第一章 祖父の遺言②

 墓地から屋敷にもどってみればすでにジョスランは荷作りを始めており、近親者の会食には顔を出さないまま慌ただしく屋敷を出ていった。そのせいで会食は気まずいふんに包まれた。

 すべてが終わって親類を送り出したあと、セシアは家族用の居間のソファにぐったりとたおれ込んだ。そこへトーマが飲み物を持って現れる。

「おじい様はいつ、この遺言を書かれたの?」

「先々月……あたりでしょうかね」

 トーマがセシアの前のテーブルにカップを置きながら教えてくれた。

「本当に最近なのね」

「マデリーの売買けいやく書を見て心を決めたようです。だからセシア様を王都に引っ張って行ったんですよ。今年の夏にお相手を決めてしまえば、いつ何があってもだいじようだと」

「ねえ待って。私が他家にとつげば、ドワーズ家はどのみち様のものになるのではなくて?」

 トーマの言葉にひっかかるものがあり、セシアはソファから体を起こした。

「セシア様の結婚に際しては、初めから婿むこようで考えていらっしゃったようです。もし、セシア様のお父様、ジョエル様がご存命だとしても、セシア様のご結婚は御夫君をこの家にむかえることになったでしょう。一人ひとりむすめですから」

「そうだったの」

 てっきり他家にとつがされるものだと思っていた。

だん様も迷われていたようですけれどね。セシア様を相続人に指名してしまうと、エルスターに関するすべてに責任を負わせることになりますから。ただ、やはり、ジョスラン様の行動にも不安を感じていらっしゃったようで、それで結婚を条件にされたのです。セシア様を支えられる人物を御夫君に迎えられれば、と」

「それなんだけれど」

 セシアは、墓地で感じたかんについて、トーマに話すことにした。


「……旦那様がジョスラン様に殺された可能性……ですか」

 一通り話を聞き終えたトーマは、難しい顔をする。

「しかし、もし旦那様の死が毒物によるものだとしたら、真っ先に疑われるのはジョスラン様ではないですか? 私としては、そんなにわかりやすい犯行に出るのかな、という気がしますが」

「そうね。それは叔父様も言っていらしたわ。でも、疑わしくてもしようがなければ、事実とは証明できないとも。これは私のがいもうそうだと思う?」

 セシアが消え入るようにつぶやく。

「旦那様の遺言状公開時の様子から考えるに、ジョスラン様がこの家を継ぐつもりでいらっしゃったのはちがいないでしょう。しかし……そのために旦那様を……? ジョスラン様にとって実の父親ですよ」

「そうね。私の考え過ぎにちがいないわね」

 かい的なトーマの様子に、セシアは頭をった。

「ジョスラン様が感情的になっているせいでしょう。でも、ジョエル様が生きていらっしゃれば、いずれはセシア様がこの家を継ぐことになったのです。ジョスラン様に負い目を感じることはありませんよ」

 トーマがなぐさめるように言う。

「とにかく、ここ数日はおいそがしくされておりましたので、本日はごゆっくりお休みください。そうはすべて終わりましたので、あとは私のほうで片付けをしておきます」

「そうね……お願いするわ」

 セシアがうなずいた時、トーマを呼ぶリンの声が聞こえた。トーマがその声に応えて居間を出ていく。

 居間に誰もいなくなると、セシアは再びぐったりとソファの背もたれにもたれかかり、目を閉じた。


 夢を見た。

 子どものころの夢だ。

 小さなセシアは初夏の光があふれるエルスターの森を一人で歩いていた。そばにクロードがいたはずなのに、どこに行ってしまったのだろう。

「クロード、どこにいるのー!?」

 心細くて、セシアは大声でお目付役の少年の名を呼んでいる。

 ああ、またこの夢。何度となく見ている夢。

 祖父がいて、両親がいて、何よりクロードがいた。幸せだった頃の夢。

 子どもの頃、セシアはおてんば娘で知られており、しきでおとなしくするよりは外へ遊びに行くほうが好きだった。元気に動きまわるセシアに、忙しい大人の代わりに付き合ってくれたのは、クロードだった。

