第一章 祖父の遺言②
墓地から屋敷に
すべてが終わって親類を送り出したあと、セシアは家族用の居間のソファにぐったりと
「おじい様はいつ、この遺言を書かれたの?」
「先々月……あたりでしょうかね」
トーマがセシアの前のテーブルにカップを置きながら教えてくれた。
「本当に最近なのね」
「マデリーの売買
「ねえ待って。私が他家に
トーマの言葉にひっかかるものがあり、セシアはソファから体を起こした。
「セシア様の結婚に際しては、初めから
「そうだったの」
てっきり他家に
「
「それなんだけれど」
セシアは、墓地で感じた
「……旦那様がジョスラン様に殺された可能性……ですか」
一通り話を聞き終えたトーマは、難しい顔をする。
「しかし、もし旦那様の死が毒物によるものだとしたら、真っ先に疑われるのはジョスラン様ではないですか? 私としては、そんなにわかりやすい犯行に出るのかな、という気がしますが」
「そうね。それは叔父様も言っていらしたわ。でも、疑わしくても
セシアが消え入るように
「旦那様の遺言状公開時の様子から考えるに、ジョスラン様がこの家を継ぐつもりでいらっしゃったのは
「そうね。私の考え過ぎに
「ジョスラン様が感情的になっているせいでしょう。でも、ジョエル様が生きていらっしゃれば、いずれはセシア様がこの家を継ぐことになったのです。ジョスラン様に負い目を感じることはありませんよ」
トーマが
「とにかく、ここ数日はお
「そうね……お願いするわ」
セシアが
居間に誰もいなくなると、セシアは再びぐったりとソファの背もたれにもたれかかり、目を閉じた。
夢を見た。
子どもの
小さなセシアは初夏の光があふれるエルスターの森を一人で歩いていた。そばにクロードがいたはずなのに、どこに行ってしまったのだろう。
「クロード、どこにいるのー!?」
心細くて、セシアは大声でお目付役の少年の名を呼んでいる。
ああ、またこの夢。何度となく見ている夢。
祖父がいて、両親がいて、何よりクロードがいた。幸せだった頃の夢。
子どもの頃、セシアはおてんば娘で知られており、
クロードは使用人の子どもで、セシアより五歳年上。そのクロードと
どの季節も美しいが、特に好きなのは初夏の森。夏の日差しに
森へ行く時、大人たちに「森の中で絶対に一人になってはいけないよ」と言われていた。「一人になると森の奥から
なのにはぐれてしまった。
「ねえ、クロード! 一人にしないで!」
その時だった。近くの
「ああ、よかった! 魔物に連れて行かれてなくて」
茂みの向こうから飛び出してきたのは、クロードだった。セシアは泣きべそをかいたまま、そんなクロードに
「クロード、どこに行っていたの! リンからわたしを一人にしちゃいけないって言われていたでしょ!」
「わかってる。でも勝手に走って行っちゃったのはセシアだよ。セシアの背は小さいからすぐに見失っちゃうんだ。さあ、屋敷に帰ろう。
クロードの
「でもここはどこなの? ずいぶん奥に来てしまったみたい。夜が来る前に、ちゃんとお屋敷に着く?」
「大丈夫だよ、道を覚えているから」
クロードがセシアの体を優しく
「本当に?」
「じゃあ、手をつなごう、セシア」
クロードが手を差し
「手をつないでおけば、一人ぼっちにはならないから」
セシアは小さな手をクロードに伸ばした。
クロードは約束通り、ちゃんとセシアを屋敷まで連れ帰ってくれた。
それからも何度か、同じことをやらかしてしまった。森の中は楽しくて、ついつい一人で走り出してしまうのだ。そして迷子になるたびにクロードの名を呼んだ。ちゃんとクロードはセシアを見つけてくれた。まるで絵本の中のお
クロードと手をつないでおけば大丈夫。
けれど、一度だけ、その手を離してしまったことがある。
あれは、十歳の冬のことだ。
その日は身を切り
橋の上から見る
「危ないから近づかないで」
「平気よ」
もっとよく見ようとクロードの制止を聞かず、手すりから身を乗り出したのがいけなかった。足元にあった
「セシア!!」
クロードがセシアの
「今、助けるから! だからセシアも僕の手をつかんで!」
クロードが
灰色の空、クロードの銀色の
川に落ちたあとの
ズキリと右腹部に激痛が走り、セシアははっと目を開けた。
部屋が薄暗くなっているせいで、自分が
心臓がバクバクしている。
涙を
セシアは体を起こして自分の手を見つめた。
