんど笑えないほど疲れていた奈月のために私はこの話を承諾した。

 奈月のように前髪を切り奈月のようにメイクをしてマスクを着ければ私は奈月と瓜二つだった。

 あとは奈月の心情を自分に言い聞かせる。

 朝が弱くて少し潔癖気味。

 自転車には乗れない。

 見た目で人を判断する同僚たちにはうんざり。

 私にだって悩みの一つや二つはある。

 それでもいつも笑顔でいるように心がけている。

「奈月ちゃん、ちょっと待って!」

 ふいに腕を掴まれ私は立ち止まる。

「気づいてるかもしれないけど俺……奈月ちゃんが好きなんだ」

 そう言われて頭に浮かんだのは奈月の顔。

 昨日の奈月は本当に楽しそうだった。

 入れ替わったことを心から喜んでいた。

 ――どちらかが危なくなったら元に戻ろうね。

 幸せそうな奈月のためにはここで危なくなるわけにはいかない。

 私はゆっくりと振り返った。

「私も……です」

 ならばこの増永さんを味方につければいいだけのこと。

 私は何も悩まず増永さんを上目遣いで見つめながらにっこりと笑ってみせた。



           完





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悩み クロノヒョウ @kurono-hyo

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