 クロードは使用人の子どもで、セシアより五歳年上。そのクロードといつしよに、屋敷の近くに広がる森へ出かけるのが好きだった。

 どの季節も美しいが、特に好きなのは初夏の森。夏の日差しにあざやかな緑がきらめいて、森が一番美しく見えるからだ。

 森へ行く時、大人たちに「森の中で絶対に一人になってはいけないよ」と言われていた。「一人になると森の奥からものがやってきて、連れて行かれてしまうから」と。

 なのにはぐれてしまった。

 うすぐらい森の奥から何かが見ている気がする。魔物が出て来たらどうしよう。

「ねえ、クロード! 一人にしないで!」

 その時だった。近くのしげみがガサガサと鳴った。魔物かと思ってビクリと立ち止まる。

「ああ、よかった! 魔物に連れて行かれてなくて」

 茂みの向こうから飛び出してきたのは、クロードだった。セシアは泣きべそをかいたまま、そんなクロードにけ寄ってしがみついた。

「クロード、どこに行っていたの! リンからわたしを一人にしちゃいけないって言われていたでしょ!」

「わかってる。でも勝手に走って行っちゃったのはセシアだよ。セシアの背は小さいからすぐに見失っちゃうんだ。さあ、屋敷に帰ろう。おそくなると本当に魔物が出てくる」

 クロードのおどしにこわくなって、セシアはますます彼の細い体にしがみついた。

「でもここはどこなの? ずいぶん奥に来てしまったみたい。夜が来る前に、ちゃんとお屋敷に着く?」

「大丈夫だよ、道を覚えているから」

 クロードがセシアの体を優しくはなしながら言う。

「本当に?」

「じゃあ、手をつなごう、セシア」

 クロードが手を差しべて来る。

「手をつないでおけば、一人ぼっちにはならないから」

 セシアは小さな手をクロードに伸ばした。

 クロードは約束通り、ちゃんとセシアを屋敷まで連れ帰ってくれた。

 それからも何度か、同じことをやらかしてしまった。森の中は楽しくて、ついつい一人で走り出してしまうのだ。そして迷子になるたびにクロードの名を呼んだ。ちゃんとクロードはセシアを見つけてくれた。まるで絵本の中のおひめ様を守るのよう。

 クロードと手をつないでおけば大丈夫。

 けれど、一度だけ、その手を離してしまったことがある。

 あれは、十歳の冬のことだ。

 その日は身を切りきそうなほど冷たい風がき、今にも泣き出しそうなどんてんが広がっていた。冬のあらしで増水した川を見に行こうと、クロードをさそった。増水した川は危ないから近づいてはいけないと大人たちには言われ続けていたから、これはだれにもないしよ。クロードも同じ理由でしぶったが、ゴネ続けたら折れてくれた。

 橋の上から見るだくりゆうはくりよくがすさまじくて、見ていてきない。

「危ないから近づかないで」

「平気よ」

 もっとよく見ようとクロードの制止を聞かず、手すりから身を乗り出したのがいけなかった。足元にあったれ葉がすべり、体が手すりの向こう側に投げ出される。

「セシア!!」

 クロードがセシアのひだりうでをつかむ。セシアの体は橋の手すりの外側にあり、クロードがつかんでいることでかろうじてぶら下がっていられた。

「今、助けるから! だからセシアも僕の手をつかんで!」

 クロードがさけぶ。空いているほうの手を伸ばそうとしたその時、強いしようげきがセシアの体をおそった。上流から流れてきた大きな木の枝がセシアの足に当たり、はずみで手が離れる。

 灰色の空、クロードの銀色のかみの毛。色のない世界に、大きく見開いたクロードの青いひとみだけが、鮮やかにかんで見えた。

 川に落ちたあとのおくはない。


 ズキリと右腹部に激痛が走り、セシアははっと目を開けた。

 なみだが一筋、こぼれ落ちる。

 部屋が薄暗くなっているせいで、自分がいつしゆんどこにいるのかわからなかった。

 心臓がバクバクしている。

 涙をぬぐってあたりを見回すと、屋敷の居間のソファで横になっていることがわかった。ああ、思い出してきた。祖父の葬儀のあと、つかれてここでうたたをしてしまったようだ。窓の外に目をやると、夕焼けが広がっている。ねむっていたのはそんなに長い時間ではないらしい。

 セシアは体を起こして自分の手を見つめた。

 ──一人にしないって言ってくれたのに……。

 その手をにぎめる。

 つないだ手は永遠に失われた。

 自分からすべてを台無しにしたくせに、あの日からずっと、自分は迷子になっている気がする。


   ***


 葬儀の翌日の午前中、セシアの姿はしよさいにあった。この家の当主の部屋だ。いつもは祖父が座っていた大きな椅子いすに座り、書斎をながめる。正面のかべにはドワーズ家のもんしようが入ったサーベルとたてかざられており、作り付けのほんだなには本がぎっしりまっている。