──一人にしないって言ってくれたのに……。
その手を
つないだ手は永遠に失われた。
自分からすべてを台無しにしたくせに、あの日からずっと、自分は迷子になっている気がする。
***
葬儀の翌日の午前中、セシアの姿は
「これをご覧ください」
その本棚の一角に、
それは
「
「待って。こんなに短期間にこんな大金を、おじい様は立て替えたの?」
「さようでございます。ですが、いくらドワーズ家といえども二度が限界でした。三度目はないと通知した直後に、マデリーの売買
「なんですって?」
セシアは目を上げてトーマの顔をしみじみと見つめた。
「ジョエル様が亡くなったあと、旦那様はジョスラン様を次期ドワーズ
トーマはそこで言葉を切った。みなまで言わなくてもわかる。
「そうこうしているうちに、セシア様がエルスターに工場
「でも、
セシアは開いたままの帳簿にちらりと目をやった。
ジョスランが当主になれば、セシアをどこかに
それが
それを
結婚、結婚、結婚。どっちを向いてもセシアの前には結婚が転がっている。
結婚したくないから結婚しなくていい将来を探していたのに、これだ。
セシアはこめかみを
「結婚相手に心当たりがないわ。一か月以内でしょ?」
「旦那様は、今年はセシア様にいくつかお見合いをさせるご予定で、すでに
トーマが執務机の上に残っている
一通りリストに目を通し、文箱に
「私は知らない方たちだわ。向こうも同様じゃないかしら。そんな方たちに一か月以内の結婚をお願いするの?」
セシアの言葉に、トーマも答えに詰まる。重苦しい
結局、相続に関しての話し合いは何も進展を見せないままトーマが使用人に呼び出され、
「軍の方なんですよ。セシア様とお話がしたいと」
呼びに来たトーマの
「私と?」
祖父は軍隊に勤めていたことがあるから、祖父の
まず目に飛び込んできたのは、
「
ソファに座っていた青年が立ち上がり名乗る。
「初めまして。ええ、私がセシア・ヴァル・ドワーズですが」
「
イヴェールはそう言うと手にしていた帽子を胸元に
セシアはイヴェールと名乗った青年をまじまじと見つめた。カラスの
この人は美しいが、
「祖父のためにわざわざありがとうございます。それで、どのようなご用件でしょうか?」
セシアは若干
「少し確認したいことがあるんだが、いいだろうか。こちらへ座ってくれるかな。ああ、その男は無視していい」
気安い口調だが、イヴェールには有無を言わさない
セシアは
「あなたは、ドワーズ侯爵が
「どこって……祖父と
「今は私の質問に答えてくれるかな?」
イヴェールがすぅっと目を細める。その仕草に、ゾクリと寒気がする。
何これ。
「あなたのおじい様が倒れた時、何か様子がおかしくなかったかい?」
「……どうしてそれを……」
イヴェールの問いかけに、セシアは目を見開いた。
あの場所には、祖父、セシア、ジョスランの三人しかいなかったはずなのに、なぜ祖父の最期の様子を知っているのだろう?
「様子がおかしくなる前に、何かを口にしなかった?」
「……出されたお茶を口にしました。でも、お茶にも、一緒に出された
「お茶、ね……。ちなみにだが、お茶を出した人は、冷めてからお茶を飲んだんじゃないか?」
イヴェールの
祖父が動かなくなったあとに、ジョスランはお茶を口にした。お茶はすでに冷めていたはずだ。
青ざめたセシアを見て、イヴェールが言葉を続ける。
「簡単なことさ。あなたの証言で確証が得られた。あなたのおじい様、ドワーズ侯爵には軍で秘密裏に開発中だった薬物が使われているからだよ」
その言葉に、セシアは
──今、なんて……?
「この薬物は問題が多いため開発を中断し、試験中のサンプルはすべて
「え!?」
知っている人物の名前が出てきて、セシアは声を上げた。
「二人がどのようにして知り合ったのかはわからないし、そこは重要ではない。我々はこのことが明るみに出ないうちに早急にフェルトンをつかまえ、試験薬を回収したい。あの薬を悪用されるわけにはいかないんだ。そこで、あなたにお願いがある」
「お願い?」
「そう。結婚してほしいんだ」
イヴェールの言葉に、セシアは固まった。
てっきり関係者として協力を求められるかと思っていたのに、結婚?
イヴェールと?
こんな不気味な……おっと失礼。
得体の知れない……も失礼か……。
というか、なんで結婚……?