「これをご覧ください」

 その本棚の一角に、かぎのかかった引き出しがある。その鍵を開けてトーマが一冊の帳面を取り出し、セシアの前のしつ机に広げた。

 それはちよう簿だった。トーマの指さすあたりを見ると、大きな数字が書き込んである。

だん様が立てえたジョスラン様の借金です。一度目がこちら、そして二度目がこちら」

「待って。こんなに短期間にこんな大金を、おじい様は立て替えたの?」

「さようでございます。ですが、いくらドワーズ家といえども二度が限界でした。三度目はないと通知した直後に、マデリーの売買けいやく書が届いたのです」

「なんですって?」

 セシアは目を上げてトーマの顔をしみじみと見つめた。

「ジョエル様が亡くなったあと、旦那様はジョスラン様を次期ドワーズこうしやくとして考えていらっしゃいました。ですが、ジョスラン様の素行は、ドワーズ侯爵にふさわしくないとおなやみでした。ずっとジョスラン様に生活態度を改めることを求めていたのですが……」

 トーマはそこで言葉を切った。みなまで言わなくてもわかる。

「そうこうしているうちに、セシア様がエルスターに工場ゆうを始めました。旦那様に誘致をらいするのではなく、ご自分で誘致活動を始めたことから、旦那様の考えは変わっていったようです。セシア様のほうが次期ドワーズ侯爵にふさわしい、と。せんえつながら、私もそう思います」

「でも、けつこんが条件なのよね」

 セシアは開いたままの帳簿にちらりと目をやった。

 ジョスランが当主になれば、セシアをどこかにとつがせるにちがいない。貴族のむすめは、結婚によって家にはんえいをもたらすことが役目だからだ。

 それがいやだからと腹部の傷のことをジョスランに言うのはだめだ。道具として役に立たない娘だとわかったら、どんなあつかいを受けるかわかったものではない。

 それをかいしたければ、セシアが跡をぐしかない。だが、そのためには結婚が必要。

 結婚、結婚、結婚。どっちを向いてもセシアの前には結婚が転がっている。

 結婚したくないから結婚しなくていい将来を探していたのに、これだ。

 セシアはこめかみをんだ。

「結婚相手に心当たりがないわ。一か月以内でしょ?」

「旦那様は、今年はセシア様にいくつかお見合いをさせるご予定で、すでにしんをしておられます。その方たちにれんらくを取ってみましょうか。リストは確か、こちらに」

 トーマが執務机の上に残っているばこを開けて中を探り、一枚の紙を取り出してセシアの前に置いた。

 一通りリストに目を通し、文箱にもどす。

「私は知らない方たちだわ。向こうも同様じゃないかしら。そんな方たちに一か月以内の結婚をお願いするの?」

 セシアの言葉に、トーマも答えに詰まる。重苦しいちんもくが二人を包む。

 結局、相続に関しての話し合いは何も進展を見せないままトーマが使用人に呼び出され、しゆうりようとなった。午後からはそう費用の確認と、葬儀に参加してくれた人に送る礼状のリストを作る段取りをして、セシアが自室で物思いにしずんでいた夕方。セシアのもとにまえれもなく来訪者が現れた。

「軍の方なんですよ。セシア様とお話がしたいと」

 呼びに来たトーマのいぶかしげな顔に、セシアもまゆを寄せた。

「私と?」

 祖父は軍隊に勤めていたことがあるから、祖父のほうを知った軍関係者が来る可能性はゼロではない。だが、来訪者は祖父ではなく自分に話があるという。

 げんに思いながら、セシアは応接間のドアを開けた。

 まず目に飛び込んできたのは、ぼういでソファにこしかけている軍服姿の青年だった。そしてセシアが開けたドアの近くにたたずむ、帽子をかぶったままの軍服姿の男性。二人とも帯剣している。

 つう、そんな場所に客人がっ立ったままでいることはないから、セシアはおどろいて固まってしまった。

いそがしいところをどうも。初めまして、私はバルティカ王国東方軍司令部所属、陸軍しようのノーマン・イヴェール。あなたがセシアじよう?」

 ソファに座っていた青年が立ち上がり名乗る。

「初めまして。ええ、私がセシア・ヴァル・ドワーズですが」

とつぜんの不幸、心中お察しする。まずは閣下にあいとうの意を」

 イヴェールはそう言うと手にしていた帽子を胸元にかかげ、目を閉じた。

 セシアはイヴェールと名乗った青年をまじまじと見つめた。カラスのぬれのようにつややかなくろかみに、けるように白いはだ。中性的な顔立ちは整い過ぎて作り物めいており、まるで人形のようだ。声や体格からちがいなく男性なのだが、「美人」という言葉がぴったりくる。

 もくとうを終えイヴェールが目を開く。切れ長の目は血のようなあざやかな赤色をしていた。

 この人は美しいが、まがまがしい。

「祖父のためにわざわざありがとうございます。それで、どのようなご用件でしょうか?」

 セシアは若干けいかいしながらたずねた。

「少し確認したいことがあるんだが、いいだろうか。こちらへ座ってくれるかな。ああ、その男は無視していい」

 気安い口調だが、イヴェールには有無を言わさないあつかんがある。

 セシアはうながされるまま、イヴェールの正面に腰かけた。客人はイヴェールなのに、なんだかそのイヴェールに取り調べを受けているような気分になる。

「あなたは、ドワーズ侯爵がたおれた時に、どこにいた?」

「どこって……祖父といつしよにいました。なぜ、そんなことを聞くのです?」

「今は私の質問に答えてくれるかな?」

 イヴェールがすぅっと目を細める。その仕草に、ゾクリと寒気がする。

 何これ。こわい。大きなけものものとしてねらわれているみたいだ。

「あなたのおじい様が倒れた時、何か様子がおかしくなかったかい?」

「……どうしてそれを……」

 イヴェールの問いかけに、セシアは目を見開いた。

 あの場所には、祖父、セシア、ジョスランの三人しかいなかったはずなのに、なぜ祖父の最期の様子を知っているのだろう?

「様子がおかしくなる前に、何かを口にしなかった?」

「……出されたお茶を口にしました。でも、お茶にも、一緒に出されたはちみつにも、おかしなところはありませんでした。も口にしましたが、なんともありませんでしたから」

「お茶、ね……。ちなみにだが、お茶を出した人は、冷めてからお茶を飲んだんじゃないか?」

 イヴェールのてきに、セシアは自分でも血の気が引くのがわかった。

 祖父が動かなくなったあとに、ジョスランはお茶を口にした。お茶はすでに冷めていたはずだ。

 青ざめたセシアを見て、イヴェールが言葉を続ける。

「簡単なことさ。あなたの証言で確証が得られた。あなたのおじい様、ドワーズ侯爵には軍で秘密裏に開発中だった薬物が使われているからだよ」

 その言葉に、セシアはこおりついた。

 ──今、なんて……?

「この薬物は問題が多いため開発を中断し、試験中のサンプルはすべてすることが決定していた代物だ。だが、開発を担当していた研究員がぬすみ出し、行方ゆくえ不明になっている。名前はジャン・フェルトン。そしてこのフェルトンをかくまっているのがあなたのうえ、ジョスラン・イル・ドワーズ氏だ」

「え!?」

 知っている人物の名前が出てきて、セシアは声を上げた。

「二人がどのようにして知り合ったのかはわからないし、そこは重要ではない。我々はこのことが明るみに出ないうちに早急にフェルトンをつかまえ、試験薬を回収したい。あの薬を悪用されるわけにはいかないんだ。そこで、あなたにお願いがある」

「お願い?」

「そう。結婚してほしいんだ」

 イヴェールの言葉に、セシアは固まった。

 てっきり関係者として協力を求められるかと思っていたのに、結婚?

 イヴェールと?

 こんな不気味な……おっと失礼。

 得体の知れない……も失礼か……。

 というか、なんで結婚……?

「混乱しているようだね。まあ当然か」

 固まったまま動かないセシアに、イヴェールがうっすら微笑ほほえみをかべたままうなずく。

「順を追って話そう。ほつたんは十日ほど前の話だ。フェルトンが試験薬を盗んで行方不明になった。ヤツの行方を追っていたら、どうもジョスラン氏が匿っているらしいことがつかめた。これが六日ほど前のことだ」

 イヴェールはとうなん事件が起きてすぐに、フェルトンの居場所を突き止めることには成功しているようだ。

「だからジョスラン氏について調べた。彼はなかなか革新的な考えの持ち主だね。あと、借金が多い。ついでに、ドワーズこうしやくやあなたのことも調べさせてもらった。セシア嬢は現在独身で、こんやく者もいない。王都にあまり顔を出さないのは、社交に興味がないからかな?」

 数日でそこまでわかるものなのか。ぞっとする。軍の力を使えば可能だということ?