「混乱しているようだね。まあ当然か」
固まったまま動かないセシアに、イヴェールがうっすら
「順を追って話そう。
イヴェールは
「だからジョスラン氏について調べた。彼はなかなか革新的な考えの持ち主だね。あと、借金が多い。ついでに、ドワーズ
数日でそこまでわかるものなのか。ぞっとする。軍の力を使えば可能だということ?
「そこにドワーズ侯爵が
「いらっしゃっていたのですか? 気付きませんでした」
「軍服でもないし、末席にいたからね。ジョスラン氏の
イヴェールの推理に、セシアはぎゅっとスカートを
「この試験薬は
「……許せないに決まっています」
セシアの現状も胸の内で
「でも証拠がないんだもの、私にはどうすることも……っ」
イヴェールが立ち上がって、ゆっくりと歩いて近づき、セシアの
「許せないのは私も同じなんだよ。あいつにはずいぶん
イヴェールがセシアの左手を取る。
「どういうことですか?」
「考えてもみたまえ。ジョスラン氏にとってあの遺言は誤算だった。一番
イヴェールが
「……つまり、あなたとの結婚で、叔父様を
「察しがいいね。あの試験薬には問題が多いから、使用時には近くにフェルトンがいるはずなんだ。そこを狙いたい。結婚のふりだけだとジョスラン氏に調べられたらあなたが危ないから、実際に
イヴェールがセシアの左の薬指をなぞる。ゾクゾクと寒気が背筋を
「我々があなたに求めることは、結婚して仲良し夫婦を演じることだけ。協力してくれれば、フェルトン確保の過程でジョスラン氏がドワーズ侯爵に試験薬を使ったという証拠が出てくるだろうから、それをあなたに提供する。どう使うかは任せるが」
証拠!
セシアが一番欲しかったものだ。証拠があれば叔父を断罪できる。
「それに、ジョスラン氏がドワーズ侯爵に試験薬を使ったことが立証できれば、彼の犯した罪を暴けるだけではなく、彼は相続人としての資格を失い、結果としてドワーズ侯爵の遺言も役に立たなくなるだろうね。そうなると、あなたがドワーズ侯爵のたった一人の相続人になる」
この話に頷きさえすれば、叔父を断罪できるだけでなく、結婚せずともドワーズ家を相続できてしまう……。なんて甘い
「でも……それ……何かいろいろと問題があるような気がするわ……。わ、私を
そんなうまい話があるわけがない。セシアは頭を
「疑り深いね。
彼の言葉が心を
そんなのは嫌だ。嫌だけれど、こんなことを一人で決めていいのかわからない。
「……
「それはだめだ。情報が
イヴェールが赤い目を細める。
「その代わり、三か月だ。三か月以内に片づけると約束する。エルスターの木々が色づき始める
三か月なら、
やらなければイヴェールの言葉通りになる。それはセシアにもわかる。
だが、フェルトンをつかまえるために結婚までする必要があるのか、という点は気になる。
──何もしなければ、私は何もかも失ってしまう。それくらいなら、たとえ結果がうまくいかなくても、手を
祖父の無念を晴らし、
「やります。私、あなたと結婚するわ」
考えたのはほんの少しの間だけで、セシアは意を決すると、目の前のイヴェールを
セシアの声にイヴェールが
「ちなみにだが、あなたと結婚するのは私ではない。彼だ」
ドア付近に直立不動のまま
「帽子を取れ」
イヴェールの指示で彼が帽子を取る。
短い
セシアはその顔を食い入るように見つめた。
──似ている……?
ような気がする。そんなばかな……。
「名前はルイ・トレヴァー。階級は
セシアはイヴェールとルイを
帽子を取った時の第一印象は「クロードに似ている」だった。でもよく見たら、気のせい、だったかもしれない。何しろ最後にクロードを見たのは十二年も前のこと。当時の
──この人、レストリア人の血が入っているんだわ。
その顔を見つめているうちに、クロードに似ていると思った理由がわかった。男性はレストリア人特有の
──そうよね。クロードが……ここに来るはずがない。
この十二年、一度としてクロードはセシアの前に姿を現さなかった。それが彼の答えだ。
ズキリと右腹部の
気持ちを切り
「……でもやっぱり、口約束では安心できないわ。
「気の強いお
セシアの言葉に少々面食らった顔をしたものの、イヴェールはセシアの条件を快く
「それじゃ、
イヴェールがそう言いながら手を差し出してくるので、同じように手を差し出す。
──なんだかとんでもないことになったわ。
そう思ったが、事態はすでに動き出してしまった。
この手を離さない 孤独になった令嬢とワケあり軍人の偽装結婚 平瀬ほづみ/角川ビーンズ文庫 @beans
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