「そこにドワーズ侯爵がきゆうせいした。フェルトンが関わっている可能性があるから、我々も昨日の葬儀に参列して、ドワーズ侯爵の遺言も聞いた」

「いらっしゃっていたのですか? 気付きませんでした」

「軍服でもないし、末席にいたからね。ジョスラン氏のれっぷりから察するに、あなたの叔父上はドワーズ家をげると信じて疑わなかったようだね。ここから推測できるのは、借金をかかえているジョスラン氏が遺産目的でドワーズ侯爵を殺害したのではないか、ということだ。そしてあなたの証言から、フェルトンの試験薬が使われたことは間違いないと思う」

 イヴェールの推理に、セシアはぎゅっとスカートをにぎめた。そんなセシアをイヴェールが赤い目を細めながら見つめる。

「この試験薬はとくしゆなもので、しようが残らない。あなたは家族をうばわれたのに、彼は断罪されることもなく、欲しいものを手に入れた。そしてこれからものうのうと生きていく。あなたはそれが許せる?」

「……許せないに決まっています」

 セシアの現状も胸の内でうずいていた不満も、的確に言葉にして投げつけてくるイヴェールを、セシアはキッとにらみつけた。すみれいろひとみなみだがにじむ。

「でも証拠がないんだもの、私にはどうすることも……っ」

 イヴェールが立ち上がって、ゆっくりと歩いて近づき、セシアのひだりどなりに座る。そのせいでソファが少しだけしずみ、セシアの体がイヴェール側にかたむいた。

「許せないのは私も同じなんだよ。あいつにはずいぶんめた真似まねをされて、こう見えてもはらわたがえくり返っている。だから私と手を組もう、セシア嬢。私はフェルトンをつかまえたい。あなたは叔父上がドワーズ侯爵を殺害したという証拠が欲しい。そのためには、けつこんが一番、手っ取り早い」

 イヴェールがセシアの左手を取る。

「どういうことですか?」

「考えてもみたまえ。ジョスラン氏にとってあの遺言は誤算だった。一番いやな展開は、セシア嬢がひと月以内に結婚することだろう? ジョスラン氏にはフェルトンがついている。彼のもとには試験薬のサンプルがあと三、四本はある」

 イヴェールがようえんに笑う。あくに見えた。

「……つまり、あなたとの結婚で、叔父様をおこらせて、試験薬を私に使わせろと……?」

「察しがいいね。あの試験薬には問題が多いから、使用時には近くにフェルトンがいるはずなんだ。そこを狙いたい。結婚のふりだけだとジョスラン氏に調べられたらあなたが危ないから、実際にせきは入れてもらうが、これに関してはあとで軍が手を回して『なかったこと』にするから、あなたのめいに関しては心配しなくていい。形だけの結婚だから、体の関係も求めないし、この結婚に関わる諸経費はこちらで持とう。あなたは何も、失わない」

 イヴェールがセシアの左の薬指をなぞる。ゾクゾクと寒気が背筋をい上った。

「我々があなたに求めることは、結婚して仲良し夫婦を演じることだけ。協力してくれれば、フェルトン確保の過程でジョスラン氏がドワーズ侯爵に試験薬を使ったという証拠が出てくるだろうから、それをあなたに提供する。どう使うかは任せるが」

 証拠!

 セシアが一番欲しかったものだ。証拠があれば叔父を断罪できる。

「それに、ジョスラン氏がドワーズ侯爵に試験薬を使ったことが立証できれば、彼の犯した罪を暴けるだけではなく、彼は相続人としての資格を失い、結果としてドワーズ侯爵の遺言も役に立たなくなるだろうね。そうなると、あなたがドワーズ侯爵のたった一人の相続人になる」

 この話に頷きさえすれば、叔父を断罪できるだけでなく、結婚せずともドワーズ家を相続できてしまう……。なんて甘いゆうわく

「でも……それ……何かいろいろと問題があるような気がするわ……。わ、私をだまそうとしているわけじゃ、ないんでしょうね?」

 そんなうまい話があるわけがない。セシアは頭をってイヴェールを睨んだ。

「疑り深いね。しんちような女性はきらいじゃない。断るというのなら別にそれでもいい。ただしその場合、我々はあなたにはなんの情報の提供もできない。あなたはおじい様の無念を晴らすことができず、ただジョスラン氏がこの家を食いつぶすのを見ているだけになるだろう。あなたの叔父上のたくらみ通りにね」

 彼の言葉が心をえぐる。

 そんなのは嫌だ。嫌だけれど、こんなことを一人で決めていいのかわからない。

「……だれかに相談して」

「それはだめだ。情報がろうえいすると計画がたんするおそれがある。そうなったら我々もあなたもめつだよ? あなたに残された時間はひと月しかない。こちらにも段取りがあるから、今、決めてほしい。やるか、やらないか」

 イヴェールが赤い目を細める。

「その代わり、三か月だ。三か月以内に片づけると約束する。エルスターの木々が色づき始めるころにはすべて終わっている。それでどう?」

 三か月なら、まんできると思う。

 やらなければイヴェールの言葉通りになる。それはセシアにもわかる。

 だが、フェルトンをつかまえるために結婚までする必要があるのか、という点は気になる。おとりとして利用されるだけならたまったものではないが、イヴェールの約束が果たされれば、セシアの願いはかなう。

 ──何もしなければ、私は何もかも失ってしまう。それくらいなら、たとえ結果がうまくいかなくても、手をくしたい。

 祖父の無念を晴らし、を断罪したい。何より、このしきとエルスターの森を守りたい。

「やります。私、あなたと結婚するわ」

 考えたのはほんの少しの間だけで、セシアは意を決すると、目の前のイヴェールをえてきっぱりと答えた。

 セシアの声にイヴェールがいつしゆんおどろいたように目を見開いたが、すぐ満足げな表情を浮かべてソファから立ち上がる。セシアはそんな彼の動きを目で追った。

「ちなみにだが、あなたと結婚するのは私ではない。彼だ」

 ドア付近に直立不動のままひかえているもう一人のそばに行って、イヴェールがセシアを振り返る。室内なのにぼうをかぶったままだから、表情がちっともわからない。

「帽子を取れ」

 イヴェールの指示で彼が帽子を取る。

 短いくろかみの男性だった。目鼻立ちは整っているがイヴェールのような中性的なふんはなく、ずっと男性的だ。背の高さも、体格も、イヴェールを上回っている。瞳の色はセシアの場所からはわからないが、眼差しはするどい。一言も発さず、表情もない。無骨で不愛想。イヴェールの指示に従う様子から、任務に忠実な軍人、という感じがする。

 セシアはその顔を食い入るように見つめた。

 ──似ている……?

 ような気がする。そんなばかな……。

「名前はルイ・トレヴァー。階級はしようで、北部のトレヴァーしやく家に連なる者だ。特殊な任務に長けているので、名ばかり責任者の私よりずっとふさわしい。あなたの書類上の夫であり、あなた専属の護衛だ」

 セシアはイヴェールとルイをこうに見つめた。

 帽子を取った時の第一印象は「クロードに似ている」だった。でもよく見たら、気のせい、だったかもしれない。何しろ最後にクロードを見たのは十二年も前のこと。当時のようせいのように優美できやしやなクロードと、目の前のせいかんという言葉がぴったりくる男性がどうしても結びつかない。

 ──この人、レストリア人の血が入っているんだわ。

 その顔を見つめているうちに、クロードに似ていると思った理由がわかった。男性はレストリア人特有のこうしつな面差しをしている。だからだろう。

 ──そうよね。クロードが……ここに来るはずがない。

 この十二年、一度としてクロードはセシアの前に姿を現さなかった。それが彼の答えだ。

 ズキリと右腹部のきずあとが痛む。

 気持ちを切りえるとこぶしに力を入れ、セシアはイヴェールを正面から見つめた。

「……でもやっぱり、口約束では安心できないわ。しようの提供と、名誉の回復と。この二つをきちんと書面で約束していただきたいの。あなたの一番上の上司、司令官の名前で。結婚まで差し出すのよ。利用されるだけなんてまっぴらだもの」

「気の強いおじようさんだな。いいだろう。東方軍の司令官から書面を取ってくるよ」

 セシアの言葉に少々面食らった顔をしたものの、イヴェールはセシアの条件を快くりようしようしてくれた。それを見てセシアもうなずく。

「それじゃ、けいやく成立ということで」

 イヴェールがそう言いながら手を差し出してくるので、同じように手を差し出す。

 ──なんだかとんでもないことになったわ。

 そう思ったが、事態はすでに動き出してしまった。き進むしかないのだ。

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この手を離さない 孤独になった令嬢とワケあり軍人の偽装結婚 平瀬ほづみ/角川ビーンズ文庫 @beans

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